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永遠に解けぬ時の迷宮──巫女と未来への望み

 翌々日、初冬の午後。吹き抜ける風は早くも冬の匂いを宿し、肌をひやりと撫でていく。街路樹の枝先には硬いつぼみがまだ眠ったままで、世界が春へ向かう気配などどこにもない。砂時計の上層で、季節が止まっているように見えた。


 窓の外から聞こえる鳥のさえずりが、その冷えた空気のなかでかすかに響くだけ。そんな季節の境界の中、私とヴィル――いまは“ヴォルフ殿下”として仕える彼は、王宮の奥まった一室で静かに向かい合っていた。灯は低く、観測するように揺れる。


 高い天井から垂れ下がる大きなシャンデリアに、昼間の光がくぐもって落ち、部屋の一角では古い暖炉が小さな火を燃やし続けている。

 仄暗い室内は、遠くの廊下を行き交う足音さえ膜の向こうへ押しとどめていた。そんな場所で、私たちはようやく二人きりの時間を得たのだ。——今ここにいる。さっきまでは公務の渦にいた。呼吸が現在形へ戻る。舌裏に金属の味。


 空気は張りつめ、言葉を探す間さえ喉の奥が痛む。この数日間、互いに公務に追われてはすれ違いを繰り返し、素直に想いを言葉にする機会が作れずにいた。けれど、もうこれ以上は目を背けられない。

 静寂のなか、たった二人だけの空間が鳩尾を細く締めつける。覚悟を決めるように小さく息を吐き、私はその瞳を見つめた。


「聞いて……ヴィル。私、あなたに黙っていたことがあるの」


 かすかに震える声が室内に沈み込むように落ちる。すると、ヴィルの瞳がわずかに揺れるのがわかった。

 昼間でも薄明かりに満ちた部屋の中で、彼の表情がどこか鋭いようにも見えるのは、きっと私の不安がそう見せているのだろう。脇腹の内側がきゅっと張った。


 彼はちょうど着替えの途中だった。ゆるやかな部屋着に袖を通しかけたまま動きを止め、私を促すように無言でうなずく。そのまなざしはいつになく慎重で、私が何を言おうとしているかを察しているのだろう。


 ミツルとして口に上がる言葉。

 メービスとして胸に留める言葉。

 ふたつが喉の奥で擦れ、呼吸が浅くなる。


 ゆるんだ袖口の糸を指でつまむ。細い繊維が爪先に引っかかり、呼吸の拍がひとつずれる。


「実はね……いろいろ考えてみたんだけど、この私たちの魂の転移が、不可逆の時間遡行かもしれないの」


 ヴィルは小さく息を吸う仕草を見せるも、すぐには何も言わず、ゆるめの部屋着をゆっくり整えてから振り返る。


 帰れないかもしれない。

 戻る道が“私を通り過ぎる”。

 道はあるのに、私だけがずれている。位相が半歩ずれたまま、心拍だけが現在形で跳ねた。


「つまり、元の私たちへの帰還は不可能かもしれない、って答えに行き着いたのよ。まだ断定とは言い切れないけれどね……」


 暖炉がぱちりとはぜ、薪の匂いが薄く回る。言葉だけが先に冷えた。砂が喉を通る音が胸の内側で細く立つ。


 その間にも、私の心臓は痛いほど跳ねまわり、なんとか表情を取り繕おうと唇を結ぶ。けれど、視線を合わせるだけで肋の奥で呼吸がつかえ、胸が細く詰まるのを止められない。


 私は微かに唇を震わせながらも、誰か別人の口を借りるような冷ややかな声音で言葉を継いだ。

 なぜこんなにも他人事めいてしまうのか、自分でも分からない。ただ、感情の昂りを表に出せばすべてが崩れてしまうと、どこかで本能的に悟っていたのかもしれない。指腹が布の縁で滑る。


「まず第一に、あのとき起こった“共鳴現象”を再現する術がないということ。あまりに突発的で、どういった条件が重なったのか、今の私では解明のしようがない」


 暖炉が小さくはぜた。舌の奥に薬草の苦みが戻る。灯は“観測”へ沈む。


「補足として、この時代の“マウザーグレイル”には人格らしいものが感じられない。当然ながら、未来に存在した私の剣に宿っていた“茉凛”の存在が見当たらない。だから、分析のしようがない」


 その静けさの中で、言葉はさらに冷たく沈む。喉の内側に薄い膜が張りつく。


「……もし同じ奇跡を再現しようとしても、彼女のサポートなしでは成立は難しいだろうということ。付け加えるなら、同条件の高濃度精霊子を確保することもまた難易度が高い。メービスの体は、精霊族の巫女としての一定の感受性や容量を有しているけれど、それだけでは圧倒的に足りない。たとえば、黒鶴の翼が見えるほどの過剰な精霊子の集積を起こす見込みは極めて薄い。

 要するに、この体はミツル・グロンダイルに匹敵するスペックを持ち合わせていない。巫女たちの始祖であるデルワーズの因子を持たない限り、どうしようもないのよ」


 その瞬間、ヴィルの眉がきつく寄ったのを感じ取った。だが、私はそれを見ても何も言わない。

 相手がなにを思おうと、ここで示すべきは私の分析に基づく結論のみだと、あくまでも心のなかで割り切る。脇腹の奥で小さな痛みが灯る。


「第二に、“転移”という現象自体が不確実性の塊であること。たとえ第一の条件をすべて満たして奇跡が再び起きたとしても、元の時と場所へ無事に戻れる保証はどこにもない」


 袖口の金糸が指先に触れ、呼吸が浅くなる。砂時計の喉がさらに細くなる。


「……最悪、まったく別の時間や世界へ飛ばされる可能性だって排除できない」


 窓の外で風が鳴り、ガラスが微かに震えた。指先の力が抜け、膝の上の布がしわむ。


 私は静かに視線をヴィルへ戻した。


 彼の瞳には、言いようのない苦悩が滲んでいる。それでも私は、自分の意思で選んだ冷静さを崩すつもりはなかった。そうしなければ、恐怖と絶望に呑み込まれてしまうと本能でわかっているから。

 

 ミツルとして帰りたい。

 メービスとして留まるべき。

 二項の交差点が喉にひとつ分の沈黙を作る。


 かつて演じた“氷の王子様”なら、こうやって淡々とすべてを切り捨てていくのだろう。私はそれにならい、あくまで淡白な態度を貫く。

 それこそが、いまの私が保てる唯一の防衛手段なのだと、心のどこかで自嘲するように思っていた。指先が冷える。


「だから……もう、“メービス”としてここで生きていくしかないのかな……って思うの。たとえば、王家の一員として責務に従い、あなたと本当の夫婦になって、国を治め、民を導き、そして……世継ぎをもうけて……そうやって、一生を、終える……」


 言い切った喉が乾き、水差しへ伸ばした手が半ばで止まる。自分の爪の白さがやけに心細い。

 

 私が帰る道。

 私が残る道。

 片方だけが文字で埋まり、もう片方は空白のまま、灯が“脈拍”として胸の内側で跳ねる。


 最後のほうは、聞き取りづらいほど声が小さくなってしまう。自然と膝の上で組んだ手が強張り、寒くもないのに小刻みに震えているのがわかる。

 視線を落とすと、金糸があしらわれたナイトガウンの裾がわずかに揺れて、やけに寂しく見えた。


 けれど、そんな私の姿を前にしても、ヴィルはすぐには言葉を返さない。彼の立ち尽くす姿に胸が締めつけられる。


 しばらくして、彼は厳しく息を吐き出すように、低い声で抑えた怒りを含んだ問いを投げかけてきた。


「……そんな簡単に諦めていいのか? ここに来て、まだ二週間も経っていないんだぞ」


 睫毛に熱が集まり、視界の輪郭が柔らかく滲む。暖炉の火は小さく、しかし執拗に息を継ぐ。喉の奥が乾く。


 投げかけられた言葉の中には、悲しみと苛立ちがにじんでいる。

 私は背を伸ばし、ほんの少しだけ顔を上げて、彼の瞳を見返した。いま、私がどれほどの葛藤の末に答えを出しかけているか、彼は理解しているのだろうか。


「あなたが諦めたくない気持ちを抱えているのは、わたしだって痛いほどわかる」


 じわりと目頭が熱くなる。ほんの少し前まで、彼と未来へ戻ることが当たり前だと思っていたのに、こんな結末を想定するなんて夢にも思わなかった。

 胃の底が冷え、舌の裏に金属の味がにじむ。


「でも……このまま中途半端にメービスの立場を演じ続けるわけにはいかないわ。王家の責任は重いのよ。放り出せば、国全体に混乱が広がる。そんなことを考えると、いずれ腹をくくるしかないんじゃないかって……」


 暖炉が小さくはぜ、呼吸がひとつ浅くなる。肩の内側で筋が強張る。


「それに……メービス自身、黒髪の因習を断ち切りたいと、強く願っていたはず。

 わたしがその代わりを務めることができるなら、そこへ光を差し込ませたい。メービスの苦悩や功績を、後の巫女たちに正しく伝えたい。

 ……そうすれば、いつかこの国が変わるかもしれない。この世界でわたしができることって、そういうことかもしれない。この呪縛をわたしが引き継ぐことで、少しでも未来を拓けるなら、それで……」


 メービスが命がけで守り抜いた国、そして黒髪の巫女が背負わされてきた恐怖や差別。そのすべてを自分が継承することで、いつか世界を変える力にする。それが私に与えられた役目だと思い始めていた。自由や旅を捨てる痛みは喉の奥で刺となる。


「……そうやって“自分を殺して”生きるのが、おまえの本当に望む姿なのか?」


 ヴィルの言葉が突き刺さる。静かだが揺るぎのない否定の響き。私の視界がぶれ、まぶたが熱を帯びた。脇の下に薄い汗。


「正直に言う。俺は……おまえが、ミツルとして生きる姿を見たいんだ」


 彼は拳を握り込み、テーブルに視線を据えながら苦しそうに唇を噛む。

 

 ミツルの言葉。

 メービスの言葉。

 どちらも“私”で、どちらも“私ではない”。そのずれが鼓動を早くする。


 私が強く見据えられないのは、彼の想いを知っているからだ。私が“ミツル”として生きて笑う日々を、彼も心から願っている。それを裏切るような行為をしようとしている自分が、どうにも許せなくなる。


「でも……待って。そんなあやふやな期待だけで、この国と人々を翻弄するのは違うと思う。ちゃんと責任を持って、メービスとして振る舞うべきじゃない?」


「責任責任って言うが……本当にそれでいいのか? おまえは結局、誰かの都合に合わせて自分を犠牲にする道を選んでるだけじゃないのか?」


「そうね、そうかもしれない。でも、それがメービスの願いであり、わたしはそれを尊重したい。だって私は体だけじゃない、彼女の人生をも奪い取ってしまったのよ?

 だったら……せめてできるかもしれない役割をこなすのが当然じゃないの?

 ……あなたと正式に夫婦になって、王家を支える覚悟だって、しないといけないかもしれない。だって、わたしが女王としての義務を放り出したら、この疲弊し混乱した国はどうなるの? できるわけ、ないじゃない……」


 視線を伏せる私のまぶたに、じわりと熱がにじむ。喉の奥に苦い膜。


 もし本当に戻れないなら、避けられない未来だ。

 ヴィル――ヴォルフと新たな世継ぎをもうけ、国を治める責任を肩に載せる。それを想像するだけで、自分の一部が砕けるような恐怖と、新たな希望が同時に入り乱れてしまう。胸骨の裏で呼吸が跳ねる。


「わたしだって、本当はあなたと元の世界で旅を続けたかった。……でも、いつまで、そんな届きそうもない願いを抱えていればいいの? 決断を先延ばしにしていたら、取り返しのつかないことになるんじゃないかって……怖いのよ」


 私の胸には、罪悪感とどうしようもない切なさが、容赦なく押し寄せてくる。胃の底がさらに冷え、喉の奥に苦い膜が張る。


 あの未来で、共に旅をした思い出は、ときに笑い合い、ときに救い合い、私の人生を大きく変えてくれた。けれど、それらがすべて“遠い世界の出来事”になってしまうかもしれない――そう想像するだけで、胸がひび割れてしまいそうだった。指先が震える。


「もう、無理なの。ごめん、ごめんなさい……」


 真鍮の取っ手が掌に冷たく張りつく。指を外すたび、体温が少しずつ置いていかれる。


 自分の声があまりに消え入りそうで、まるで床に落ちた雫のように儚く溶けてしまうのを感じる。

 私は強く唇を噛み、うつむいたまま両手を握りしめた。そうでもしないと、感情が抑えきれずに全身が震えてしまいそうだったから。


```

ヴィルは、すぐそばにいるというのに、どこか遠い存在に感じられる。彼の瞳は私の表情を映し取ろうとしない。

```


 お互いに、相手を見つめ合う勇気すら失いかけているようで、その沈黙の重みが私の耳鳴りを強くする。何も言えず、何も言わず、音もない空間が私たちを包みこむ。


 やがて、ヴィルの唇が微かに開く。苦悶とも苛立ちともつかない吐息が、かすかな揺らぎとともに空気を震わせた。


「……無理だからって、それまでなのか?」


 その声には、責めるような響きはほとんどなかった。それどころか、彼の奥底にある優しさが見え隠れし、私の心をわずかに切り裂く。それがかえってつらい。

 ヴィルは本当は、私を責めたいわけではなく、ただ引き留めたいだけなのだ。胸の奥に重い灯。


「私だって、ほんとは諦めたくなんかない。元の世界に帰れるのなら、どんな危険だって乗り越える覚悟はしてる。――でも、その手がかりもない、時間だけがどんどん過ぎていく……そんな状況がこわいの」


 言いながら、私の声が震えそうになるのを何とか必死に抑える。

彼にその弱さをさらけ出すのが怖いのではない。むしろ、私の不安を分かち合ってもらったところで、具体的な解決策が見つかるわけではないからだ。あまりに無力な自分が嫌で、どうしようもなく情けないのだ。脇腹の張りがきしむ。


「そんなふうに、自分で壁を作ってどうなる……」


 ヴィルが首を振りかけてから、言葉を途切れさせる。

 きっと何かを言いたいのだろう。それでも踏みこんだ言葉を発する前に、彼の瞳には苦い迷いの色が滲んだ。まるで、最後の一線を越えてしまえば、私たちの関係が壊れてしまうことを知っているかのように。


 私は小さく息を吐き、少しだけ顔を上げる。

 視線の先にあるのは彼の姿。けれど、その背負うべきものがいまは私とは違うところにあり、互いに譲れぬ思いが交差している。そんなすれ違いが、一層深い闇を生み出してしまうのだろうか。指先が冷えて戻らない。


「私、勝手だよね。あなたに守ってもらってきたくせに、それを『先に進むためにもう諦めよう』って言ってるようなものだもの。でも……もうどうしていいかわからなくて……」


 思わずこぼれた本音に、自分でも胸が苦しくなる。

 彼がそばにいてくれないと不安でたまらないのに、目を閉じてしまえば、遠くに置き去りにしてしまいそうで……。私の弱さや矛盾をすべて暴かれているような感覚に、唇が震えた。


「ミツル……俺は、何もかも捨てていいなんて思ってない。たとえ可能性が低くくても、“帰れる道”を探すべきだって。そう考えることは、そんなに身勝手か?」


「身勝手じゃないよ。むしろ、それがいまのわたしに足りない“信念”なのかもしれない。だから、あなたがそうやって諦めない姿を見せてくれるのは、ほんとはありがたいの。

 でも、一方でわたしは、“女王として、この国を捨てることだけはできない”とも思ってる。そうしないと、メービスの想いを踏みにじることになっちゃう」


 呼吸が浅くなっているのがわかる。肺にうまく空気が入らず、脇腹がきゅっと痛んだ。

 未来の世界では自由でのびのびと生きていた私が、こんなに苦しむことになろうとは思ってもみなかった。けれど、自分がここで動かなければ、“黒髪の巫女”というだけで不当な扱いを受ける少女たちは、永遠に報われない。


「それに、もしも……王家を捨てて、メービスの運命を拒絶してしまったら、歴史が変わってしまうかもしれない。それは、わたしの生きてきた“未来”そのものを否定する可能性だってあるんじゃないか、って。――そんなことまで考えると、もう、頭がどうにかなりそうなの」


 メービスとしての人生を継いでしまうことで、この時代の歴史は私の行動次第で変化するかもしれない。でも、何もしなければ変わらないとも限らない。

 あちこちに不確定要素が散りばめられていて、どの道を選べば“自分らしさ”を保てるのか、もはや迷路に迷いこんでしまったような気がしてくる。砂時計は休まず、落ち続ける。


 ヴィルは私の話を切なそうに聞きながら、何度か唇を開きかけては言葉を継げずにいる。


 いつものように短くも的確なアドバイスをくれる彼ではなく、ただ沈黙を余儀なくされている姿が、私の胸をさらに締めつける。お互いを想うがゆえに、ただひたすら傷ついていく。

 この関係は、いったいどうしたらほどけるのだろう。灯は“合図”になれず、ただ脈だけ打つ。


「……俺は、おまえが傷つく姿なんて見たくない。もし、この国に残ることでおまえが不幸になるのなら、そんな未来は絶対に拒否したい。

 だが……おまえは、自分で限界を規定して、追い込んでいるように見える」


 喉がからからに渇いていくのを感じながら、私は虚ろな目でわずかにうなずく。決意しているといえば、それは曖昧な意地かもしれない。掌が冷たい。


 私が引き受けなければ、彼女の功績や想いが正しく語り継がれないまま、歪められた歴史が積み重なるかもしれないから。


「ヴィル……。わたしたちがここに来たことは、いったい何だったんだろうね。

 偶然の産物? それとも、必然? もしどちらか一つだけ選べと言われたら、わたしはたぶん、“何か意味がある”って思ってしまう。

 その意味が、メービスの代わりとなって、黒髪の巫女の未来を変えることなんだとしたら……どうやって逃げればいいの?」


 問いかけた後、返ってくる答えなどないことを知りながら、沈黙のなかに沈む。

 もし、ここでヴィルが「それでも、おまえには帰る義務がある」と言ってくれれば、私はそれに縋ってしまったかもしれない。


 けれど、彼は何も言わない。ただ悲しげに目を伏せ、拳を震わせているだけだ。拳の骨が白く浮く。


「……本当に、ごめん。わたし、肝心なところで自分の意思を強要するしかできなくて」


「ミツル、やめろ。……俺も、どうしたらいいかわからないんだ。おまえが“大事な仲間たちを置き去りにしたまま”って苦しんでるのも知ってる。そして、この世界で、おまえを必要とする人たちがいるってことも……」


 彼の声には、自分自身をも説得できない歯がゆさが混じっている。私は胸の奥の痛みを噛み殺しながら、ちいさくかぶりを振った。どこで間違えてしまったのだろう。


 元の時代へ帰る方法を探すことと、メービスとして国を導くこと、その両方を求めるのは、あまりに欲張りすぎるのだろうか。どうしてこんな複雑な二択を迫られなければならないのか……砂が静かに落ちる。


「ごめん。……私、いったん頭を冷やしてくる」


 そう告げると、ヴィルはぎこちなく首を縦に振り、視線をそらした。

 過去にも何度か口論になったことはあるけれど、こんなにも居たたまれない胸の痛みを覚えたのは初めてかもしれない。


 私は部屋を出るまで必死に涙をこらえようとしたが、扉が閉まる瞬間、結局ぽろりと熱い滴が落ちてしまったのを感じた。頬の塩味が舌に触れる。


◇◇◇


 そうして何ひとつ解決しないまま、私たちは一度その場で話を打ち切った。どうしようもなく辛い沈黙の時間だけが流れ、やがて公務の時間に追われるようにして互いに立ち去った。


 その後も数日にわたり、まともに言葉を交わすことはなかった。王宮に仕える人々の前では女王陛下と王配殿下として整然と振る舞わなければならず、そんな場所では到底、胸の内をぶちまけることなどできない。


 自室へ戻れば書類の山と格闘し、夜になれば疲労にまかせてベッドへ沈むだけ。灯は“合図”ではなく“体温”を保つための最小になる。


 ヴィルも同じように、騎士団や重臣たちの要請を受けて動き回り、私たちはすれ違ったまま手を差し伸べるきっかけすら見つからない。


 あれほど近くにいたはずの人が、なぜこんなにも遠く感じられるのだろう――そんなやるせない疑問が、夜ごとに胸を締めつける。砂時計は横向きに見えるのに、砂はきちんと落ちていく。


 窓の外で、小鳥がひと声だけさえずる。春はまだ遠い。けれど、遠いものほど小さく灯る——歩く。二つの欄に、まだ書けない続きを抱えたまま、



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