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宿命に呼ばれる廻廊

 廊下に等間の灯が続き、石の目地に細い光が置かれていく。冷えは指先から少しずつ上がり、胸骨の裏だけが遅れて疼いた。今夜ばかりは、闇を払う明かりが遠い。白亜の壁は石の重みだけを返した。


 執務室の扉板を、爪で弾くような二度の小さなノックが響く。侍従詰所の伝令役が膝をつき、左袖の小さな徽章が灯を拾った。手には侍医司の朱封が捺印された申し送りの控え。吐いた息を短く整え、顎を一段上げる。


「女王陛下、執務中のところ恐縮でございますが……先代王、すなわち陛下のお父上の病状が思わしくありません」


 机上の紙の角を指でなぞると、無意識に力が入った。「父」という音が胸骨の裏で跳ね、視界の縁が細く瞬く。


 そうだ。私は本来メービスではなく、別の世界にいた“ミツル”。不意にこの時代へ落とされ、女王としての日々を重ねている。


 最初は暗所に放り込まれたようで、理由もわからぬまま宰相の段取りに身を預け、ただ公務をこなしてきた。

 けれど、メービスにも確かな“家族”がいた。退位した父――先王オリヴィエ陛下。生前譲位の時期も事情も、私は何一つ知らない。


 女王であっても“お飾りに過ぎない”――そう思えてしまう時がある。歩幅さえ指示に合わせてしまう。状況が掴めない以上、迂闊に動くこともできず、さりげなく宰相や重臣たちに水を向けても、家族の話題はよほど憚られるのか、口は固く閉じたまま。


 喉の奥に冷えが降り、言葉の行き場だけが狭くなる。

 そして、先王自身もまた、何らかの理由で、娘に会うことを避けてきたのかもしれない。


 父はどんな心で王冠を降ろし、娘メービスを女王に据えたのだろう。政治に疎いはずもない人が、混乱を鎮めるために、あるいは「救世の巫女」への支持を見越して、そう決したのだろうか。思考の歯車に熱がこもり、噛み合いが重たくなる。


 伝令役は申し送りの控えを開き、文面の該当箇所へ指を添えて読み上げた。


「先代王は今、王宮の最奥にある離れで静養しておられます。侍医司と侍女も最小限しかつけられず、お見舞いに行く者も限られているようです。ですが、陛下にはいずれお会いいただくのがよろしいのではないか、と……」


 普通なら、伏せる家族のもとへすぐ向かうだろう。けれど私は、彼がどの心で私を王座に据えたのか、正面から問うことを避けてきた。王族のしきたりや過去の確執には、残酷な刃が含まれると、どこかで知っていたから。


 ――でも、もう逃げない。実の父が病に臥すなら、足はおのずと向く。どう扱われようと、ここで逸れてはいけない。


「わかりました。知らせてくれて、ありがとう。……明日の朝、宰相たちに相談してみます」


 言葉はやわらかく包む。けれど心の机上では、取り計らいの段取りを無言で並べ替えた。伝令の肩が少し落ち、頭を垂れて去る。扉が閉じ、音の層が一枚はがれる。書類の活字だけが浮き、意味の取っ手はまだ手探りのまま。


――父上。


 神の思し召しのように与えられたこの体と立場。それでもメービスである以上、父は私の父だ。確執があろうと、古い傷が口を開けていようと、血の事実は否応なくここにある。


 宰相がどう出ようとも、私は会いに行く。なぜ退位し、なぜ即位したのか。自分の意志と責任で確かめる。それは、私がここに在る意味へ踏み出す第一歩に思えた。


◇◇◇


 朝の光に磨かれた控室は、外向けの華やぎだけを過不足なく揃えている。化粧台の鏡が淡く白み、白粉と油の匂いが喉の奥で細くほどけた。侍女たちの指が手際よく髪をすくい上げ、髪飾りの金具の冷たさが頭皮に小さく触れる。


 広間では式典の最終調整が続いているはずで、紙の擦れる音と短い合図が往還している。忙しさには慣れているのに、今朝ばかりは踵が落ち着く場所を見つけられない。


――父上に会いたいと言えば、宰相は顔を曇らせるだろう。


 鏡の向こうの瞳に、わずかな迷いが影を落とす。侍女が控えめに囁いた。


「陛下、今日はお肌の色が優れませんね……」


 私は微笑みだけを置き、「何でもないわ」と返す。侍女たちを下げ、控室の奥に控えていた宰相を呼ぶ。袖口に朝の冷え、蝋の甘さ、羽根ペンの先の乾き。彼が書類を並べ始めるのを待ち、息の支えを一度深くつく。


 やがて、宰相クレイグ・アレムウェルが入室する。


 先代の王からも、その有能さを高く評価されていたと聞く。実際に目の当たりにした彼は、噂通りの、あるいはそれ以上の人物だった。五十代半ばとは思えぬほど立ち姿に無駄がなく、僅かに白髪を混ぜた髪は寸分の乱れもなく撫でつけられている。


 けれど、息を呑ませたのは眼差しだった。磨かれた硝子のように温度がなく、測定器の数値でも読むようにこちらを見る。値踏みでも敵意でもない。ただ、人を情報として受け取る目――その空白が、肌の内側で冷えに変わった。


――この人は、きっと、人の心というものを信じていない。


「宰相殿。昨夜、先王のご容体を伺いました。奥にてご静養とのこと……。できれば、わたくし、父上にお目通りしたいのです」


 視線を伏せた宰相の睫毛に、短い逡巡の影が落ちる。先王に仕え、今は女王を支える男。その二つの忠義のあいだで、頬の端にわずかな緊張が走った。


「先王は長くご体調を崩され、面会はごく限られております。侍医司の申すところ、余計な刺激はお避けいただきたく、病勢も重く……平素のようなお言葉は難しいやもしれません。陛下にも、何卒ご心労なきよう」


 舌の縁に金属の味が一瞬だけのり、指の強張りを一度解く。声の芯を整え、言葉を置く位置を決めた。


「重々承知しております。短いお時間で構いません。今の私は――聖剣の代償か、もとより不確かな記憶か、そのために女王たる実感を欠いております。父上から直にお言葉をいただければ、負うべき責が定まり、以後の公務を滞りなく進められましょう」


 宰相は困ったように眉間へ浅い皺を寄せ、重臣たちへ視線を配る。


「なるほど……。しかし、先王とお会いになることは、陛下の御心をかえって乱す恐れもございます」


 私はまっすぐ見返す。横隔膜の奥で、波が小さく張りつめた。


「実の娘が父を見舞うのに、いけないところがございますか。宰相殿、どうか本心をお聞かせください」


 短い呼吸の断面が、机上に落ちた。


「本音を申し上げますれば……王室をめぐる均衡はいまだ脆弱にございます。魔族大戦の余波は色濃く、聖剣の御業で国を救われた陛下を静かにお支えしたい向きがある一方で、そのご威光の増大を懸念する声も少なからず。ここは、ひとまず耐え忍ぶ時節かと」


 理は理として受け止める。けれど、踵はもう据わっている。


「宰相殿のご懸念、もっともに存じます。ですが――私が女王として胸を張って歩めるかを確かめるには、父上に拝謁することを避けては通れません。どうか、重臣方へもお取り次ぎくださいませ」


 言葉の奥で温度がわずかに上がり、視界が澄む。


「……承知いたしました。こちらからも取り計らいましょう。面会は短時間にて──先王のご体調を鑑み、持ち時間の厳守をお願いいたします」


「それでお願いするわ。ありがとう、宰相殿」


 頷いた宰相は、険の残る顔で小さく頭を下げる。ほどなく正式な許可状が回り、侍医司立会いのもと、砂時計一つ分――と朱の注意書きが添えられた。インクの匂いだけが、現実を保証する。


◇◇◇


 許可が下りるまで、儀礼と印が降り続いた。休息は砂粒一つ。


 出立前、執務室に面した前庭はひっそり澄んでいた。待っていたのはヴィル――今は「ヴォルフ殿下」と呼ばれる彼。歩み寄る気配とともに、手がすっと取られる。掌へ彼の体温が移り、鼓動が一拍遅れて追いつく。


「……やはり、俺が行くのは難しいらしいな」


 抑えた声の端に、わずかな悔しさ。握る指に、不安の震えが細く混じっている。


「ごめんなさい。先王の静養を理由にあれこれと言われてしまうと、私にも抗いようがなくて……」


 重臣たちは名目として父の静養を掲げつつ、王配の影が長くなることを嫌がる。いずれにせよ、今は耐えるしかない。


 彼は私を引き留めず、ただ熱を宿した眼差しで見送る。私はその熱に、そっと力を返した。


「行ってきます。帰ってきたら全部話すから、心配しないで」


「……ああ、待ってる」


 短い返事に、かすかな震え。胸の内側がきゅっと縮む。少人数の護衛に合流し、列が静かに動き出す。


 白い壁を幾重にも抜け、薄暗い回廊へ。石灰が指先に細かい粉を残し、石畳の継ぎ目が靴底に軽く噛む。護衛の拍は、布の下を這うように規則正しく戻ってくる。先王の離れへ通じる扉までの距離は短いはずなのに、足取りは心許なさに絡め取られて、やけに遠い。


 息は浅く、けれど乱さない。砂時計一つ分のあいだに、何を問うか、何を受け止めるか。掌には、さきほどの皮膚温がまだ残っていた。

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