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泡沫の女王と黎明の騎士

――メービス……。


 それはリーディスの民なら誰もが知る、伝説に登場する精霊の巫女の名。


 黒髪ではなく、若緑色の髪を持ち、泉の精霊から聖剣を賜ったとされる救世の巫女。長い歴史の中で、王家の象徴として語り継がれてきた“英雄”の名前が、今、この場で私に向けられた。


「ほんとうに……そう呼ばれているの? この私が?」


 侍女は不思議そうに微笑みながら頷く。


「もちろんでございます。女王陛下――いえ、メービス様は、ご即位前からずっとこのお名前で呼ばれておりました」


 私が息を詰めたまま立ち尽くしていると、侍女が心配そうに覗き込んでくる。


「……もしかして、ご体調が優れぬのでしょうか? お顔の色が少し……」


「あ、ううん、大丈夫……」


 慌てて言葉を濁し、私はぎこちなく笑顔を作った。


「ちょっと寝起きでボーッとしてただけ。心配かけてごめんなさいね」


 侍女は軽く会釈し、私を気遣うように視線を落とす。

 その隙に、私は足早に庭へ向かった。


――メービス……。


 そんな名で呼ばれることになるなんて。


 私は“ミツル・グロンダイル”のはずだ。けれど、今の私は――十二歳の私ではない。つまり、これは単なる時間遡行ではない。


「……ヴィルは? 彼はどこにいるの?」


 この私がメービスだとすれば、ヴィルは伝説に謳われる最優の騎士――“ヴォルフ”ということなのだ。


◇◇◇


 ……私は離宮の記録庫で、乾いた羊皮紙の匂いにむせびながら何度も読み継いできた。リーディス王国の歴史に名を刻む伝説のひとつに、メービス王女と最優の騎士ヴォルフの物語がある。

 指先に紙の粉が残り、羊皮紙がさらさらと鳴った。


 メービス王女は王家に生まれながら、ある特殊な宿命を背負っていた。

 彼女は「精霊の声を聞く力」を持ち、先々の運命を予見することができたという。しかし、その異質な能力ゆえに、王家の慣例として幼い頃より白銀の塔に幽閉されていた。彼女は存在そのものを秘匿され、外の世界をほとんど知らないまま育った。


 だが、「精霊の囁き」に導かれるように、王国に迫る脅威を悟る。伝承によれば、それは異界より来る“魔族”と呼ばれる存在であり、やがて世界を蹂躙するであろうという警告だった。


 しかし、当時の王宮はその予言を軽視し、彼女の言葉に耳を貸さなかった。幽閉された王女の言葉を信じる者はほとんどおらず、彼女は絶望の淵に立たされることとなる。


 そんな中、彼女の唯一の理解者となったのが、王家に仕える最優の騎士ヴォルフだった。


 ヴォルフはリーディス王国随一の剣士であり、王女の護衛役を務める騎士だった。彼は王家への忠誠を誓いながらも、幽閉された王女の悲しみに心を寄せ、ひそかに彼女の話に耳を傾けるようになっていった。

 メービスもまた、唯一自分の言葉を信じ、寄り添ってくれる彼の存在に安堵を覚え、次第にふたりの間には深い絆が生まれていったと言われている。


 やがて、王国は次第に広がる戦乱の兆しを前に、王女の預言を無視できなくなった。そこで王は、彼女を正式に「精霊の巫女」として認め、精霊の加護を得るために“聖剣”を探すよう命じる。


『泉の精霊に選ばれし者だけが、その剣を手にすることができる』


 それが、王家に伝わる聖剣の伝説だった。


 王の命を受け、メービスはついに塔を出て、聖剣を探す旅に出ることとなる。その護衛を任されたのが、他でもないヴォルフだった。


 ふたりの旅路は、華やかな英雄譚とはほど遠いものだったという。夜営の薪は湿り、煙が喉に刺さる。雨の日は外套の裾が水を吸い、体温を奪っていった。


 そんな手触りの連続の中で、彼女は初めて王女という立場を離れ、ひとりの人間として広い世界に触れていく。その傍らには常にヴォルフがいた。彼は随行の騎士として付き従いながらも、王女が自らの足で前へ進めるよう見守っていた。


やがて、彼らは聖剣の眠るとされる「精霊の泉」へと辿り着く。そこでは、精霊の試練が待ち受けていた。伝承によれば、その試練を乗り越えた者だけが聖剣を授かることができるという。



 メービスは試練の中で、己の運命と対峙することとなる。王女としての責務、精霊の声を聞く者としての宿命、そして――ヴォルフへの秘めた想い。


 そして、ヴォルフへの想いもまた、決して言葉にできるものではなかった。彼は王家に仕える忠実な騎士であり、決して越えてはならない存在。けれど、彼がいたからこそ、彼女はここまで来られたのだ。


「ヴォルフ……私は、あなたと一緒に戦いたい」


 彼女の言葉に、ヴォルフはただ静かに寄り添い、彼女を守るように立ちふさがる。それが、彼の答えだったのだろう。


 こうしてメービスは、精霊の試練を乗り越え、王国にとっての希望となる“聖剣”を手にする。


 その後、聖剣を手にしたメービスとヴォルフは、“魔族”との戦いへと身を投じることとなる。彼女は王国の象徴として、人々を導く光となり、ヴォルフは彼女の傍らで剣を振るい続けた。


 ふたりがどんな言葉を交わし、どんな想いを抱えて戦ったのか――その詳細は、王家に伝わる記録には残されていない。


 ただひとつ、確かなことがある。

 それは、メービスが王国の巫女としての役目を果たし、ヴォルフが最後まで彼女を支え続けたということ。そして、戦いの終結とともに、メービスの名は“救世の巫女”として歴史に刻まれ、ヴォルフの名は“王国を救った英雄”として伝えられることとなった。


 けれど、私が読み継いできた記録は、あくまで美しく彩られた“英雄譚”に過ぎない。


 石壁に触れた指がひやりと冷え、現実だけが確かにそこにあった。


 記録では、メービスとヴォルフの間にあったかもしれない「個人的な感情」については、何も語られていない。彼女がヴォルフに何を想い、彼がどんな心境で彼女を守り続けたのか――それは、後世の者たちによって慎重に削ぎ落とされ、美化されてしまったのだろう。


 歴史とは、えてしてそういうものだ。人々が望む形に整えられ、英雄は“象徴”として語り継がれる。


 しかし、記録にはない部分を想像するならば――。


 ふたりの旅は、もっと切実で、もっと温かいものだったのかもしれない。そして、メービスの胸に去来した想いを考えたとき、それが決して王国の“巫女”としての役割だけではなかったとしたら――。


 伝説は語らないが、彼女は王女である前に、ひとりの少女だった。ヴォルフは騎士である前に、ひとりの青年だった。


 ――その事実だけは、たとえ歴史が忘れてしまっても、変わらないはずだから。


◇◇◇


「ヴィルもまた、この世界で“ヴォルフ”として扱われているのだとしたら」


 精霊子が持つ特性の一つ。情報を蓄積し、伝達する力。それは前世での弓鶴への憑依の根拠でもあり、私と茉凛の前世の意識と記憶のすべてが、デルワーズが集めた精霊子の中に保存されていたという事実からも明らか。


 デルワーズ曰く、マウザーグレイルには“異なる時と異なる世界”を渡る能力があるとされる。


 それらを結びつければ、私が今メービスの肉体に存在する理由に説明がつく。


――すなわち、魂の転送が生じたということ? だとしたら、私たちはどうすればいいのだろう。


 もとの世界へ帰る手立ては、いったいどこに隠されているのだろうか。私に戻るには、何を求め、何を解き明かさねばならないのだろう。


 焦燥感がみぞおちの裏を激しく掻き乱し、吐く息が浅くなる。ここは離宮の一角。そこから続く長い回廊を駆けるように進みながら、私は何度も心の中で呼びかけていた。


「ヴィル……あなた、今どこにいるの?」


 見知らぬ世界に飛ばされた私とヴィル――それぞれが“誰の姿”を借りているのか、その手がかりをほんの少しだけ掴んだばかり。

 だけど、時間が惜しくてたまらない。早く伝えなければならない。今もこの瞬間も、私たちはまるで危うい一本の細い綱の上を歩んでいるようなのだから。


 私は頭にのせたウィッグを押さえるように右手を当て、もう片方の手でドレスの裾を軽く摘まんだ。もし王宮の誰かに呼び止められて「女王陛下」と問われても、まともに事情を説明することはできない。


 “黒髪”を隠し、“メービス”と呼ばれる女王の役割を果たす。けれど、本当の自分はそのどちらでもない。脈の速さを抑えようとすると、喉がきゅっと渇いた。


――辛く長い戦いを経て、彼らは女王と王配という形で結ばれたということ。


頭に浮かんだその瞬間、肋の内側がきしみ、呼気がひとつ途切れる。



 英雄譚として歌い継がれてきたその名を、まさかこんな形で、自分たち自身に関わるものとして耳にするなんて。


 ヴィルが“ヴォルフ”の身体を借りている――そう思うだけで、言いようのない戸惑いと信じ難さが胸を満たす。それでも、今の私たちの状況を考えれば、そう考えるほかに答えは見つからないのだ。


――伝えなければ……。今ヴィルがいる身体はヴォルフのものだということを。


 ただ、どうやって言えばいいのだろう。その名を告げたとき、彼はどんな顔をするのだろう。驚くのは当然として、さらに別の不安や戸惑いが押し寄せるかもしれない。


 でも、知ってもらわなくてはならない。私たちが元の姿に戻る手がかりは、メービスとヴォルフの伝説にこそ隠されている。そして、今の私たちは、その伝説の器を借りて息づいてしまっている。


 夜の静けさが残る回廊を抜けると、外の光をはらんだ大きな扉が見えた。その先には、朝の庭園が広がっているはず。


 意を決して扉を押し開ける。眩しい光が差し、冷たい空気が頬を撫で、襟足の汗がすっと乾いた。


 花の香りが鼻をくすぐり、濃い緑の中へ私は駆け出す。

 衣擦れが朝の静けさに細く混じり、足元で露がちいさく弾けた。

 その時、刃が空気を裂く細い音が視界の端に捉えられた。少年のような銀髪の姿――紛れもなく、彼だ。


――たとえあなたがどんな姿でも、私が知っているのは“ヴィル”以外ないの。だから、絶対に一緒に帰ろう……!


 自分に言い聞かせるたび、焦りは力へ変わる。あの世界に戻ったら、今度こそちゃんと伝えたい。


 私を守ってくれてありがとう、って。そして、これからもそばにいてほしい、って――。


 その思いをかみしめながら、私は舞い散る花びらをかき分けるように庭園を走る。銀髪の青年の背中が、かつての騎士だったヴィルの面影と重なって見えた。


「……必ず一緒に戻るんだ」


 小さく呟き、決意を込めた一歩を踏み出す。あと少しで、その背に手が届きそうだ。


 知らない世界に投げ込まれても、私たちがお互いを守り合う気持ちは変わらない。どんな運命が待ち構えていようと、私たちはきっと手を取り合って乗り越えてゆく。


 大切だからこそ、伝えたい。


 その思いを胸に抱きながら、銀髪の青年に向けて、私は息を切らしつつもひたすら足を運び続けるのだった。


◇◇◇


 白々とした朝の光が、まだ眠気を引きずる空気をゆっくり押しのけるように、静かな庭園へ降り注いでいた。噴水の水音は遠く、花々の甘い香りは夜の名残をわずかにまとっている。にもかかわらず、私の鼓動は少し速いままだった。

 その理由の一端は、薄明かりのなかで剣を振るう銀髪の青年――ヴィルの存在にある。


 彼が握るのは、あの日、王宮の祝賀の場で私たちに差し出された名無しの聖剣――騎士剣。

 純白の刀身はどう見ても鉄や鋼の類いとは思えない不思議な質感を帯び、朝日の角度によっては淡い虹色を宿すかのようにきらめいている。軽く構えるだけで風切り音が細く鳴り、まるで剣自体が意志を宿しているかのようだ。


 ヴィルは、そんな得体の知れない刃を当然のように扱いながら、一連の太刀筋を確かめるように振り下ろしている。その所作には、かつての“放浪の剣士”だったころと寸分違わぬ鋭さと重み――そして、胸の奥底を揺らす懐かしさが凝縮されていた。


 私の足音に気づいたらしい彼は、一度だけ剣の動きを止め、短く息をつく。銀色の髪が早朝の風にさらさらと流れ、その青灰色の瞳が、今のヴィルの“青年らしさ”を映し出している。


 その一瞬、肋骨の内側がきゅっと縮む。


「お、おはよう、ヴィル。……こんな朝早くから素振りしてるなんて、相変わらずね。ずいぶん早起きだったじゃない?」


 私がそう声をかけると、彼は照れ隠しなのか、あるいは気まずさを隠そうとしてか、聖剣を少しだけ下ろすようにして肩をすくめる。にこりともせず困ったような苦笑を浮かべながら、どこか無造作に答えてきた。


「……ああ。どうしても、この体の感覚を確かめたかったんだ」


「それでどう?」


「まぁ、動きは悪くないんだが、どうも筋肉や関節の可動域がまだ掴みきれてない。自分の手足のはずなのに、以前とは微妙にバランスが違っていてな。変に力が入るし、抜けるところでは抜けない」


 別人の若い身体に移ってしまったのだ。違和感は大きいに決まっている。こうして剣を振り、動きの帳尻を合わせようとするのは、常に臨戦であろうとする彼らしい。


 彼は掌を軽く握っては開き、指の骨鳴りと腱の張りを確かめる。若返った身体がいくら身軽でも、心と身体の歩調はすぐには揃わない。


「私も同じよ。一気に何年分も成長してしまったみたいな身体を、持て余してる。なんだかぎこちなくて、寝返りを打つたびに妙な違和感があるの。おまけに寝台が広すぎて、ひとりでいると落ち着けなくて……目が覚めたら、あなたがいなくて……」


 最後の言葉は、わずかな照れ隠しもあって小声になってしまう。丈の長いドレスの裾がふわりと揺れ、朝露が裾先を冷やした。


「すまんな、勝手に置き去りにして。不安なのはお互い様ということか」


 ヴィルが淡々と言い放つ。口調は昔のままなのに、その声質はどうしても若々しい響きを帯びていて、不思議な感慨を呼び起こす。


 私は彼の青年然とした姿を正面から見つめ、胸骨の下に言葉を集める。――なぜなら、どうしても伝えなければならないことがあるから。


 昨夜の祝祭、それは私たちが“夫婦”として人々に敬意を捧げられた出来事。“メービス”と“ヴォルフ”と呼ばれ、国中に歓迎されているという事実が、まるで現実離れした夢のようだった。けれど、現実に私たちはそこへ放り込まれてしまったのだ。


「ヴィル……」


「なんだ?」


「あなたに、どうしても伝えておかなくちゃいけないことがあるの」


「うむ、聞こう」


 彼のいつもの淡白な相槌が、逆に私を落ち着かせる。呼吸を整え、私は半歩だけ近づいた。コルセットが胸郭を縛る感覚に、背筋がひとつ伸びる。


「これから話すことは、冗談のように聞こえるかもしれない。信じがたいことだってことも、重々承知しているわ」


「はは、お前が冗談が苦手なのはよく知っている。もったいぶらずに言ってくれ」


「じゃあ、話すわね」


 仕切り直すように息をつき、彼の視線を正面から受け止める。青灰色が、今のヴィルの“青年らしさ”を映し出している。


「……私たち、どうやらここでは“メービス”と“ヴォルフ”だって思われてるみたいなの」


 一拍。肋のあたりで心臓が強く打つ。


「今……なんと言った?」


 ヴィルは目を細め、言葉を詰まらせたように眉を寄せる。その仕草に、私も内心苦く笑ってしまいそうになる。信じられないのはお互い様だ。


「王宮の人たちから見れば、私たちは『メービス女王陛下とヴォルフ王配殿下』に他ならないのよ。つまり、あの歴史上有名な伝説の巫女と騎士が結ばれた姿そのもの、ってわけ。あなたは――ここでは“救世の騎士”と呼ばれている。

 だから、昨日の祝典で私たちを“夫婦”だと当然のように扱ってきたのも、そういうこと。私たち自身は“偽物の夫婦”だと思っていても、周囲は真実としか思っていないみたい」


 それを聞いたヴィルの口許がゆがむ。まるで激痛に耐えるような表情を浮かべながら、聖剣の柄をきゅっと握りなおした。


「おいおい、どうしてそんなことになるんだ? 俺の知っている言い伝えでは、ヴォルフはただの忠義を尽くす騎士で、メービスに終生仕えたって話だ。そこに恋愛感情だの婚姻だのって話は――」


「ええ、表向きはね。でも真実はこうだった。伝説なんてものは、時が経てばいくらでも書き換えられるわ。都合の悪いところは削除され、王家にとって都合のいい“英雄譚”だけが残るというわけ。

 もしも王家の巫女と騎士の恋が、当時あるいは後の貴族たちにとって受け入れがたいものだったとしたら――その部分だけ意図的に葬られてしまうのも、そう珍しくはないんじゃないかしら」


 ヴィルはちらりと目線をそらし、しばらく黙り込む。何かを言いかけるが、それを自重するように唇を噛む。その沈黙が、庭の冷気と一緒に胸へ沈んでいく。


「……俺が知る限り、メービスが女王に即位したのは確かだが、治世自体はあまり長くなかったはずだ。その後継として即位した王はまだ子どもで、メービス自身の婚姻については一切伏せられている。

 ……つまり、何かがあった――王家の内紛か、あるいは外圧か。そういう火種は想像がつく」


「そうよね。王宮というものは昔から権力争いが絶えないし、巫女が王族となって政治に関わるのを良しとしない派閥があってもおかしくない。もし伝説として残されている部分に歪みがあるなら、私たちが見聞きしてきた話と、現実には大きな齟齬があるのかもしれない」


「だが、それと“俺たちが今、ヴォルフとメービスの身体に入り込んでいる”こととの繋がりがわからん……いまさらこれは夢だ、なんていうつもりはないが」


 彼の声には苛立ちと困惑が混じる。私の喉も同じ熱で渇いた。


「確かに、誰がこんな状況を作り上げたのか、今のところ皆目見当もつかない。でも実際に、私たちはここにいる。そして周囲は私たちを『女王と王配』『メービスとヴォルフ』だと信じきっている……」


そう言い切ると、私は地面に落ちていた白い散り花を拾い上げた。指先に載せると、息で揺れるほど軽い。



「覚えてる? 以前、練兵場で剣を合わせた時、私たちの剣が初めて共鳴したじゃない?」


「ああ」


「互いの聖剣の記憶が溢れ出して、過去の幻影を見せられた。けど……あのときはただ夢を見ているような感覚だったわ。こんなに生々しくはなかった」


「……確かに、泉の上で手を取り合う誰かの姿が見えた。あれがメービスとヴォルフだったのかもしれないな」


「でも今回は――もっと根本的に私たちが入り込んでいる。私は今、“メービスの身体”の感触をまざまざと感じているし、あなたは“ヴォルフ”として剣を振っている」


「俺自身、思い知られたよ。こいつは俺の体じゃない、って」


「だとすれば、私たちの意識と記憶だけが時間を遡ってしまったとしか思えない……」


「そんな馬鹿な、と思いたいが……感じるものすべてが現実にしか思えない。くそっ……」


 吐き捨てるような低い声。私も苦い笑みしか浮かべられない。

 もとの世界で抱えていた課題――私が彼を救おうとしていた記憶――それらはすべて、いったん棚の上に置かざるをえない。


「嘆いていても仕方がないわ」


 声に出す。それは、自分自身への号令でもあった。


「……差し当たって、私たちは“メービスとヴォルフ”として、王宮で暮らすしかないということよ。

 帰る手段を探すにしても、ここで認められている立場を利用するのが一番効率的よ。こんな危うい状況だからこそ、一緒に情報を集めて、もとの世界へ帰る方法を探し出しましょう」


 すると、ヴィルはまるで諦めるような、しかしどこか吹っ切れたような笑みを浮かべ、聖剣を脇に置いて穏やかに頷いた。


「……分かった。“女王陛下”にそう決断されては断るわけにもいくまい。王配の務めを果たしながら動向を探り、何が起きてるのか突き止めてみるさ」


「ありがとう。二人で力を合わせれば、きっと大丈夫よ」


 私も、少し柔らかな笑みを返す。姿は変わっていても、中身は“私の知るヴィル”のまま――その確かさが、背筋を支えてくれる。


「それにしても、とんでもないことになったもんだ。目を開けたらいきなり別人の中だっていうんだから。若返ったというのは悪い気はしないが、やはり落ち着かん」


 彼は気恥ずかしさを紛らわせるように、再び握り込んだ手を見つめる。私も同じ感覚だからこそ、肩甲骨の内側が共鳴するみたいに強張った。


「私はまだいい方よ。血筋的にはメービスは一応ご先祖様なわけだし? それに巫女として生まれたお姫様は、決まってみんな同じ容姿だから。それが祝福なのか呪いなのかは、また別の話だけど……」


 語尾は力なく消えた。デルワーズの血統がもたらした結果なのだと分かっているから。


「あなた、肩凝ってない?」


「凝らない状況ではあるまい」


「なら、軽くストレッチでもしようか。旅をしていた頃も、朝はいつも一緒に身体を動かしていたでしょう?」


「……そういえば、あったな。思い出した」


「ドレス姿でストレッチなんておかしいけれど、いちいち服を着替えてもいられないし……私も少し体幹を確認しておきたいわ」


 私はドレスの裾を少しつまんで持ち上げ、ゆっくりと肩を回しはじめる。朝の冷たい空気が肌を撫で、緊張がゆるむ。


 ヴィルもまた、聖剣を地面に置いてから、深く息を吐いて軽く屈伸運動に取りかかる。

 まるで、昔に戻ったみたい――だけど、実際にはずいぶん姿かたちが違う。それが可笑しくもあり、切なくもある。


「こんなふうに身体を動かすのって……気分がいい」


 吐く息が白むほどではないのに、胸の奥の硬さだけが薄く解ける。彼は聖剣をいったん脇に置き、掌を握っては開き、腱の張りを確かめる仕草をした。


「まさか、王宮の中庭でやるなんざ、思いもしなかったがな。……でも、まあ悪くない。こうしてお前と並んで動いていると、少しずつ自分の身体が馴染んでいく気がする」


 彼の柔らかな声を聞いていると、心のこわばりが溶けていく。私も思わず表情が緩んだ。


「ありがとう、ヴィル。気持ちが整ったわ。ねえ、これから侍従を呼んで状況を聞き取りましょうよ。“メービスとヴォルフ”の立場と役割、今のうちに把握しておきたいの。あなた流に言えば『まず状況を知り、対応策を練る』でしょう?」


「その通りだ。狡猾な貴族連中が、舌なめずりして待ち構えているかもしれんからな。気が抜けんぞ」


 そう言ったところで、豪快に彼のお腹が鳴った。


「あらあら……あなた、“救世の騎士”なんだから、空腹で倒れたりしないでね?」


「……悪い。考えごとで腹が空いた。朝飯を手配してもらえるか」


「もちろん。そのあたりの命令も、いかにも“女王陛下”らしく振る舞うのが義務なんでしょうね……。頑張るわ」


 互いに軽口を交わしながら、柔らかな陽光に包まれる庭園を離れていく。視線を向けるたび、朝露がかすかに光り、それだけで少し胸が弾む。


 朝もやにかすむ庭園の片隅で、私は朝露に濡れた刃がかすかに光る騎士剣を見つめていた。

 これこそが、私たちが元の世界へ戻るための切り札なのか――あるいは、この不思議な“伝説の世界”を深く解きほぐす鍵となるのだろうか。


 彼と一緒に試してみたい想いは確かにある。一方で、もし強大な精霊子が反応すれば、私たち自身がさらなる混乱に陥ってしまう可能性だって否めない。情報はあまりに乏しく、今は踏みとどまるべき時だと冷えた朝の気配が肺の奥で告げる。


 目を伏せて、肺の奥までゆっくり息を送り込む。焦りは役に立たない――何度も身に沁みたことだ。


 それに……“メービス”と“ヴォルフ”と呼ばれる二人が、どんな人生を歩んできたのか――その秘密を知りたいという気持ちもある。

 もし彼らの足跡が私たちの運命へ示唆を与えてくれるのなら、それを利用しない手はない。私たちは次代の聖剣に選ばれし巫女と騎士の後継者でもあるのだから。


――結局、何もかもが手探り。


 だけど、ヴィルが隣にいると思うと、どうしようもない不安の重みが、ほんの少しだけ軽くなる。もし彼がいなければ、私ひとりではこんな不可解な世界を受け止められなかっただろう。


 ふと気配に顔を上げると、銀の髪を揺らすヴィルが、戸惑いを隠せないような笑みを浮かべていた。青灰色の瞳がまっすぐこちらを見つめ、昔の頼もしい“護衛騎士”の光を宿している。


「行こうか、ミツル。いや、女王陛下」


 その響きに、私ははっと自分を取り戻し、ゆっくりと笑みを返した。

 姿かたちこそ大きく変わってしまったけれど、中身はやはり私の知るヴィルなのだ――そう思うと、不思議な安堵が胸に満ちる。


「うん、行きましょう。ヴォルフ殿下」


 つながりが確かに手の内側で震えた。噴水のきらめきが目をかすめ、胸骨の内側で波紋が大きく広がっていく。私は“メービス”という仮面の裏で、ひそかに誓いを結ぶ。


――彼と一緒ならきっと乗り越えられる。そして、茉凛やお祖父様やたくさんの大切な人たちの元へ帰るんだ。


 彼が振り下ろした剣先が、朝日のなかでほんのりと光ったのは、気のせいではないはずだ。その微光にすがるように、私は微笑み、そして誓う。


 私たちの新たな物語が、白い刀身とともに光を受けて駆け出している――今はそう信じるしかない。

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