広すぎる寝台に揺れる心と重ねられた名
巨大な天蓋付きベッドに身を横たえてみても、眠気は少しも訪れなかった。
闇の奥で上質なレースがかすかな波を描き、ふかふかの寝具は私をやさしく包もうとするのに、胸の奥では不安が燻りつづける。むしろ、この広さが心細さを反響させ、落ち着きを逆なでする。
まぶたを閉じれば、昨日の祝祭の大歓声や“夫婦”とまで宣言された驚きが鮮やかに蘇る。
人々は花を惜しみなく投げかけ、私とヴィルを国の希望そのもののように讃えていた――はずなのに、今の私はいたずらに巻き込まれた子供のような気分だ。思考は糸玉のようにもつれ、胸のざわめきは解けない。
枕元のマウザーグレイルに指を伸ばす。冷たい金属が体温をさらい、油と革の匂いだけがかすかに残る。耳を澄ませても、あの微かな震えはどこにもいない。演算の羽音のような気配は今夜、沈黙の形を保っている。
茉凛がいない剣を抱くと、心細さが増していく。
ここではない夜に、私はよく彼女と「ふたりだけのひみつ」を語り合った。日々のこと、思い出、悩みや愚痴――結論のない他愛のない会話。じゃれ合いの温度が心地よく、異世界の縁がその時間だけ丸くなった。
うまく言えない「好き」の輪郭をさらけ出したこともあった。茉凛は否定せず、ただ一歩前を指す。ときに“固有時制御”で未来を仮並走させ、「諦めなければ道は続く」と、ないしょの未来予報を置いていってくれた。
今夜は、私の脈拍だけが金属にこつんと返る。空の器に水を注いでも波紋が立たないように、胸の奥が乾いていく。それでも柄を包む掌は離せない。形あるものは、形の分だけ寄る辺になるのだと、自分に言い聞かせる。
「だめだ……眠れやしない」
声に出した途端、胸の奥にふっと熱が差す。幼い響きに自分で驚き、頬に指先をあてた。
ひそめた声は、重厚なカーテンと天蓋の暗闇に吸い込まれていく。肩甲骨の裏で神経がきしみ、まぶたの裏だけが明るい。
痺れを切らし、私はそっと身を起こして寝台を降りた。石床の冷えが足裏にやわらかく吸いつき、背筋のこわばりだけが残る。レースのカーテンをめくって寝室の奥をうかがうと、ソファとクッションに囲まれて銀髪の青年が横たわっていた。毛布を肩まで引き寄せ、浅い呼吸を刻んでいる。毛布の端が胸元で小さく上下し、その静けさが部屋に溶けていた。
毛布から羊毛と焚き火の残り香が薄く立ちのぼり、胸の緊張が指先でほどける。
かつての彼は四十を越えた騎士で、筋骨隆々で荒削りな力強さをまとっていた。今の姿は線の細い青年にしか見えないのに、所作の端々に不思議な重厚感が漂い、私のよく知る“ヴィル”その人だと主張している。
――こんな状況でも、私を気遣ってソファで寝るなんて……。
胸がぎゅっと痛む。彼はずっとそうだった。野宿でも宿屋でも、私を安全な場所に休ませ、自分は不便なほうを選ぶ人。姿や声は変わっても、その心根は同じなのだろう。姿が変わっても、同じ場所を温める手だけは変わらない――胸の内側が、そう決めてしまう。
――そばに行っても……怒られないよね?
視線が床を泳ぐ。裾の端を指でひとつ摘み、そっと離す。静かな呼吸音に誘われるように、私は足音を殺しながら近づいていく。
ナイトドレスがわずかに擦れる音を立てた瞬間、ヴィルは戦士の防衛本能でも働かせたかのように瞳を開いた。薄暗い部屋の中、それでも彼の視線がまっすぐこちらを見据えるのがわかる。
「……眠れないか?」
寝ぼけた声だというのに、抑えた調子の透明な音色は不思議な安心感を含んでいた。昔の彼ならもっと渋みの混じった声だったはずだが、若い声の透明感が妙に頼もしく響く。
「うん……。いろいろ考えすぎて……だめみたい」
言い終えると唇が乾き、舌先でそっとなぞる。胸の鼓動だけがはっきりする。
“女王”として扱われ、“王配”と称えられているはずの私たち。頂点に立つ存在のはずなのに、こうして弱音をこぼす自分が情けない。それでも彼は笑わず、いたわるように眉をひそめてくれる。
「なら、少し酒でも飲むか? 旅をしていた頃も、気分を落ち着けたいっていうときには、水で割って口にしていただろう?」
差し出された優しさが、かえって胸の奥をくすぐる。言葉が喉の手前でつまずく。
「ううん、今はいい……。それより……」
呼吸を一度深くそろえ、天蓋の陰を見たまま指先をぎゅっと握る。
「その……一緒に、寝てくれない? お願い……」
頬の内側にじわりと熱がさす。目は合わせられず、レースの模様だけが視界に残る。
子どもっぽいのは重々承知している。だけど、あの広すぎる天蓋付きベッドで一人きりで眠るには、あまりにも心細い。周囲からは“夫婦”扱いされているとはいえ、私とヴィルの本当の間柄は仲間以上であり師弟でもある。いきなり昔のように肩を寄せ合う距離には戻れないぎこちなさが、今の私たちに漂っている。
爪の先で縫い目をなぞる。喉で息がつまずき、鼓動が半歩だけ速くなる。
「あの、変な誤解しないでね。そういう意味じゃないっていうか、ただ隅っこにいてくれるだけでいいの。ほら、ベッドが広すぎて……落ち着かないし。
それに、私……今日のこととか、まだ頭が追いついてなくて、余計に心がざわついて……子どもみたいって、笑われるかもしれないけど」
必死に言い募る私を見つめながら、ヴィルは難しい顔で息をのむ。若い姿に変わっても、こうしてみるとやはり、騎士だった頃の壮年の表情がどこか重なって見える。
「子ども扱いなんてするつもりはないが……本気か? 同じ寝台に入るのは、どうなんだろうな。今のお前は……いや、なんでもない。さすがに俺だって気を遣うってことだ」
「もしあなたが迷惑でなければ、それが一番……安心、できるの。離れすぎてると余計不安になっちゃうし……」
最後の一語だけが細くほどけ、指先が無意識に毛布の端を折る。
彼はしばらく逡巡したあと、長く低い吐息をついた。布の擦れる音がひとつ、小さな気配に肩の力が半歩だけ抜ける。
「……わかった。実は俺も勝手が違いすぎる体のせいか、寝心地が定まらなくてな。お前さえよければ、よろしく頼む」
「よかった。ごめんね、変なこと頼んで……でも、助かる」
ほっとしてしまう自分が恥ずかしいけれど、彼が了承してくれたのは心強い。姿こそ違っていても、中身は私の知るヴィル――そんな確信が支えになる。
彼はソファに置いていた毛布を軽く抱え、私のあとをついてくる。
私が先に潜り込んでいた天蓋付きベッドは、あらためて意識してみると本当に驚くほど広い。包み込むような柔らかさなのに、その空間のゆとりが逆に孤独を増幅してくる。ヴィルが隣にいてくれるなら、その広大さも悪くないと思えるかもしれない。
「じゃあ……端のほうを借りるぞ。くっつかないようにするから安心しろ」
「うん……」
そう言いながら、布団は下、毛布は上にと、互いの掛け具合をそっと整え合う。
端を指先で丁寧に折り揃える。その些細な手仕事が、緊張の行き場を整えてくれる。レースを少し閉じると、天蓋の内側にほの暗さが満ちた。まるで小さな部屋をさらに仕切ったようで、ひとりだったときより温かみさえ感じる。
彼の胸郭が布越しにわずかに上下し、その微かな衣擦れが、天蓋の暗がりに拍を刻む。
「これなら、近すぎることもないだろう? ま、寝返りを打ってお前のほうへ転がるかもしれんが……」
「ふふ、それくらい気にしないって。昔は肩を寄せ合って寝てたこともあったんだし……」
笑いは小さく、息に混じる。天蓋の内側が、ひと目盛りだけあたたかくなる。
思い返すのは放浪の旅の記憶。凍えるような夜には、私が場裏・黄の地質操作で作り出した簡易シェルターの中で寄り添い、彼の体温に救われたことだってあった。――あの夜は焚き火の樹脂の匂いと、幕の継ぎ目を鳴らす風の笛だけが世界だった。
それなのに、今はこうして妙にぎこちなく身を縮め合っている。
自分でもおかしいと思うけれど、やはり状況が違いすぎる。姿も声も変わってしまっている彼を、「昔通り」とは受け止めきれない。
でも、心は明らかに“昔のヴィル”を恋しがっている――その温度の端に、名づけ損ねてきた小さな未来が、薄明るく座っていた。
そんな思考に囚われつつ、私は緩やかに瞳を閉じる。
頭の中には、祝祭の喧噪やこの王宮での新しい日々への不安が巡り、いくらか眠りを妨げていた。それでも、横で規則正しい呼吸を刻む彼の存在が不思議に安心感を与えてくれる。
起毛が頬を撫で、ばらついた体温がゆっくり平らになっていく。
「……ねぇ、ヴィル」
自分の息と彼の息が重なる拍を待ってから、名前だけをそっと置く。
「どうした? まだ眠れそうにないか?」
「うん……ごめん。こんなに疲れてるのに、目がさえちゃって……ああ、きっと明日から行事とかで忙しくなるのに……」
そう呟くと、彼は少し口を結んだまま、どこか慎重に言葉を選ぶような気配を見せた。
「考えすぎは毒だぞ。今はまだ何もわからない状態だ。だからこそ、体を休めておくべきだろ? ……もし危ないことになっても、この俺が守るさ。いつだってそうしてきただろ?」
「うん……ありがとう」
胸骨の内側がやわらぎ、まぶたの重みが素直に落ちる。
言葉を交わしているうちに、瞼が重くなってきた。神経が張り詰めていたはずなのに、こうして彼の声を聞くだけで安堵に包まれる自分が滑稽でもあり、愛おしくもあった。
最後にもう一度だけ彼の息遣いを感じようと耳をすませ……眠気が深い闇の底へ引きずり込む。
◇◇◇
どれくらい眠っていたのか。目覚めたとき、部屋はまだ薄暗く、空気にはひんやりとした冷たさが残っていた。
天蓋のレース越しに、かすかに差し込む光は朝日なのか、それとも夜明け前のかすかな月明かりなのか。ぼんやりと瞬きを繰り返しながら、無意識に隣へ手を伸ばす。
けれど、そこにあるはずの温もりはどこにもなかった。
私の指先はただ冷たいシーツをなぞるだけで、何の感触も返ってこない。嫌な予感が胸の奥で膨らみ、私ははね起きた。
「ヴィル……?」
かき分けた布団の端は、綺麗に整えられていた。まるで最初から彼がここにいなかったかのように、跡すら残っていない。
喉の奥がひりつくように乾く。彼の気配すら感じられないことが、こんなにも不安になるなんて――。
私は反射的にベッドから降り、寝室を見渡す。けれど、ヴィルの姿はどこにもない。
ソファには昨夜の毛布がきちんと畳まれて置かれ、テーブルの上の魔導ランプもそのまま。ソファに立てかけてあったはずの、王家の聖剣も見当たらない。彼が何かを残していった形跡はまるでなかった。
――まさか……また、あの光に呑まれて……?
不吉な想像が頭をよぎり、冷たい汗が背筋を伝う。
「っ……!」
私は急いでウィッグに手を伸ばした。黒髪を無造作にまとめ、留め具を素早く固定する。留め具が小さく鳴り、こめかみに金具の冷えが刺さる。
リーディスにおいて、黒髪は“忌むべきもの”とされている。私が不用意に晒すわけにはいかない。朝の巡回に来た侍女や衛兵たちが私を見たとき、何の違和感も抱かせないようにしなくては。
身支度を整え、寝室の扉を勢いよく開く。
すると、ちょうど廊下を巡回していた一人の侍女と鉢合わせた。
「おはようございます、女王陛下」
侍女は私の姿を認めると、恭しく頭を下げる。
「少し早いお目覚めですね。何かご用でしょうか?」
私は息を整える間も惜しみ、焦燥を滲ませた声で尋ねた。
「……王配殿下はどこ?」
「王配殿下、でございますか?」
侍女は瞬きし、少し考え込むようにしてから口を開いた。
「先ほど、庭の一角で素振りをなさっていると伺いました。毎朝の日課だとおっしゃっていたとか。さすがは“救世の騎士”と衛兵たちがしきりに感心しておりましたよ」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥にあった強張りがふっとほどけた。
――ああ、そうだ。ヴィルは、そういう人だった。
どんな場所に滞在していても、朝の光を浴びながら素振りをして体のキレを確かめる。旅をしていた頃も、彼の一日は必ず剣を握ることから始まっていた。それを見ていた私は、彼に倣って朝の素振りを繰り返したものだ。
姿形は変わってしまっても、その習慣だけは変わらないのだと思うと、不思議と愛おしさがこみ上げる。
「そう……ありがとう。助かったわ」
“陛下”の音が喉に引っかかり、名前だけがやっと肺を通る。
「ねえ、お願いがあるの」
「はい、何なりと」
侍女は恭しく頭を下げる。私は少し迷ったあと、意を決して言葉を継いだ。
「あの……私のこと、“女王陛下”って呼ぶのは、わかるんだけど……もう少し、砕けた呼び方をしてもらえないかしら?」
「……お名前で、ということでしょうか?」
侍女は戸惑いの色を滲ませる。
「ええ。やっぱりまだ慣れないの。急に偉そうな呼び方をされても、我が事のようには思えなくて……。だから、普通に名前で呼んでくれたら、その方が気が楽なんだけど」
そう言うと、侍女はほんの少しだけ口元を引き結び、慎重に言葉を選びながら返した。
「それでは……僭越ながら、“メービス様”とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「……メ、メービスですって?」
鼓膜の奥で音が遠のき、足裏の石の冷えだけが残る。
 




