祝祭の聖剣が結ぶ、偽りの女王と王配
王宮の奥へ案内される回廊は、先ほどの祝祭の熱とは打って変わって、薄闇と静謐が澱のように漂っていた。金糸で縁取られた壁掛けは灯の揺れにわずかに息づき、脇に並ぶ石像は冷たい皮膚で空気を締める。香炉から立ちのぼる樹脂の香りが薄く流れ、声は綿の向こうへ沈み、靴音だけが自分たちのものとして石床に返ってきた。侍従の先導に従い、護衛の騎士に遠巻きに囲まれながら、誰とも目を合わさず進む。
「……」
見た限り、騎士たちの制服はリーディス王家のものと同じ。やはりここは王宮で間違いない。ただ、これが過去なのか未来なのか、それとも極めて近似の並行世界なのか――その一点だけが、喉の奥に小骨のように引っかかったままだ。
「あれだけの人たちが当然のように受け入れていたってことは、本当に“女王と王配である”と認識されているのね。つまり、ふうふ……」
舌がもつれ、言い切れない熱が喉の内側にじかに触れる。
「ああ。常識的に王配ってのは“女王の伴侶”を示すからな……」
「……それ以外ありえるわけないよね」
「だが……元の場所に戻るまでの間は、俺はこの立場を受け止めるしかないと考えている」
こんな状況でも彼は冷静だった。私は意を決して頷く。頷くたび胸骨の裏で心臓がばくばくと跳ね、平静に置いた表情の下で、指先だけが汗ばむ。
「そ、そうだよね。それまでは、このおかしな世界のルールに合わせるしかない。私たちが変に否定して、立場を失ったら、話すらしてもらえなくなりそうだし……」
あの壮麗な儀式は、たしかに結婚式のようでもあった。思い出すだけで、胸の内側が熱をもって呼吸の幅が狭くなる。
ヴィルが急に足を止め、私の腕をそっと引いた。掌の熱が衣の布越しに伝わり、私は振り返る。
「大丈夫か? 辛いなら我慢するな」
「……なんだか、あれだけ大勢の前で“女王”だなんて言われたら、どう振る舞えばいいのかわからなくて」
吐き出してみれば、言葉は自分でも驚くほど小さかった。彼はやや照れくさそうに視線を伏せ、肩をすくめる。
「俺だって、いきなり女王の伴侶とか言われても、どう対処すればいいやら頭が追いつかん。ただ、一つだけわかるのは……今の俺たちは、もう結婚していると見なされている、ということだ。まあ、俺たちからすれば、“はた迷惑な話”だが」
薄い紙が胸の奥でふっと裂けるみたいに痛む。言葉は正しいのに、どこかで自分が否定された気がして、歩幅が少しだけ乱れた。
「そ、そう。迷惑だよね……こんなの」
鼓動の高鳴りは収まらず、私はむりやり前へ歩調を戻す。回廊の冷気が頬に触れ、火照りだけが残る。
「ええ……でも、あなたが隣にいてくれると思うと、ちょっと心強いところもあるの。たとえ姿も声も、元のあなたと全然違うとしてもね……」
「そ、そうか。ミツルがそう言ってくれるなら、俺も気が楽だ。ただ……夫婦っていうのは、どうしたって緊張するもんだ……」
「うん、私も落ち着かない。でも、ここで取り乱しても仕方ないわ」
「よし、落ち着こう。ここでそわそわしてても意味がないし、俺もお前を守らなきゃならない。その点で言えば王配という立場も悪くはないだろう」
「ありがとう、ヴィル。……それにしても、なんだか不思議ね……」
互いに深く息を入れる。吸った空気に香の甘さが混ざり、吐く息はわずかに震えた。
――夫婦、か。
語の重さが想像のほうを先に走らせる。思考の端で勝手に映像が立ち上がり、頬の内側が熱を帯びる。正面を見るのが難しくなって、視線を床の目地に落とした。
「どうやら受け止めるしかないみたい。でも……」
「うん」
「その……」
「どうした? まだ気がかりなことでもあるか?」
「ううん……なんでも」
声が枯れて、言葉の端がほどける。彼は小さく笑う気配を見せた。
「お前の言いたいことはわかっているつもりだ。だが、そこまで飛躍しなくてもいいだろう。あくまで“仮”の夫婦なんだから、そこまで状況に流される必要はない。しっかり自分を持て」
「……でも、普通に考えたら、“女王”と“王配”なら、世継ぎをもうけるのが当然だろうし、周りからそういう期待を持たれるのは当然でしょ? 考えただけで、もう……」
「うーむ……すぐにどうこうってしろって話にはならないだろうさ」
「そうね……」
「心配するな。旅をしてた頃だって、寒さをしのぐのに毛布を分け合ったり、同じ部屋で一緒に寝泊まりしていたことだってあったろう? だから問題はない。気にするな」
「そうだね。思い出した。あのときはほんとに助かったし、あったかかった」
「だろう? それと同じさ」
「でも、それと今じゃ状況が違いすぎるだけに、いつまでそんな感じでいられるのかしら?」
「どうなろうと、俺はいつだってお前の味方だ。嫌なら俺が全部跳ね返してやるさ」
「ありがとう、ヴィル。……そわそわするのは止められないけど、少し安心したわ」
囁き合う声は、秘密を分け合う恋人のそれに似ていた。遠くで扉の蝶番が鳴り、回廊を抜ける風がひやりと足首を撫でる。
侍従の先導で新たな扉が押し開かれ、柔らかな灯りが金の縁飾りをゆっくり撫でた。天蓋の大きなベッド、紫の絨毯に金の装飾のソファ、花を活けたガラスの壺――贅を尽くした“夫婦の居室”。
「女王陛下、そして王配殿下。 とり急ぎ用意いたしましたお部屋ですので恐縮ではございますが、今宵はゆるりとお過ごしくださりますよう……」
侍従は恭しく礼し、扉をゆっくり引いた。錠前の金具が触れ合う澄んだ音だけを残し、廊下の気配が遠のく。寝具に染みたリネンの匂いと蜜蝋の灯の温度が、部屋の空気を静かに満たしていく。残ったのは、ふたりきりの私たち。
「……ああ、やはり一緒の部屋なんだ……」
「……まあ、こうなるよな。 ここで別々の部屋を寄こせだなんて要求すれば、変な疑いを招くかもしれない。 どうする?」
「そんなこと聞かれても……」
「まあ、大丈夫だ。お前が無理をする必要はない。俺はソファや床で寝る」
「……う、うん。助かる。でもいいの?」
「野宿に慣れた俺には、この絨毯なんざ楽園みたいなものだ。カテリーナの家でも酒蔵に突っ込まれた俺だぞ?」
「そういえばそうだったわね」
思い出し笑いがこぼれ、肩の力が少し抜ける。偽りの夫婦という設定の縁が、湯気のように和らいだ。テーブルには水気の薄い果実菓子と小ぶりのグラス、窓辺には淡い幕。灯りは低く抑えられ、蜜蝋の炎が絵付けの皿にやわらかな陰影を落としている。
私はソファの縁に腰を下ろし、毛足の柔らかさが膝裏に沈むのを受け止めながら、小さく息を吐く。祝祭の余韻は耳の奥でまだ細かく泡立ち、鼓動と混ざり合って落ち着かない。ヴィルは正面の椅子に腰を下ろし、鞘に納めた聖剣をそっと脇へ立てかけた。革の匂いと金具の冷えが空気に混じり、視線は自然とその刃へ吸い寄せられる。
胸の奥がざわつく――この剣が、私たちをここへ連れてきたのだろうか。窓の外を擦る夜風が一度だけ高くなり、薄絹の幕が頬を撫でた気がした。
「ねえ、ヴィル……。今のうちに、わかることだけ確かめておかない?」
「そうだな。 こうやって落ち着いて話せるのは今くらいかもしれないし。何より、これから俺たちがどう動くか決めておかないと」
「それで……やっぱり、ここでは夫婦として振る舞うのがベストってことよね。私が女王、あなたが王配。周囲の人からすれば、ちゃんと仲睦まじくしているように見えないといけない、ってことかも」
「そういうことだ。変に距離があれば疑われるし、それでは情報を得にくくなる」
「……うん。偽りの夫婦だってバレるのも困る。 でも、中身は私とあなた。以前通りにしていればそんなに難しくないんじゃないかしら?」
「そういうものか?」
「そうよ。むしろ演じやすい部類かもしれないわね……」
薄い笑みがふたりのあいだにふわりと浮かぶ。旅をともにした頃と同じ――命を預け合った安心は、姿が変わっても確かな温度を持っていた。
「ただ、夫婦っていう響きが……やっぱり気恥ずかしいのは否めないわ……」
「それは、まあ俺も同じさ。姿は違えど、俺は俺だ。お前のほうが……どう思っているか気になるが……」
「……嫌とかじゃないけど、まさかこんなに成長した身体の中にいるなんてびっくりよ……」
言い置いてから、耳の裏がじんわり熱を帯びる。鏡を見る勇気が出ず、指先でスカートの縁をそっとつまんだ。
やがて私は姿見の前へ歩み、鏡をのぞき込む。息が止まる。たしかに“わたし”が映っている。頭に載せた緑の髪は漆黒を隠すためのウィッグ。支えのクリップとピンを外すと、カチリ、カチリと小さな音が室内に跳ねた。端を持ち上げると、隠されていた黒髪が肩から背へとほどけ落ちる。空気がわずかに揺れ、胸の重しがほんの少しだけ軽くなる。仮初めの鎖を外したみたいに。
艶やかな長い黒髪は絹糸のようにしなやかで、白磁の肌の上で静かに光る。翡翠色の瞳は長い睫毛に縁取られ、瞬きのたびに奥底の輝きをのぞかせた。唇は柔らかな光沢を含み、花弁の儚さをまとっている――名匠の人形めいた繊細さ。
けれど、そこにいるのは十二歳の私ではない。年の頃は十八ほど。形よく整った胸、しなやかに引き締まった腰、すらりとした四肢。しとやかさと清新さを同時に帯びた姿に、私は自分で息をのむ。鏡の前に立つ私は、もう幼い私ではないのだ、と薄い戸惑いとともに受け入れはじめる。
「これ、ほんとうにわたしなの……?」
頬が熱を帯び、両手でそっと覆った。
『あなたはまるで私の鏡写しね』
母の言葉が脳裏をかすめ、苦笑が漏れる。冷静さが一枚、戻ってくる。
巫女の系譜――デルワーズに端を発する因子。リーディス王家に“黒髪と緑の瞳”の姫が生まれるたび、厄災の前兆と恐れられてきた来歴。私も、母も、伝説に語られるメービス王女も。
――もしかして、これって……。
考えは喉元まで上がるが、今は飲み込む。ここが過去か未来か、別世界かすら定かでない今、言葉にしてはならない。
「ねぇ、ヴィル。今の私の姿を見てどう思うかしら?」
「いや……まあ、言うまでもない」
「ちゃんと言って?」
「きれいに決まっているだろうが。“いまさら”面倒くさいことを言わせるな。まったく……」
落ち着ききらない声に、胸の鼓動がやさしく揺れる。かつての“いい女”という冗談めいた言葉が、少しだけ現実味を帯びる。
そのとき、廊下から控えめなノック。私たちは同時に言葉を切った。私は反射的に黒髪を指に絡ませ、肩の後ろへ払う。ヴィルが視線だけで首を横に振り、扉を“開けない”合図を寄こす。
「失礼いたします。女王陛下、そして王配殿下。何かご入用はございませんか?」
扉越しの押し殺した女の声。取っ手は動かない。こちらを気遣い、覗かぬ作法だと悟る。
「ありがとう。今は大丈夫です」
ヴィルが短く応じる。小さな間ののち、柔らかな返礼。
「御用があればお呼び付けくださいませ。今宵はごゆるりと……」
足音が遠ざかった。張っていた息がゆるみ、私は黒髪を背に流し直す。
「……本当に、周囲は当たり前のように夫婦として受け入れてるんだね」
息がひとつ浅く跳ね、頬の内側にわずかな熱が灯る。
「こっちがあたふたしているのを、おかしいなんて思ってないのかもしれないみたいな。逆に言えば、不自然さなど、まるで感じていないってことだ。向こうにしてみれば、こうなるのも“当然”のことなんだろう」
壁の金糸が淡く光り、静けさだけがこちらの戸惑いを包み隠す。
「この部屋にしても『慌てて用意しました』といった感じなことを言っていたし、女王と王配とか、さっきの儀式っていうのは、彼にとって降って湧いたみたいな事態なのかもね」
式典の外見は整っていても、どこか急ごしらえの張りぼての匂いがする。誰かの不在を埋めるための儀礼――そんな嫌な予感が、胸の奥に薄い影を落とした。さきほどの侍女の声色が耳の奥で反響し、指先は無意識にスカートの縁を摘んでいる。
「なら好都合だ」
視線が合う。思わず小さく笑った。事実を口にした途端、胸の奥がきゅっと締まり、ときめきに近い痛みが走る。耳の裏があたたかくなり、私は正面のまま静かに呼吸を調える。
「けど、あなたが隣にいてくれてよかった。私一人だったら気が狂っていたかも」
「俺も同じだ。お前がいてくれて助かる。戸惑うばかりだが、今は二人で補い合うしかないんだろうな」
「……そうね。何があっても、元の場所へ帰るって決めたんだものね」
“偽りの夫婦”という立場をいったん受け入れ、互いの瞳を見つめ合う。不安と緊張は残るが、一人ではないという実感のほうが、確かに重かった。
今宵をどう過ごすのか、見通しは立たない。同じ寝床を使うことになったら――その想像だけで胸が焼け、眠りを遠ざける。妄想を胸の奥に閉じこめ、ほてりを抑えるように唇を噛んだ。
「……ヴィル。話はあとでゆっくりしよう。きょうはいろいろなことがありすぎて、頭がぐちゃぐちゃ……。少しは休まないと」
「そうしたほうがいい。明日になれば、ここの人たちに改めて話を聞けるだろうし、まずは俺たちの名前を知らないとな」
「そう、それなのよ。女王陛下とか形式ばかりで、名前で呼んでもらえないのが問題。さっきの侍女に訊けばよかったわ」
「今さらなぜそんなことを? と、妙に思われるかもしれないが……」
「そんなの気にしてられないでしょう。どうとでもなるわよ」
言い合って、同じタイミングで息が抜けた。いつかこの騒動を笑って振り返れる日が来るなら――同じ小さな願いを胸の奥にしまい、室内の灯がやわらかく揺れる微かな音を、しばらく聞いていた。




