ふたつの聖剣と迷いの庭
風が、音のない海を渡ってくる。まぶたの裏で光が何度も形を変え、金でも銀でもない、幼い日の昼寝に差し込んだ日差しのような温度で頬を撫でた。
胸の奥で、小さな鈴が一度だけ鳴る。耳ではなく身体の内側に、水の匂いと花の粉が薄く満ちていく。
誰かが、低くやわらかな声で名を呼んだ気がした。
名は霞んで、温度と指先の記憶だけが残る。息を吸うたび、遠い潮と乾いた石の冷えが肺の内面を洗い、意識の縁がゆっくりと明るむ。
まぶたを開けたとき、穏やかな風の匂いが肌の上に落ちた。
いつの間にこんな場所へ……? 混乱のまま、眼下の光景へ息を呑む。
そこは王宮の中央庭園。鮮やかな草花が幾層にも重なり、花弁は陽に透けて細かな光を散らす。風が通るたび香りが入れ替わり、噴水の水音が石肌を細かく叩き、飛沫は微かな光を帯びて空へ散った。
足元の白亜のテラスは端正なタイル模様で、磨かれた目地に薄い陽がさざ波のように走る。欄干の大理石には昼の熱が残り、掌に触れれば芯だけがひんやり返ってくる。
横手の回廊は弧を描き、緞帳の陰から落ちる影が、薄い帯になって斜めに伸びていた。
あそこは、“聖剣の選定の儀式”が執り行われた庭園。王侯と重臣、群衆の前で、たった一人の乱入劇を演じた場所。
なのに、なぜいまここに……? さっきまで私はヴィルの治療のため離宮の一室にいたはず。
あの激痛の記憶は生々しいのに、身を動かすと痛みはどこにもない。脈だけが速い。“あとで”が薄れていく――だめだ、戻らなきゃ。ヴィルが待っている。
テラスの縁に寄ると、下の広場には大勢の民が集まり、陽光に目を細めて歓声を上げているのが見えた。
白い欄干には花飾りが連なり、紙吹雪が風に千切れて石畳に舞い降りる。音楽は空気より先に胸の内側から立ち上がるようで、現実の重さだけが頼りない。遠くで金管が跳ね、打楽の拍が胸の奥で小さく反響した。
周囲には、私のほかにも礼装の王族や貴族らしき人々がきらびやかに並んでいた。女性のドレスは絹の表面に薄い霧のような光を宿し、香油と花の匂いが裾の揺れに合わせてかすかに漂う。男性は光沢のある礼服や軍服で、肩章の金糸が細い日差しに小さく火花を散らす。ざわめきひと粒ずつに体温があり、今日が特別な行事だと肌が告げてくる。
目を凝らすほどに眩さが増し、私は思わず息をのんだ。飲み込んだ息の温度と石の冷たさだけが確かで、足裏から現実へ引き戻される。
そのとき、視界の端に白い礼服の青年が映った。赤いマント、肩の金糸のエンブレム。陽を弾く白が真昼の光に堅く立ち、将校の端正さと貴公子の威厳を併せ持って前を見据えている。
銀色の髪は光を返して細かく輝き、彫りの整った横顔には冷静さと研がれた決意の光。美しい――なのに懐かしさが滲み、胸の奥が小さく波立つ。
青年はふいにこちらへ視線を上げ、驚いたように目を見開いた。まばたきを数度、硬直した視線が私に定まる。戸惑いと、信じられない衝撃。足場の石が一瞬だけ浮いたように感じ、私は深く息を吸う。
「まさかとは思うが……お前、ミツルなのか?」
耳を叩いたその声に、胸はどくんと跳ねた。聞き覚えのない声なのに、心臓がざわつく。ここに知り合いなどいるはずがないのに――どうして私の名を。喉が乾き、舌が張りつく。
「あなたは……どなた? もしかして、私のことをご存知……なのですか。たしかに私の名前は、ミツル・グロンダイル、ですけど……」
名乗った響きが他人事のように遠い。離宮での激痛と焦燥――“ヴィルを助けなきゃ”という想いが胸に張りついているのに、祝祭の匂いがそれを薄めていくのが怖い。
不安を言葉にするより早く、青年の大きな手が私の肩をぐいと掴み、乱暴なほどの力で引き寄せた。布越しに伝わる掌の熱、肩口の縫い目が肌に食い込む生々しさ。
「ミツルだと……? 本当にお前なのか……?」
肩にじんと痛みが走り、息が詰まる。
見上げた瞳は薄氷を渡るように不安定で、唇が微かに震えていた。何をそんなに怯えているのだろう。鼓動は、どちらのものか判然としない。
「ちょ、ちょっと痛いです……離してください……」
やっと絞った声。青年ははっとして手を緩めるが、距離は戻さない。指先の熱が石の冷えと混ざり、落ち着く場所を失う。
「いや、そんなはずがない。やっぱりお前はミツルじゃない。……確かによく似てはいるが……」
言いかけて唇を噛む。小さく震える様子が痛々しく、胸がさらに締めつけられる。沈黙が落ち、風の香りばかりが濃くなった。
「にて、いる……?」
自分のものではないみたいな声が落ち、戸惑いが増幅する。
「その緑色の髪……偽装目的で作らせたかつらだってことはわかる。その緑の瞳も顔貌も、声だってミツルで間違いない。間違いないって思うんだが……」
「えっ?」
「そもそも背丈が違いすぎる。身体つきだってまるで違う。こいつはどうなってんだ」
「からだ、つき……?」
視線が私の体をなぞる気配に、恥ずかしさと焦りがせり上がる。頬が熱を帯び、手のひらに汗が滲む。視線の高さ――テラスのせいだと言い聞かせても、胸の奥では別の答えが疼く。
さっき肩を揺さぶられたとき、胸元の布が引っかかる妙な感触があった。いつもの動きやすい服とは違う生地の重さ。
確かめるのが怖いのに、震える指先が胸元へ上がる。
厚手の布の下、丸みはいつもより豊かで、やわらかい。指先が沈む。耳の奥で鼓動が跳ね、噴水の光が視界の端でばちんと弾けた。
――ばかな。こんなはず、ない。
喉が乾き、呼吸がひゅっと引っかかる。数年分の時が、一瞬で飛び越えられたみたい。信じたくないのに、欄干の影に揺れる水面が、大人びた輪郭を返して私を嘲る。
遠くの歓声と楽の音は途切れず、風は花の粉をさらってテラスの石を撫でる。
私はきらびやかな世界の片隅で立ちすくみ、どこかに出入り口があるなら今すぐ逃げ出したいのに、足は凍りついたみたいに動かない。
青年の視線は切なく、懐かしさとも違う強い何かで満ちている。こちらの混乱など構わず、彼自身の動揺にも絡め取られているのがわかった。
私は私で、言葉の形を失った焦燥に呑まれ、問いを組み立てることもできない。“戻らなきゃ”という細い糸だけが、脈に合わせてかすかに光る。
風がふわりと抜け、花々が一斉に香り立つ。澄んだ匂いが、わずかに呼吸を整える。胸の内に張りついていた混沌が一枚はがれ、足の裏でタイルの目地をそっと踏みしめる。
青年の唇がひくりと震えた。言葉が落ちる前触れ。
私は祈るように視線を上げる。胸の鼓動は抑えられず、近くの花鉢の縁が異国の彩りのようにたゆたう。まぶたの裏では、ヴィルが苦しげに倒れ込んだ場面が閃光のように反復する。
――どうか、早く、何か言って。でないと、私このままじゃ……。
祝祭の喧噪は続き、夢と現の薄膜はまだ破れない。石の冷たさだけが確かで、私はそこに爪先を立てるみたいに踏みとどまっていた。
――りん。――
胸の奥の小さな鈴は、さっきよりほんの少しだけ、現実の重みを帯びて鳴っている気がした。
第七章 登場キャラクター紹介(ネタバレなし
美鶴
物語の主人公。ある出来事をきっかけに、見知らぬ場所で見知らぬ身体(メービスと呼ばれる人物のもの)で目覚めることになる 。本来の自分の世界へ帰る方法を探している 。強い意志を持つが、予期せぬ状況に戸惑い、葛藤することも多い 。
ヴィル
ミツルと共に異変に巻き込まれた、屈強な剣士 。彼もまた、見知らぬ青年(ヴォルフと呼ばれる人物)の身体に入ってしまう 。元の姿とは異なるが、ミツルを守ろうとする意志は変わらない 。冷静沈着に見えるが、内に熱い想いを秘めている 。
先代王オリヴィエ
リーディス王国の先代の王であり、ミツルが入った身体の人物の父親 。病に伏せっており、離宮で静養している 。娘であるミツル(メービス)の身を深く案じている 。
宰相 クレイグ・アレムウェル
リーディス王国の宰相 。国の実務を取り仕切る中心人物の一人 。冷静沈着で、感情を表に出さない策略家としての一面を持つ 。
ステファン・ギヨーム
リーディス王国の実直な騎士 。騎士団の中でも実力派として知られる 。ヴィル(ヴォルフ)に対して、複雑な感情を抱いている様子が見受けられる 。
茉凛
ミツルの持つ白い剣「マウザーグレイル」に宿る、明るくミツルを支える存在 。ミツルにとってはかけがえのない相棒であり、精神的な支柱 。第七章の時点では、剣を通じてミツルと対話することができない状態にある 。




