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甘やかな戸惑いを抱いて

 扉をノックすると、硬質な音が廊下の石床へ反響し、やがて薄れていく。取っ手の真鍮は朝の冷えを抱いたまま、掌に薄く沁みた。静寂が戻るとほぼ同時に、中から低く柔らかな声が聞こえる。


「どうぞ」


 その声を合図に、私はゆっくり扉を押し開け、部屋の中へ足を踏み入れた。


 彼にあてがわれた居室は華美さこそないが、落ち着いた調度と質の良いカーペットが整い、窓辺には朝の光がぼんやり差し込んでいる。緩やかに揺れるカーテンの隙間から、新鮮な外気がかすかに流れ込んだ。


 淡い光の筋が部屋の奥を照らし、自然とヴィルへ視線が吸い寄せられる。白いシャツのボタンは半分ほど。立ち上がる途中なのか片腕だけ袖に通し、背筋を伸ばしていた。胸元のわずかな隙間から鍛えられた肌がのぞき、涼やかな朝なのに、薄い汗がまだ名残を留めている。


 窓からの光は鋭さよりも柔らかさを帯び、肩口や首筋を穏やかになぞる。角度が変わるたび鎖骨の線が淡く浮き、些細な変化にさえ胸が不意に跳ねた。


 じっと見つめてしまったせいか、ヴィルがこちらへ顎を向ける。少し乱れた前髪の隙間から、鋭い瞳がのぞいた。


「んん、どうした?」


 抑揚の少ない声に、寝起きのけだるさがかすかに混じる。視線が宙をさまよい、心が落ち着かなくなる。袖を引き上げる無造作な仕草だけなのに、目のやり場が難しい。


――別に、上半身丸出しってわけじゃないのに。


 さりげない色気という細い刃先が、意識の薄皮をそっと突く。旅先で見慣れた体格のはずが、離宮の部屋で改まった空気をまとって見ると、胸の奥が妙にざわついた。


 私は慌てて視線を床に落とし、ぎこちなく口を開く。


「な、なんでもない。ちょっと寝起きに悪かったかなって、思っただけ……」


 言い訳めいた声は自分でもわかるほど上ずる。カーペットが足裏でやわらかく沈み、足音をそっと吸った。室温はちょうど良いのに、頬だけが火照っている。


 ヴィルは不審げに首をかしげつつ、ちらりと私のドレスに目をやる。今朝は久しぶりに、ミース仕立ての白いドレス。腰下に軽いフリルが入り、動くたびにそよぐ。


「そのドレス、懐かしいな。最近あまり着ていなかっただろう」


「あ、うん。ここに来てからは、そんな機会もなかったし。気分転換というか、たまにはいいかなって思って……変じゃない?」


 理由を並べ立てながら、扉際で立ち尽くす。カーテンの隙間からの光が柔らかな布を透かし、小さな影が床に落ちた。


 ヴィルはボタンを留める手を一瞬止め、軽く鼻を鳴らす。


「いや、似合ってるぞ。貴族のお嬢様が好むような豪華すぎるドレスより、そっちのほうがずっとお前らしい。……うん、やっぱりいい」


 落ち着いた低い声が静寂を溶かし、耳にやさしく届く。素直な称賛が胸に沁みるいっぽうで、照れが頬の内側をくすぐった。視線を合わせると、彼はわずかに目線を伏せ、照れ隠しのように短く息をつく。


――私らしい、か。


 軽口ではない実感がある。妙に意識してしまい、ドレスの胸元へそっと手を添えると、小さな笑みがこぼれた。


「そ、そう? ……ありがとう。あ、ところで、体調のほうは大丈夫? 昨日はまだ少し辛そうだったけど」


 慌てて話題を変える。直視すれば鼓動が早まりそうで、視線を窓辺へ逃がした。


 かすかな風が部屋を巡り、汗の匂いが鼻先をかすめる。荒野の強い塩気とは違う、温かみのある残り香が呼吸に混ざり、胸の奥へじんわり染みていく。


 息を詰めたいのに、むしろ呼吸は深くなる。胸の内側がじわり熱を帯び、襟元がかすかに軋む気がした。


 視線を合わせるたび、まぶたの動きや細い息遣いまで伝わり、意識が過敏に冴える。肌に残る熱の名残がまとわりつき、逃げ場がない――その感覚が、心地よさと戸惑いを同時に呼ぶ。


 ヴィルが少し表情をほころばせ、苦笑した。


「お前のほうこそ、あまり眠れてないんじゃないのか? 夜遅くまで付き添ってくれてたって聞いたぞ」


 低い声は耳にやわらかい。先ほどの色気とは別の、彼らしい温度が言葉の端に滲む。倒れていたのは彼なのに、こうして心配してくれる――不器用で、あたたかい。


「私は大丈夫。リディアがきちんと休むよう促してくれたし、以前の慌ただしい旅に比べれば大したことじゃないわ。……ヴィルこそ、まだ無理しちゃだめよ?」


 視線を戻すと、ちょうど最後のボタンが留まるところだった。さっきまで見えていた輪郭が布に隠れ、胸裏にわずかな物足りなさが残る。


 だが同時に、袖口を正して立ち上がった姿は、騎士の誇りを携えたいつもの彼に戻っていた。腕を軽く回し、肩を鳴らし、「ふん」と鼻を鳴らす。


「本当なら、もう動き出せると思うんだがな。お前やリディアに怒られるから、とりあえず大人しくしてるだけだ」


 素っ気ない物言いの裏で、視線をわずかにそらし、袖を直す横顔に照れが差す。


「昼には王立侍医司から侍医が来てくれるけど、その前にもう一度、共振解析をするわ。そういうわけで、ちゃんと診てもらって問題ないって分かるまで勝手は許しません」


「ほう、手厳しいな」


「そうよ。私は甘くないの、特にあなたにはね」


「ずいぶんと言うようになった。……まあ、それも悪くない」


 軽口が行き来し、張り詰めていた糸が緩む。


 扉を開けようとする者はいない。二人きりで向き合えるのは、リディアが皆へ指示してくれているからだ。


 小さな沈黙が落ちる。汗の名残と石壁の冷ややかさに、彼の体温が混ざる――そんなものまで感じ取れるほど、空気は澄んでいる。


「……ヴィル、ほんとに平気?」


 改めて問うと、彼はやや反発めいた照れを呑み込み、短く鼻を鳴らした。


「平気さ。お前にそんな顔をされると、こっちが恐縮する」


「私がどんな顔してるっていうの?」


「……ああ、優しすぎるというか、なんだか甘ったるい表情だな。悪い気はしないが、なんだか調子が狂う」


 本音の端に触れて、私は一瞬言葉を失う。慌てて目を伏せると、心拍がやけに大きく響いた。背筋を伸ばしても、視界の端で彼の存在がちらついて離れない。


「だ、誰が甘ったるい顔を……」


 反論しかけて言葉を濁す。無遠慮な物言いに呆れつつ、胸の奥にはくすぐったさが残る。脳裏では“はだけた胸元”がしつこく反芻され、動揺の度合いに自分で苦笑した。


「そっちこそ、シャツのボタンぐらいさっさと全部留めればいいのに。……人が入ってきたら困るでしょ」


「お前だから気が緩んでいただけさ。ほら、もう留めた。……そう慌てるな」


 わざとらしく両手を開き、きちんと留められたシャツを示す。視線の置き場がなく、私は曖昧な笑みを作る。


 窓の外から、一羽の鳥が細やかにさえずった。曇り空のどこかに切れ目ができたのか、一条の光がカーテンをすり抜け、ヴィルの肩をかすめた。


 足元で白い裾がかすかに白く反射し、花びらが揺れたように見えた。久しぶりのドレスは少し窮屈でも、気分を変えるには十分だ。


「……もう、あんまり無茶しないでよ?」


 念を押す。軽口がうれしい反面、強がりが危ういときもある。心配は消えない。


「まったく、お前はいつからそんなにぐいぐいくるようになったんだ? 前はもっと遠慮がちだったろうに」


「……私だって少しは成長してるの。いろいろ経験して、失敗もたくさんして、その度に助けられてきたから……。だから、今度は私があなたを支えたいの」


 最後に声が少し震え、俯く。返事を待つあいだ、心臓は早鐘のまま。外は慌ただしくなりつつあるのに、この部屋だけが取り残されたように静かだ。


 ヴィルは一拍置いて息を吐き、目を伏せる。それから顔を上げ、口元にわずかな笑みを湛えた。


「そうか。……お前にそこまで言われてはな。まあ、頼りにしている。せいぜい俺の足を引っ張らない程度に、支えてくれ」


 皮肉まじりでも、声色は確かにやさしい。私も表情を緩め、静かに笑みを返す。


「ええ、もちろん。万が一倒れでもしたら、その時は全部私の指示に従ってもらうから、覚悟してね」


「はは、怖いな……。その細腕でどこまで俺を運んでくれるか、見ものだ」


「そんなの、場裏・白を使えば簡単なことよ。風嵐のトルネード・バインドで引っ掻き回して、ひょいって投げてあげるわ」


「おい、俺を魔獣扱いするつもりか?」


「ふふ」


 言い合いながら、間に柔らかな時間が流れる。朝の空気はまだ少し重たいのに、ここだけ穏やかだ。小さな笑い声が石壁に反響しては溶けていく。


 裾を揺らし、意識して距離をわずかに詰める。倒れたときの恐怖はまだ生々しい。それでもいまここで会話する彼が、ただうれしい。


「そういえば、昼には侍医がくるんだったな。何時ごろだ?」


「正午前後って言ってた。ヴィルはその前までにちゃんと休んで、少しでも体力を温存しておいてね。“共振解析”はその前にしましょう」


 根本原因を探らない限り、また何が起きるかわからない。だから早く手がかりを――。


「わかったわかった。……けど、あんまり休みすぎると、身体がなまりそうだ。日課の素振りくらいしておきたいところなんだが」


「勝手言わないの。もう一度倒れられたら私が困るんだから。……いい?」


 きっぱり言い切ってから、ハッと咳払い。強すぎたかもしれない。けれど、彼は意外なほど素直に頷いた。


「任せておけ。……お前に怒られるのはあんまり気分がいいもんじゃない」


 素っ気ない口ぶりでも、瞳にはかすかな痛みが宿る。私がどれほど不安だったか、彼なりにわかっているのだろう。


 部屋の隅の小机に、水差しとグラス。歩み寄って水温を確かめると、まだ少し冷たい。振り返ると、裾がふわり揺れ、布擦れがささやいた。


「そうそう、水は飲んだ? もし気分が悪かったらすぐ言ってね」


「ありがと。……ああ、そうだな、少しもらおうか」


 立ち上がりかけた彼へ「待って、私が注ぐから」と声を掛ける。彼は苦笑して腰を下ろし、注いだ水を一息に飲み干した。


「ふぅ……。うん、ありがたい。やっぱり少し喉が渇いていたみたいだ」


「ほらね。こういう細かいところからだって体調は戻るの。……何かあったらすぐ言うのよ? あと、しばらくお酒は禁止だからね。わかった?」


「はいはい。すっかり世話焼きになったな。どう変わればこうなるやら」


「少し前はわからないことだらけで、私も色々考えすぎていたの。……今だって考えすぎるけど、ヴィルを心配していいなら、少しは楽よ」


 自分で言いながら、頬に熱が上がる。


 外から人の声が近づいては遠ざかる。侍女たちが談笑しながら廊下を通ったのだろう。音が消えると、再び静寂。


 ヴィルは伸びをするように両腕を上げ、身体を反らせる。シャツの布が引き延ばされる音に、今朝の光景がよみがえる。


 扉を開けた瞬間の衝撃。どうしてこんなに胸が騒ぐのか、自分でもわからない。けれど、この動揺は嫌ではない。甘い痛みを伴う心地よさがある。


「どうした? ぼうっとして……」


「えっ、あ……ごめん。ちょっと考えごとをしてただけ」


「ふぅん。まあ、あんまり難しく考えすぎるな。お前はお前なりに動けばいい。俺も無理はしないようにするから……それでいいだろう?」


 柔らかな微笑。言葉の端に、照れとやさしさ。胸の固さがゆるむ。


 気配はゆるやかに流れ、裾がかすかに揺れた。長いフリルを軽く摘むと、布越しに彼へ向かう足取りまで確かになる。


 今朝は淡い光のなかで、少しの緊張と安堵を抱きしめて言葉を重ねる――それだけのことが、特別みたいに胸を弾ませる。


「……じゃあ、一度リディアに声をかけてくる。そろそろ朝食の時間でしょ? 食欲はある?」


 尋ねると、彼は照れ隠しのように顎を引き、胸元を軽く叩いた。


「ああ、腹は減ってる。やっぱり寝てばかりじゃ体がなまるし、かえって余計に腹が減るもんなんだろうな」


「わかった。じゃあ、無理しない程度にちゃんと食べましょう。食べられる時にしっかり栄養補給――これ、あなたの教えだったはず」


「へいへい、承知したよ、女王陛下」


「……もう。からかわないの」


 睨んでみせると、彼は肩をすくめて笑う。その仕草につられて、私も微笑んだ。苦しい時間のあとに、こうして笑い合えることが、ただ嬉しい。


 扉のほうへ数歩進む。朝の喧騒は遠のき、廊下から控えめな足音だけが届く。裾が揺れるたび、胸の奥がふわり熱を帯びた。


 扉へ手をかけたところで、そわそわと背にざわめきが走り、思わず立ち止まる。


 振り返ると、ヴィルがゆるい笑みでこちらを見る。朝の弱い光を受け、瞳には言葉にしがたい安心と照れが混じっていた。


「……なに?」


「いや、行くならさっさと行け」


 ぶっきらぼうな言葉に潜む微かな響きに、心臓がまた一段跳ねる。急かすようでいて、やさしい。


 扉をゆっくり引き開け、息を整える。外の冷たい空気が流れ込み、裾をふわり揺らした。


 廊下に一歩出ると、鼻先に朝の匂い。客室棟の広い廊下は石の壁がひんやりと静寂を保っている。


 扉越しに、まだ彼が見ている気配。振り返らず、短く答える。


「あとで、ね」


 小さく呟いて扉を閉じる。木の軋みが耳に残り、心拍はまだ高い。――わたしには彼がいる。それだけで、せり上がる熱を抑えがたい。


――たとえ彼が私をどう見ていようと、今はそれでいい。焦らない。


 一歩、また一歩。裾が柔らかく揺れ、心ごとさらわれる。息が詰まりそうなのに、その苦しさがどこか愛おしい。


 倒れ込んだ彼を支えたあの夜が、私たちの距離を少し近づけたのだろう。世界が急に鮮やかに広がって見える。


 曲がり角の先にリディアの姿。声をかけようと歩を速め、まだ落ち着かない鼓動を抱きしめる。


 このときめきが力になるのなら、受け止めればいい。彼の安否を気遣うだけでなく、私自身が強くなるためにも、この鼓動を育てていきたい。


 遠くでリディアが手を振る。軽く頷き返し、胸の奥でそっと呟く――早く、あなたに元気になってほしい。


 声にしなくても、きっと届く。薄曇りでも、朝の光はいずれ晴れる。祈るように扉を振り返る。彼がそこで待っている――ただそれだけで、どうしてこんなにも満たされるのだろう。


 薄暗い雲の合間から、一瞬だけ淡い陽が射す。思いに呼応するように、白い裾がきらり光を拾い、刹那だけ輝いた。


 雲が覆い直す前、そのかすかな光に背を押され、私は先へ歩みを進めた。


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