朧の光を分かち合う――病の騎士と私の物語
薄曇りの空から、わずかな日差しが離宮の静かな部屋へ差し込んでいる。白く整えられた寝台に横たわるヴィルの姿は、普段の騎士らしい凛とした雰囲気とはまるで違って見え、私の胸をじんわりと締めつけた。
外の空気は重たく湿り気を帯びていて、窓の向こうには雲がときおり淡く切れ間を見せながら、薄い光を投げかけていた。射し込む光はレースに鈍く絡み、空気は低く冷えて布の裏で滞っていた。その薄白の中で、ヴィルの輪郭がほのかに浮かぶ。
ごくりと息を飲み込む。寝台の脚がこくりと鳴り、静けさがまた降りた。
いつもならば、騎士団の紺色の制服をまとった彼の背中は頼もしさに満ちていて、そばにいるだけで心強いと感じさせてくれたはず。けれど今は、白い寝台に横たえられた彼がどこか華奢に見えるほど、その身体は疲弊しているように思えた。肋の内側がきしむ不安が、静かに体の芯へ満ちていく。
寝具の綿は夜気をまだ噛んでいて、指腹にひやりと噛みつく。
私は枕元に腰かけて、そっとヴィルの手に触れた。彼の瞳がうっすらと揺らぎ、しかしすぐにかすかな迷いを帯びた色に変わる。これまで私の前では絶対に弱さを見せなかった彼だけれど、長く一緒に過ごしてきたせいか、その瞳の奥に潜む不安が見え隠れしているのがわかる。
ごつごつとした手に指をそっと重ね、胸の奥で浅い息をひとつ整える。どれだけ重い苦しみを抱いていたのか。どれだけ痛みに耐えていたのか。そう考えるだけで、息が上ずりそうになる。
「リディアさんに頼んで、ここには誰も近寄らせないようにしてもらったわ。だから……人目は気にしないで、どうか今はしっかり休んでちょうだい」
湯と薬草――タイムとセージの匂いが静かに満ち、胸の硬いところが少しほどけた。
自分でもなるべく穏やかに聞こえるよう心がけたつもりだった。けれど、ヴィルの唇がふっと苦く歪むのを見て、みぞおちが固まる。
視線を落としたままの彼の横顔は、かつてどんな魔獣にも毅然と立ち向かっていった、“雷光”と呼ばれた男とは思えないほど弱々しく見える。私は、彼の苛立ちとも自嘲ともつかない表情に気づいてはいたけれど、その根底にあるのが何なのかを掴みかねていた。
「一度も病に伏したことがないというのが……俺のささやかな自慢だったのにな。こうもあっさり寝込むことになるとは、情けない」
喉の奥がきゅっと狭まる。安堵と可笑しさが同時にこみ上げ、笑いそうになる口元を慌てて指で押さえる。ほんの一拍、寝具がかさりと鳴った。
本当に強い人ほど、一度こうして身体を崩してしまうと、必要以上に自分を責めてしまうのかもしれない。私はそんな彼の内側にある脆さを思い浮かべ、胸にやるせない切なさが広がっていくのを抑えきれなかった。
だからこそ、私はあえて軽口を叩くことで、彼の胸に溜まった不甲斐なさを少しでも和らげたいと思った。
「そうは言うけど、ヴィル、あなただってもう四十を過ぎてるのよ? 若い頃のつもりで無理していたら痛い目を見るわ。もう少し自分を労わってあげないとね」
わざとからかうように言うと、彼は悔しそうに目を伏せる。いっそ、その強がりを今すぐ捨ててくれたなら、私だって少し楽に息ができるのに……。
「ふん、俺はそんなに軟じゃない。こんなものは一時的なものだ。少し休めば良くなるに決まってる」
力無い口調とは裏腹に、いまにも力を振り絞って起き上がろうとする気配が見え隠れして、私の胸は苦い思いでいっぱいになる。彼の意地が、強い意志が、いっそう痛々しく映って仕方なかった。
いつもはそんな彼の意地っ張りなところも、頼もしさの一部として私は見てきた。けれど今は、同じ頑固さが彼を追い詰めているように思える。だからこそ、はっきりと告げた。
喉の奥で小さな息が止まる。指先に力が入る。
「あなた……身体の調子がおかしいのを隠してたわよね?」
声を落ち着かせたつもりなのに、微かに震えが入り交じるのを自分でも感じる。私は何度も息を整え、心を静めようとした。けれど、浮かんでは消えない最悪の想像が、私をじりじりと蝕んでいく。
何より怖かったのは、彼が何も言わずに限界を超え、最悪の事態に陥ること。
茉凛の見立てでは、大脳基底核の活動が異常に亢進しているということ。これが何らかの器質的変化を及ぼした場合、最悪の症状としては、運動機能の障害や認知機能の低下も予想される。
剣士として腕一本で生きてきたプライドを持つ彼が、そんな恐ろしい状況に陥ったら――想像するだけで、背筋が凍る思いがする。
「な、何を言っている。そんなの知らんぞ」
一言で片付けようとするヴィル。けれど私の目からは、ほんの一瞬視線を伏せたその仕草が、明らかにごまかそうとしているように見えた。騎士としての立場で私を慮る気持ちがあるのだろう。だけど、私はもう彼のうわべの態度に騙されるつもりはなかった。
「ごまかさないで。最近ずっと、息が浅かったり、眉間に皺を寄せて頭痛を我慢してるような、そんな顔をしてた。私はいつだってあなたの近くにいるんだから、見逃すわけないじゃない。
……なのに、私はそれを王宮側からの圧力のせいで頭を悩ましているせいだって、勝手に思い込んでいた」
言葉にしながらも、胸が詰まる。もしもっと早く気づいてあげて、強く制止できていたら、彼はここまで苦しむことにはならなかったのではないか――そんな後悔が頭をよぎる。肋の内側がかすかに軋んだ。
ヴィルは言葉を探しているようだったけれど、ついにそれを見つけられなかったかのように、まぶたを伏せて硬い口調で答えた。
「……お前が辛い思いをしているっていうのに、不安を煽ってどうする。それに、これくらいたいしたことないって思ってたんだ」
ぽつりと落ちたその言葉は、聴いている私の胸を切なく締めつける。いつも強くあってくれる彼の姿が好きだった。剣を手にして、どんな脅威にも立ち向かう姿がとても頼もしくて、私はその大きな背中に救われてきた。
けれど、その強さが彼を追い詰め、ここまで苦しませていると思うと、いたたまれない。どんなに強靱な鎧をまとっていても、そこには肉体と心がある。どれほど頑丈な岩盤のような精神を備えていたとしても、限界というものは存在するのだ。
言葉を選ぶうちに、舌の奥が乾き、息が一拍浅くなる。
「たいしたことかどうかは、きちんと診察を受けてからでないとわからないでしょ? 我慢した挙げ句こんなことになって、私はそんなの少しも望んでない。あなたに何かあったら、どうしようって考えるだけで胸が苦しくなるの」
自分でも最後のほうは声がかすれてしまった。それでも、どうしても言わなければならない。
ヴィルは私の言葉を噛みしめるように、切なそうに眉をひそめる。目を伏せたまま、何かが苦いものを噛み砕いているような息をついた。肩がわずかに沈む。
そんな彼を前にして、私の胸は張り裂けそうになる。自分の弱さを決して見せようとしなかった人だからこそ、いま感じている挫折は私が思う以上に大きいはずだ。
「それに、あなたが急に騎士らしい態度を完璧に守り出したのは、私の状況を慮ってのことでしょう? 私に余計な心配をさせないように、自分を律していたのよね。……どれだけ自分に鞭打っていたの?」
問いかけながら、私は彼の顎を少しだけ持ち上げて視線を合わせる。その瞳にうっすら映るのは、弱さを見せたくないという意地と、今にも折れそうな苦しさ。そのどちらも、私には痛いほどに伝わってくる。
「人はそんなに器用に振る舞えるようなもんじゃない。何も、すべて完璧にこなす必要なんてない。あなたが無理をしてまで頑張らなくても、私は……大切なあなたを失いたくない。守りたいの」
最後はほとんど囁くような声になった。私自身も、背負い込みやすい性格だということは自覚している。けれどもし彼がすべてを抱え込んだまま、ひとりで倒れてしまったらと思うと、どうしようもない恐怖が私を支配する。
彼にとっては、そんな言葉すら重荷かもしれない。でも、口にしなければ何も伝わらないのだ。静まり返る離宮の部屋に、私たちの荒い息が溶け込んでいく。
ヴィルは目を伏せ、静かな息を吐く。寝具がわずかに擦れて鳴った。
でも、私の言葉は確実に彼の心へ届いたように感じる。長年、鍛えられた自制心に包まれている彼だけれど、その奥底には、きっと痛む気持ちが隠れているはずだ。
「……お前にそこまで言われるとは、思いもしなかった。大したもんだ」
「ヴィル……」
「いや、悪かった。ありがとうな、ミツル……」
掠れたような声が耳に届いたとき、私の胸は切なさと安堵が入り混じる不思議な感情でいっぱいになった。ヴィルがほんの少しだけでも弱音を吐いてくれたことが、こんなにも嬉しいなんて。
彼の大きな手は、いまだ熱を持ったまま私の指を包んでいる。以前なら感じなかった弱々しさが、そこにはある。それでも、その手のひらは過去に何度も私を守ってきた証でもあった。
「俺は、お前を護ると誓った。だが、善かれと思って先走ったせいで、お前の気持ちに気づく余裕などなかった。隠し事はしないって約束したのにな」
弱々しくも真摯な告白に、私は瞳を伏せたまま穏やかに首を振った。そんなことはない。彼はいつだって私を想ってくれていたのだろう。けれど、あまりにも想いが強すぎるがゆえに、自分が耐えきれなくなるまで無理を重ねてしまったのだ。
「ううん、そんなことはもういいの。私だって、逃げ場のない状況に置かれて八方塞がりだったから、どうしていいかわからなかった。ヴィルが心配するのは当然よ」
あのとき、私はIVGの解放に踏み込む可能性がもたらす、記憶層の揺らぎへの恐怖に震えていた。逃げたくない。でも前に進むのも怖い。そんな不安で叫びたい気持ちを必死に抑え込んでいた。
そこへ王宮からの圧力や、クロセスバーナの不気味な影、周辺諸国の思惑。私のキャパシティはもう限界だった。
そんな私の姿を見て、彼は自分にできることは何かと必死になっていたのだろう。
「すまん。もっとちゃんと話し合うべきだった。なのに突っ走ってしまう、悪い癖だ」
「そうね。そこがあなたのいけないところかも。一言いってくれればいいのに」
「面目ない」
なんとも言えない空気が二人のあいだを包み込む。けれど、不思議と苦しさよりも、どこか安堵が勝っているのがわかった。私も、彼も、お互いに抱えてきたものがどれほど大きかったかを、ほんの少しだけわかち合えた気がするからだ。
「でも、私も悪いの。ついつい何でも抱え込んじゃう悪い癖があって……いけないってわかってるのに」
「そうだな。お前は考え方が成熟しているわりに、そういうところはまだ未熟だ。だから心配になる」
「それは……悪かったわ」
そこで、なぜだか互いに笑みがこぼれてしまう。張り詰めていた空気が、少しだけ解けたのだ。
私とヴィルが、互いの未熟さや抱え込みすぎた苦しみを吐き出し合ったその静かな瞬間、離宮の部屋に漂う淡い空気をかき混ぜるかのように、マウザーグレイルのほうからかすかな振動を感じ取った。
まるで意識の水面に小石が落ちたときのように、脳裏をゆっくりと波紋が広がる――それは、剣に宿る茉凛の声だった。
声は、どこか遠慮がちに響いてくる。
《《……美鶴、いいところを邪魔して悪いけど、ちょっといいかな?》》
彼がようやく気持ちを吐露してくれた大事なひととき。茉凜もそれを察していてくれたようだ。
私はそっと目を伏せ彼女に答える。
「どうしたの、茉凛? 何か新しいデータでも得られた?」
そう問いかけると、私の思考の奥深くに、彼女の緊張を含んだ返事が波紋のように揺らめく。
《《……うん。間に合うよ、いまのうちに確かめれば大丈夫。だから少しだけ、次をさせてね。まず、医療棟では見られなかった脳の奥(基底核まわり)と、精霊子の響き方をもう一度。それから、変化がどこまで広がっているかと、負荷が命に触れる種類かどうか。最後に、二本の聖剣が同時に在る理由――ここも手がかりになるはず》》
「わかった。私も協力する。……でも、いまは彼を少しだけ休ませてあげたいの。ちょっと頑張りすぎてたから、ね」
私の躊躇を感じ取ったのか、茉凛は優しい声色にトーンを落として返してくる。
《《うん、無理に起こしてまでやるつもりはないよ。いまは彼のことを最優先にして。落ち着いたら検査したい、って伝えてくれる?》》
その言葉に私はホッと安堵の息を吐く。枕元の小さな帳面を引き寄せ、片隅に“検査”とだけ細く記した。
ヴィルは私の顔を見上げている。
既に彼には剣の中に存在する茉凛のことは明かしているけれど、彼には彼女の声は届かない。それでも私が何を考え込んでいるのか気づいたのだろう。
「ごめんね、ヴィル。ほんの少しだけ茉凛と話していたの。……彼女が、あなたの身体をもっと詳しく調べたいって」
私が率直にそう伝えると、ヴィルは困惑するように眉を寄せる。一度息を吐き、絞り出すように答えた。
「……お前の魂の盟友だな。わかった。いつでも、構わない。どうせなら、先王陛下を治療した秘術の力、しっかり見せてもらいたいものだな」
虚勢ではなく、彼は腹をくくったようだ。彼が前を向いてくれたことに、私は小さく微笑む。
「ありがとう。いまは無理しなくていいから、ゆっくり休んで。様子を見て、明日にでも検査を始めましょう。……私もできる限りのことをするから」
言葉を交わしながらヴィルの手を握りしめると、彼の傷だらけのごつごつした指先がかすかに力を返してきた。その温もりが、先ほどまでとは違う。
茉凛の声がくれた切実な提案と、ヴィルが見せた意地と弱音。そして、私が抱える不安と覚悟。この三つがようやく噛み合い始めた気がして、胸の奥に小さな希望の灯がともるのを感じた。
外には冷たい曇り空が続いているけれど、この離宮の一室だけは、静かに、しかし確実に光へとつながる道を歩み出している――そう信じたい。私にとって大切な人である彼が、再び力強い背中を見せてくれる日が来ることを、心から祈りながら。
部屋の空気はまだ肌寒く、時折吹き込む風がカーテンを静かに揺らす。しかし、その揺らめきがかえって私の気持ちをどこか落ち着かせてくれるようにも思えた。
重たい沈黙から少しずつ解放されながら、私は彼の寝顔を見つめる。まだ浅い息は本調子とは言えないけれど、倒れた直後よりは明らかに楽になってきているようだ。
もしこのまま安静を保てば、きっと彼は回復への道を辿ってくれるだろう。そのために私や茉凛、そして周囲の人たちができることはきっとまだある。後悔を抱えることには慣れたくはない。二度と、彼がこんなふうに意識もままならないほど苦しむ姿を見たくはないのだ。
ヴィルがまどろみの中でかすかに息をつく。その横顔を見守りながら、私は静かに決意をかみしめる。
強いだけが騎士の資質ではなく、そして私もまた、彼に守られているだけの存在ではない。私が今度は彼を支え、守れるように――そう願わずにはいられない。
このように、私とヴィルが本音をぶつけ合い、そして剣に宿る茉凛が割って入りながらも静かに協力を呼びかける流れは、私たちそれぞれが抱えている責任や後悔、そして互いを想う気持ちを鮮やかにあぶり出している。それは決して楽な対話ではなく、胸を焦がすような痛みを伴う対峙でもあった。
けれど、そこには確かに一筋の光が見え始めている。互いを責め合うのではなく、自分の至らなさを素直に認め、かといって悲観するのではなく、どうすればこの先を一緒に歩んでいけるのかを模索する――そんな未来への道のりを、私たちはようやく探り出したのかもしれない。
彼が倒れたことで、私の心は一度砕け散りそうになった。それでも、どうにかこうして前を向いていられるのは、彼が一縷の望みを捨てずに意識を取り戻してくれたからにほかならない。そして何より、私たちが本当に向き合うべきは、お互いの弱点や失敗ではなく、“これからどう生きていくか”という未来なのだと思う。
やがて、遠くの廊下を歩く足音がかすかに聞こえてきた。おそらくリディアが確認のために近づいてきたのだろう。彼女には「誰も近づけないように」と頼んであるが、それでも心配になって見回りをしているのかもしれない。
私は、いまはまだ眠りについたままのヴィルの手を再び握り、ほんのりと残る熱を感じた。
しっかりと眠らせて、身体を休ませてあげたい。騎士と主という立場を超えて、私は一人の人間として彼を守りたい――その想いが、かすかな希望の種となって胸の内に灯っている。
どんなにつらくても、どんなに先行きが暗くても、きっと私たちは互いの弱さを認め合うことで、もっと深く繋がっていける。そう信じたい。かつて私が絶望の淵に立たされたとき、彼は何も言わずに支えてくれた。その時の安心と温かさを、今度は私が返す番だ。
小さく微笑みながら、私は窓の外に目を向けた。まだ厚い雲が大地を覆っているけれど、その向こうには確かに光が存在するはずだ。いつの日か、再び青空が顔を出すときまで、私は歩みを止めはしない。隣に彼がいてくれるとわかるだけで、私はどんな困難にも立ち向かえるような気がする。
彼が寝息を立てる音を聞きながら、私のまぶたもゆっくりと下りてくる。静かなまどろみの中で、私は心の中で祈るように言葉を繰り返した。
――どうか、元気な彼に戻ってくれますように。どうか、この薄暗い空に一筋の光が射してくれますように。
彼を想うだけで私の胸は痛いほど熱を帯びる。それは大切なひとを失うかもしれない恐怖と、彼がいるからこそ強くなれると感じる誇らしさが入り混じった複雑な感情だった。
だけど、私はそれすらも抱きしめる。愛おしさと切なさとが混ざり合う想いこそが、私にとっての“生きる力”になりつつあるのだから。
ほんとうの意味で彼と対等に向き合うにはまだ時間が必要だけど、それを胸に頑張っていこう。
肌寒い離宮の空気を感じながらも、私は心の内に小さな灯火を宿す。きっと道は開けていく。焦らず、一歩ずつ。互いの“いけないところ”を知っているからこそ、今度は支え合えるのだと、静かに確信しながら。
 




