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未熟な恋と未知の病

 ヴィルの胸元からそっと手を離した。白布の下で荒い呼吸が浅く波立ち、額の汗はまだ引かない。

 薬草を煎じる音と、湿った匂いが低くたゆたい、医療実習生の女性の手元で湯が小さく泡立つ。

 枕元の白きマウザーグレイルへ視線を落とすと、金属の鏡面が灯りを細く返し、切なげに瞬くように見えた。


 静かに息を整え、瞼を閉じる。思考の縁へ、剣に宿る茉凜の声がするりと滑り込んでくる。先ほどまでの冷徹な演算モードからわずかに熱を帯び、どこか私を気遣う柔らかさが混じっていた。


《《……いい? さっきの共振解析で判明したことを整理するわね。ヴィルの脳の“大脳基底核”周辺が、どうやら精霊子を取り込む方向へ変質しているみたいなの》》


◇◇◇


 私が読書で得たささやかな医学知識は、一般人レベルに毛が生えた程度にすぎない。けれど、その欠片を縫い合わせる執着と好奇心だけは昔から強かった。

 だからこそ魔術大学に来てからは、解剖学や身体機能の書を片端から渉猟し、蔵書の古紙の匂いを指先に移しながら頁をめくり続けた。この世界の医学は近世に遠く及ばず、記述は基礎の域を出ないのだけれど。


 それでも茉凜は、私の“前世の知識”と、この世界の未発達な医学書を材料に、膨大な演算と思考実験を重ねてくれた。うず高いパズルの山から、形と質感だけで適合片を選り分けるように、欠けた部分を推論で埋めていく。

 さらに私は心の中で念を押す。精霊魔術は〈場裏〉という限定事象干渉領域の内で、精霊子という情報体を用いて現象を演出する術にすぎない。万能の“書き換え”ではない――だからこそ、倫理と限界を見失わない。


 そうして磨かれた“仮初の医学”は、侍医司の医官たちから見れば魔術的すぎる見立てに違いない。けれど私には、これほど頼もしい相棒はないと思える。いま、彼の身体を救う手がかりとして活きているのだから、縁というものは不思議だ。


◇◇◇


 彼の脳が精霊子を“認識”し、“受け入れ”始めている――その事実を反芻するだけで、胸骨の裏で鼓動が跳ねた。横隔膜が固く、息が浅い。

 私の知る限り、この世界で精霊子を感じ取れるのは私だけ。精霊族はもう影も形もない、失われた伝承のはずなのに。


「どうして……ヴィルが? 彼は精霊族の末裔なんかじゃないのに。遺伝子的に考えて、こんな理屈が通るわけない。いったいどうなってるの……」


 囁きは空気に溶け、指先には冷えと痺れが同時に残る。


 現状、IVGの本解放には至っていない。デルワーズが用いたであろう真の機能や秘匿術式には徹底したプロテクトが施され、茉凜がどれほど挑んでも起動準備領域を越えられずにいる。


 そこへ踏み込めれば、かつて行われたように、精霊子を介した遺伝子面の観測や干渉に手が届くかもしれない――前世の経緯から、私はそう推測している。でなければ、あの世界で深淵の血族は生まれなかった。


 だが、いまのマウザーグレイルでは、遺伝子面の変化を直接読むことはできない。だからこそ“異常パターン”という揺らぎに焦点を合わせ、兆候を拾い上げられたのだと理解する。


 思考ばかりが先を急ぎ、胸が追いつかない。掌の冷たさに意識を戻す。


《《落ち着いて。説明が長くなるけど、しっかり聞いて。ヴィルの大脳基底核周辺に普通のヒトではまず起こり得ないレベルのタンパク質異常が見つかったの。自然発生って考えるには無理があるし、どう見ても人為的あるいは外的な原因を疑うほかないわ》》


「なにかの間違いでしょ? ありえない」


《《ううん。何度解析をやり直しても、マウザーグレイルが下す結論は変わらない》》


「詳しく教えて」


《《わたしが拾った神経信号の異常は、普通の病気じゃあり得ないの。ヴィルの脳が書き換わっているなんてこと、自然の摂理では説明のしようがない。何者かの手が加わっていると考えるほうがまだ筋が通る。だからこそだよ、ここまで急激に症状が出ているってのは》》


 タンパク質変異――それは遺伝子レベルの書き換えを示唆する。私は喉の渇きを飲み込みながら、ひとつの仮説を胸の内に置く。


 黒鶴――過剰な精霊子集積が「黒鶴のツバサ」へ傾く出力域が、マウザーグレイル、あるいは名無しの聖剣を介して何らかの影響を及ぼした可能性。

 思い返せば、彼はその現場に幾度も居合わせている――それは動かしがたい事実だ。


 そして禁書庫での黒色記憶媒体との接触、聖剣同士の打ち合い、そこから生じた共振の奔流。

 あの連鎖の只中で、何らかの理由で微弱なシグナルが大脳基底核から辺縁系へと伝わり、受容体の配線を促した――彼が聖剣を手にしたその時点から、すでに始まっていたのかもしれない。


 もしそれが運命のように組まれていたのなら――私たちは、どこまで自由だったのだろう。


「いったい誰が……どんな意図でこんなことを。どうして彼がこんなことに巻き込まれなきゃいけないの?」


 問いを呑み込んで、蒼白な頬を見下ろす。浅い呼吸が胸をかすかに上下させ、額の汗はぬるい。拭ってやろうと伸ばした指が微かに震え、狙いを外す。

 もし自然の摂理だというのなら奇跡に近いが、茉凜の結論を反芻すれば、人為の影が濃い。


 大脳基底核――運動・情動・意思決定にかかわる要衝。ここが異常に活性化すれば、震えや筋の硬直、過剰な興奮が重なり、嘔吐と発熱、睡眠障害に至る。疑似精霊族化の“受容体形成期”に似た消耗の連鎖。長く続けば、心も身体も削られていく。


《《……もうひとつ重要なことがあるの。ヴィルの遺伝子変異を突き止められたのは、あなた自身のデータが比較の対象になったからよ》》


「私の……データ?」


 胸の奥で小さく痛みが跳ね、掌に汗が滲む。


《《覚えてる? グレイさんの診断を行う前、散々あなたの身体を使って共振解析をやったでしょ? そのときに蓄積した情報が、今役立っているのよ》》


「そういえば、そうだったね……」


《《普通のヒトのデータだけだったら、ただの“誤差”か“不調”で片付けられたかもしれない。でも、あなたの“精霊族の巫女”としての反応率や、大脳辺縁系に見られる特殊なタンパク質構造……そういった指標と照合することで、ヴィルの値が“ミツルに近い性質を帯び始めている”って判明したの。もし比較対象がなければ、この変化を見落としていたかもしれないね》》


 私と同じ方向へ、ヴィルの脳が精霊子の干渉を許容し始めている――。信じたくなくて、舌の奥が乾く。


「でも、どうしてこんなことになっちゃったの?  なにがなんだか、さっぱりわからないよ……」


 傷だらけのごつごつとした大きな手を握る。体温はまだ不安定で、触れるとこちらの心まで冷える。けれど離せない。


「ヴィル……早く目を覚まして……」


 願いが届いたかのように、まつげが微かに震えた。けれど意識の光は薄いまま。

 背後で医療実習生の女性がタオルを絞る手を止め、治療術師が医療記録帳を持って椅子を離れる気配。彼らは、脳の奥で進行する“遺伝子レベルの変質”など知る由もない。


「様子を見る限り、急性の炎症や中毒症状とも違うし……。ひとまず熱と吐き気を鎮める薬を飲ませ、経過を見るしかあるまい」


 指示に従って、栄養補給用の薬液と鎮静の煎じ薬が準備される。薬液の滴る音が、静かな室内で一定に続いた。


 ――治療術師の判断を否定するつもりはない。けれど、それだけでは届かない場所がある。彼の身体を変質させている“芯”を掴まなければ、根は断てない。私はマウザーグレイルの冷たい剣先に指を添え、呼吸を整える。


《《美鶴、差し当たってヴィルの命がどうこうって問題はないから安心して。相手が脳だけに、焦って手を出しても逆に命を縮めることもあり得るんだから。いまは彼を安静にして、離宮に戻ってから追加の解析を進めようよ》》


 茉凜の声は冷静で、どこか優しい。胸の波が少しだけ収まる。


「……分かってる。頭を冷やして、もう少し詳しく調べる方法を考えよう」


 私は額の汗を拭い、低く囁く。


「必ず手がかりを見つけて、元気にしてあげるから」


 そのとき、薄く開いた瞳が私の声を探すように揺れた。


「……ミツル……」


 息に紛れた一言に、心臓が強く跳ねる。確かな約束を言えない自分がもどかしく、指の力だけを少し強くした。


 窓の外、重たい雲が裂け、淡い光が差す。ぼんやりとした午後の薄明かりが、薬草の匂いと静けさをやわらかく包む。


 真相はすぐには見つからないかもしれない。それでも見つける。何が起き、誰が仕掛け、どうすれば彼を救えるのか。まだ見ぬ闇に足を踏み入れる怖さを押しとどめ、私は決意を胸に刻む。

 この世界が驚愕する“異常”であっても、彼を苦しめるなら私にとっては紛れもない敵。ためらう理由は、ひとつもない。


 点滴代わりの薬液が一定の間隔で落ち続ける。外の足音は遠のき、陽射しの色だけがゆっくり変わる。鼓動を静め、私はただ彼の手を握り、祈りを噛みしめた。


――どうか目覚めたとき、彼が苦しまずにいられますように。


 茉凜が“任せて”と微かに囁く気配。薄い雲の向こうで揺れる光と同じように、胸の奥で小さな希望が息づく。


 ヴィルを見つめるだけで、胸がそわそわと落ち着かなくなる。恋という単語が頭をかすめるたび、頬の内側が熱を含み、呼吸が少し早くなる。いつも毅然としていたいのに、彼の前ではどうしてこんなに揺れるのだろう。


 護衛騎士という距離感のせいで、私は“主と護衛”という立場に隠れて、自分の気持ちを見ないふりをしてきた。けれど苦しむ姿を前にして、どれほど彼が大切かを痛感する。

 これはただの仲間意識だけじゃない。深いところで結ばれている安心と同時に、もっと近づきたい、自分だけを見てほしい――そんな幼い独占欲が脈打つ。


 いつか釣り合う存在になりたいと思ってはいた。彼はよく「無理するな」と笑って私の頭を撫でたけれど、子ども扱いの残響が胸に引っかかるのは、きっとこの気持ちの形のせいだ。


 横たわる彼を見ていると、何を失うのかが怖くなる。当たり前に隣を歩いてくれる人。その重さを知ってしまったから。

 だから私は、ためらいより先に守りたいと思う。支えられるだけでなく、支える側へ。

 胸の奥で芽吹いた愛しさは未熟で、言葉にしづらく、少し痛い。けれど、その熱があるかぎり、私は強くなれる気がした。


 この芽はいつかきっと育つ。そうであってほしい。愛おしさが等身大の強さに育ち、彼を包む力へ変わるように――そう祈りながら、私はもう一度そっと彼の手を握りしめた。


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