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きみを護りたい――守られるだけじゃ終われない

 重たい雲が低く垂れ込める空の下、私はヴィルと肩を並べて大学の長い廊下を奥へと進んでいた。


 先ほどまで混雑していたはずの通路は、いつの間にか人影もまばらになり、残響のように響いていた足音も遠のいていく。まるで誰かが静寂という幕をそっと引き、私とヴィルだけを取り残したかのようだった。


 けれど、私の隣を歩くヴィルはそんな空気をものともせず、いつも通りに背筋を伸ばしていた。


 私の背丈が百五十センチにも満たない一方、彼は百九十センチ超。そびえ立つ城壁のように頼もしく思える。だからこそ、私は彼の存在に心を支えられていたのだろう。


 でも、本音としては、せめてあと十センチ、贅沢を言ったら十五センチ伸びたら、少しは釣り合いが取れるのに、と思わずにはいられない。

 そんなことを考えて、胸の内にじんわりと温かい安心感が広がり、やや早足になりがちな自分を自覚してしまう。


 余計なことは考えないで、早く演習室へ行かなくては——そんな思いが頭をかすめた瞬間、ふとヴィルの方に目をやり、私はぎょっとした。


――あれっ?


 彼の横顔に浮かぶ微妙な陰り。いつも血色がよく、肌艶のいいはずの頬が、どこか青白く沈んで見える。まさか気のせいだろうか、と一瞬思ったものの、彼の顔をじっと見上げると、その疑いはすぐに不安へ変わった。

 額に浮かんだ汗がうっすらと煌めき、まぶたの奥に苦痛の影がちらついているのがわかったのだ。


「ヴィル、どうしたの……?」


「ご、ご心配には及びません、お嬢様……」


 微かに息を乱しながらそう答える彼の声は、いつもの低く落ち着いたトーンとは違い、掠れているように聞こえた。


 私は思わず足を止める。


「本当に? 顔色が随分悪いわよ?」


 私が問い詰めるように声を投げかけた次の瞬間、ヴィルは片手で喉元を押さえ、苦しげに眉を寄せた。呼吸が浅い。


「ヴィル?」


 彼はまるで痛みに耐えかねるかのように身を屈めると、もう片方の手で私を制するような仕草をする。


「申し訳、ありません。ここでしばらく、お待ちを……」


 いつもはいかなるときも取り乱さない彼なのに、その声が何かに怯えるように震えていた。


 私の胸はひやりと冷えた。どんな戦場でも倒れたことがない彼が、こんなにも弱々しい姿を晒しているなんて。

 一瞬で頭の中が混乱する。呼び止めなくてはと思ったが、ヴィルは私の手が届く前に、苦悶を押し殺すように廊下の奥へと駆け出してしまった。


「ヴィルっ、待って! いったいどうしたの!?」


 私の声を振り返ることなく、彼は石畳を踏む重いブーツの音だけを残して視界の先へ消えていく。


 私は一瞬ためらったが、すぐに我に返り、慌ててあとを追った。それはもう全力疾走という勢いで。この時ばかりは、校則だとか王家の養女という立場など、頭からすっぽり抜けてしまっていた。


 廊下を曲がり、外への扉を抜けると、私は衝撃的な光景を目にする。中庭に面した植え込みの脇で、ヴィルが膝をつき激しく嘔吐していたのだ。

 酸の匂いが冷えた空気に混じり、中庭の風が頬の内側までひやりと刺す。


 短い金髪は汗でしっとり濡れ、荒い呼吸が肩を震わせていた。こんな彼の姿は初めて見る。あの鋼のごとき体が一瞬にして崩れ落ちたような光景に、私は言葉を失ってしまう。


「ヴィル……!」


 ようやく声を絞り出し、彼の背に手を当てる。すると、熱がこもっているのか、予想以上に彼の身体は熱く湿っていた。それでも彼は自分を奮い立たせるように額を押さえ、低く苦しそうに呟く。


「なんてなさけない……これしきのことで……」


 そう呟く姿は、護衛騎士としての彼というよりも、かつて“放浪の剣士”だったころの面影が垣間見えるような気がした。


 どんな状況でも気丈に振る舞ってきた彼が、痛みをこらえることもままならないほど苦しんでいるなんて。足元がすくむような心許なさに、私は唇を噛む。


「ヴィル、どうしたの? 何か悪いものでも食べた? それとも、お酒の飲み過ぎ?」


 迂闊にも頭に浮かんだありきたりな原因を問いかけてしまう。


 もちろん、経験豊富で慎重な彼が、そんな失態を犯すはずがないと分かってはいるのに、それでもどうにかして理由を聞き出そうとする自分がもどかしい。

 けれど、彼はかすかに首を横に振りながら弱々しい声を絞り出すだけだった。


「気にするな。これくらい、なんてことない。それより人の目がある。俺のことなど放っておいてくれ」


 彼の声は、騎士としての仰々しさが削がれ、素の彼が顔を覗かせる。

 それはつまり、強がれないほど苦痛が深刻だということの証明でもあった。放っておいていいはずがないのに、どうしてこうも彼は強情なのだろう。私は必死に彼の腕を引こうと試みる。


「放っておけるわけないでしょ。すぐ医療棟へ行きましょう?」


 何の病気か分からず、もしかすると大変なことになるかもしれないと不安が膨らむ。けれど、ヴィルは項垂れたまま小さくかぶりを振った。


「少し、目眩がするだけだ……お前を煩わせるほどじゃ……ない……」


 その声はまるで熱にうなされている人のように弱々しく、いつもの落ち着きなど微塵も感じられない。それなのに、どうして強がろうとするのか。

 私はその不器用さに胸が痛くなった。もしかしたら、彼は私が人に色々と言われる立場なのを気にして、余計な騒ぎを起こしたくないのかもしれない。


「馬鹿言わないで。こんなことになってるくせに、強がりなんか言って。そんなの私には通用しないんだからね。主だとか護衛だとか、人目だとか、そんなの言ってられないでしょう?」


 そう言うと、ヴィルは少しだけ反発するように肩を強張らせた。しかし呼吸が乱れていて、私の腕を拒む余裕などほとんどないのだろう。

 やがて力なく私に身体を預けたその姿は、いつも凛としていた彼とはまるで別人のように見えて、切ないほどに脆く、愛おしかった。


 私の動揺にもかかわらず、周囲の学生たちが異変に気づいて立ち止まり、こちらを見やっている。

 どんなに気遣いのできる学生でも、この光景を目にすれば驚くだろう。大柄で泰然自若とした護衛騎士の彼が、嘔吐しながらひどく弱った様子をさらしているのだから。


「すみません、通してください! 彼が体調を崩しているんです!」


 戸惑いながらも道を開けてくれる学生たちを掻き分け、私はヴィルの腕を抱えるようにして立ち上がらせた。


 彼の肌は熱を帯び、微妙な震えが伝わってくる。原因を探るよりも先に、私は彼を医療棟へ運ぶことだけに集中する。彼に何かあったら、私はきっと自分を許せない。


「あと少し。医療棟はこの先だから……がんばって」


 声を低く落として耳元で囁くと、ヴィルは苦しげに顔をしかめながら、かすかに「ああ……」と応える。

 その姿に、私は一瞬心が締めつけられた。いつも私を支えてくれた彼が、いまは私を必要としている。


 そう思うと、無意識に足取りが早くなる。自分の身体にこの重さが支えられるかと不安にもなるけれど、それ以上に彼を一刻も早く安全な場所へ運びたい思いが勝った。

 私の中の小さな勇気が湧き上がる。彼を助けるのは当然のこと——そう思える。


 間もなく医療棟の扉が見えた。ちょうど外に出てきた医療実習生が私たちに気づき、目を丸くして駆け寄ってくる。


「どうかなさいましたか? あっ、顔色が――こんな……」


「嘔吐がひどくて、頭痛もあるみたいなんです。立っているのもつらそうで……」


 私の説明に、医療実習生の女性は即座に判断を下し、扉を開け放って中へ案内してくれる。


 ヴィルの肩を抱えたまま、なるべく衝撃を与えぬようゆっくりベッドへ横たえる。

 普段なら、少しぐらい具合が悪くても立ち続ける意地を見せるはずの彼が、抵抗せずに力を預けている。やはり相当に悪いのだと実感する。


「すまない、ミツル。情けないところを……見せて、しまったな。護衛騎士失格だ……」


 彼は唇の色が抜け、呼吸も浅いまま、それでも謝罪の言葉を発しようとする。

 彼は昔からそうだ。どんなに辛くても、まずは相手を気遣う。それが彼の主義なのだろう。でも今は私のほうが気が気でない。


「情けなくなんかないわよ。私たちは仲間でしょう? あなたが倒れたら心配なのは当たり前で、助けたいと思うのも自然なことよ。ほら、前に私が熱を出したとき、あなたは何も言わずに夜通し看病してくれたじゃない……。

 あのときの言葉、覚えてる? “仲間の危機に遠慮はいらない、命を救うのにためらってどうする”って」


 私がそう言うと、彼はうっすらとまぶたを閉じ、苦しげに微笑むような気配を見せた。


「そ、そうだったな……。だが、さすがにこれは大げさだろう……」


「大げさなもんですか。何が原因かわからない以上、油断できないわ。どんな病気が潜んでいるかわからないんだから。“この世界”の医療じゃ――」


 つい、“この世界”などと口走ってしまって、私は声を飲み込む。でも、彼には届いていないようで、ほっと胸を撫で下ろした。


 もし病名がわからないまま彼が倒れたらどうなるのか。それを考えるだけで、胸が苦しくなってしまう。そんな弱音を吐いてはいけないという思いと、素直に不安な気持ちを伝えたい思いがせめぎ合う。けれど、いまは彼を安心させることが最優先だ。


 彼の額に浮かぶ汗を拭っていると、医療実習生の女性が冷やした水と清潔な布、それから薬草の煎じ薬を手に戻ってくる。


「いま先生をお呼びしていますので、少々お待ちください。これで口をゆすいでもらいましょう。吐き気が少しでも軽くなるかもしれません」


「ありがとうございます」


 私は彼女に礼を言い、ヴィルの頭を支えながら慎重に水を口元へ運ぶ。

 彼はかすかな抵抗を見せるように顔をそむけるが、すぐに息を詰まらせて苦しげにむせ込んだ。まだ落ち着いて飲める状態ではないのかもしれない。


「無理しないで。いまはゆっくり息をして」


 そう言ってそっと額に触れると、さっきよりも熱が上がっているように感じた。

 激しい吐き気を伴う熱病だろうか——あるいは別の何か? 頭のなかに不安の種が次々と浮かんでくる。そんな私の表情を察したのか、医療実習生の女性が静かに微笑みかけた。


「こうした嘔吐と頭痛は、過労でも起こります。吐き気止めの薬草で少し安定すれば、すぐ眠りにつくかもしれません」


 ほんの少しだけ心が軽くなる。


 そのとき、年配の治療術師が足音も荒く部屋に入ってきた。彼は乱れた呼吸を整えながらベッドへ近づき、短く医療実習生の女性から状況を聞き取ると、手際よくヴィルの脈拍と瞳孔を調べ始める。


「うむ……。ひとまず急性の胃炎か熱病の疑いがあるな。自覚症状はどうだ? 頭痛以外に、どこか痛むところはないか?」


 治療術師の問いかけに、ヴィルはかすかに首を横に振るだけ。声を出せる状態ではないらしい。


 私は彼の手を握りしめたまま、じっと顔をのぞき込む。普段ならこういう問いかけにはきちんと受け答えをする彼が、ままならず苦しんでいる姿がもどかしい。


「わかりました。ではこの煎じ薬を少しずつ飲ませて、しばらく安静にさせてあげてください。吐き気が強いようなら補液(栄養のある薬液)も用意します。もし熱がさらに上がったら、呼んでください」


 治療術師は的確な指示を与え、医療実習生が慌ただしく準備を整える。私は小さく息を吐き、彼の頬へ少しでも冷気を届けるよう、布を水に浸して軽く絞った。


「ヴィル、冷たい布を当てるわ。少しでも楽になれればいいんだけど」


 返答はない。けれど浅く波打つ呼吸の合間に、ほんの少し眉間の皺がほどけたようにも見えた。

 私はそのわずかな変化に、祈るような思いで希望を重ねる。何があったとしても、今は彼が回復することが最優先だ。


「……ミツル、すまん……」


 微かに聞こえたその声は、先ほどまでの苦痛を伴うものよりも、ほんの少しだけ落ち着いたように感じられた。

 私は彼の言葉を否定するように首を振る。謝られるいわれはない。守られるばかりだった私が、今度はあなたを支えたいだけなのだ。


「いいから、いまはしっかり休んで」


 その言葉に安心したのか、ヴィルは瞳を閉じたまま、小さく息を吐き出した。


 私はその横顔を覗き込み、確かに命の灯が胸の奥で燃えていることを確かめるように、そっと手のひらを彼の胸に当てる。鼓動がわずかに伝わる。それがなんとも心強い。


 医療実習生が薬草の煎じ薬を調整しながら、やさしい眼差しで私を見守っていた。

 彼女は驚いた顔を見せこそすれ、私たちの立場を深く詮索するようなことは言わない。今はただ患者であるヴィルの容態を優先してくれている。その姿勢に、私は心底感謝した。


「どんなにお強そうな方でも、疲れが溜まれば倒れることもあります。安静にしていれば元気になりますから」


 彼女の明るい声に安堵を覚えながら、私はもう一度ヴィルの手をぎゅっと握り直す。その手は傷だらけで、ごつごつしていて、数え切れない戦いを潜り抜けた戦士そのものを表している。


 彼はよく私の頭を、子供扱いするみたいに撫でる。でも、不思議と……嫌じゃなかったし、むしろ安心できた。とても温かかったのだ。


 なのに、この手が今はとても冷たく感じる。こんなにも弱っている姿を見るのは初めてのことで、だからこそ今度は私が彼を温めてあげなければと思う。支えてあげなければと思う。心の底から……どこにも行かないで、と思う。


「あなたが、こんなにも苦しむなんて……」


 私はそっと呟く。いつもなら、当たり前のように私を護ってくれる存在が、ここまで弱っている現実がたまらなく怖い。


 薄灰色の雲の切れ間から、かすかに光が差し込んでくるような気配がした。窓の向こうを眺めれば、遠くの空がほんの少しだけ明るみを帯びて見える。


「私はここにいるからね、ヴィル……いまはただ、休んで……」


 まるで自分に言い聞かせるように、私は静かに呟いた。

 胸の奥で膨らむ不安をやわらげるよう、深く息を吐く。息を整えるたび、ヴィルの胸が上下するのを感じとり、祈るように願い続ける。


――どうか、私の想いが届いて、一刻でも早く彼の痛みが和らぎますように。


 壁際の大きな時計の針はいつになく重々しく、静かに刻みを続けている。その音を子守唄にするかのように、私はヴィルの手をしっかりと握りしめ、逃がさないように寄り添った。


 そんなとき、ふわりとした感覚とともに、茉凜の声が脳裏に浮かび上がってきた。


《《美鶴。すぐにヴィルの脳を共振解析しよう。急いだ方がいいかも》》


 茉凜の声がふわりと意識に入り込んでくると同時に、頭の奥で微かな振動が生じるのを感じた。まるで透明な水面に石が落ちたときのような、ごく小さな波紋が広がっていく。


「茉凜……? でも、今は人がいるし……」


 私は一瞬、その思考を追おうとして言葉を呑む。

 魔術大学の医療現場では、従来の回復術と薬草学が主体になる。いきなり“共振解析”などと持ちかけても、周囲から怪しまれるに違いない。医療実習生や治療術師の視線をかいくぐってまで、そんな奇妙な行為をしていいのだろうか。


《《よく聞いて、美鶴。わたしの想像だと、ヴィルの症状は内臓や循環器の疾患じゃないと思う。脳のほうになにか異変がある可能性が高い。だから、早く調べたほうがいい。もし出血でも起こしていたら、時間との勝負になる》》


 茉凜の切迫した声が脳裏を震わせるたび、私の心臓も同じように不安げに揺れた。

 窓硝子が微かに鳴り、医療棟の静けさが薄い膜のように震えた。


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