扉を開けて――旅立ちの幕、終幕の手前
学園祭の朝。校庭からは、ソースの焼ける匂いと、弾むようなBGMが流れてくる。対照的に、私たち演劇部の部室は、張り詰めた静寂に支配されていた。
私はメイヴィス役の衣装に身を包み、鏡の前に立っていた。緑の長いウィッグ、施された柔らかなメイク。そこに映っているのは、知らない誰かのようだった。胃の腑が、冷たい石のように重い。鏡の中の自分を見つめ、浅い呼吸を繰り返した。
そのとき、部室のドアが静かに開き、茉凜が姿を現した。男子の制服に、腰には長い剣。白銀のウィッグが、彼女の精悍な横顔を際立たせている。その堂々とした立ち姿は、物語から抜け出した王子様そのものだった。
息が、一瞬止まる。心臓が喉の奥で跳ねた。けれど彼女は、いつものようにふわりと笑う。その笑顔は、春の陽光のように温かい。
「緊張するなって言うのは無理な話だよね。でも、その緊張感を楽しむことができれば、きっと素敵な舞台になるよ」
その優しい声が、強張っていた私の心に、静かに染み込んでいく。
私は、ようやくかすかに微笑み返した。
「うん、ありがとう。がんばるよ」
静かに返事をし、もう一度、深く息を吸う。
そこへ、洸人とアキラが近づいてきた。洸人は、深く引かれた黒いアイシャドウが、その瞳に昏い光を宿らせている。普段の飄々とした姿とはまるで別人だ。
アキラは、赤いウィッグとカラコンで、内なる激情を体現していた。その姿は、燃え盛る炎を思わせる。
アキラが、私の姿を見て目を丸くした。
「ほんと、弓鶴くん、めちゃくちゃきれいだよ。まじで天使みたい。ねぇ、ラストバトルでこいつぶん殴って、さらって逃げてもいい?」
思わず、くすりと笑いが漏れた。
「アキラ、いい加減にしろ。お前は舞台クラッシャーか」
「半分は本気だけどね。弓鶴くんがすごく輝いてるから、つい言いたくなっちゃったんだぞ」
その時、茉凜が楽しげに剣の柄に手をかけた。
「ふふふ、サランよ。そのような不埒な真似は、このワシが許さぬ。返り討ちにして刀の錆にしてくれよう」
その挑戦的な口ぶりに、アキラが目を輝かせる。
「いいね、その意気込みで来な! でも、気をつけてね。あたしは本気でいくから!」
二人のやり取りを見ているうちに、肩の力が自然と抜けていく。
穏やかに、私は微笑んだ。
「みんな、ありがとう。おかげで心が軽くなった」
一人一人の顔を見渡し、もう一度、深く息を吸う。
「いよいよここが正念場だ。この一ヶ月あまり、本当に大変だった。だからこそ、今までの努力の集成をここで見せよう。皆の力を合わせれば、きっと成功するはずだ」
皆の顔が引き締まる。瞳に、決意の光が宿った。
私たちは一つになり、舞台袖へと向かう。幕の向こう側から聞こえる観客のざわめきが、遠い潮騒のように響いていた。袖の暗がりで、皆の息遣いだけが、静かに重なる。
袖の闇はひんやりして、掌の汗だけが生き物みたいに脈を打つ。
幕が上がる。舞台の上で、私は次第にメイヴィスへと溶け込んでいった。口からこぼれる台詞が、彼女の喜びとなり、切ない想いとなる。
茉凜もまた、ウォルターそのものだった。その誠実な瞳に、強固な意志を宿している。彼女のウォルターに引き寄せられるように、私のメイヴィスもまた、深く息をし始める。
淡い光が、舞台を泉に変える。私は舞う。客席の暗がりに潜む、無数の視線を感じる。観客の息を呑む気配が、肌に突き刺さるようだった。
場面が転換する。袖幕が軋む音。照明の切り替わる眩しさに、一瞬、目を細めた。旅が始まる。茉凜の……ウォルターの背中を追いかける。初めて見る街のざわめきが、耳に流れ込んできた。
だが、平穏は引き裂かれる。舞台が暗転し、剣戟の音が響き渡る。サランの狂気が、熱風となって肌を焼いた。私たちの顔に、苦悩の影が落ちる。
そして、物語は終幕へ。第五幕が、始まった。舞台の照明が、ひどく熱い。一筋の汗が、首筋を伝った。胸が詰まり、喉が微かに震える。
その時、私は完全にメイヴィスその人になっていた。
◇◇
長い旅路の果てだった。私たちは、ついに探し求めていた場所にたどり着いた。目の前に広がる泉を目にした瞬間、張り詰めていたものが、ふっと切れる。安堵から漏れた長い息が白く揺れた。けれど、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚も同時にあった。ここが旅の終わりなのだという事実が、嬉しさと寂しさを連れてくる。
水面は、穏やかな時間を映す鏡のように澄み渡っていた。風が水面を撫でるたび、細かなさざ波が広がる。その澄んだ音色に耳を澄ませていると、心が洗われていくようだった。この世界を脅かす魔族の気配さえ、今は遠い。
頬に当たる風に、ウォルターが目を細めていた。その横顔には、旅の疲れを忘れさせるような安らぎが滲んでいる。彼の浮かべる穏やかな気配が、泉の静けさと溶け合い、強張っていた私の肩から力を抜いてくれた。
「やっとたどり着いたな。これが聖なる泉か……本当に、素晴らしいところだ」
彼の言葉に、この場所が持つ意味を改めて胸に刻む。
「ええ、ここが私が探していた場所です。そして、私たちの旅の終着点です」
言葉を探して、一度唇を湿らせた。喜びと、名残惜しさとが胸で混ざり合う。言葉にならない感情に、声が微かに震えた。ウォルターは泉の輝きを見つめたまま、感慨深げに頷く。その眼差しは、これまでの道のりをたどるように優しい。
「そうか……終わってしまうんだな、この旅も……」
低く抑えられた声に滲む寂しさが、私の胸にちくりと刺さる。これまでの旅の記憶を抱きしめ、精一杯の感謝を込めて彼に言葉を贈った。
「はい。ここまで来られたのは、すべてあなたのおかげです。ありがとう、ウォルター。あなたの支えがなければ、ここまで辿り着けなかった」
彼は微笑みを浮かべ、柔らかな眼差しをこちらへ向けた。その温かさに包まれる。けれど彼の瞳の奥に、何かを言いたげな光が揺らめいていた。
「なあ、メイヴィス、君にとってこの旅の目的は何だったんだ? 本当のことを教えてくれないか?」
静かな問いだった。けれど私の心には、小石が投げ込まれたように波紋が立った。彼の眉がわずかに寄せられ、瞳の奥に疑念の影が射す。
「王様からの命令は、ここへと至る道のりで『君を守れ』と、ただそれだけだった。でも、どういった意味があるのか、俺にはわからなかった。君にとってこの場所は、何か特別な意味を持つということなのか?」
問いかけに、一瞬沈黙が落ちる。喉が詰まり、言葉が出てこない。
「はい……」
苦しげに、一言だけを絞り出した。視線を泉に落とすと、その静けさが一層際立つ。風が木々の葉を揺らす、かそけき音だけが聞こえた。ウォルターは私の反応に何かを察したのか、さらに一歩踏み込んできた。彼の瞳が、私の心の奥底に触れようとするかのように、深く、まっすぐに注がれる。
「それは一体何だ? 教えてはもらえないのか?」
真剣な眼差しが、私を捉えて離さない。期待と疑念の混ざった視線に、心が揺れる。締め付けられる胸の痛みに、そっと息を詰めた。
「いずれわかります。その時が来れば……」
視線を足元に落とすと、声が細くなった。真実を口にするのが恐ろしかった。胸の内で渦巻く恐れが、言葉を絡めとっていく。ウォルターはしばらく私を見つめていたが、やがて浅い息を吐き、わずかに肩を落とした。その仕草が、私の胸を静かに抉る。
「君を最初に見たのは……ある森の奥の小さな泉でのことだ。君は覚えているかい?」
彼の問いかけに、あの光景が鮮やかに蘇る。静寂な森に佇む泉と、あたりを包む薄青い光。幻想的な、けれど確かに私の中に刻まれた記憶。
「そうですね。でも、その時の私自身は、王宮の奥で夢の中にいましたから」
そう答えながら、当時の不思議な感覚を思い返す。まるで知らない世界に迷い込んだかのような、曖昧で遠い記憶。
「夢?」
彼の声には、隠せない好奇心が混じっていた。
「ええ、気付いたらあの場所に立っていて、不思議な光を放つ泉に、吸い寄せられるままに足を踏み入れようとしたのです。そうしたら、なぜか水面の上を滑るように歩いていて。ああ、これは夢なんだとわかりました」
夢と現実が交差したあの瞬間を言葉にしながら、胸の奥で微かな疼きを感じていた。
「じゃあ俺が見ていたのは?」
身を乗り出すように問い詰める彼の視線から逃れるように、そっと目を伏せた。
「私の幻みたいなものでしょうね」
言葉の端が、少しだけ震えた。
「そんなばかな、俺はたしかに君を見た。泉の上で舞っている姿も……。それが君の夢だったというのか?」
ウォルターの困惑した声色に、私は記憶を辿る。泉の神秘的な輝きと、私の中に響いた衝動が重なった。
「よくはわかりません。あなたがその場所に居たのは本当でしょう。おそらくは、私自身の魂みたいなものが、あの泉に引き寄せられていたのだと思います」
「本体ではない、魂……」
彼の声に含まれた驚きに、小さく息を吐く。魂があの場所に引かれ、舞い始めた理由。それは、あまりにも自然なことだった。
「ええ、そして私はそこで舞いを始めた……誰に習ったわけでもないのに、身体が自然に動いて、まるで生まれる前からそれを知っていて、そうすることが決められていたように」
巫女の血に刻まれた宿命。あの小さな泉は、私の魂を呼び寄せ、舞いを通してこの聖なる泉の在り処を伝えていたのだ。
「あの舞いを見ていて、心から美しいと思った。戦うことしか知らない俺でも、それがわかった。何か特別なものに感じられたんだ」
その言葉に、喉が詰まる。彼が私の舞に何を感じたのか。その感情の意味を思うと、少しだけ怖かった。
「そうだったんですか……。でも、恥ずかしいな。隠れて覗きだなんて」
そんな意図はなかったとわかっている。それでも、意地悪な言葉で心を軽くしたかった。ほんの小さな悪戯心だった。
「お、おい。俺はそういうつもりであそこにいたわけじゃないからな」
目を見開き、慌てふためくウォルターの様子に、笑いが込み上げてくる。突然赤くなった顔が、私の心をほんのりと温めた。
「ふふふ、冗談です。わかっていますよ」
「まったくもう、からかうんじゃない」
真っ赤になった彼の顔が愛らしくて、自然と笑みが深くなる。
「ごめんなさい」
謝りながらも、笑いは止まらない。ウォルターが咳払いをして真剣な表情に戻ろうとする仕草が、さらにおかしかった。
「だが……」
彼は気を取り直して、私を見つめた。その眼差しには、深い探求の色が宿っている。
「あの舞は単なる美しさだけじゃなかった。どこか儚げで、とても寂しそうで、悲しいものに感じられた気がするんだ。どんなことを考えてあの舞を表現しているのだろうって、気になった。君からの依頼を受けたのも、その理由が知りたかったからだ」
彼の言葉が、胸の奥深くに届く。舞に滲む寂しさや悲しみまで、彼が感じ取っていたとは思わなかった。心の底に仕舞い込んでいた感情が、彼の鋭い感受性に掘り起こされていくようで、思わず息を呑む。あれは閉ざされた世界で生きてきた証。代々の巫女が背負ってきた、哀しい運命そのもの。そして、もう一つの意味。私が舞うことで、この聖なる泉への道が開かれ、使命が果たされる。
「そうだったんですか……。もしかすると、あなたも泉に呼ばれていたのかもしれないですね」
「だといいな。なにせ君と出会うことができたんだから……。その泉とやらに礼を言いたいくらいさ」
ウォルターの微笑みに、心がふわりと軽くなる。彼との出会いが、私にとっても特別なのだと改めて感じた。
「私があなたを随行者に選んだのも、そんな理由だったのだと思います。あの時、私を必死に護ろうとしてくれた人がどんな方なのか、単純な好奇心から始まったのです」
「ははは」
真剣な気持ちを、不意に笑い声で返されて、少しだけ唇を尖らせた。
「なんで笑うんですか?」
「いや、すまない。人の縁って、不思議なもんだなって、思ったんだ。俺は君と出会えて良かったよ」
その言葉に、胸が甘く締め付けられる。彼にとっても、この出会いが意味のあるものだったことが嬉しい。それと同時に、どうしようもない切なさが込み上げてきた。それでも、心の奥にある想いは、素直に伝えなければ。
「私も、ですよ……。あなたと出会えて、本当によかったと思っています」
ウォルターは静かに頷き、微笑んだ。けれど、その微笑みには何か言いにくいことを隠すような、複雑な色が滲んでいた。
「そうか……」
彼の声に、わずかな躊躇いが混じる。それを振り払うように、彼は続けた。
「それで……君はこの泉で、またあの舞をするのかい?」
問いかけに、自嘲めいた笑みが浮かんだ。
「……はい、そんなところです」
口にした途端、胸の内にあった決意と虚無感が輪郭を持つ。
「じゃあ、それが済んだら、君はどうするんだ……?」
その問いに、乾いた笑いが漏れた。
「そこで私はお役御免です。この緑色の髪は、あの国では不吉なものとして忌み嫌われていますし、帰るところなんてありません」
この髪色は、私が王室にとって使い捨ての道具である証。役目を終えれば、消えるだけの存在。その事実が、胸を冷たく蝕んでいく。ウォルターが黙り込む。ぽちゃんと泉の水滴が落ちる音が響いた。長い沈黙が、肌を粟立たせた。次に紡がれた彼の言葉は、冷たい刃のように心を貫いた。
「そうか……。じゃあ、片付いたら、また一緒に旅を続けてみないか?」
普段の彼とは違う、焦りと躊躇いの滲む声。胸の奥で、脈がひとつ、大きく跳ねた。唐突な提案に、思考が止まる。驚きと戸惑いに、ただ唇が震えた。
「え……?」
その短い返事が、心の波紋を広げていく。耳の奥で、自分の心臓の音が大きく響いた。指先まで、急に熱が巡る。ウォルターの言葉が、淡い希望の灯をともしていく。
「旅を続けて、もっといろんなところを見て回って、もっと楽しいことを見つけよう。きっと面白いぞ?」
その言葉が甘い毒のように染みてくる。彼と新しい旅に出られたなら、どれほど素晴らしいだろう。
「それもいいですね……。できたら、そうしたいです」
それは、密かに抱いていた願いだった。彼との未来を夢想した瞬間、胸が満たされていく。けれど、叶うはずのない夢だ。冷たい現実が、その熱を奪っていく。だって私は……。心の底から湧き上がる声が、未来を否定する。
私の答えに、ウォルターが静かに言った。
「じゃあ、さっさと終わらせようじゃないか」
その言葉が、心に重くのしかかる。旅の終わりが、私の中の恐怖を呼び覚ます。
「は、はい……。その前に、ウォルター?」
言いたい。その衝動が、苦しいほどに胸を叩く。ウォルターが怪訝そうな顔で私を見ていた。
「なんだ、メイヴィス?」
風が水面を細く裂き、光の鱗がひとつだけ遅れて沈んだ。
終わりたくない。その想いが喉元まで込み上げて、声にならない。この瞬間だけは、続いてほしいと願ってしまう。
「わたしは……まだ……」
喉が焼けるように熱く、言葉が続かなかった。途切れた言葉の先を、ぐっと飲み込む。込み上げる熱を、奥歯を噛んで堪える。滲む視界の中で、どうにか笑みの形をつくった。
「……ごめんなさい。なんでもないです」
彼の真剣な眼差しに射抜かれながら、もう一度、自分に言い聞かせるように繰り返した。
「本当に、なんでもないです」
彼が何かを口にする前に、私は一度だけ深く息を吸った。




