朝日のような勇気とわたしを変える一言
翌朝、私はゆるやかな夢の境界から意識が浮上していくのを感じながら、そっと瞳を開いた。
いつもよりほんの少しだけ早い時間帯に目が覚めたようで、枕元から差す淡い朝の光が、レースのカーテンを透かして細く部屋に入り込んでいる。夜のあいだ、心の奥に押し込んでいた不安や迷いが、そのやわらかな光に溶けていく気がした。
夜明け前の空気はまだひんやりして、窓ガラス越しの風が肌を撫でる。薄い冷えの奥に、澄んだ清涼が満ちていた。
ふわりと広がるシーツを丁寧に整え、ベッドの端に腰掛ける。吸って、吐く。吐息に合わせて、昨日こわばった胸の膜が少しずつ緩む。
頭の中に浮かぶのは、昨日の夜のことだ。
自分の中で何かが変わろうとしている――そんな予感を抱えながらも、どうにも踏み出せずにいた。夜更けには、つい泣いてしまったりもした。泣いた後は、不思議と心が軽い。余分な感情が外へ流れたのだと思えた。
そんなことを思い返していると、ドアの向こうで控えめなノックが響いた。顔を上げ、部屋の入口へ視線を向ける。
ドアが開き、足音が近づき、メイドのリディアが銀のトレイを恭しく差し出す姿が目に入った。
レースのエプロンに淡い刺繍。優しげな眼差し。控えめな立ち姿なのに、部屋の重心がそちらへ寄る。
「お嬢さま、お茶をお持ちいたしました」
白磁のティーカップがカチリとトレイの上で小さく音を立てる。澄んだ音色が、静まり返った朝の空気に溶け込んでいく。いつもの丁寧な仕草に肩の力が抜ける。差し出されたカップをそっと受け取る。
「ありがとうございます、リディアさん」
か細い声だったけれど、微笑みを添えると、リディアも穏やかな表情を返してくれる。
カップに唇を寄せてハーブティを一口含むと、ふわりと広がるやわらかな香りが胸の奥でほどけ、昨日の涙で疲れきっていた心がじんわり温まっていく。
カモミールやラベンダーの優しい風味が、夜の名残を溶かしてくれる。さらに深呼吸すると、明け方の冷気とハーブの香りが絶妙に混ざり合い、頭がすっと冴えた。
「本日も魔術大学へお出かけでございますか。どうぞごゆっくりお支度なさってくださいませ」
リディアの柔らかな声に頷いて、空になったカップをテーブルへ戻す。薄いクリーム色のクロスが朝の光を受け、かすかに輝いていた。その光景に、胸の中にも小さな灯がともる。
そう、今日も大学へ行く。精霊魔術の講義に向けて、引きこもって泣いてばかりはいられない。前向きな気持ちと少しの緊張が入り混じり、鏡の前に掛けられた紺色のジャケットへ視線を滑らせた。
肩にあしらわれた金糸の刺繍は大学の紋章。まだ新品に近いせいか、遠目にもきらりと光が返る。心の奥で、小さく何かが弾んだ。
けれど、今日はいつもと違う思いが背中を押していた。何か新しいことを始めたい――その漠然が、形になりつつある。私は意を決し、トレイを持ったまま控えるリディアに声を掛ける。
「リディアさん……あの、私……髪を結っていただきたいのです。お願いいたします」
リディアは一瞬だけ驚いたようにまばたきし、すぐに優雅な微笑みを浮かべて小さく頷く。
ベッドサイドのスツールに腰を下ろす。朝の淡い光が部屋を照らし、シーツの細かな模様や、壁際の小さな花瓶の花が生き生きと映える。
いつもは下ろした髪を結ってほしいのは、勉強の邪魔にならないためだけじゃない。今の自分をほんの少し動かしたいという思いが、背を押す。小さな変化が、大きな前進のきっかけになる――そんな予感があった。
「では、お嬢さま、どのように結い上げましょう。後ろでおまとめする程度でよろしゅうございますか?」
「はい……勉強に集中できますよう、なるべくしっかりとお願いいたします」
「かしこまりました」
リディアは手袋を片方だけ外し、指先で私の黒髪をそっと梳く。外した手袋は銀盆の縁に静かに折り畳まれ、音を立てない。
朝の儀式が始まる。絹糸を扱うような繊細な動き。ブラシの音がふわりとしたリズムで、まだ少し眠気の残る部屋を彩る。瞳を閉じ、くすぐったさと安堵のあいだに身を預けた。
「昨夜はきちんとお手入れが行き届かず、失礼いたしました」
「大丈夫です。お気になさらず。エレダンにいた頃を思えば、どうということはありません。今はむしろ甘やかされすぎなくらいですから」
他愛ない会話のあいだも、器用な指先は乱れない。するすると髪がまとまっていく。
大きな姿見に映る後ろ姿をそっと見ると、柔らかくなびいていた髪がきりっと束ねられ、いつもより凛とした印象になっていた。
「はい、仕上がりました。重くはございませんか、お嬢さま?」
「いいえ。ありがとうございます、リディアさん。これなら講義中も邪魔にならなさそうです」
結い上げた髪を指先で確かめる。思ったよりもきつくない。むしろ髪の重みが心地よく、背中越しに「一歩前へ」と促される。気持ちが引き締まったのが自分でもわかる。
部屋の片隅に用意していた魔術大学の制服にそっと袖を通す。数日前に届いたばかりの紺の上着には、金糸の紋章がきらりと光る。
最初は生地が固くて動きにくかったのに、今では不思議と落ち着きと安心がある。襟元を整え、スカートの裾をすうっとなぞると、背筋がさらに伸びた。
「いかがでしょうか」
問いかけると、リディアは花がほころぶように笑う。その視線がまっすぐ私を映し、少し照れくさい。
「とてもお似合いでいらっしゃいます。清らかなご印象に、きりっとした凛々しさが一層引き立っております」
「そこまで褒めていただかなくても……照れてしまいます」
「いいえ、お嬢さまは大変お美しゅうございます。何をお召しになってもお映えになりますし、本日の御髪も相まって、さらに魅力的でいらっしゃいます」
「そんな……」
鏡の中の自分を見つめると、心の奥に小さな達成感が生まれていた。
夜の涙と寂しさを抱えたままのはずなのに、支度を整えるほどに、新しい気持ちが胸を満たしていく。
「それではお嬢さま。お荷物はすでにおまとめしてございますので、どうぞご安心くださいませ。朝食は軽めに、玄関先へご用意いたしております」
「ありがとうございます、リディアさん。助かります」
彼女に微笑みを返し、両頰を軽く叩いて気合いを入れる。
簡単な朝食を口にして、離宮の廊下を進む。後ろで結い上げた髪はまだ少し慣れない。そのわずかな違和感が新鮮で、気持ちを前へ押す。
長い廊下を曲がった先、ちょうど反対側からヴィルが現れた。
いつものように無駄のない所作と揺るぎない立ち姿。騎士としての威厳と、近寄りがたい静けさ。それなのに、不思議と安心をもたらす。
淡い朝光の中、ひときわ際立つ姿に、思わず息が詰まる。
すれ違う刹那、喉が乾く。勇気を搾って、控えめに声をかける。
「おはよう」
ヴィルの眉がわずかに動き、一瞬だけ瞳がこちらを捉える。淡い朝光に縁取られた視線が、一瞬だけ私のうなじで止まった。
戸惑うような、何かを言いかけたような表情。視線を逸らす直前、彼の耳の縁がうっすら色づいて見えた。次の瞬間には通り過ぎていく背中だけで、言葉は落ちない。
唇をきゅっと噛み、胸の奥のざわめきを抱えた。やはり何も言ってくれないのか。あるいは言えない事情があるのか。せっかく弾んだ気持ちが小さくしぼむ。――それでも、さっきの戸惑いが小さな灯になる。
何も言わずに終わらせたくない。彼がまったく無関心ではないと信じたい。胸の奥にほんの少し、勇気が湧いた。
玄関前では馬車の準備が整っている。御者が扉を開き、先に待機していたヴィルが数通の手紙と書簡を無言で差し出す。封筒の端がわずかに揺れ、指先に新しいインクの匂いが移った。
いつもなら何気なく受け取るのに、今日に限っては手触りが妙に気になる。最後の一通は、わずかに厚みがあった。抱きしめるように受け取り、馬車に乗り込む。
「……ありがとう」
なるべく平静を保ったつもりでも、声はかすれた。
ヴィルは無表情のまま身を翻し、視線を外す。ぱたんと扉が閉まり、小さく息をついた。胸を大きく上下させ、酸素を取り込んでシートに深く腰掛ける。
馬車がゆっくり動き出す。落ち着かず、書簡の封に手を伸ばす。普段なら目的地まで放置するのに、今日は一通ずつ確かめずにいられない。
白い紙片がひらり。新しいインクの匂いが、ふっと鼻先を掠めた。
「おっと」
床に落ちないよう拾い上げる。滲んだインクの走り書きが、たった一言。
「これって?」
息を呑む。そこには力強い筆跡で――
――【俺を信じろ】――
「うそ……」
見た瞬間、胸が早鐘を打つ。張りつめていた空気が急に熱を帯び、全身を熱が駆け抜けた。乱暴な筆跡と簡潔さ。その分だけ、“どうしても伝えたい”が真っ直ぐに刺さる。
得意分野の剣や戦術は饒舌なくせに、それ以外では多くを語らず、黙して行動で示す彼。まさかこんな形で訴えてくるなんて。
「なーんだ……ヴィル、そんなに不安だったんだ」
小さく呟いた声が、朝の光に溶ける。無表情で通り過ぎた奥にある焦りや想いが、手に取るように伝わる。
ぶっきらぼうでも、“どうか自分を信じてほしい”という揺れが確かにある。そう思えたとき、悶々と抱えていた不安がするりと解けていく。
緊張と焦燥が混ざった走り書き――それゆえに、本心が詰まっているのだと思えた。彼もまた、私と同じように不器用な思いを抱えているのかもしれない。
じわりと胸が熱くなる。たった一言で、こんなにも救われるとは。
紙片を胸に押し当て、こぼれそうな涙をこらえるように瞳を閉じる。車輪が石畳を踏む小刻みな音が、やけに心地よい。
「私って馬鹿だな。彼は何一つ変わってなんかいないのに、なんで悩んでたんだろう」
ただ嬉しい。それだけ。
「わかってる。これが『好き』とか『恋』だなんて、決めつけられるものじゃないってこと。私たちってそんな簡単なもんじゃないもんね」
正直な気持ちを飲み込み、小さく息を整える。
「それでも、これだけははっきりしてる。彼は私のことを誰よりも大切に思ってくれてる。急に態度が変わったのだって、きっと深い理由があるんだ。本当にどうでもいいなら、こんなふうに慌てたみたいに走り書きなんてするわけないもの」
紙片の角が掌にちくりと触れる。焦りごとも、ここにある。
窓の外で離宮の門がゆっくり遠ざかる。朝の光が縁取りを落とし、いつもより優しく見える。その向こうの世界へ向かうと思うと、胸が少し躍った。
手元の紙切れには、まだ彼の体温が残っている気がする。手近のインクとペンを掴んで急いで書いたのだろう。掠れや濃淡が、その切迫を物語っている。
もう一度、文字を指でなぞる。胸の奥が不思議なくらい温かい。親指にうっすらインクが移り、青い跡が小さく残った。
「それにしても、こんな言葉しか出てこないなんて、いかにもヴィルね。それでも私には十分すぎる……。たとえ何も言ってくれなくたっていい。彼が見守ってくれるなら……私はどんなことにだって立ち向かえる」
胸の奥からぽっと温かさが広がる。紙片を当てたあたりがほんのり熱を帯び、思わず押さえた。馬車は蹄のリズムで淡々と進むのに、その揺れよりも鼓動の方がずっと大きい。
言葉でなくても、こうして行動で示してくれる思いがあれば、それだけで前へ進める。まだ見ぬ道も、少しずつ明るくなる。根を張っていた疑念や躊躇が、朝日に照らされ、溶けていく。
窓に小さく映る自分を見る。瞳はわずかに潤んでいるのに、不思議と晴れやかだ。結い上げた髪のせいで頬のラインが見え、少しだけ大人びて見える。紙片をもう一度胸に押し当て、しっかり握る。
「私、もう迷ったりなんかしないよ」
魔術大学へと揺られる馬車の中で、静かに決意した。ヴィルの伝えようとした気持ちと、ほんのわずかに変わった瞳――それを拠り所に、どんな困難にも向き合っていこう。
髪をきゅっと結い上げたことで背筋が伸びたように、心も一歩、前へ。
「……あなたが私を信じるなら、私もあなたを信じる。これが私の誓い」
そんなささやかな確信を胸に、窓の外へ視線を向けた。
馬車の車輪がコトコトと規則的に刻み、景色はゆったり移ろう。
離宮の高い門が遠ざかる。陽射しが窓の縁を明るく照らし、細い光の筋が車内に射し込んだ。静かに背中を押されるようだ。
「ほんと、不器用で、まっすぐすぎなんだから」
これから先が、もっと楽しみになる。昨日みたいにしょんぼり泣いてしまうことは、もうないかもしれない――そう思うと、馬車の揺れすら心強い。
後ろでしっかり結い上げた髪が、ポンと「大丈夫だよ」と背を叩く気がして、思わず小さく笑みがこぼれた。
遠くで講義棟の鐘が一度だけ鳴り、朝の幕が静かに上がった。




