ないしょの未来予報――茉凜とわたしの深い夜
夜の沈黙が、私の深い息とリディアの温かい気遣いをやわらかく包む。窓の外では、凍てついた水面を撫でるように冷たい月光が離宮の敷石に薄く落ちていた。
私はその光を横目に捉えながら、いつか素直に「美しい」と受け取れる自分へ戻りたいと、胸の奥でそっと願う。けれど今は、その願いすら遠く、乾いた痛みが胸骨の裏に居座る。
身体を横たえたまま、わずかに乱れたブランケットの起伏を指先で確かめる。
リディアが直してくれたこの温かな毛布は、彼女の思いやりのかたちのように、肩へ薄く重みをのせていた。
そんな夜が、いまの私には、必要な時間なのかもしれない。
リディアは私の表情を見て、まだ言いたげに唇を結び、「しばらくここでゆっくりなさってください」と静かな声で告げると、押しつけにならない距離を保ったまま身を引き、音を立てぬよう部屋を出ていった。
きっと彼女の中には、私を一人にしておいたほうが良いという柔らかな判断があったのだろう。なのに、私はその思いやりすら、胸のこわばりのせいで受け止めきれない。
寝台の上で身じろぎし、疼く胸の芯をなだめるようにまぶたを閉じる。遠くで夜の衛兵の足音が石を渡ってかすかに通り過ぎ、ふたたび闇と沈黙が戻る。蝋燭の灯は心許なく、私は自分がどこにいるのかを確かめるみたいに、わざとひとつ深く息を吸った。
鼻腔をくぐる乾いた空気に、夜の離宮の匂いが滲む。けれど、心の冷えはそれより深く、息を整えても落ち着かない。胸にまとわりつく黒い感情は、名づけにくい糸で絡まっていた。
◇◇◇
ベッドの硬さにも身体が馴染みはじめたころ、リディアはそっとドアの向こうへ姿を消した。少し心配そうな眼差しだったが、緩んだ私の横顔を見て、わずかに安堵してくれたのかもしれない。
けれど実のところ、彼女をこれ以上煩わせたくないという私の思いが先に立っただけで、不安は胸の底で渦を巻き、息を浅くする。
――誰か、助けて……。
思いがけず唇から落ちた囁きは、闇に吸われて消えた。視界は暗いのに、まぶたの裏は涙で熱を帯び、瞳を開くことがひどく重たい。
耳に残るのは、自分の呼吸と鼓動だけ。世界から切り離されたような孤独は、胸の内側の温度差だけを残して通り過ぎる。
無理に眠ろうとしても心はさざめき、膝を抱きたくなる衝動が高まった、そのとき。枕に埋めていた頬の奥に、微かな揺らぎが触れた。海底の砂がそっと持ち上がるような、内側から浮き上がる気配。
私は驚くほど早く顔を上げ、暗さに焦点を合わせる。
《《……み・つる》》
浅い水を隔てた先から響くような、頼りないのに確かな呼び声。
抱きしめていた“白きマウザーグレイル”の刃のない刀身が、かすかに震える。あれほど呼びかけても沈黙していた茉凜の気配が、いまは確かに届いている。
「茉凜……?」
喉の奥がつまるような声をこぼす。返ってきた気配は、霧の向こうから沁み入るように胸へ届いた。
《《……ごめん、少し“深いところ”に潜ってたの。呼びかけてくれてるのはわかったんだけど。……辛かったよね?》》
弱いけれど、“わかってあげられなくてごめん”がきちんと乗った声。理由はあるはずだ、と理屈が先に立つよりも早く、やっと届いたその声が胸をほどく。
私は緊張の糸が切れたように、小さく息を吐いた。
「辛いか……そうね。辛くないって言ったら嘘になる。
私、もうどうしたらいいかわからない。ヴィルが何を考えてるのかさっぱりわからない。いつも一緒にいてくれて、守ってくれているし、誓いを違えていないのは確か。でも、前とはぜんぜん違う。ただの義務っていうか、形だけでしかない……」
淡々と事実を置くたび、胸が軋む。抑えていた涙が縁へ集まりかける。茉凜は、私の息づかいに合わせるようにひと呼吸おき、静かに言葉を紡ぐ。
《《ねえ、美鶴。わたしにはあなたがこれから進む道が、少しだけ見えるの。苦しみや選択に満ちているかもしれない未来。でもね、わたしは大丈夫だって信じてる》》
「……どうして、そんなふうに言えるの。あなたの“予知”は、危険を回避するときの一瞬しか発動しないって言ってたじゃない。そんなの根拠なんてないでしょう?」
泣きたさと、少しだけ甘えたい気持ち。そこへ暗い疑念が混ざって言葉は棘立つ。舌先の熱が喉の奥で跳ね、素直になれない自分が息苦しい。
私の拗ねを感じ取ったのか、彼女の声には微かな震えが混じり、なお揺るがない芯がある。
《《根拠ならあるよ。あなた、わたしがマウザーグレイルの管理人だってこと、忘れてない?》》
「……わかってるわよ。でも、量子コンピューターとしての機能がどんなに優秀でも、そこまで見通すなんて不可能でしょう?」
《《まあ、この国とか世界全体がどうなるかまではわからないよ。でも、わたしはもっと身近なところに目を向けてるの》》
「身近って……もしかしてヴィルのこととか?」
《《そう。ヴィルの言葉やしぐさ、あなたが彼を見つめて感じたことのすべてが、マウザーグレイルに逐一記録されているの。わたしはそのデータを使って、あなたとヴィルがどんなふうに考えて、どんな選択をしてゆくのか、何度も何度もシミュレーションしてみたの》》
窓の桟を撫でた風が、かすかな笛のような音を残す。私はその一瞬で肩の力が少し抜け、彼女らしい調子に口元が和らぐ。
「……ずいぶん手の込んだことをしてたのね。黙ってたなんて、意地悪じゃない?」
《《うふへへ、ごめんね》》
彼女独特の笑い方に、頬のこわばりがほどける。苦い夜気が、少し甘くなる。
《《でも、本当に面白かった。いろいろシチュを変えたり、選択肢を増やしたり。そうすると二人がまったく違った未来を選ぶこともあって……それを確かめてたの》》
「それって、ゲームの中で動かされてるみたいで、複雑な気分なんだけど。それにしたって、そんな仮想人格の構築や大量の演算を、いったいどうやって……?」
自分ごとなのに第三者のように扱われた心細さが、言い方を少し尖らせる。窓硝子がかすかに鳴り、冷えと温度差が腕の産毛を立てた。
《《ざっくり言うと“固有時制御”っていう機能があってね。剣の内側の時間を少しだけいじれるの。外には手出しできないし影響もしないけど、そのぶん中では膨大なシミュレーションを一瞬で回せる。……とはいえ、まだ全体像は掴みきれてないから、細かいとこは今はナイショ》》
「固有時制御って……。SFというか、夢物語としか思えないんだけど?」
要は――剣の内側でだけ時間を増やし、外界は汚さない、その一点に尽きる。
《《それがあるからね。あなたとヴィルがどんな道を辿るか、可能性ならいくつも見えてきたの。だから今は苦しくても、諦めずに信じて進めば、ちゃんと突破口があるって、伝えたかったんだ》》
静かな声に、内側から立ち上がる熱が宿る。
私は闇の底に目を慣らす。先ほど見た月光が、床の縁を淡く洗っているのがわかる。
「……でも私、泣いてばかりで、立ち止まっているだけ。ヴィルだって、わたしを嫌いなわけじゃないってわかってるのに……すごく遠く感じて、どうしようもなく苦しいの」
弱音とともに涙が戻る。押し寄せる孤独の波に、私は茉凜を探す。胸の痛みは行き場を失い、刀身の冷たさへ逃げ込む。
《《ね、美鶴。あんまり自分を追いつめないで。いまは苦しくても、あなたならちゃんと乗り越えられるよ。だって、あなたが笑ってくれないと、わたし嫌なんだもん!》》
マウザーグレイルの刀身が淡く光を揺らす。夜の湖面に月が触れるような一瞬のきらめきに、胸の内側がほどけ、呼吸が一段軽くなる。
「……あなたは、どうしてそこまでしてくれるの……? こんなの、どうだっていいことで……」
言いよどむ。理由を知れば、もっと苦しくなる予感が怖い。茉凜は小さく苦笑した気配で、寂しさの縁を撫でる。
《《どうだっていいことなんかないよ。だって、わたしはあなたが大好きだから。あなたが苦しそうに泣いてる姿を見てたら、胸が痛くなるの。覚えてるでしょ。わたしたちは、どこまでいっても“ふたつでひとつのツバサ”なんだよ。美鶴の笑顔を取り戻せるなら、たとえ引き換えにわたしが消えてしまっても、それでもかまわないって思えるくらい、大切なの》》
「やめて、そんな覚悟なんていらない……」
その献身は危ういほど真っすぐで、私は息を止めてしまう。
《《大げさだなあ。覚悟とかじゃないよ。これがわたしのほんとの気持ち。あなたには“ただの義務感”に見えるかもしれないけど、ヴィルだって同じくらい気にかけてる。たとえ行き違いがあっても、あなたが諦めなければ道はちゃんと続く――わたし、そうわかってる》》
「……茉凜」
私は剣を抱きかかえる。冷たい金属が、涙で熱を持つ瞼の近くで静けさを返す。別れの予感に怯えながらも、彼女が必要だと思うほど、失う怖さが増していく。
「あなたに消えてほしくなんかない。私、茉凜とこれから先も一緒に歩いていきたい……いろんな場所へ行って、美味しいものを食べて、きれいな景色を見て……ずっと、ずっと一緒に生きていくんだから」
こぼれる涙は、絶望だけの色ではない。寄り添う可能性を含んだ温度が、頬を伝って胸の底へ落ちていく。
《《ありがとう、美鶴。どんなことになっても、わたしはずっとあなたを見ているから。だから今は、ほんの少しだけ自分をいたわってあげてね。あなたなら、どんな辛いことでも乗り越えられるって、わたしには“見えてる”から》》
「“見えてる”……って、そんな曖昧な説明じゃわからない。本当のところを教えて」
まだ何かが引っかかる。この力の核を、彼女は語り切っていない。せめて端だけでも、と期待が滲む。彼女は小さく笑い、言葉を大切に畳む。
《《それは、ないしょ。自分で見つけるからこそ意味があるし、きっとあなたはそれを掴み取れる人だから。わたしはそう信じてる》》
「もったいぶっちゃって。嫌な感じ……」
《《ごめんね。でも、もし最初から全部わかっていたら、自分の足で進む喜びはきっと得られないでしょ? それに、わたしの“予知”や“固有時制御”だって、可能性を拾っているだけなんだよ。だから、何を願い、何を選び、どんな未来を築くかは、あなたの気持ち次第。わたしは、そんなあなたのしあわせな未来を見てみたいの》》
「……選ぶ、未来……か」
《《うん。いずれ、あなた自身がちゃんと辿りつくって、わたしは信じてる。そこにわたしがいられるかはわからないけど……それでも、いなくなったとしても、あなたは前を向いて歩けるはずだからね》》
「……そんなの、勝手に決めないでよ。いなくなるなんて、絶対に許さないんだから」
感情が素肌で出る。震える声に、茉凜は「ごめん」と短く落とす。その響きは切なさを含みながら、部屋の空気をやわらげる。
廊下を通る誰かの足音が遠ざかり、私ははっと顔を上げた。遠巻きの気遣いがまだ近くにある。そう思うだけで心の重さがひとつ軽くなり、乾きかけた涙の跡を手でそっと拭う。
《《あなたは弱くなんかないよ。これまでだって、苦しいことをいっぱい乗り越えてきたんだから。だから、その分、幸せになれないなんてことはない。美鶴の笑顔が見られる未来が、ちゃんとそこにあるって、わたしにはわかる》》
「気休めでも……そう言ってもらえると助かるわ、茉凜」
《《それとね、ヴィルにもそれなりの理由があるはず。だから変に気を回さないことだよ。じゃあ、わたしはまだやることがあるから。またね……》》
ふっと茉凜の声は遠のき、抱えた刀身は静まる。さっきまでの拒絶の気配は消え、休息へ移る気配だけが残った。会話がひと区切りついたことを告げるように、部屋の空気は穏やかに満ちる。
私は深呼吸をひとつ。胸の痛みはまだ薄く残るが、吸い始めの引っかかりがほどけ、息は確かに楽だ。もう一度だけ前へ出せる気がして、重い身体を起こす。
「うん、大丈夫……」
かすれた声でつぶやき、そっとベッドから足を下ろす。
闇は濃いまま、ヴィルとどう向き合うかの答えはまだない。それでも、温かな気遣いを向けてくれる人がいること、茉凜が支えてくれることを思い出せば、歩幅は半歩伸びる。
扉の方へ視線を向ける。もしかしたら、まだリディアが気配を気づかせぬ距離で待っているのかもしれない。
背筋を少し伸ばし、結い直していない髪を指で整える。吐く息をいつもより意識して長く、静かに。
「彼を信じてみよう……」
小さく確かめるように呟いて、一歩を重ねる。
傷は癒えきらず、不安も残る。けれど今の私には、薄いながらも希望が灯っている。茉凜の存在が、背をそっと押してくれる。
そして、さきほどの囁きを思い返す。
――それは、ないしょ。
胸の底で、小さな秘密が宝石のように灯る。どれほど道が険しくても、その“ないしょ”が私の中で消えずに輝くかぎり、前を向ける。
いつかこの痛みを越え、笑い合える日に向かって。月光が照らす離宮の廊下の先には、まだ知らない未来が広がっている。石目の冷たさが足裏に薄く残り、歩幅だけが静かに伸びた。
いまの私なら、その未来を信じて歩ける。
遠い扉金具がほそく鳴り、夜の幕が静かに切り替わった。
腕に抱いたマウザーグレイルには、茉凜の温もりが残っている。ささやかなその温度こそが、足裏にそっと力を戻す。
茉凜の乙女ゲームシミュレーション その意義と魅力
物語内で茉凜が行っている「ゲームシミュレーション」は、いわゆる通常の恋愛シミュレーションや乙女ゲームの設定を、物語世界独自の高度な技術――とりわけ「固有時制御」や「量子コンピューター」――を用いて強化した形といえます。
単にルート分岐やヒロインの選択肢を追うのではなく、ミツルとヴィルをはじめ、作品内に登場する人物の性格・行動パターンを疑似人格として構築し、膨大な可能性を同時進行で検証するという点に大きな特徴があります。
乙女ゲームとの類似点
キャラクター同士の関係を模擬し、理想の結末に導く
茉凜が行うシミュレーションは、乙女ゲームにおける「攻略対象と主人公の行動を選択しながら、より良い関係を築く」という構図を想起させます。どのような言葉を交わし、どんな仕草で反応し、どんな未来を選ぶのか――そうした要素を無数に試行錯誤する点は、まさしく恋愛ゲーム的です。
複数のルートやエンディング
茉凜は「何度も何度もシチュエーションを変えては二人の可能性を試す」と語っています。これは複数ルート制の乙女ゲームが持つ特性そのもの。時に思わぬ展開が見られるのも、ゲーム的なお楽しみ要素に近いといえます。
「固有時制御」による超高速演算の魅力
瞬時に多数の分岐を検証
乙女ゲームではプレイヤーがゆっくり攻略していくのが一般的ですが、茉凜は「固有時制御」により、あたかも“時間が止まった”かのような内的空間で膨大な選択肢を一瞬にしてシミュレートできます。まるでゲーム内のセーブ&ロードを超高速かつ無制限に繰り返しているかのようです。
キャラクターのリアルタイム反映
茉凜のシミュレーションは、ミツルやヴィルだけでなく、周囲の環境や他のキャラクターの行動までも疑似人格として組み込んでいます。乙女ゲームで言えば“攻略対象”だけではなく、サブキャラクターすら自発的に動く、非常に高次元の人工知能ドラマが展開されているわけです。
ゲーム性と物語性の融合
ゲームの“遊び”を超えた切実な理由
乙女ゲームは娯楽・恋愛体験の一環としてプレイヤーが楽しむものですが、茉凜は「ミツルの未来をなんとか良い方向へ導きたい」「二人の苦しみやすれ違いを解消したい」という切実な願いのもと、このシミュレーションを行っています。つまり、通常のゲームよりも切迫感が強く、すべてがミツルを救うための試みなのです。
神視点プレイヤーとしての茉凜
茉凜はプレイヤーという立場だけでなく、演算システムを管理・統括する存在でもあります。まるで乙女ゲームの制作者とプレイヤーを兼任しているかのような立場にあり、設定自体が独特の深みを与えています。
物語世界における意義
恋愛ドラマの説得力を高める
茉凜がシミュレーションを繰り返すことで、二人の未来の予測だけでなく、さまざまな心理的変化や相手に与える影響まで細かく検証できるわけです。結果的に、ヴィルやミツルの葛藤や決断がどんな結末を導くかの“必然性”を補強しており、読者に「二人はこう動いたのだから、こういう展開になったのだ」と納得させる力があります。
ヒロインの成長を促す装置
ゲーム的な要素がありながらも、最終的に大切なのは「どんなに可能性を提示されても、ヒロイン自身が意志を持って選択していくこと」という、物語性への帰結です。乙女ゲームの定番要素である“選択肢”を、ヒロインが自分の足で掴み取るという展開につなげることで、物語のカタルシスが生まれています。




