遠ざかる騎士と夢見る姫
向かったのは、供食台に料理が並ぶ大学食堂。石のアーチをくぐると、香ばしいパンの湯気と煮込みの香り、焼き皿の油の温かい匂いが重なって押し寄せる。
窓からの陽がホールの木目に淡く降り、皿の縁にぬくもりが薄く宿った。食器が触れ合う澄んだ音が、ざわめきの底で細かくきらめき、天井高にやわらかく返る。それでも、私の耳は自分の呼吸の音ばかりを拾った。
ソレイユはトレイを手に、目を輝かせて料理を選ぶ。誰かの皿を見ては「わあ、これもいいかも!」と笑い、足取りまで弾む。つられて私の歩幅も軽くなる。
一方のヴィルは、私たちが好みそうなものを手際よくよそってくれる。
さりげない気遣いが嬉しいのに、どこかよそよそしさが混じる。背筋は伸び、動作は寸分の狂いもない。無骨で遠慮のなかった彼の影を探して、視線が宙を泳ぐ。
「ありがとう、ヴィル……」
グラスの水面が微かに揺れた。彼は頷くだけで、視線は私の肩口の向こうを通り過ぎる。
そこで言葉が止まった。微笑は控えめに、視線はすぐ逸れる。その丁寧さが、なぜか距離に感じられてしまう。
席に着くと、ソレイユがさっそく話しかける。
「ヴィルさんって、きちんとしていらっしゃるんですね。騎士でも、ここまで礼儀正しい方って、ちょっと驚いちゃいました」
はきはきした笑顔に、ヴィルは表情を崩さず答えた。
「……いいえ、何も特別なことではありません。しばらく現役を離れておりましたが、元はこの国の騎士団に身を置いておりましたので、その頃の習慣が残っているだけでしょう。何より、王家の名を預かっている以上、どこで誰に見られているかわかりませんからね」
穏やかな調子の奥に、冷ややかな鋼の響き。かつて“銀翼”の旗の下、父さまの副官として並び立ち、“雷光”と呼ばれた人。その今は聖剣を預かる護衛として、私の隣にいる――それでも、爪の腹が空を撫でるだけだ。
ソレイユと交わす他愛ない会話を眺めていると、輪の外から覗き込んでいるみたいで、胸の奥に微かなざらつきが残る。食堂のざわめきが、幸い薄い遮音の膜になっていた。
「あの……そういえば、ソレイユのお父さんってどんな方なの? 前に父上の書類整理を手伝っていたって言ってたでしょう? それが気になってて……」
問いかけに、ソレイユは一瞬だけためらい、すぐに笑みをやわらげた。
「ミツルさんは王家のご関係だもの、黙っていてもしょうがないよね。……そうだね、ヴィルさんにも秘密にはできないか。じゃあ、ここだけの話ということで」
肘をテーブルに置き、小さく息を吐く。決めたように続けた。
「じつは、私の父は軍人なの。士官学校を卒業して以来、ずっと軍に仕えていて、今ではそこそこ偉い人になってる。でも私、子どもの頃はそんなこと全然知らなくて。ただ、書斎にあふれる資料が面白くて、勝手に読み漁ってたのよね」
“軍人”の一語に、ヴィルがわずかに反応する。視線が私をかすめ、意味を探るように揺れた。
指先のフォークが皿の縁をかすめ、薄い金属音が舌の裏に残った。
「……危なくはなかったの? 軍関連って、機密情報が多いから、子どもが扱うには厳しそうだけど」
率直に問うと、ソレイユは肩をすくめる。
「そりゃあ、今思えばどうなんだろうって感じよね。けど、当時はまったく気にしてなかったし、父も ‘お前なら大丈夫だろう’ って笑ってた。ある意味“英才教育”というか……うーん、巻き込まれちゃった、のかな」
軽く笑う彼女を見ながら、胸の内側に薄い不安が広がる。声量を落とすと、周囲のざわめきがちょうど良い音の幕になった。そこへ、ヴィルが静かに口を開いた。
「――お父上とは、セバスティアン・ローベルト殿ではありませんか?」
空気の温度が一段下がる。ソレイユの瞳が見開かれ、フォークが指先から滑りかけた。
「え、どうして父の名前を知ってるの? ヴィルさん、まさか面識があるとか……?」
問う彼女に、ヴィルは慎重な目を私へ向ける。胸の奥で呼吸がひと拍ずれた。
ローベルト将軍――セバスティアン・ローベルト。選定の儀の折に出会い、灰月の立ち上げにも関わったという、有能で名の知れた軍人。カテリーナが「ローベルトの旦那」と呼んでいた人。
「ローベルト将軍はわが国でも知られた有能な軍人です。……軍の上層部で情報に明るいという条件を考えれば、可能性があると考えておりました。まさか本当にご息女とは思いもよらず……驚きです」
ソレイユは視線を落として、気まずそうに口を結ぶ。
「……知らなかったわけじゃないけど、こんなふうに世間で話題になってるなんて、ちょっと想像もしてなくて。私、父がどれだけ偉いかなんて、あまり意識していなかったし」
沈黙がテーブルに降りる。ヴィルと私は言葉を選ぶように視線を交わし、間を置いた。
やがてソレイユが顔を上げ、恥ずかしそうに笑う。
「……父が軍人なのは事実だし、私が書類整理を手伝っていたのも事実。でも私は強制されたわけじゃないの。だって、ほんとうに楽しかったんだもの。逆に言えば、おかげで文書を整理するのが得意になったんだけど……さすがに軍の資料ばかりじゃ退屈だから、あるとき魔術関連の文書を読んでみたら、とても面白くて。その流れで魔術大学を目指すことになったの」
「なるほど。じゃあ、魔術の道を選んだのも、お父さまの書斎がきっかけだったのね」
うん、と頷き、好奇心の光をこちらへ向ける。
「そうなの。飛び級でここに入れるほどの魔術適性があったのは、両親のおかげでもあると思う。今は、古今東西の知識と文献が集まるこの大学で、思う存分勉強できて、すごく幸せ。……と、そんなところ、かな」
ふんわりと笑う彼女の奥に、底の見えない才覚がのぞく。
胸のどこかが複雑に揺れた。軍人の娘である彼女、そしてヴィルの視線。その交差の先に、私にはまだ名付けられない何かが動いている気がする。
ヴィルは完璧な騎士の姿勢を崩さぬまま、向かいに座っている。必要最低限の言葉だけを置く横顔が、肩甲骨の間を少し固くする。ほんの数歩先にいるはずなのに、指が宙を掴むだけで届かない。
――いったい、どうしてこんなにも距離ができてしまったの……?
淡い寂しさが喉の奥を固くする。ヴィルの視線は私に触れず、“公務にある護衛”を演じ続ける。
――もう、やっぱり言葉が喉の手前でほどけてしまう……。
苦い思いを抱えたまま、私は食事を早々に切り上げた。ソレイユが「大丈夫?」と覗き込む。私は作り笑いでかろうじて返す。
「ちょっと、いろいろ混乱しちゃって。頭の中を整理しないとね……」
――無言の彼に胸が詰まる日が来るなんて。ひと言「ゆっくり休め」があれば、それだけで救われたのに。そう思ったところで、はっと背筋を正す。
今は講義の準備が先。ソレイユが手を貸してくれているのだ。自分の感情で、彼女の時間を曇らせたくはない。
スープの最後の一口を飲み込む。舌に残る塩味がやけに薄く、空腹だけのせいではないと、内側の声が囁いた。
◇◇◇
食後、ソレイユは「忘れ物を取りに行く」と軽やかに走っていった。
ヴィルと二人、食堂を出て回廊へ。石床の冷えが靴底からせり上がり、ランプの炎が壁に揺れを落とす。袖裏の布の感触を、指先でそっと確かめる。
それでも彼は、舞台の上の騎士のようだった。フォーマルな言葉遣い、過不足のない所作――さきほどまでと同じ丁寧さで、私を護る姿勢を崩さない。全部が少しぎこちなく見えるのは、気のせいではない。
「ヴィル……ここのところ、あなたの態度、おかしくない? どういうつもりなの?」
抑えた声が、広い回廊で薄く反響する。炎の揺れが影を伸ばし、二人の輪郭を別世界へ切り分ける。
ヴィルはわずかに身を引き、表情を動かさない。
「何でもありません。ご心配なさらず。騎士として、当然の振る舞いをしているだけです」
さらりとした音色が、皮膚の内側を冷たく撫でた。袖口を整える仕草まで隙がなく、あの朴訥さが見当たらない。息を一つ噛み殺し、掌で裏地をそっとつまむ。
「でも……あなた、こんなにかしこまった言葉遣いなんて、今まで私の前でしたことなかったじゃない。一体何があったの? どうして避けるの……?」
声の端が尖る。理由がほしい。その思いが胸の空気を押し上げる。
それでもヴィルは足を止めず、私が詰め寄るたびに半歩ずつ歩を早める。
半歩の差が、踏み出すたびにもう半歩へ増える。靴音だけが、私と彼の間を測っていた。
「ミツルお嬢様。どうかここでは声を立てないでください。人目がある場所で不用意な会話をするのは賢明ではありません。それと、私はあなたを避けてはおりません」
振り向かないまま落ちる声は、無機質な鎧の奥から聞こえるみたいだ。言葉が喉で途切れ、胸の中に空洞が開く。
――いったい、何を考えているの? どうして問いかけても、まっすぐ届かないの?
鼻先の息が震え、視線を上げる。彼の背筋が、微かに強張った。
理由は――ある。私には告げられない何か。私を傷つけないための伏せ事。けれど、知らされない距離ほど、辛いものはない。
「……隠していること、あるんでしょう? どうして教えてくれないの……?」
細い声は風に削がれ、石壁に飲まれる。彼は一歩、また一歩と距離を取る。追いついても振り返らない背に、手のひらが空をすくうだけだった。
熱が胸の内側で膨らみ、焦りへ転がる。優しいはずの人が、冷えた殻の内側に籠もる――そのほんの数歩が、遠い。
風が走り、ランプがひときわ揺れた。乾いた足音の間が伸びて、私たちのあいだを裂いた。
沈黙に耐えきれず、もう一度声を――と口を開きかけたとき、回廊の向こうに大学職員の影。ヴィルはそれを捉えるなり、歩を緩め、私へ優雅にかしずく。さっきの拒絶が嘘のように、“公務の護衛”を完璧に再演する。
「さあ、参りましょう、お嬢様」
その声は、私にではなく“役目”に届いた。
涼やかな声は、私を護るためだけの音だと思い知らされる。
今こそ「違う」と叫びたいのに、仮面をはがす術を持たない。職員の視線の下で――王家の養女と騎士――と見られている自覚が、舌裏の乾きを呼び、境界線をさらに深く刻む。
――私はただ、答えが欲しいだけなのに。どうして、こんなにも遠ざけられるの……?
やるせなさを飲み込み、視線を落としてその背を追う。問いかけと沈黙が短い時間に反復される。喉元まで出かかった言葉は、灯火の影に吸われて足元へこぼれ落ちた。
回廊の灯が足元を黒く塗りつぶすたび、心のもどかしさが増幅していく。私と彼のあいだを隔てるものは何なのか――その答えがわかるのは、きっとまだ先だ。
灯心が小さく弾け、闇がすぐに塞ぐ。届かないままの一歩を、足裏だけが覚えていた。
ChatGPT の回答は必ずしも正しいとは限りません。重要な情報は確認するようにしてください。
今回は王道ともいえる「騎士と王家の姫(養女)の距離感」が主軸に据えられていますが、その背景には政治的・軍事的な要素や、魔術の存在など、多層的な要素が絡み合っています。
ソレイユの存在感
文章や情報整理の達人
ソレイユは文書編集や情報整理に長けており、ミツル(主人公)にとっても大きな助けとなっています。彼女の指先が“魔術”のように文章を生き生きとさせる描写は、単に能力面の優秀さを示すだけでなく、彼女自身が “軍人の娘” という背景を持つことと無意識に結びついていると考えられます。
軍人の娘という立場
軍事関連の機密を幼い頃から扱ってきたという経歴は、普通では考えられない特別な環境を暗示しています。作品世界では、家族の立場や素質(魔術適性)をも含め、彼女がミツルの隣に並び立つだけの器量を持っていることが示されています。
ミツルの戸惑いと焦燥
精霊魔術の講義を控える中での葛藤
物語冒頭で示される「精霊魔術の講義」の準備は、ミツルにとって大きな使命や責務を背負っているはず。それにもかかわらず、心の大半を占めているのは、ヴィルとの“すれ違い”からくる不安やもどかしさ。使命と恋心の板挟みは王道展開ながら、政治や軍事要素を背景に据えることで、より大きな運命に巻き込まれる予感を感じさせます。
ヴィルへの募る不安
以前は無骨で親しみやすかった騎士が、今や誰もが認める“完璧な護衛”としてふるまい、ミツルに距離を取るような態度をとる――その変貌に対し、ミツルはどうしても「理由」を聞き出したいと思う一方で、彼が一切答えてくれない現状に苛立ちを覚えているようです。
王家の“姫”として扱われることへの違和感
ミツルが護衛付きで公務のように食事をする場面、大学職員の前で“王女と騎士”という図式が浮き彫りになる場面などは、立場上の縛りが二人の関係を制限していることを象徴的に示しています。彼女がただの少女として自由に想いを伝えられない様子が切なく描かれています。
ヴィルの変貌と秘密
よそよそしい態度の背後
ヴィルが完璧な礼儀作法を崩さず、フォーマルすぎる言動を続けるのは「ただの騎士らしさ」というには不自然です。彼が何かしらの秘密、もしくはミツルを遠ざけざるを得ない理由を抱えている可能性が高いでしょう。
“雷光”の騎士、そして聖剣の継承者
かつては無骨さが魅力だったヴィルが、伝説的な剣士であり、王家の聖剣を預かる立場になったことで、過去の自分を封じ込めようとしている節があります。周囲の目、王家の名、軍内部の情勢といった外的要因が重なり合い、彼自身が「ミツルとの距離を取らなければならない」と決意したのかもしれません。
読者視点の“もどかしさ”
ミツルとの会話をかたくなに避け、何かを隠している様子が強調されているため、“すれ違い”を存分に煽る効果があります。読者としては「なぜそこまでミツルを拒むのか」「ヴィルは何に葛藤しているのか」が気になり、物語を読み進める動機づけになります。
物語の今後に期待される展開
精霊魔術の講義と陰謀の動きが交錯
クロセスバーナなどの国際情勢が講義の成否にどう絡むのか。
ミツルが講義を通じて得る影響力や注目度が、王家・軍部・ヴィルとの関係に波紋を広げていく可能性。
ヴィルの態度の真相解明
ミツルを遠ざけざるを得ない理由――それは軍の陰謀か、王家の命令か、または個人的な感情か。
恋愛面
ヒロイン(ミツル)の戸惑いと焦り、そしてヴィルの不可解な態度による“すれ違い”が大きな見どころです。切ない雰囲気が強まり、“早く真相を知りたい”“二人の距離が縮まってほしい”という期待を高めます。




