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黒髪のグロンダイル わたしたちはふたつでひとつのツバサ  作者: ひさち
第二章 前世回想「深淵の黒鶴」編 ダイジェスト「氷の王子様」は「囚われの姫巫女」
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黒鶴誕生

◇◇


 廃れたホテルの闇と湿り気が、私たちを取り巻く空気をいっそう重くしていた。その静寂のなか、突如として茉凜が姿を現した。どうして彼女がここへ辿り着いたのか理解できず、胸中に激しい動揺が走る。後になって知ることになるが、私の靴に仕掛けられたGPS発信機と天のメンバーによる誘導が、彼女をこの場所へ導いたのだった。


「来るんじゃない、茉凜!!」


 思わず、彼女の「名前」を呼ぶ。自分でも驚くほど自然に、痛切な叫びが唇を突き破った。その声が虚しく響くなか、明は鋭い眼差しを茉凜へと向けた。その瞳には暴風のような殺意が宿り、血に飢えた獣が牙を剥くように、荒々しい気配が漂っている。


「あんた、弓鶴くんの何なの? 邪魔なのよ! だから死んでよ!」


 憎しみと焦燥に満ちた言葉が、茉凜への嫌悪と脅威を露わにしていた。茉凜の命が、風前の灯火のように揺れている。このままでは彼女は殺されてしまう。その危機感が、私を必死に動かそうとする。しかし、明の圧倒的な体術が私の行動を封じ、金属の棒が私の腹を強打する。痛みが全身を麻痺させ、視界が白く滲んだ。


 薄闇に包まれた視界の中、私は信じがたい光景を目撃する。


 茉凜が、明の鋭い剣戟をことごとく回避している。まるで攻撃の先を見透かすような動きで、三家後継者である明の攻撃を逃れ続ける。そんなこと、常識的に考えてありえない。彼女は特殊な訓練も受けていない普通の少女なのに、その不自然な能力を目の当たりにし、初めて出会った日の衝撃を思い出していた。


 だが、回避しているだけでは勝ち目はない。明は焦燥を募らせ、ついに深淵の「赤」の力を解放した。場裏が金属の棒に絡みつき、紅蓮の炎で世界を焼く焦熱の剣が生まれる。灼熱の熱波が廃ホテルの暗闇を赤く照らし出し、空気が歪む。明の表情からは、いかなる迷いや情感も消え去っていた。そこに宿るのは冷酷な殺意のみ。


 茉凜は激しい熱風に身を縮めながらも、必死に逃げ続ける。表情には恐怖が滲み、もう以前の平和な日々の面影はどこにもない。私の胸には、どうしようもない切迫感が押し寄せ、茉凜をただの道具として終わらせたくないという、強烈な思いが湧き上がる。


 明の剣技が繰り返し繰り出され、飛び散る破片や砕ける柱が茉凜を追い詰めていく。「もうやめてくれ!」私の絶叫は虚空に消え、明は止まらない。だが、次の瞬間、明は突然身動きが取れなくなる。彼女の足元に、べったりと絡みつく粘着トラップがあった。


 それは罠だった。茉凜はただ逃げ回っているようで、実は天のメンバーたちが仕掛けた粘着トラップへ明を誘導していたのだ。その奇策により、状況は一変する。


 茉凜は即座に私のもとへ駆け寄り、激しく叱責する。その声音には怒りと共に、深い失望が込められていた。


「柚羽くん、わたしはあなたにとって必要な道具なんでしょ? その道具を忘れていくなんて、この大馬鹿がっ!!」


 彼女は私が放った冷酷な言葉を責めているのではなく、私が独断で彼女を遠ざけようとした愚かさを叱っている。その眼差しは、私がどれほど浅はかだったかを否定し、私に猛省を促しているようだった。胸が締め付けられる。彼女を軽んじていた自分に、激しい後悔が湧き上がった。


 私には彼女が必要で、彼女もまた私を必要としている。その事実を突きつけられ、私はようやく、自分の独りよがりに気づく。茉凜の怒りには、嘆きにも似た痛みが宿り、彼女がどれほど真剣に私と行動を共にしているかを思い知らされる。


 そのとき、罠から抜け出した明が、再び狂気に満ちた瞳で私たちを狙う。深淵の過剰な力に蝕まれ、理性を失った獣のような眼差しだ。


 私は決意を込めて茉凜に言う。声は引き絞るように、しかし確かな強さを持って。


「俺は、黒を使ってあいつを止める。すまないが、手を貸してくれるか……?」


 彼女は一瞬も躊躇せず、微笑みを浮かべて頷いた。


 その笑顔は、私の後悔と決意を柔らかく受け止めるような温もりを伴っていた。これから先、どんな運命が待ち受けているか分からない。それでも、彼女と共にあると誓ったこの瞬間が、私の胸に一筋の光を差し込んでいた。


「うん、いいよ……。たとえあなたが暴れたって、わたしが止めてみせる。自信なんてないけど……だからこそ、やるしかない」


 茉凜の決意に満ちた声が、私の胸の内を熱く揺らし、深く息を吸い込むように心を奮い立たせてくれた。彼女の信頼と決意が、私の迷いや恐れを払拭し、共に戦うための力を与えてくれる。


 私たちは自然と手を取り合う。戸惑いやためらいなど、そこには存在しなかった。それは「ふたつで一対のツバサ」が、今まさに羽ばたこうとする瞬間のようだった。


精霊子ちからよ、集え……」


 目を閉じ、心の底から湧き上がる強い願いを込めて、私は静かに呼びかける。精霊子を受け入れる器として、私の魂はすでに整っていた。


 意識が鮮やかに覚醒する感覚の中で、深淵の闇が狂気へと私を誘い込もうとする。けれど、不安はなかった。なぜなら、私には茉凜が、そして彼女が与えてくれる光があったのだから。


 周囲には無数の淡い光の粒が舞い降りていた。夜空に散りばめられた星々が、私のまわりに降り注ぐように輝く。その光は、柔らかな白と金色のニュアンスを帯び、暗く沈んだ世界のなかで優しく、そして力強く揺らめいている。


 透き通る光の流れは、冷え切った私の心をゆるやかに溶かしてゆく。夢で感じた遠い日の記憶を呼び覚ますように、心の底にある柔らかな感動を呼び起こしてくれる。


 私は光に魅せられるように手を伸ばした。その先から差し出された、温かく柔らかな手。その手が私の手と触れ合うと、不思議なほど深い安心感と穏やかな力が、私の中へと流れ込んでくる。その瞬間、私の足元を絡め取っていた闇が解かれ、深い虚無から救い出されるのを感じた。


 耳元に、かすかな風のささやきと、翼が羽ばたく微かな音が響く。その調べが、心の奥深くへ静かに染み込んでいった。


 闇の奥から現れた黒い塊は、ゆっくりと巨大な翼へと姿を変えていた。優雅に羽ばたくたびに、その翼の先端からは無数の小さな輝きが舞い散る。星屑のような粒子が、闇を切り裂き光の川を描く。夜空の星が零れ落ちたかのようだ。


 その光景は、一枚の絵画に紡がれた幻想のようだった。光の粒が煌めき、翼から星屑が流れる。そのたびに私の心は奪われ、高揚に息を呑んだ。そこには、私と茉凜が初めて深く繋がった確かな絆があり、力の糸が彼女と私を強く結んでいることを感じる。


 この刹那、私たちの決意は固く、闇に立ち向かうための翼が確かに生まれたのだ。彼女の存在が私を支え、私の力が彼女を守る。その循環が、ふたつで一対の翼を生み、静かで確固たる意志がそこに息づいていた。


◇◇◇


 黒の力が解放され、怨念と破壊が渦巻く。だというのに、手を通して伝わる茉凜のぬくもりは、心の底へ静かに染みわたった。その温かさは、嵐吹き荒れる闇の中で、か細く揺れる小さな灯火のようだった。どんなに深い暗闇に包まれようと、その光は私を包みこみ、凍てついた魂に柔らかな熱をもたらしてくれる。


 恐怖も不安も、彼女の存在を前にすれば、薄闇に溶けて消えていく。ただひたすらに彼女を守りたい。その思いが、胸の中で鮮やかに燃え上がる。一方で、黒の力への新たな恐怖も生まれていた。その力は私の中に潜む狂気と恐れを呼び覚まし、心の深部を抉る。こんな力で、明を傷つけてしまうことだけは、絶対に避けたかった。


 その願いが通じたのかは、わからない。明の内側に堆積していた怒りと狂気が、黒煙のように揺らめきながら、ゆっくりと私の中へと呑み込まれていく。その様は、私自身の一部が暗黒の底へ沈んでいくような感覚をもたらし、身震いするほどの戦慄を呼び起こした。


 後に知るが、黒の力の本質は相手の精霊子を奪い、流儀さえも写し取るものだった。精霊子への高い感受性が、この不気味な力を助長する。私という「器」の容量は、限界を超えて拡大していく。


 ――これが「すべてを呑み込む深淵の黒」の力。その気配を肌で感じながらも、私の心には確かに、茉凜の温もりが残っていた。暗黒の海で溺れかけながらも、ほんの小さな浮標のように、彼女の存在は私の精神を辛うじて支えていた。


「弓鶴くん……あたしから力を奪ったの……? そんなの、ひどいよ。どうして……?」


 明のか細い声が、私の内側を切り裂いた。その声は、花びらが闇夜に舞い散るような儚さをはらみ、静かに私の心に深い傷を刻み込んでいく。立ち尽くす彼女の輪郭が、ぼんやりとかすみ、廃ホテルの暗がりに溶けてゆく。その光景は、夜空の星が音もなく消えていくような、悲痛な美しさをまとっていた。


 助けたい。その思いが胸を突き上げ、私は重い身体を引きずるように前へ踏み出そうとする。だが、その瞬間、霧のような目眩ましがあたりを覆い、明の付き人が現れて彼女を連れ去ってしまう。視界が揺られ、世界がぼやけるなか、彼女は遠ざかっていく。細い腕も声も、私はなすすべなく見送るしかなかった。


 やがて、私も茉凜も激しい消耗に耐えきれず、地面へ崩れ落ちた。糸が切れた人形のように、力なく横たわる私たち。周囲には静寂が漂い、舞い散る微かな光が、時を止めたような幻想的な情景を描いている。


 悔しさと虚無感に意識が沈むなか、最後に茉凜の温もりの残響を感じていた。それは、どんな暗闇にも消えない、一筋の光の名残であった。

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