巫女の恩返しは揚げたてスパイスチキン
夜明け前の冷気は、肌の上で薄い硝子の膜みたいに留まっていた。窓の向こうで薄紅がほどけ、白い壁にやわらかな色が滲む。浅く息を吸うと、金具と石の匂いがかすかに混ざった。離宮は、早起きの心音みたいに静かに高鳴っている。
廊下は音を飲みこむ。磨かれた床を滑る靴底、布の囁きだけが続く。籠を抱えた給仕が行き交い、葉の青い香りと温められたスープの湯気が、すれ違いざまに揺れた。
その流れの中で、ただ一人、刃のような視線を持つ人の歩幅だけが一定だった。ヴィル・ブルフォード卿。肩の動きに無駄がなく、長い外套の裾が風の代わりに空気を撫でる。髪に朝の色が乗り、頬の陰影がきりりと締まる。
声は低く、石に吸われて丸くなる。
「そこはもっと間隔を保て」
「動きが甘い。それでは非常時に反応が遅れるぞ」
命じる響きなのに体温がある。言葉を受けた背筋が、一枚すっと伸びる。角で交わる囁きに〈雷光〉の古い呼び名が混じり、軽口も敬意も、ここでは同じ意味――頼っている、の合図だ。
手すりに指を添えて、ひと呼吸。石の冷えが指腹のかたちを拾う。彼の足音が遠ざかるたび、胸の高さの空気がわずかに軽くなり、代わりにみぞおちがきゅっと締まった。
誰よりも早く起き、誰よりも遅く眠る人だ。巡回簿の端の汚れまで、彼は見落とさない。廊下の埃、扉の蝶番、見張りの交代――細かなものほど見逃さない。
私が目で追えないものを、彼は拾っていく。何も言わずに。
見回りの折り返しで肩をゆるめる瞬間、外套の内側に指を潜らせて熱を逃がす癖。疲れを笑いにまぎらせる、一拍の沈黙。小さな仕草が、目の裏に焼きついて離れない。
廊下の隅で掌を握る。爪がかすかに皮膚へ触れて、そこだけ温度が戻った。
「彼に、何か恩返しをしてあげなきゃな……」
唇の内側で転がった声に、自分の幼さが混じり、頬の奥がじんと熱くなる。けれど今朝の私には、それがいちばん大事だ。胸の小さな灯を両手で包むみたいに――一日を、そう始めたいと思った。手すりから指を離す。指先に残った石の冷たさが、背中を押した。
◇◇◇
“精霊の巫女の再来”だとか、伝説の聖剣だとか。噂は好きに走る。けれど私の揺れは、もっとささやかなほうにある。
彼の献身が、怖いほど沁みる。廊下をひとり歩きながら、思わずこぼした。
「何でもいいから、感謝を伝えたい。言葉だけじゃなくて、何か形のあるもので……」
その瞬間、胸の奥の白きマウザーグレイルがやわらかく共鳴して、声が重なる。
《《ふんふん。いいことだねー、それは》》
茉凜。剣に宿る友で、時に姉で、私の視覚や聴覚を通して話しかけてくる。
《《だったら、ヴィルが好きそうなものを作ってみたら? おいしいものって元気になるし、彼なら絶対喜ぶよ!》》
「……料理?」
まばたきが一度増える。離宮に来てから、台所にはほとんど立っていない。
《《だーいじょうぶ! ちゃんとわたしがレシピや手順を教えるから。王都で食べたあれやこれや、思い出してみて。ほら、たとえばあの唐揚げみたいなやつ!》》
「……スパイスチキン・フリット、だったっけ?」
カリッと弾ける衣、香りの立ち上がり。通りの角で足を止めた朝の光まで、舌の奥が思い出す。
《《そうそう。それなら、忙しくても手軽につまめるし、ヴィルにはピッタリだと思うよ》》
不安はある。でも、私が“作りたい”と思えるなら、それだけで価値がある。
「うん……わかった。その案採用。やってみよう。私、不器用だから、失敗したらごめんね、茉凜」
《《何を言うのさ。わたしにまかせておきなさい!》》
背中を軽く押される。足取りが自然と速くなる。胸の奥で、久しぶりのわくわくが小さく灯った。
◇◇◇
離宮の厨房は広い。包丁の刻む音、鍋の息、湯気の白。人の気配が交わるほど、空気の温度が上がる。
多さに気圧されかけた私は、厨師長の笑顔に救われた。
「ほう、あの雷光殿の小腹を満たす一品を作りたいと。どうぞどうぞ、食材も自由に使っていただいてかまいませんよ」
軽口の奥に、楽しげな興味。ありがたさに肩の力が少し抜ける。彼の記憶のどこかに、母さまの奔放な伝説が混じっているのかもしれない――そんな連想が過ぎた。
「よし、頑張るぞ……」
囁き、ドレスの上から薄手のエプロンを結ぶ。髪を高くまとめ、結び目を指で確かめる。拳を一度つくり、開く。指先に力が戻った。
《《気合いはよし。けど、お嬢様がドレス姿で調理ってところが不思議な光景なんだけど》》
「そ、そんなこと言わないで……だってここには簡単な作業着くらいしかなくて、それにサイズだって合わないし」
調理台の前へ。器具は揃い、瑞々しい色が並んで私を迎える。やらない理由は、もうない。
《《その意気だよ、美鶴。冷蔵庫(魔道具)にある鶏肉を使って、わたしがまとめたレシピを視覚に重ねるから確認してみて》》
「……う、うん」
右端に淡い光が灯る。
――〈リーディス流「唐揚げ風」スパイスチキン・フリット〉――
手順は一行ずつ現れ、工程に合わせて自動で強調へ切り替わる。左下の“所要目安”が細く点り、輪が静かに回り始めた。
棚の二段目が薄く縁取られ、小さなタグ〈鶏もも肉〉と三角マーカーが跳ねる。意識より先に、手が伸びた。
《《よし、鶏肉ゲットだぜ。まな板の手前をちょっと広く使って――》》
包丁を取る。視界に細いガイドラインが走り、力を入れすぎない弧を示す。
刃が筋を断つ感触に合わせ、右上へ〈切り身平均厚:21.8mm〉。緑に寄るほど、短くやさしい合図音。収束のたび、耳の奥で砂粒が転がるみたいに鳴り、息がひとつゆるむ。
《《次は下味。塩は肉の重さの2%くらいがベストだから、だいたいこれくらいかな……》》
ボウルがハイライト表示に。肉を入れると〈総重量:503.2g〉、続けて〈塩:10.1g〉。掌から落ちる塩の糸に、視覚内のゲージが伸びてぴたりと緑で止まる。
おろしにんにく〈小さじ1〉、ハーブ三種〈各 小さじ1〉。瓶に触れるたび、ラベルの上に小さなチェック表示が灯り、工程がひとつ右へ滑る。
《《うん、いい感じ。ハーブはタイムとローズマリー、オレガノをそれぞれ小さじ1程度で! 例の醤油風調味料は香りを引き立てるくらい、ほんの少しだけね》》
オリーブオイルを回し、全体をやさしく揉み込む。
〈撹拌ムラ:低〉→〈OK〉。白い容器に“寝かせ”のアイコンがふわりと点り、カウントが静かに走り出す。
誰かのために作る――それだけで、胸の温度が上がる。
衣へ。粉のボウルが縁取られ、〈米粉:とうもろこし粉=1:1〉。スプーンを入れ替えるたび、ゲージが“1:1”へ収束していく。
粉を指で弾くと、さらさらが掌の線に残り、肩のこわばりが解けた。
《《米粉ととうもろこし粉を混ぜ合わせて……パプリカパウダー小さじ1、黒胡椒少々、カイエンペッパーは本当に一つまみで。はい、そんな感じ》》
「うん……これくらい?」
《《うん、ばっちり! これで衣の準備完了だね》》
下味の肉に薄衣。視覚内の小さな円の“薄衣”マークが明るくなり、余分を払うたび、縁が気持ちよく閉じる。
油鍋が強調され、注いだオイルの底に〈134℃→〉。火力を上げ、〈170℃〉で緑の合図音が耳朶に触れた。
《《温度はちょうどいいよ》》
「ありがとう、茉凜。温度を測れるなんて……ほんとうに助かる」
《《ふふ、マウザーグレイルの力って、こういうところでも活用できるんだよ。はい、鶏肉を衣ごと、ひとつずつ静かに入れてみて》》
矢印が“静かに”の動線を示す。泡が規則的に弾け、左上の〈経過:00:38/03:00〉が進む。〈表面色:淡金→狐〉のバーが、じわじわ色を変えた。
菜箸を持ち替えるたび、つまむ位置が淡く縁取られる。音が一段低くなる。
今だ。〈油切〉が点り、ペーパーに置けば〈油分:下降中〉がくるくる回る。
《《表面がきつね色になったら、一度取り上げるんだよ。最後に温度を上げて二度揚げするからね》》
「わかった」
火力を上げる。表面温度〈190℃〉が点滅し、短いリズムで縁が光る。タイマーは〈00:27〉で止まり、〈OK〉が弾けた。
「……できた……!」
網の上で湯気が立ちのぼる。レモンの皮を削ると、視界の片隅で〈香気:上昇〉の波形が跳ね、刻んだパセリの上に緑のチェックが灯る。
衣の黄金、パセリの緑、レモンの明るい香り――胸の奥で、指先で灯したみたいな明かりがともる。
「……茉凜、本当にすごいね。私の視覚や触覚を通して、ここまで正確に分かってしまうなんて」
《《ふふ、それと共振解析も併用してるよ》》
「へーっ……」
《《すごいでしょ? でも、それを素直に受け入れてくれた美鶴だからこそ、うまくいったんだよ。まさに連携の勝利》》
耳の奥がくすぐったい。
「実は……昔、あなたが作ってくれた手の込んだ唐揚げ、私、大好きだったんだよね」
《《知ってるよ。あの時のあなたは“彼”だったし、無愛想で、そんなこと一度も言ってくれなかったけど》》
「ご、ごめんって。あの頃はいろいろバカだったから……」
《《いいのいいの。何も言わなくても、わたしにはちゃんと伝わってた。だってすごくわかりやすいんだもん》》
「そんなに、顔に出てたかしら?」
《《表情だけじゃないよ。よく見てればわかる。それと、わたしにはオーラが見えるのだ》》
「はいはい。ようするにバレバレだったというわけね。私の“氷の王子様”の演技も、あなたの前では形なしだった、ってことか」
《《でも、今こうして言葉にしてくれると嬉しいな》》
紙を広げる。上に〈保温:推奨/持ち運び6分〉の小さなカードが揺れた。
手早く包んで紐を結ぶと、包みの上で“リボン”のピクトがぴょこんと跳ねる。その六分が、彼へ向かう距離とぴたり重なって、可笑しくなって、小さく頷いた。
《《さあ、あとはヴィルをびっくりさせてあげるだけだね》》
「あ……そうだった。早く持っていかないと冷めちゃう」
茉凜に励まされ、揚げたてのスパイスチキンを素早くラッピング用の紙に包む。紙越しの温かさが、かじかんでいた指先をゆっくり解いていく。包みを胸に寄せると、香りがそっと立ちのぼり、鼓動の速さに合わせてほどけた。
ヴィルは「元銀翼騎士団の右翼の副長」という肩書を持ち、離宮の護衛部隊をまとめる要。その彼を周囲の人々は「冷静沈着」「疲れ知らず」と評していますが、本文中のミツルの語りによって、彼の献身ぶりがさらに際立ちます。
休みなく働く姿が示すように、職務への責任感だけでなく、「ミツルのために安息を削ってでも守ろう」という強い意志が感じられる。しかしその献身は、ミツルにとって少し怖いくらい大きな存在。だからこそ「何か恩返しがしたい」と強く思うわけです。
ここで注目したいのは、ミツルが「彼がどれほど自分を大切に思ってくれているか」に気づいており、それを具体的な形で返そうとしている点です。物語としては、ヒロインが、自分の意志で“何かをしてあげたい”と思い行動を起こす展開になっています。これはミツルの心の成長を描く上で重要なパートと言えます。
ミツルの心理 巫女としての立場と小さな願い
ミツルは巫女として国中から噂される存在であり、先王を癒やした“奇跡”の持ち主と見られています。一方で本人は、周囲の期待が大きすぎるがゆえにどこか引け目を感じていたり、厳かな雰囲気の中で過ごすことに戸惑いを覚えています。
その一方で、彼女の「もっと些細なこと」に揺れる心はとても人間的。「大きな奇跡を成した私にとっても、身近で大切な人を笑顔にしたい」という素朴な気持ちは、読者に共感を呼び起こします。
巫女という神聖な役目や噂話が飛び交う中、「スパイスチキンを作ってあげたい」という実に家庭的で温かな願いは、“特別な存在”と“普通の女の子”との狭間で揺れるミツルのキャラクターを象徴的に映しています。
茉凜との対話 前世の記憶と現世の繋がり
ミツルの内側から語りかける茉凜は、前世からの記憶や豊富な知識を持ちつつ、今もなお彼女を支える存在です。
本来“白き剣”でありながら量子コンピューターめいた解析を行えるマウザーグレイルという設定はファンタジーとSF的要素を掛け合わせたような独特の世界観を感じさせます。
茉凜が単なる“AI”や“精霊”ではなく、前世でともに生きた記憶を共有する“人間味”のあるキャラクターとして描かれることで、ミツルとの心のやり取りも温かいものになっています。
ミツルが感じる“頼もしさ”と“少しの寂しさ”は、友人でありながらどこか超越した存在となった茉凜との距離感に由来します。これが物語に微妙なニュアンスを添え、読者に「ふたりの関係性はこれからどう深まっていくのだろう」と興味を抱かせます。
料理シーンがもたらす“絆の表現”
この物語の核となるのは、やはり「離宮での騎士への恩返しとしての料理」というエピソードです。
ミツルは“巫女”として大それた力を振るうこともできる立場でありながら、“スパイスチキン・フリットを揚げる”という極めて日常的かつ小さな行動で相手を喜ばせようとする。料理は“人を癒す行為”の一端でもあります。しかも「王都で食べ歩いた時の記憶」が下地になっており、ミツルにとって過去の幸せな瞬間を呼び覚ます行為でもある。そうした“懐かしさ”や“温かな感情”が、料理の匂いや音とともに描かれているのが印象的です。
茉凜の的確なサポートを借りながらも、結局はミツル自身が「誰かを思いやる気持ち」で腕を振るうところにこそ、キャラクターの成長と優しさが凝縮されています。




