ヒロイン指名、放課後の部室で
騎士ウォルターは、旅の終わりにいた。背後には、骨のように転がる戦場の残骸。冷たい風が、動かない左腕を撫でていく。薄曇りの空は、彼の内側を映す鏡のようだった。
数週間前、この腕はまだ動いていた。破壊された村々、押し寄せる魔族、炎の中で振るう剣。絶望、友の血、敵の叫び――戦いが終わる頃、彼は左腕の自由を失った。以来、時間は戦場で止まっている。瞼の裏を、死にゆく仲間の影が横切った。
ある日、森の奥、淡い光が漏れる泉のほとりに辿り着く。
水面の上を、一人の少女が舞っていた。さざ波を立てる静かな身振り。夢のような光景に、ウォルターは息を呑む。絶望と混沌に満ちた世界の反対側――ただ美しい舞。失っていた喜びや感受性が、体の底から蘇る。戦場で築いた冷徹な鎧の、ちょうど逆側に灯る温かさ。
「……美しい」
乾いた唇から零れた囁き。血と鉄の匂いが、ほんの少しだけ剥がれ落ちた気がした。
見つめる瞳に、小さな光が宿る。希望と過去、新たな始まりへの予感。――舞は物語を語り、物語は人を生かす。そんな当たり前を、彼は長く忘れていた。
◇◇
放課後の演劇部室。古い木とペンキの匂い。脚本・演出の高岸(二年・赤縁眼鏡)が満面の笑みで駆け寄る。
「おおお、柚羽君、来てくれたんだ! 役を引き受けてくれてありがとう! これで、イメージ通りのキャスティングが完成するわ!」
前のめりの歓迎に、一歩退く。彼女の中では、すべてが決定事項らしい。喉の奥で不安が渦を巻く。
「い、いや、俺はまだ引き受けるとは言っていない。無碍に断るのは失礼だから、一応話だけは聞こうと思って来ただけだ」
「そうかそうか、よく来てくれた!」
葛藤など意に介さず、目を輝かせて続ける。その勢いに、一瞬だけ『引き受ける』が頭をよぎる。
「柚羽君、あなたはこの役にぴったりなの! 我が校随一の美貌はもちろんだけど――」
言葉を探し、ぐっと身を乗り出す。
「――男の子が女の子を演じる、その恥じらい! 初々しさ! これが欲しかったのよ!」
部室に反響する高い声。沈黙。頬に熱が集まる。――話題性だけ、ではないのか。私には『ただの演技』では済まない。
「ま、まずは詳しい話を聞いてからだ」
引きつった顔のまま、隣の灯子に小声で問う。
「この人、本当に大丈夫なのか……?」
「まあ、彼女っていつもこんな感じだから。ちょっと妄想癖があって暴走気味だけど、仕事ぶりは確かだよ。それに、彼女の観察眼と直感は折り紙付きだからね。突拍子もないけど、不思議と核心を射抜くことがあったり」
「直感、ね……」
高岸が真顔で灯子に詰め寄る。
「如月さん、あなた、話は通したって言ってなかった?」
「通したわよ? だから連れてきたんだけど、でもオーケーしたとは言ってないから」
「私はこれに命を懸けてるのよ。いい加減なことされると困るんだけど」
――命など懸けるなって。
飲み込み、私は説明を聞く。
テーマは「運命と自己犠牲からの救済」「希望に向けての旅立ち」。オーソドックスなボーイ・ミーツ・ガール。
配役――主役の騎士に茉凜、ヒロインの姫に私、敵の魔族将軍に洸人、その右腕の戦士にアキラ。
「なぜ部外者の私たちが?」には「イメージ優先と意外性」と一刀両断。深淵の影や過去の気配を、直感で嗅ぎ取ったのだろうか。
茉凜の騎士役について、高岸は熱を上げる。
「加茂野さんは、背が高くてすらっとしていて、男装したら絶対に映えると思うのよね」
歌劇団の男役――と同時に、私の前での彼女ののほほんとした表情が浮かぶ。
弓鶴より高い背、王者のような所作。落雷で壊れた日々から、新しく生まれ直そうとする芯の強さ。あれが、彼女の核だ。
同じ舞台に立てたら――一瞬の想像を、すぐに打ち消す。だめだ。
結局、その場で即答は避け、脚本を持ち帰ることにした。
不安と、ほんの少しの期待を抱え、夕暮れの部室を後にする。沈黙の廊下で、逃げ出したい衝動を抑えながら――誰も、しばらく口を開かなかった。
◇◇◇
学校を出た私たちは、並んで歩いた。誰も口を開かない。茜の光がアスファルトに長い影を落とし、湿った風が頬を撫でる。排気と土の匂いが、夕方の温度でゆっくり混ざった。
少し前を行く茉凜の背中が、ふわりと揺れる。横顔には微笑み――けれど遠い灯りを映す瞳は、期待と不安のあいだで細かく揺れていた。吐息が白い。スカートの裾をつまむ指先は、うっすらと白くなる。
「茉凜、大丈夫か?」
普段なら呑み込むはずの言葉が零れた。彼女は目を見開き、こくりと頷いて微笑む。
「大丈夫。少し、緊張してるだけ」
その奥に沈むものは、容易に掬えない。役を入れ替えた前代未聞の舞台――経験のない重圧が、彼女の左腕の傷まで呼び覚ましているのかもしれない。喉がひどく渇いた。
遠いサイレンが一度鳴り、すぐ静かになった。夕暮れは藍へ沈み、影の輪郭が滲む。背後で洸人が音もなくついてくる。無表情の仮面の裏側に、いまは微かな熱の気配を感じ取れるようになってきた。
「洸人、今回のこと、お前はどう思っているんだ?」
少し首を傾け、眼鏡のブリッジを押し上げる。沈黙のあと、唇の端がわずかに上がった。
「どうもこうも、灯子に話を持ちかけられたのがきっかけだよ。少し迷ったけど、こういう体験も悪くはないと思っているんだ」
冷ややかな文法の奥で、何かが揺れた。抑制の壁の向こうが、うっすら透ける。
「ふーん……」
視線を茉凜に戻す。遠くの街灯に目をやる横顔。そこに何を映しているのか。
「あーっ、もう。なんであたしが端役なのよ。弓鶴くんの相手っていったら、どう考えてもあ・た・しでしょうが」
アスファルトを爪先で弾く音。尖った声は、茉凜への感情を隠そうともしない。
「まあまあ、落ち着いてよ」
宥める声はやわらかい。が、アキラは舌打ちをひとつ。
「いいよね、あんたは。さぞかし楽しみでしょうね」
「そんなことないって。わたしに主役なんて務まるかどうか疑問だし、できたらアキラちゃんに交代してもらいたいってのが本音だよ」
「あたしに?」
「うん、わたしは左腕がうまく使えないから、騎士なんて役は無理に決まってるよ。その点アキラちゃんなら、剣の扱いはお手の物だし、絶対に舞台で映えると思うんだ」
やわらかな笑み。アキラは腕を組み、俯いて考え込む。
茉凜の左腕――普段は見せない弱さ。ガラス細工のようなやさしさが、いまはかえって危うい。
「やはり、洸人が仕組んだことか?」
洸人は小さく頷き、一拍置いて軽い調子に戻す。
「そんなところだ。仲間と一緒に何かを作り上げていくっていう体験は、今まで考えたこともなかったからね。挑戦してみるのも楽しいんじゃないかな?」
言葉の端に孤独が滲む。私たちはそれぞれの孤独を抱える。
「だが、俺に女の役なんてできると思うか? どう考えても、ありえない話なんだが」
自嘲気味に吐き出すと、茉凜が静かに微笑んだ。
「そんなことない。弓鶴くんならできるよ」
「ずいぶんと自信満々に言ってくれる。で、その根拠はなんだ?」
揺るがない信頼が、胸を乱す。彼女は視線を彷徨わせ、悪戯っぽく笑った。
「だって、わたしは弓鶴くんが持っている、ほんとうの輝きを知ってるからね。だから、きっとうまくできるよ。うんっ!」
息が詰まる。輝きなどない。あるのは昏い影だけ――そう思うのに、言葉は胸の奥で波紋になって残った。
「なにを言ってるんだか……。そんなものあるわけがないだろ。気休めを言うな」
ぶっきらぼうに返し、落ちる自分の影を見る。長く伸びたそれは、別の誰かのようだった。夕風が裾を揺らし、靴先が微かに震える。
――……美鶴という存在は、もうとっくに死んでいる。この身体を動かしているのは、解呪に取り憑かれているだけの、ただの亡霊なのよ。
頭の中で反響する。
「こんなことを言うと、気を悪くするかもしれないけど……君はお姉さんに、とても良く似ていると思う」
洸人の静かな声。心臓が跳ね、喉が渇く。
「……まあ、一応は血を分けた弟だからな。顔は似ているかもしれないが、それだけで俺に女の役ができるとは思わない」
洸人の笑みは消え、真剣な眼差しが内側を抉る。
「でもね、僕は以前、一度だけ君のお姉さんに会ったことがあるんだ。彼女の名前は、美鶴さんだったかな?」
「そうだが……」
なぜ今、その名を。
「彼女は“始まりの回廊”の巫女として、あの地に縛り付けられていた。君とも離れ離れになって……ずっと一人ぼっちだったんだ」
忘れようとしていた痛みが起き上がる。胸の奥がきりりと引き攣った。
「そうだな……」
「彼女に会ったのは一度きりだけだったけれど、あの時感じた悲しみ、そして儚さは、君の醸し出す雰囲気とどこか似ている気がする。もちろん、君は君であって、彼女じゃない。でも……」
言葉が途切れる。私は笑い飛ばそうとする。
「ばかを言うな。目の錯覚だろう?」
震えは、隠せなかった。
「まあ、君は黒鶴という力を背負い、解呪を目指しているのだから、彼女と同じような孤独や責任感を抱えているとしても不思議ではないけれどね」
そのひと言で、胸の奥に巣食う恐怖が、わずかに和らいだ。洸人はふっと表情を緩める。
「だからこそ、君の演技を見てみたいと思ったんだ。君が女の子の役を完璧に演じられるかどうかは分からないけれど、きっと君なりの素晴らしいヒロイン像があるはずだ。それが、君を推薦した理由の一つさ」
「そうかな……」
視線を落とす。いまの私に、役と向き合う勇気があるのか。
「あたしは、昔、何回か柚羽の家に遊びに行ってたから、お姉さんのことはよく覚えているよ。でも、洸人が言うような感じじゃなかったな。ふんわりした、とても優しい人だった」
――何も知らなかった頃の私。事件の前、純粋だった頃。そんなものは、もうどこにもない。
すぐ後ろで、茉凜が黙っている。その気配が、肌を粟立たせた。もし残滓があるなら、彼女は気づいているのかもしれない。
「あともう一つ、君を推した理由があるんだ」
顔を上げる。
「それは何だ?」
洸人は悪戯っぽく目を細めた。
「それは、脚本を読み込んでみれば分かるよ」
黙って頷く。脚本の束が、わずかに重さを増した。表紙に置いた指が、小さく震える。
◇◇◇
【第一幕】
若き騎士ウォルターは、荒れ果てた戦場の骸を背に、旅路の果てに立っていた。煤と鉄錆の匂いを運ぶ風が頬を打ち、薄曇りの空が彼の光を吸い込む。激戦で動かなくなった左腕は鉛のように重く、そのまま心の錘になっていた。
数週間前。焼け落ちた村を背に、押し寄せる魔族へ剣を振るった。燃え盛る炎、仲間の絶叫、自らの血の熱。戦いの終わりに、左腕の自由は失われた。あの日から時間は止まり、死にゆく友の影が瞼の裏を離れない。
ある日、森の淡い光に導かれ、泉のほとりへ。
水面の上で、一人の少女が静かに舞っていた。動きはさざ波を立て、音のない音を紡ぐ。ウォルターは息を呑む。脳裏を焼くのは破滅の記憶――だが、目の前にあるのは血の匂いのしない美だけ。触れた瞬間、凍りついた何かがわずかに溶けた。
「なんて美しいんだ……」
乾いた唇から零れた囁き。彼の瞳に、かすかな光が戻りはじめる。まだ頼りない、揺れる光だった。
【第二幕】
戦線を離れて以来、ウォルターは安酒に沈んでいた。ざわめく酒場で、朽ちていく己を感じるだけの日々。そこへ王宮からの使者が現れる。集められた騎士たちは、理由も知らされぬまま不安げに目を交わした。
王の傍らにはフードの人物。王は、旅路を守る随行者が必要だとだけ告げる。正体も目的も伏せられたまま。人物は列を辿り、一人一人の顔を覗き込み、ウォルターの前で足を止めた。
「やはり……あなたでしたか」
鈴のような声とともにフードが外れる。泉で舞っていた緑の髪の少女――澄んだ瞳が、荒んだ心に光を注ぐ。
「私の名はメイヴィスです。よろしくお願いしますね、騎士様」
温かな光が胸にともる。同時に、疑念が渦を巻く。
「君は何者なんだ? どうしてあの泉にいた? あの光を放つ泉は一体何なんだ? 旅の目的は何だ?」
矢継ぎ早の問いに、メイヴィスはただ微笑む。王も口を閉ざしたまま。――王族に緑の髪はいない。何者なのか。問いは深まるが、ウォルターはふいに笑った。
「どうせ俺は騎士としては役立たずだし、廃業しようと思っていたところだ……。だが、君の旅路を守るくらいはできるだろう。どうせ暇な身だ、旅に付き合おうじゃないか」
口が滑らかに動く。もう一度、自分を見つけたい――その一心で、彼は新たな一歩を踏み出した。
【第三幕】
目的も告げられぬまま、旅は続く。十六ほどの年、気品ある所作。だが、世を知らぬ子どものように無邪気でもある。初めて見る街の賑わい、市場の喧騒、自然の美。そのすべてに瞳を輝かせる彼女に触れ、ウォルターの心にも温かさが戻っていく。芽生えた特別な感情を、自覚しはじめていた。
メイヴィスもまた、寡黙の奥の優しさに気づいていた。微笑みには淡い色。だが正体は明かさない。
「私はただ、目に映る広がる世界の美しさや多様性を見てみたかったの。今までの生活では知り得なかったものを、心から感じてみたかったの。おかしいかしら?」
そう言うだけだった。――平穏は唐突に破られる。魔族の襲撃。
不自由な腕を庇いながら必死に剣を振るう。剣戟は戦場の記憶を呼び醒ますが、護る一心で闘志は立ち上がる。
終わり際、魔族の吐き捨てた名が、彼女を止める。
「忌々しい泉の巫女め、お前は必ず始末する。我が主、ヴィルギレス様のためにな」
メイヴィスの頬から血の気が引く。恐怖と決意が同時に宿った顔。
「すぐにここを離れなければなりません。これ以上の戦闘は避けるべきです」
張り詰めた声。背負うものの重さが、その背中にのぞいた。
「君の正体、そして旅の目的は何なんだ?」
答えはない。ただ急かす気配。秘密と運命の渦が、彼の胸で重く回り続けた。
【第四幕】
旅が進むほど、疑念は深まる。明るさの裏に潜む影。遠くを見る憂い。夜、焚き火の音を聞きながら、眠れぬまま彼女の横顔を見つめる。炎に照らされた輪郭に、沈む痛みが滲んでいるようで。
「メイヴィス……君は本当にただ旅を楽しんでいるだけなのか? 俺には、君が何か重大な秘密を抱えているようにしか思えない。あのサランっていう魔族が去り際に残した言葉が、どうしても気になる」
怯えたように目を見開く。すぐ炎へ視線を落とした。
「泉の巫女って何なんだ? なぜ君は魔族に狙われる? この旅の目的に何か関係しているんじゃないのか?」
肩がわずかに震える。
「ウォルター……ごめんなさい。でも、私にはどうしても言えないことがあるの」
闇に溶けそうな声。痛みが混じる。
「それは、俺が君に付き従う騎士にすぎないからか? それとも、もっと何か別の……」
見返す瞳は苦悩に揺れた。
「ウォルター、もしそれを知ったら……あなたは私を守り続けられなくなるかもしれない。私には、どうしてもやらなければならないことがあるの。それは、あなたが思っている以上にとても大切なことで……」
戸惑いながらも、彼はまっすぐ言う。
「……何があっても、俺は君を守る。君が何者であろうと、俺の決意は変わらない。それが俺の誓いだ」
メイヴィスは悲しげに笑った。
「ありがとう、ウォルター。でも、それは……旅の終わりになってみないと私にも分からないわ」
「そうか……」
「無理に話す必要はない。君が話したくなる時が来たら、その時でいい」
彼女は驚いたように見上げ、瞳に涙が滲む。ウォルターは肩を抱いた。
「ウォルター……ありがとう」
小さな震えと乱れる息。彼女の背負うものの重さが、確かな実感として腕に伝わる。
言葉は続かず、焚き火が小さくなるまで、沈黙だけが二人を繋いだ。夜の冷気の中で、彼は未だ解けない謎とあたたかな想いを抱え、静かな明けを待った。
◇◇
【第五幕】
最終幕のページをめくる指先が震えた。頬を伝う熱い雫を拭わない。言葉が、劇中のメイヴィスの心が、内側で共鳴する。
山奥の柚羽家で、何も知らずに笑っていた日々。未来はきらめくと信じて疑わなかった頃――いまは切なく胸を締め付ける。
そして、あの日。運命の手に肩を掴まれた。刃のような真実は、私を深く裂いた。どれだけ叫んでも、答えはなかった。
いま、呪いを解くため、身を隠して茉凜と向き合う。暗い波が近づくのを知りながら、前へ進むしかない。希望と絶望は胸でせめぎ合う。
だが、物語のメイヴィスは、最後に救われる。私とは違う。彼女は幸福な結末を手にする。――その事実が、心の奥で小さな灯りになった。
「たとえ、ほんの一時でもいい、幸せな夢を見ることができたら。こんなわがままが許されるのかどうかわからないけれど……」
秒針の音だけが響く。無機質な刻みが、覚悟を静かに固めた。
――この役、受けよう。
メイヴィスを演じ、痛みを重ねることで、ほんの少しでも幸福に触れられるかもしれない。心からそう願う。
目を閉じる。現実では叶わなくても、夢の中だけでも。どうか――その幸せを感じさせてほしい。祈るように、私は静かに心を閉じた。




