流浪の剣士 その名はヴィル
宵闇は、葡萄酒の雫が溶け込んだかのように、深く、静かに更けていた。
市場の喧騒も今は遠く、その外れにひっそりと息づく小さな酒場は、低位魔石を芯に抱いた魔道ランプから漏れる紫苑色の柔らかな灯りに、ぼんやりと包まれている。
その淡い紫の光は、古びた木壁も、使い込まれた卓も、そして私の心さえも、どこか懐かしい深紫に染め上げていく。
磨かれたとは言えない木床は、誰かが踏みしめるたび、紫の影を微かにさざめかせながら、低い軋みを響かせた。その響きは、まるで熟成された果実酒が樽の中で静かに呼吸する音にも似て、この紫の静寂にそっと溶け込んでいく。
手元には、くすんだ木肌が暗紫の光を吸い込んだような酒器が一つ。
中に満たされた、夜よりもさらに深い色の液体が、甘く、そして微かに酸っぱい芳香を漂わせ、鼻先をくすぐった。
そのとき、重厚な扉が、まるで溜息を吐くように軋む音がした。
刹那、世界から紫の色が抜け落ちた。それまで微かに聞こえていた木床の軋みがふっと止む。
遠くのテーブルから漏れ聞こえていた囁くような笑い声さえ、まるで水底に沈むように途絶えた。酒場全体が、一瞬にして息を潜めたかのような、密度の高い静寂に包まれる。光は灰の色をまとい、影は黒さを増した。その静寂を裂くように、男の足音だけが、ぎしり、と重く響いた。
闖入者の気配に、この小さな空間の張力が、ぴんと張り詰めた弦のように変化するのを感じる。
ふと目線を斜めに走らせると、埃まみれの厚手の外套に身を包み、無精髭を蓄えた男が、まるで亡霊のようにふらりと入ってきた。
その乱れた金髪は、ランプの消えたような光の中で鈍く、疲労が深く刻まれた面差しには、どこか遠い荒野を永劫に彷徨い続けてきたかのような、鈍い影が落ちている。
再び戻った魔道ランプの灯が淡く息づき、その男の顔立ちに深い陰影を落とす。瞳には夜陰よりも濃い色を孕んだ、鋭い光が宿っていた。
「見慣れない顔ね……」
小さく吐息に紛れさせたその言葉は、誰にも聞こえないほどの微声だったが、私自身を少し引き締めさせるには十分だった。周囲の常連客たちも、この不審な男にちらりと視線を送っている。
男はそれらをまるで意に介さぬ風で、無言のままカウンターに腰を下ろす。
その手元に音もなく滑り込まれた酒器を掴む指先には、無数の古傷。それは、戦場を潜り抜けた剣士か、あるいは命知らずの傭兵か――そんな荒事にその身を馴染ませてきた者の、消えぬ証を刻みつけているかのようだった。
ひとくち含んだワインがのどを濡らす。と、その男がゆっくりと視線を巡らせ、鋭い審問官のような眼差しを店内に投げかける。
その瞳が私に触れた瞬間、私の喉の奥が、まるで氷片を飲み込んだかのように、きゅっと冷たく凍りついた。心臓が一瞬、呼吸を忘れる。
男の口元が僅かに歪む。それは値踏みするような、それでいてどこか嘲るような笑みで、私を中心に静かな波紋を広げた。
やがて、男は椅子を離れ、重い足音を一つ、また一つと床に刻みつけながら、私が陣取るテーブルへと近づいてくる。その軌跡に、酒場全体が再び息を潜めたようだった。
空気が目に見えぬほど張り詰め、魔道ランプの灯さえ、震えながら空気ごと肺をかすめるようだ。先程まで微かに聞こえていた囁き声の気配も、今は完全に沈黙に呑み込まれ、遠くでぽつり、と雨だれが落ちるような微かな音だけが、この張り詰めた静寂の中でかろうじて聞こえるのみだった。
硬い息づかいが店に弾け、視線が一点に収束する。咳払いが一つ。糸が緩むより先に、男が――その音に一瞬だけ視線を送った後、再び私へと向き直った。その無言の圧力は、先ほどよりも増しているように感じられた。
《《美鶴、あの人、なんだかヤバい感じがする。どうしようか?》》
腰に帯びた純白の剣。その冷たい感触だけが、今の私を現実に繋ぎとめている。剣に触れる指先に意識を集中させると、茉凜の震える声が心の中に響いた。
私は内心で「落ち着いて」とだけ短く呟き、彼女の動揺を鎮めるように意識を集中させた。
そして一拍置き、わずかに唇を動かし、息の音にも満たないほどの声で返答した。
「わかってる。少し様子を見るから、あなたは静かにしてて……」
《《……うん、落ち着いてね》》
茉凜の声が、自分自身に言い聞かせるように、少しだけ間を置いて響いた。
男は私の目の前で立ち止まり、埃っぽい、それでいてどこか鉄錆びたような乾いた匂いをまといながら、まるで切り出す言葉を吟味するように、一拍置いた。その鋭利な視線は、私を試すように上から下へとなぞり、やがて低く、まるで砂を噛むような乾いた声で問いかける。
「お前、ここで何をしている?」
私は努めて平静を保ち、さりげなく杯を傾けたまま答えた。
「何って? 見ればわかるでしょう」
酒場の中には、私が子供に見えることなど承知済みである客が何人もいる。けれど、この男は新参らしく、私を見下す態度を隠そうともしない。彼は嫌味な調子で続けた。
「子どもがこんな時間に、一人で酒場にいるなんて感心しないな」
灯の油の匂いが少し重く、喉がひりつく。
私の喉が、ひりつくように熱を帯びるのを感じた。苛立ちは奥に沈め、静かな声音で反論する。
「馬鹿にしないで。私はこれでも飲める歳よ」
言い切ってはみせたが、この土地では薄めた葡萄酒は水代わりで、子どもだって口を湿らす程度は珍しくない。
ここに来て半年余り。魔獣狩りで稼ぎ、独りで立ってきた。見かけで測られる筋合いはない。指が杯の縁を押し、白くなる。
「ふーん。どう見ても十二、三の子供じゃないか」
男の冷笑。その声が、まるで私の喉に張り付く息のように、不快に耳を打つ。周囲の客が注意深くこちらを窺うのが気配でわかる。私は唇をきつく噛んだが、笑顔も嘲りも見せず、まっすぐ男を見返した。
「残念だけどね、私は“二十一”なの。あなたに信じろと言っても無理かもしれないけれど」
唇の内側に小さく力を込める。木卓の縁の擦り傷に触れた指先へ、冷えた夜気が薄く這った。
嘘ではない。私には、この世界に来るまでの数奇な事情がある。この男がそれを知る由も、知る必要もない。
男は短く鼻を鳴らし、冷たく光る瞳で再び私を見据えた。
「二十一? へえ……」という抑揚のない声。その声が落ちた瞬間、男の喉仏がひくりと跳ねる。値踏みの気配が、酒と油の匂いの混じる空気に沈んだ。
私は胸の中でゆっくり息を整える。魔道ランプの灯がわずかに揺れ、指先にはいつの間にか冷たい汗が滲む。茉凜の声はもう聞こえないが、剣の中で息を潜めている気配が、肌の裏で静かに張っていた。飲みかけのワインは、甘酸っぱい果実の香りを薄く立ちのぼらせる。
私はただ、杯の中の淡い光を睫毛の縁に留め、その姿勢を崩さなかった。木卓の脚が床をきしませ、遠くで誰かが椅子を引く音が短く途切れる。
「ま、歳なんざこの際どうでもいい話だな。では尋ねよう、さっき店の主人に聞いたが、黒髪のグロンダイルっていうのはお前のことか?」
低い声が、宵の静寂を震わせる。その問いに、私は何気ない仕草で肩にかかった髪を指で払いながら、肩をすくめてそっけなく答えた。
「ええ、そうだけど? それが何か?」
彼の瞳が、鋭く光った。噂話を吟味する猟師のような、こちらを値踏みし、探るような視線だ。彼は椅子に身を乗り出し、まるで獲物に囁きかけるように、声を潜めて言った。
「ここらじゃちょっとした有名人らしいな。とんでもない魔術を使うとか、森ひとつ分の魔獣を一夜で狩り尽くしたなんて話もあるが……」
その噂がもうこれほど広まっているのか、と私は内心で小さく舌打ちする。
実際には多少の誇張が多分に含まれているだろうに。けれど、ここでそれを律儀に否定するつもりはない。私はあくまで淡々とした表情で応じる。
「そんなこともあったわね」
彼は嘲るような、それでいてどこか温度のない、冷え切った笑みを浮かべた。その唇の端が、嫌味な三日月のような弧を描き、まるで出来の悪い子供をからかうような表情だ。彼の目には、隠そうともしない侮蔑と不信の色が混ざり、こちらを値踏みするような雰囲気が色濃く滲んでいる。――その輪郭は、鈍い影と、彼の纏う鉄錆びた匂いだけで、今はもう十分だった。
「ふーん、やっぱりその噂は大げさな作り話だったようだな。お前みたいなちんちくりんが、そんな芸当をやってのけるなんて到底信じ難い」
胸裏で、熱が揺らいだ。私は返事を僅かに詰まらせ、一拍だけ視線を杯の揺らめきへと落とす。そして、再び彼を見据え、あくまで涼しい顔で問いかける。
「あなた、もしかして、私に喧嘩を売りに来たのかしら?」
男は肩をすくめ、その皮肉な笑みをさらに深く唇に刻み込む。ヴィルはそれを見逃さず、指先で卓の縁を、コツ、と一度だけ軽く叩いた。
「さあな。俺は、ただ真実というものを知りたいだけだ。もし噂が真実ならば、その実力とやらを、この目で見定めてみたい。魔術だか何だか知らないが、見せてもらう機会があったっていいだろう?」
周りの客たちが、固唾を呑んで私たちのやり取りの成り行きを見守っているのが、肌で感じられる。言葉を交わす度に、この小さな酒場の空間が、まるで氷のように張り詰めていく。私は、じくじくと疼く不快な感情を意識の隅に押しやり、あくまで淡白に言い返す。
「勝手にすればいいわ。私は別に自分の力を隠すつもりもないし、あなたに見せなければならない義理もないけれど」
「ほう、じゃあいつか確かめるチャンスもあるということだな」
彼は挑発的な薄笑いを浮かべている。その挑戦的な眼差しは、まるで私が恐れをなして逃げ出すのを待っているかのようだ。
私はわざと気にも留めていないという風を装い、手元の酒器を静かに持ち上げた。淡いワインを一口含むと、その甘酸っぱい香りが鼻腔を満たし、微かな緊張を中和するように、喉を滑り落ちていく。――杯を卓に置く。ことり、と微かな音がした。
「好きにしなさい。ついてくるのはあなたの自由よ。でも、私の邪魔さえしなければの話だけれど」
「――では、名乗っておこう。俺はヴィル・ブルフォード。よろしくな」
杯の縁に口を寄せる前、舌の奥に乾いた渇きが走る。昔の呼び名がこぼれそうになり、唇をそっと閉じた。
杯のワイン――淡い液面が、名を告げる声の衝撃でわずかに波立った。遠くの雨音のような既視感が胸膜を叩き、凍えた記憶の欠片が水底から浮かび上がる。どこで聞いた? いつ触れた? 答えは霧の向こうでまだ眠っている。
私は視線を液面へ落とし、揺れるワインの渦に乱れた鼓動を沈める。酒場の気配が一瞬、息を潜めた――木卓に置いた指先から伝わる微かな振動だけが、静寂の中で脈を打つ。それでも口元の曲線は崩さない。
「ヴィル、ね。覚えておくわ。私は――ミツル・グロンダイルよ」
酒器をそっと戻す――薄氷が弾けた。男の瞳に鋭い光。
波紋はまだ底に沈んでいない。
「ミツル……か。ところで一つ尋ねてもいいか。お前はなぜ、グロンダイルの名を騙っている?」
木卓の脚がわずかに鳴る。背で誰かの息が止まり、灯心が細く震えた。
酒場全体が、まるで深海の水底のような、重い沈黙に沈んだ。一瞬、そこにいる全ての者が息を詰めたような、圧迫された感覚がする。私は彼の射るような瞳をまっすぐに捉え返し、苦く、そして冷たい笑みを唇に浮かべた。
「騙っている、ですって? もし本当にそう見えるというのなら、それはあなたの眼が、よほど節穴ってことよ」
私の言葉が、静まり返った酒場の固い床に響き、そのまま夜陰の中へと静かに消えていく。
魔道ランプの灯が、私たち二人の間に漂う、刃物のような緊張感をより一層際立たせる。カウンターの向こうで、店主がぴくりとも動かずに固まっているのが視界の端に映り、他の客たちもまた、身動ぎ一つせずにこの対峙の行方を見守っている。
ヴィルは目を細めたまま、何も言わずに黙り込む。私もまた、彼に応える言葉を持たない。
この静かなやりとりは、もはや言葉以上の何かを、互いの魂の奥底で交わしているかのようだ。挑発と警戒、侮蔑と決意が、目には見えない火花となって、二人の間の冷たい空気の中で激しく交錯する。
ここから先、一体何が起こるのかは、今の私にはわからない。彼が胸の内に秘めている本当の狙いは何なのか。それとも、これは単なる暇つぶしの、悪質なちょっかいに過ぎないのか。あるいは、そのどちらでもない、もっと別の、深い意図が潜んでいるのか。その全てが、今はまだ深い謎の中に閉ざされている。だが、私に逃げるという選択肢はない。
終宵は、どこまでも深く、そして静かに更けていく。私とヴィルの間に張り詰めたまま流れる沈黙は、研ぎ澄まされた刃のように鋭く、そして甘い果実の香りさえもが、その肌を刺すような緊張を和らげることは、もはやできそうにもなかった。
私たちの視線が、まるで灯の中で火花を散らすように激しくぶつかり合う中、古びた酒場の空気は、どこまでも冷ややかに、そして鋭く張り詰めていく。
液面、凍る。
灯、沈む。