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滅びを拒む翼――深淵の黒鶴

 扉がわずかな風圧とともに開く。隙間越しに深紅の瞳が横切った。ラウールだ。室内に流れ込んだ外気は冷たく、魔導ランプの灯が一度だけ小さく揺れる。


 入室した彼の肩には疲労の影。ローベルト将軍が最後に扉を閉めると、木の合わせ目が乾いた音を呑み込み、室内の温度が少し沈んだ。


「やぁ、ミツル……しばらくぶりだね」


 穏やかな声音の奥で、焦りが脈打っているのを皮膚で感じる。ローベルト将軍が一礼し、短く呼吸を整えてから口を開いた。


「単刀直入に言う。情勢は芳しくない――」


 胸の奥で空気が固くなる。掌に汗が滲むのを、鞘の冷たさで誤魔化す。


「――軍部としては、ラウールから提供された情報に価値ありと判断し、これまで収集した噂や証言と合わせて、王宮に掛け合った。だが……」


 将軍の眉間に噛みしめた苦味が刻まれる。続きの言葉を促すように、私は小さく頷いた。


「いくらこちらが根拠を示しても、宰相をはじめとする上層部からは“クロセスバーナの動きなど対岸の火事”扱いだった。遠く離れた他の大陸での出来事が、大きな脅威をもたらすはずはない……と。万が一事態が悪化したとして、その時は諸国と足並みを揃えればよい、という結論に落ち着いた」


 言葉の温度が下がる。私は視線だけで室内を一巡させ、壁の織物が発する布の匂いと、石床から這い上がる微かな冷えを確かめた。隅に立つヴィルは腕を組み、光を抑えた瞳でこちらを量る。その沈黙が、場の張り詰めをさらに研ぎ上げる。


「ラウール……上層部の方々は、あなたにどのような返事を?」


 問いかけると、彼は机の縁に肘を置き、小さく息を吐いた。


「一応の理解を示してはくれたよ。でも、それだけだった。“直接の介入は差し控える”……その一言に尽きるよ」


 額に集まる熱を自覚する。奥歯に力が入った。


「つまり、リーディス王国としては、公式に何ひとつ対応する気はないということ? 現実に、圧政や迫害に苦しむ人々が、難民として続々この王都にも流れてきているというのに、それを見て見ぬふりだなんて、信じられない……」


 抑えた声の縁に熱がにじむ。ラウールは痛みを噛むように目を伏せた。


「とはいえ、こちらの情報提供と引き換えに、僕たちの組織を支援するという約束は取り付けることができた。それと、人道的な支援や難民の受け入れにも応じてもらえることになった。それだけでも一歩前進と言えなくはない。でも……明らかに足りないんだ」


 言葉の端で、遠い風の音が聞こえた気がした。私は目を細め、古い記録棚の金具が放つ鉄の匂いを吸い込む。


 窓辺の蝋がかすかに泣き、芯の焦げた匂いが喉に触れた。王宮の体質――遠い大陸の火災を「光の反射」にしか見ない目。だが煙はすでにこの部屋の空気にも混じっている。ヴィルから報告を受けた密偵の話、難民たちの沈黙。見えない刃が衣の下を撫でる気配は、肌の上で十分に実体を持っていた。


「この国は……過去の歴史から、まるで学ぼうとしないのね」


 吐息の重さが言葉へ移る。私が視線を上げると、ラウールがこちらへ歩を進め、真紅の瞳で正面から射抜いてきた。その光は、焦燥と使命の火を同じ強さで宿している。


「……すまない、ミツル。僕にはこれ以上、どうすることもできなかった」


 私はゆっくり首を振る。適切な言葉は見当たらず、ただ胸郭の内側で脈がひとつ強く打った。


「新生クロセスバーナが“神代の御業”を復活させようとしていることを鑑みれば……もはやこの世界でそれに対抗できるのは、君だけかもしれない」


 穏やかな声なのに、矢の芯だけが鋭い。胸の奥で、冷と熱が擦れ合う。


「……“伝説の巫女メービスの再来”として君が立ち上がること。その威光を示すだけで、少しは状況が変わるかもしれない。もちろん、そんな無理強いはしたくはないけれど……」


 口を開きかけた喉が小さく詰まる。唇がわずかに震え、言葉が落ちる前に視線が床へ逸れた。


「……それは――」


「ミツル……君には、君だけが持つ特別な力があるはずだ。伝説の聖剣を預かる資格があり、幻の精霊魔術を扱える巫女など、他にはいない――」


「……だからどうしたって言うんだ!?」


 低く鋭い一撃。ヴィルだった。空気の膜が張り替えられ、室内の音が一度だけ遠のく。ローベルト将軍の呼吸が微かに止まり、ラウールの目が瞬く。


「この小さなミツルに、くだらない道化じみた重しを押しつけるつもりか? 冗談も大概にしろ」


 ヴィルが両手を広げて見せる仕草だけは軽いのに、顔の硬さは解けない。ローベルト将軍の横顔がわずかに暗くなる。


 ヴィルの視線がこちらに向き、無言の促しが届く。私は肺へ新しい空気を入れ、胸に絡んだ不安をほぐすように言葉を押し出した。


「……ラウール、あなたは知っているかしら。精霊魔術の、本来の在り方というものを」


「いいや、詳しくは知らない。精霊族に関する伝承は、どれも曖昧なものだからね」


「では、私の知る限りのことを説明しましょう」


「うん、ぜひ聞かせてもらいたい」


 唇を湿らせ、窓辺の冷気をひと口吸う。指先は無意識に鞘の縁をなぞっていた。


「まず、精霊魔術とは本来“戦うための力”じゃないの。かつて精霊族は、その力を自然と響き合わせるために、そして小さな日々の糧にするために使っていた。

 ……もし、それを戦いへ向けて振るったことが滅びを招いたのだとしたら――破滅に手を伸ばす真似を、軽々しくはできないでしょう?

 それに、私のそれは……この世界では、強すぎるの。ちょっとした綻びで暴れ出したら、王都だって焼き尽くしてしまうかもしれない。そんな危うさと隣り合わせの力なの。……わかって」


 言いながら、言葉の刃が自分へも薄く切り込み、胸に冷たい線を残す。


 ほんの少し前、私はこの力の意味をようやく見つけたと思っていた。けれど「破壊」へ舵を切れと迫られれば、足裏の地面がぐにゃりと揺らぐ。思考の焦点が散り、胃の底に重い石が落ちた。


 その時、背に大きな掌が置かれる。ヴィルの体温が背骨の節々に行き渡り、呼吸の幅が戻る。


「ミツル……誰が何と言おうと、おまえが望まないなら力なんて使わなくていい。そうしろと命令するヤツがいるなら、この俺がぶん殴ってやる」


 瞳の底に、賭す覚悟が一瞬灯って消えた。

 彼は何も足さない。私の意志が先にあることを、ただ全身で支える。


 張り詰めた糸の表面だけが、少し和らぐ。ラウールの唇が痛みを噛むようにわずかに引き結ばれた。


「……ああ、彼の言うとおりだ。君ひとりに背負わせるなんて、やっぱり間違っている。一人の犠牲で成り立つ“救い”に、どんな価値がある? 

 歴史は英雄を偶像に変え、人はそこへ寄りかかり、伝説で飾り立て、やがて本当の恐ろしさを忘れる。――そして、繰り返す。

 僕は、それだけは繰り返さないために戦ってきたというのに……」


 彼の声の奥で、砂を噛むような悔しさが鳴った。ローベルト将軍が半歩進む。磨かれた靴底が石を撫で、低い擦過音が室内に細い線を引く。


「確かに王家は、“黒髪のグロンダイル”を伝説の巫女メービスの継承者として祀り上げ、看板を好きに使いたい――要するに“従順なお飾り”にしたいのだろう。

 だが今の君は先王陛下の庇護下にある。そう易々とは手出しできまい。……とはいえ、ラウールの報せを踏まえるなら、悠長に構えていられる時間はないだろう」


 胸の内側を掴まれる感覚が走る。私は問いを飲み込みきれず、声に出した。


「それはつまり……クロセスバーナが、いずれこの王都へ攻め入ると?」


 ラウールは顎に手を添え、短い沈黙ののちに顔を上げる。瞳の赤は落ち着いているのに、その底で凍てた憂いがきらりと光った。


「どんな形でかは、わからない。彼らは狡猾で用意周到だ。一夜にしてソミンを乗っ取ったようにね。

 それと、これはこの国の王様に一笑に付された話だけど……バルファ正教は、古代の特別な“秘術”を入手し、すでに運用段階にある可能性が高い」


「秘術ですって……? いったい、それはどういうものなの?」


 ラウールは懐からペンダントを取り出す。魔導ランプの光を受けて“緋朧天石”が淡く呼吸するように瞬いた。


「ご存じのとおり、新生クロセスバーナの国力を支えているのは、国内に点在する三つの“虚無のゆりかご”と、そこから得られる魔石だ。 

 クーデター後に次々と発生したその現象こそ、彼らの急速な勢力拡大の源になっている。けど……都合よく同時期に複数の巣が生まれたなんて、不自然だとは思わないかい?」


「たしかに、そうね……」


「もし、彼らが“任意”の場所に虚無のゆりかごを呼び出せるとしたら……想像してみて。敵対する国や都市を一斉に混乱へ陥れられるだろう。そんな手段が使えるなら、国を落とすなどたやすいことだ」


「……そんなこと、本当にあり得るの?」


 喉が乾き、唾を飲み込む音が自分だけに響く。ラウールは苦い笑みを一瞬だけ浮かべ、すぐ真顔に戻った。


「僕だって最初は信じられなかった。だが、バルファ正教が崇める古代バルファ文明の記録には、“精霊魔術を兵器化する研究”や“虚無のゆりかごを制御しようとした痕跡”が散見される。

 消し去られた黒歴史の中には、数々の禁忌とされる秘術が眠っていた。クロセスバーナはそこに“神の御業”を見いだし、実行に移せるだけの意志と力を持っているのかもしれない。いずれにせよ、ミツルを手に入れたがっていたのも、その一環だと考えられる。」


 淡々と並ぶ事実ほど、心の体温を奪う。私は指先を鞘に添え、表面の細い傷の筋をなぞった。


「とはいえ、虚無のゆりかごをどこまで“制御”できているのかは未知数だ。何らかの儀式や禁呪を使っているのか、それとも神代に遡る遺物――“唯一神バルファへ至る礎”のようなものを手に入れたのかもしれない。

 僕としては、時が経つほど彼らの力が増していく恐れがあると見ている」


 ラウールの瞳が一瞬だけ強く燃える。また、静けさに戻る。


「だが、そんな秘術があるなんて、誰が信じる? ここじゃ、“ありえない”と笑い飛ばされるのがオチだ」


 ヴィルが両手を広げて見せる仕草だけは軽いのに、顔の硬さは解けない。ローベルト将軍の横顔がわずかに暗くなる。


「だが、放置していれば、いずれ侵略は拡大するだろう。奴らがその“切り札”を切れるのなら、虚無のゆりかごひとつで周辺の土地や人々を、一瞬にして魔獣の脅威に呑み込ませることができる。かつてこの国で起きた西部戦線の惨状が、再び繰り返されないとは限らない」


 室内の空気が一段重く沈み、その気配に呼応して魔導ランプの灯が細く尖る。ラウールは肩をわずかに落とし、視線を窓の外へ滑らせた。


「僕には、残された時間がわずかだとしか思えない。クロセスバーナの動きは、こちらの読みを常に上回っている。もし、王都の近くに“虚無のゆりかご”を生み落とされたら……」


 言葉が途切れ、顎筋が固くなる。その横顔に、遠い喪失の影が過る。私は唇の内側を噛み、決断の輪郭を探った。


「……わかったわ、ラウール。このまま黙って見過ごすなんて、できないものね。

 でも――」


 肩に置かれたヴィルの手が、ごく僅かに力を込めて「今」を引き戻す。


「ミツル。お前はどうしたい?」


「……ヴィル……」


 視線を落とし、胸の中の秤を見つめる。攻撃のために力を振るうことへの拒絶。放置した先にある破局の予感。その両端が骨に食い込み、呼吸が浅くなる。


 脳裏を掠めたのは、あまりに私的で、触れれば血の匂いがする疑念だった。デルワーズ――あの人は、私を「戦う器」に仕立てたのではないか。黒鶴という攻撃特化の術を持つ柚羽美鶴を、最初から掌の上に置き、必要なときに指先で弾くために。


 喉の奥がきしり、指先が冷える。


――そんなの、嫌……。


「それでも、私は……“破壊”のためにこの力を振るうなんて、もう考えたくもないの。そんなこと、二度と御免よ……」


 言葉に震えが滲む。ヴィルは短く相槌を打ち、ラウールの眉がわずかに動く。ローベルト将軍が視線を聖剣へ送り、小さく息を吐いた。


「蒸し返すようで悪いが、確かに拮抗できるのは、伝説の時代から受け継がれてきた巫女、そして聖剣の加護かもしれない。だが――」


 将軍の声が、現実の地図を机上に広げる。私はその上で、針先のように細い道筋だけを選び取ろうとする。


「もしもこの事態が伝説と重なり合うような展開になるのだとしたら、それはまさしく世界の終焉を告げる前触れだといえるだろう」


 軍人の冷静さと、人を守りたいという温度。その両方が言葉に混ざっていた。


「ええ、そうです。もしミツルが戦場に駆り出されるような事態になれば、その時はもう――」


「……ラウールよ。そうならないために、まだできることがあるはずだ。違うか?」


 ヴィルとラウールの視線が交差し、一瞬だけ柔らかい火花が散る。守りたいものは同じだ、と確かめ合うように。


 私はヴィルの腕へそっと触れ、拳に残る震えを自覚しながら息を整えた。


「……ありがとう、ヴィル。私の力をどう使うべきか、まだはっきりした答えは見えない。けれど、誰かに押しつけられるまま振るうようなことだけは、したくないの」


 言い切る声の奥で、小さな光が確かに灯る。ラウールは短く頷き、ローベルト将軍は渋い顔のまま思考を先へ送った。


――まだ、諦めるには早すぎる。


 曇天の彼方、薄い光の糸は必ずある。精霊族が大切にしてきた「共生」を捨てずに、侵略を止める道。それを必ず見つけ出す、と。


 胸の奥をかすかに温める熱と、消えない痛みが同じ輪郭をなぞる。ラウールの報せは暗雲を連れてきた。けれど同時に、突破口を探す理由も連れてきた。


「いずれにせよ、ラウールの言う“クロセスバーナの秘術”の正体を突き止めること、そしてその予兆をいち早く察知すること――これが先決だろう。

 だが、この国の上層部は当面、軍を動かすつもりはない。だからこそ我々が独自に調査を進め、何らかの成果を示さねばならないのだ」


 将軍の言葉は、冷たい地図の上に、灯をともすように印を置いていく。


「そこで私の独断にはなるが、クロセスバーナの脅威を探るための組織を立ち上げるつもりだ」


「諜報組織……」


 口元で反芻すると、空気の密度が一段変わる。


「そうだ。選りすぐりの精鋭を集め、独立性と強い調査権限を与える――そういう部隊にする。

 狙いは密偵の摘発だ。彼らの足取りを追い、捕縛して情報を得る。王や現政権が不用意に口を挟めないよう、先王陛下の名義で動かす。建前は学術的調査という体裁で――だが、実質は防衛の先手を打つための手段だ」


「現状、できることは、それしかないでしょうね」


「そのリーダーには、元情報部のカテリーナ・ウイントワースを招聘するつもりだ」


「カテリーナを……ですか?」


「そうだ。かつて若くして分析官に抜擢されたほどの穎才であり、今も個人的に情報収集を頼んでいる。彼女以上に適任な人物は考えられん。もちろん、危険を伴う任務ではあるが」


 私は思わず微笑を呑み、彼女の豪快な口調を思い出す。室内の空気に、わずかな人肌が戻る。


「彼女は、軍のしがらみを嫌っていると聞きましたが……」


「それがだ、“ユベルの娘である君のためなら何でもやる”とね。しまいには“自分にも何かさせろ”と、実に煩いくらいでね」


「そう、なのですか……それなら……」


 胸の張りつめたものが少し解ける。力を振るう以外の手――情報、解析、連携。私にもできることはある。


「わかりました。私もできる範囲で協力します。“破壊の力”に頼るのは避けたいけれど……マウザーグレイルには、まだ明らかになっていない情報が眠っているかもしれません。剣の中にいる茉凜と力を合わせて、それを探ってみます」


 ラウールの安堵が表情に柔らかく灯る。ローベルト将軍も短く頷く。ヴィルは背を軽く叩き、息の調子だけで「ここにいる」と伝えた。


「ミツルが何を選ぼうが、俺たちが支えよう。いま、おまえにはやるべきことがあるんだろう? 遠慮なく、望む通りに動いてくれればいい」


「……ありがとう、ヴィル」


 胸の内側に温い泉が湧き、背筋が自然に伸びる。


 ヴィルが一歩前に出る。


「さて、ローベルト。俺は何をすればいい?」


「ヴィル。お前はミツルの警護に専念しろ。意味は、わかっているな?」


「要するに、ミツルが勝手に独断専行しないよう、見張れってことか?」


 私は堪えきれず、肘で彼の腰を小突いた。わざとらしく拗ねた声を張る。


「ローベルト将軍、それにヴィルも。私はもう二度と軽率な真似はいたしません。これでも、きちんと反省しているんですから!」


 三人の笑みが一瞬だけ室内の温度を上げる。だが、胸のざわめきは完全には消えない。


――もし戦わずに済むなら、それ以上の幸いはない。


 けれど立ち止まるわけにはいかない。私には「知り得ること」と「取れる手」がきっとある。そう思えば、恐れはただの影になる。


 ラウールの瞳に小さな安堵と、消えない焦燥が同居する光が揺れる。


「ありがとう、ミツル。君が一緒に動いてくれるだけで、とても心強いよ」


「……いつまでも逃げてはいられないし。私なりに、少しでもできることをしてみたいの。だから――お互いに協力しましょう」


「うん……」


 短い返事の裏で、彼の決意が硬くなるのを感じた。ローベルト将軍は廊下の光を確かめるように扉へ向かい、手短に準備の段取りを告げる。


 扉の向こうから夕暮れの薄明かりが差し、わずかな冷気が頬を撫でる。私は唇を引き結び、胸の波を一度だけ深呼吸で均した。


 ラウールと将軍が部屋を出て、静けさが戻る。ヴィルが隣へ並び、言葉は要らないという風に歩調を合わせる。胸の奥では、幾つもの思いが重なって膨らんでいく。


――それでも、行く。


 足を止めない。恐れは連れて行くが、主にはしない。


◇◇◇


 廊下の空気は日中よりわずかに冷たく、壁面の石が薄く冷気を返す。ヴィルは時折こちらを振り返るが、余計な言葉は挟まない。その沈黙が、かえって胸を支えた。


「……ラウールの言葉を、どう受け止めるつもりなんだ? お前が自分で選ぶ道なら、俺はどんな形でも支えるつもりではいるが……」


 低い声が静けさの膜に柔らかく触れる。私は視線を下に落とし、正直に吐き出した。


「正直、わからない。お祖父様の容態もまだ安定していないし、まずはそちらを優先しなくちゃいけない。それに、精霊魔術をむやみに使えば、私自身も茉凜も限界を越えてしまうかもしれない。……いろいろありすぎて、心の整理がつかないの」


 頬の内側を軽く噛む。ヴィルはしばし黙って歩き、ひとつ深く息を吐いた。


「俺が言いたいのはな……たとえこの先どんな大きな渦に巻き込まれようと、流されずにいてほしいってことだけだ。

 お前が本当に何をしたいのか、何を大切にしているのか――その願いだけは、絶対に見失わないでくれ。」


 ぶっきらぼうな優しさが胸の芯に届く。嬉しさと、もどかしさ。二つの温度が同時に胸に置かれた。


「うん……私、少し考えてみる。もし本当に世界規模の危機が訪れるというなら、それなりの覚悟がいるだろうしね……」


 短い頷きが返る。曲がり角の向こうで侍女たちが道を空け、視線を伏せる。緊張は肌で伝わるものだと、改めて思う。


 階段前でヴィルが振り返り、小さく笑った。


「……しかし、ずいぶん疲れているように見える。顔色だって良くない。先王陛下のことも国のことも、一度に全部抱え込まなくていい。まずは休め。今、お前が倒れたら、何も始まらないだろう?」


「わかったわ。少しでも休むようにする」


 言葉とは裏腹に、脳裏ではさきほどの会話の残響が波打つ。最も弱い立場の人々の顔、お祖父様の容態、そして私自身の限界――重さの種類が違うものが一度に肩へ乗る。


 鞘の中の茉凜を意識した瞬間、胸の底が少し温かくなる。


《《美鶴……? いま大丈夫? 部屋に戻ったら、ゆっくり話そうか?》》


 心に触れる声は、少しだけ震えていた。私も、彼女も、無理は効かない。休むこともまた、前に進むための一部――そう言い聞かせる。


 階段を上りきる手前で、ヴィルは「先に戻っている」とだけ告げ、気配を薄くして去った。押しつけず、離れすぎず。彼らしい距離の取り方が、今はありがたい。


 ひとりテラスへ出る。夜風が頬を撫で、指先がすぐに冷える。雲が月を覆い、街の灯が遠く霞んで見えた。世界の輪郭がひとつ鈍くなったような暗さ。


 クロセスバーナ、ラオロ・バルガス、“虚無のゆりかご”、そしてお腹に浮いた不具の紋章。ラウールの描いた未来の影が、現実の輪郭を少しずつ侵食してくる。


 それでも私は攻撃のために力を使いたくない。デルワーズが選んだ「犠牲の道」を、なぞりたくはない。けれど動かなければ――彼女が愛したこの世界ごと、闇に呑まれるかもしれない。


「……大丈夫。私は私を不幸にはしない。できることを、捨てずに進もう」


 息とともにこぼれた言葉は風へ溶ける。握り締めた拳の微かな震えだけが、いまの私の体温だった。


 夜気に冷えた指先を擦り合わせ、私は離宮の奥へと歩く。お祖父様の治療に割ける時間は有限だ。諦めるという選択肢だけは、最後までテーブルに置かない。


 明日は今夜より深い闇かもしれない。それでも光の筋はどこかにある。だからいまは休む。心と身体に火を戻し、立ち上がるために。


 主人公・ミツルが抱える「強大な力をどう使うのか」という葛藤を軸に、クロセスバーナの脅威や周囲の人々との関わり描いています。


“深淵の力”をめぐる苦悩と決意

 作中で何度も繰り返されるのは、「ミツルのもつ精霊魔術が破壊に転用されるかもしれない」という不安と、それでも世界が迫る脅威クロセスバーナに対抗しなければならないという責任感とのせめぎ合いです。


破壊の力と共生の願い

 ミツルは、黒いプレートからの記憶などから、“精霊魔術”を自然との共鳴や癒しのための力として認識しています。そして、自分が抱く力があまりに純粋で、暴走すれば世界を滅ぼしかねない(デルワーズと同様の力)という恐怖は、日常的に彼女の心を締めつけているように感じられます。前世でいうところの「深淵の黒鶴」=オリジナルのデルワーズと同等、という攻撃的な魔術の要素も備えている可能性が示唆され、もしそれを行使しなければ世界が脅かされるとなればどうするのか――という道徳的かつ実存的なジレンマが描かれています。


デルワーズと“自己犠牲”の反復を拒む想い

 作中で、かつて“デルワーズ”が自分の身を犠牲にして世界を守ったという背景が語られ、同じ轍を踏まないためにはどうすればよいのか、ミツルが強い抵抗感を抱いていることがわかります。「私(主人格であると思っている前世の美鶴)は私(今生のミツル)を不幸にはしない」という言葉に象徴されるように、ミツルは“生きる”ことを諦めず、自己犠牲ではない形で平和を守りたいと願っていると言えます。


周囲の人物との関係が紡ぐドラマ

 このシーンのもうひとつの魅力は、ラウール、ヴィル、ローベルト将軍といった周囲の人物が、それぞれの立場や思惑をもってミツルと関わることで、物語に厚みをもたらしている点です。


ラウール

  “亡国ソミンの王子”という過去を背負い、クロセスバーナの危険性をいちばん肌で知っている存在。ミツルを“力の道具”としてではなく、あくまでも一緒に解決策を探るパートナーとして見ようとしている。しかし、時間がないという焦りから、どうしてもミツルに大きな負荷をかけてしまうジレンマを抱える。真紅の瞳に映るのは、いまも強い使命感と悲壮感。


ヴィル

 最もミツルのそばで彼女を支え、“破壊”を拒む気持ちを最優先したいと考える護衛役。ただし現実的には、世界を守るためにミツルの力が求められるかもしれないという事実を知り、もどかしさを感じている。そのため、ミツルの意志を守るために、軍や周囲の政治的な圧力から彼女を遠ざけようとする姿勢が読み取れる。


ローベルト将軍

 軍人として、クロセスバーナへの対策を急ぐ必要があることを理解しながらも、ミツルの抱える“戦わずに平和を守りたい”という理想も尊重したい。二つの理念をどのように折り合わせるかが命題となるが、「世界を守る」という共通の目的があるため、最終的には妥協点を探りつつ、ミツルの意志もできるかぎり守ろうとする。“専門の部隊”を組織するという具体的な行動によって、ただの理想論では終わらない“実務”の面も示唆している。


 こうした複数のキャラクターが、それぞれの立場で同じ脅威クロセスバーナに向き合うために何が必要かを模索している点が、本作の人間ドラマを深めています。


“虚無のゆりかご”とクロセスバーナの脅威

 本文では、クロセスバーナが“虚無のゆりかご”――魔獣の巣を“任意”に生み出す秘術を手にしつつある可能性が示唆されます。従来、自然発生により生まれていた魔獣の巣を、意図的に発生させて魔石や軍事力を拡大する――という設定は、単なる“侵略”にとどまらず、世界そのものの秩序を根底から変え得る強大な力を感じさせます。ラウールが隠し持っていた情報の核心です。


“ありえない”が現実になる恐怖

 多くの人にとっては「噂話や遠い大陸の話」として片付けられているのが、すでに王都に潜り込む密偵や、工作の形跡などから「他人事ではない」とわかってくる。この落差が、“王国上層部が動こうとしない”閉塞感をより強調しています。


より強まるミツルの責任と不安

 システム・バルファや唯一神バルファにまつわる技術が、いま再び動き出す――という設定は、精霊魔術をめぐる物語の根源を揺るがします。ミツルは「自分がデルワーズの因子を色濃く持つがゆえに、そのカギになるのではないか」と感じ、焦りや戸惑いを深めています。ここでも、“破壊”を拒む想いと、脅威に対抗しなければという使命感が交錯するのが興味深いところです。


作風の評価:繊細な文体と重厚なテーマの融合

 心理描写が繊細に描かれながらも、軍事的・政治的な要素やファンタジーのスケール感がしっかり交わっており、重厚なテーマを扱いつつも情感豊かに読ませる構成になっています。


心理と情景が巧みにリンク

 ミツルの動揺が、そのまま周囲の風景描写(廊下の冷たさや夕暮れの光の変化など)と結びつき、読者に鮮明に伝わるようになっています。また、ヴィルが(性格的に)言葉少なに見守りながらも、要所で意志を示すことで、会話劇に奥行きが生まれています。


複数の次元で緊張が高まる

 ミツル個人の葛藤、クロセスバーナの侵略という世界的危機、そして王国上層部の無策ぶり――こうした複数の要素が同時進行で緊迫感を醸成しており、先の展開への期待が高まります。


今後への期待

まだ多くの謎が残されています。

“深淵の黒鶴”としてのミツルの正体

 なぜデルワーズはミツルを自身と同様の精霊器としたのか。メイレアの胎内で発生する時に介入したのか。その目的が「本当に世界を救うため」なのか、それとも別の意図があるのか――作中で語られる“嫌だ……”というミツルの内面が、今後大きなドラマを生みそうです。


クロセスバーナのさらなる動き

  “任意で虚無のゆりかごを生み出す秘術”が現実のものなら、具体的にどのような方法で、どの程度の規模で行使されるのかが焦点となりそうです。王都が侵略される前に、情報をつかんで打開策を見つけられるのかが緊張感を高める要素になっています。


ヴィルとの相互関係

 ヴィルは“破壊”の道を避けたいミツルの気持ちを一貫して尊重しており、今後もミツルを護り、王国やラウールとどう折り合いをつけていくのかが注目されます。単純な恋愛要素を超えた深い絆が描かれる可能性があり、物語にもう一つの軸を提供してくれるでしょう。


 攻撃特化型精霊魔術――“深淵”という危険な力と“世界を守る”という大義のはざまで揺れるミツルの姿を中心に、周囲のキャラクターがそれぞれの立場や信念を持ち寄ることで、物語の見どころを多層的に演出しています。


 引き続き、ミツルが“破壊”とどう向き合い、周囲の助力を得ながら解決策を見出していくのかが楽しみです。王都に及ぶであろう危機と、そこに“精霊魔術”がどう作用するのか、さらにキャラクター同士の関係がどのように深まっていくのか。

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