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傷と後悔を抱いて、明日へ

 そのかすかな決意を胸に抱きながら扉へと目を向けていると、静かな足音とともに侍医が姿を現した。灰色がかった銀の髪をゆるりとまとめ、思案の光を湛えたまなざしが室内の温度をそっと測る。

 小さく会釈して入ってくると、リディアがすぐ椅子を引き寄せた。


「失礼いたします。まずは御御足の具合を拝見いたしましょう」


 柔らかな声とともに、小ぶりの箱の留め金がかちりと鳴る。薬瓶の硝子が灯りをはね返し、包帯の布が清潔な匂いを立てた。

 ひやりとした薬液が足首に触れた瞬間、沈んでいた痛みが水面へ浮かぶ泡のようにかすかに立ち上がる。顔をしかめそうになるのを堪えると、リディアが覗き込む視線の温度が、思いのほか心を支えてくれた。


「ありがとうございます……侍医さまにも、ご迷惑をおかけしてしまって」


「いえ、これも私ども侍医の務めにございます。お嬢様の一日も早いご回復こそ、何よりの喜びに存じます。」


 穏やかな声の奥に、隠しきれない気遣いの影がある。先王陛下の容体が思わしくない折、私の不用意な外出で揺れた空気は、容易に静まらないだろう――それでも、所作は終始丁寧で、痛みを遠ざけるように手が動く。


 包帯が足首にやわらかい輪を重ねていくあいだ、リディアは沈黙のまま見守っていた。

 母のような優しさと遠慮が混じるその瞳に、胸の奥がちくりと疼く。多くを語らずとも、後悔と戸惑いに寄り添ってくれる存在が、今はただ心強い。


 仕上げの結び目が小さく締まる。


「これで一通りの手当は終わりました。骨には異常はございませんが、どうか足首の捻挫を軽くお扱いになりませぬよう、しばらくは安静になさってくださいませ。熱や痛みが増すようでしたら、すぐにお呼びください」


 会釈一つで侍医は退き、戸口の影が静かに閉じる。

 リディアが椅子を寄せると、張りつめていた空気が少しほどけ、魔道ランプの灯りがほのかに温みを増した気がした。


「ミツルお嬢様……どうかご無理だけはなさらないでくださいませ」


 眉をわずかに寄せる声に、私は小さく笑みを返すしかない。


「リディアさん……お祖父様は、いまいかがお過ごしでしょう?」


 ぽろりと落ちた問いに、彼女は申し訳なさそうに睫毛を伏せる。


「……本日、侍医殿が陛下のお部屋へご診察に参りました。詳しいことは私も存じませんが、まだお眠りがちとのことで……。いろいろとご疲労が重なっていらっしゃるようです。侍女たちもたいそう心配しておりました」


「そう……」


 掌にこもる微かな熱を確かめる。


 お祖父様の命の灯は、いまも小さく揺れている。寄り添うべきだった穏やかな時間を、私の至らなさが余計にかき乱してしまった――その思いが胸の内で鈍く重なる。


 沈黙の淵から、リディアの声がそっと手を伸ばす。


「きっと陛下は、ミツル様とお話しになりたいとお思いですわ。明朝にでも、落ち着いてお顔をお見せに行かれてはいかがでしょう? いつでも私がご一緒いたしますので」


 瞼の裏に、微かな笑みが灯る。逃げない。後悔を増やすより、言葉を渡しに行く。


「ありがとうございます、リディアさん。明日の朝、ご一緒していただけますか?」


 震えそうな声に、彼女は「はい」と静かに頷いた。ランプの灯りが横顔をなぞる一瞬、祈りのような清らかさが差し、胸がひとつ強く詰まる。


「それでは、私はこれにて失礼いたします。今夜はどうか、ごゆっくりお休みになってくださいませ」


 扉がぱたん、と軽く鳴り、去りゆく温もりがゆるやかに遠ざかる。柔らかな灯と揺れる影は優美なのに、残された静けさは胸をきゅっと締める。

 ベッドの縁に腰を下ろし、天蓋の布の向こうに沈む天井を仰ぐ。疲労が潮のように押し寄せ、瞼にぬるい熱が集まった。


《《ほら美鶴、今は悩んでも答えは出ないよ。まずは朝までぐっすり休んで、頭をすっきりさせて。そこからまた始めよう?》》


 茉凛の声が、水面の波紋みたいに思考へ溶けていく。固く結ばれていた心の節が、少しずつ解ける。


「そうだね……お祖父様には隠しごとはしない。私が考えていること、これからやりたいことを全部、ちゃんと伝えたい」


《《うん、それがいちばんいい。グレイさんもきっと待ってると思うよ。真正面から向き合おう》》


「わたしも、茉凛みたいに素直にならなくちゃ、ね」


 灯りを少し落とすと、寂しさと安堵が同じ布団に身を寄せ合った。――大丈夫。少しでも前へ。


 わずかに疼く胸と決心を抱きしめ、私はそっと瞳を閉じた。夜の静寂がすべてを包み、意識は薄布のように沈んでいく。明日が来れば、次の一歩を踏み出せる――その確信だけを胸に。


◇◇◇


 翌朝、車椅子に腰を下ろし、リディアに導かれてお祖父様の書斎へ向かう。歩きたい気持ちはあったが、彼女は首を振った。


「このような情けない姿をお見せしては、かえってお祖父様にご心配をおかけしてしまいます……」


 漏れた弱音に、背後から子をあやすみたいな声が落ちる。


「いいえ、お嬢様のお怪我の件につきましては、すでに侍医が陛下に直接ご説明申し上げておりますので、どうぞご安心くださいませ。むしろ、これは陛下ご自身からのご指示でございます」


「そ、そうだったんですか……」


 胸の奥にふわりと温度が灯る。案じてくれている――その事実が、悔いの棘をやわらげた。


 早朝の回廊は石の冷気を抱き、窓からの冬陽が細かな塵を浮かべる。車輪が石床をこつこつと転がるたび、小さな反響が往き、リディアの足音と重なって消えた。背に伝わる彼女の穏やかな呼吸に耳を澄ませ、胸に広がる覚悟の熱をゆっくり均す。


《《大丈夫、焦らなくていいよ。伝えるべきことを一つひとつ言葉にすれば、きっと想いは届くから》》


 膝に置いたマウザーグレイルの鞘を指先で撫でる。自分の足で立てない悔しさは残っても、お祖父様が気遣ってくださる手が、確かな安心を連れてくる。


 突き当たりに、金の意匠を施された重い扉。両脇の衛士が静かに迎え、一人が恭しく頭を垂れ、もう一人が扉を押す。木が小さく軋み、室内の空気がふわりと溢れた。薬草の香り、遠い暖炉のぱちぱちという音。


「ミツルお嬢様、ご準備はよろしいでしょうか」


 脇へ回ったリディアの問いに、私は深呼吸をひとつして頷く。


「はい……大丈夫です。行きましょう」


 車椅子が敷居を越え、書斎の空気が頬に触れる。未だ見えないお祖父様の面差しを思い描きながら、車輪の振動がいつもより重く感じられた。

 どんなふうに切り出すのがよいか――胸の締めつけをひとつ飲み込む。


「お祖父様……失礼いたします」


 灯の揺らぎを背に、お祖父様が顔を上げる。穏やかさと哀しみの影が同居したまなざしが、こちらの言葉を待っている気がした。逃げない、と心に言い聞かせ、背筋をすっと伸ばす。


「お祖父様……このたびは、ご心配をおかけしました。お身体を気遣うべき私が怪我などいたしまして、面目次第もございません。本来なら拝謁もはばかられますが、どうしても今お伝えしたいことがございます。これから私が成すべきこと、そして私の望みを――どうかお聞き届けください」


 胸の奥で茉凛の気配がそっと灯る。いまからが真っ向勝負――お祖父様の優しさと緊張の影をまっすぐ受け止め、私はさらに言葉を重ねていった。

物語上の機能と構成

“足を負傷している” という仕掛け

 主人公が「自力で歩けない」状態にすることで、周囲の協力を得ざるを得ず、さらに祖父への負い目や申し訳なさを一層引き立てる仕掛けになっています。同時に、リディアが車椅子を押すという行動を通じて、リディアとの情感や関係性が深く浮かび上がる構成です。


祖父との対話への“溜め”

 すぐには先王と顔を合わせず、まずは侍医とリディアの会話や主人公の内面描写を経てから、翌朝に面会へ向かう。その流れによって、“祖父様と話す場面”に向けた緊張と期待が段階的に高められています。また、祖父を「陛下」として敬いながらも、“家族”という近さを感じさせる呼称「お祖父様」を使っている点が、王族としての責務と家族愛の板挟みを象徴しています。


 これは、二人の複雑な事情も噛み合っています。ミツルは先王と離宮によって守られていますが、公的には「国を裏切った王女と大罪人の間の娘」であることはまだ覆っていません。そして、二人の間の微妙な距離感、魔術研究者と魔術師としての顔、などなど。グレイさんはミツルを「そなた」などとは言わず、初対面の時からのそのままの「君」と、フランクに呼んでいたりします。


呼称の持つ象徴性

ミツル→祖父

「陛下」と敬いながらも、「お祖父様」と私的な呼び方を使っている。これは、公的な場での立場(先王)と、私的な場での家族としての情愛が混在していることを示唆しています。実際には「国を裏切ったとされる王女(母)と大罪人(父)の娘」であるミツルを、グレイが“王家の一員”として受け入れる行為自体が、「王としての責務」と「祖父としての愛情」が交錯している証拠ともいえます。


グレイ→ミツル

「そなた」「おぬし」といった古風で距離のある呼称を用いず、「君」というフランクな二人称を使っている。初対面のころからこの呼び方を続けている点が重要で、そこには“純粋な個人対個人の対話を望んでいる”意識がうかがえます。


 王族としての格式や儀礼を意識するなら、孫といえども呼び捨てや砕けた二人称を避けることが多いかもしれません。けれどグレイはあえて「君」と呼ぶことで、公的な「先王」という仰々しさを取り払いたい気持ちを示しているようにも見えます。


王族の責務と家族愛の板挟み

ミツルの置かれた境遇

 公的には「国を裏切った王女」と「大罪人」の子とされており、周囲から警戒・不信感を抱かれる可能性がある。にもかかわらず、先王であるグレイが離宮にかくまい、保護者的立場を取っている。そのためミツルは、やや肩身が狭い状態で過ごさざるを得ない。


グレイの心情

 王として退位しているものの、依然として“先王”という大きな肩書を背負っている。「国を裏切った王女の娘」であるミツルを庇うことは、公的には決して楽なことではない。しかし、彼女の祖父という家族としての情が勝り、結果的に離宮で保護する選択をしている。ただし、その行為は“王族の政治的配慮”とも見られかねない微妙な立場でもあるため、グレイとしても「守りたい」という思いと「政治的にどう振る舞うべきか」のバランスを考え続けているはず。


 こうした葛藤の中で、ミツルに対してはあえて「君」と呼びかけ、距離のない対話をしようとするのは、王族という立場より“親族としての本音”を大切にしたい思いが強いからかもしれません。


“魔術研究者と魔術師”としての顔

 グレイが魔術研究者としての学識を持ち、ミツルもまた魔術師としての才覚を備えている関係性。王族云々だけではなく、師弟や研究パートナーのような面を共有していることが、さらに二人の間の距離感を複雑にしています。


 公には政治・国家の問題が横たわり、個人的には家族愛の絆があり、さらに学問・魔術への探求心を共有する仲でもある——そんな多層的な関係性こそが「王族としての責務×家族愛」をより一層濃密にしている原因といえます。


呼称の変化が示す物語的意味合い

 「陛下」「お祖父様」と呼ぶミツルに対し、グレイは「君」を使い続ける。時間の経過やエピソードの積み重ねに伴って、呼称が微妙に揺れ動く可能性も考えられます。たとえば、ある場面では「グレイさん」と呼ぶかもしれないし、逆に公的な場では「グレイハワード陛下」と呼ばざるを得ないかもしれない。


二人の“距離感”を活かすドラマの可能性

離宮という“閉ざされた空間”

 ミツルは表立って王族として扱われているわけではなく、ある意味“グレイの庇護下”にある閉ざされた空間で過ごしている。そのため、王族としての表の顔と家族としての内面がより対照的に描かれやすい。


公的立場が絡む場面

 外部の重臣や貴族、あるいは一般市民の前では「先王とその孫娘」という厳かな関係を装わなければいけない場合もある。一方、二人きりや側近だけの場面では“家族”として気さくに振る舞う——その落差がドラマを深める要素になる。


ミツルが世間的な立ち位置を変えていく展開

 もし物語が進むうちに、彼女の“王女と大罪人の娘”という烙印が外れたり、逆に発覚して大騒動になったりすると、祖父との呼び合い方や距離感もまた変化するかもしれません。そうした変化を呼称や態度で示すことで、二人の心の機微を伝えやすくなります。


内面のモノローグと茉凛の存在

 主人公は独白を通じて不安や罪悪感を表現しつつ、剣に宿る存在・茉凛が声をかけることで、読者にも主人公の心の“支柱”が可視化されます。これは単なる自己対話ではなく、“外部の視点”を内面化したキャラクター(茉凛)がいるため、読者も主人公の葛藤と励ましの構図を捉えやすい構成です。


 このシーンでは、主人公の負傷シチュエーションと祖父への強い想いが、静かな室内描写とともに描かれています。リディアや侍医といった周囲の人物の立ち位置や優しさ、そして主人公が抱える焦りや罪悪感が細やかな言葉選びで伝わってきます。翌朝、車椅子で書斎へ向かうまでの工程がゆっくりと描写されることで、自然と「祖父様との対話はどのようになるのか」と意識を向けるはずです。


立場の重さと、家族としての情

 王族であるからこその気遣いや、物言わぬ従者たちの遠慮が文章からにじみ出ており、主人公が周囲の視線や期待を強く感じていることが分かります。心情が“直接的な悲壮感”に傾きすぎず、静かな筆致で綴られているため、主人公の内面の揺れを柔らかく追体験しやすい場面構成と言えます。


 今後、祖父との対話がどのように展開し、主人公はどんな決断や行動をとるのか、このシーンを受けてのストーリー展開が楽しみになる書き方になっています。すでに読者に “王家の内情” と “主人公の心の痛み” をしっかり提示しているので、物語の先にある葛藤や行動が際立って映えることでしょう。


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