表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
278/644

深紅の瞳に宿る真意

 朝のうち、陽の光はまだ柔らかく、鞍の前環へそっと手を置きながら、私は遠く霞む王都の城壁を見つめていた。見慣れた風景のはずなのに、なぜだか胸の奥でこそばゆいようなざわめきが収まらない。


 ふと耳をすませば、横合いを進むスレイドの足取りが先ほどより重くなっていた。

 ヴィルが控えめに手綱を引くと、馬は鼻先から湿った息を漏らし、疲れを訴えるように、小さく嘶く。

 彼が細やかな手つきでスレイドの首筋を撫で、何か労わりの言葉を囁いている。その声音は低く、穏やかで、どこか安心させてくれる響きを持っていた。


 馬蹄のリズムに身体をゆだねながら目を凝らすと、街道の先に民家らしき小さな屋根が点々と浮かび上がってくる。王都の外郭と呼ばれる、こじんまりとした集落だ。

 往来する荷馬車の車輪の音や、旅人たちの軽やかな笑い声が混ざり合い、一気に活気が増すのが肌でわかる。


 私たちの一行に注がれる視線が増え、その大半がやはり私の鮮やかな緑色の髪に向けられているのが、いまさらながら、なんとも落ち着かない。


「……さすがにこの髪、目立ってるわね」


 押し殺したつもりの声がかすかに震え、私はヴィルへ目配せするように視線を送った。彼はわざとらしく肩をすくめて見せる。


「どうしたってな。だが、悪いことじゃないだろう」


 彼の淡々とした口調の裏にある、わずかな優しさを感じ取り、私は鼓動をひとつ落として息を吐く。この緑色のウィッグの下には、この国で忌み嫌われる“漆黒”の地毛が隠れている。


 リーディス王家に黒髪の巫女が生まれる時、必ず厄災が訪れるという古い伝説のせいで、この国では黒髪そのものが不吉の象徴となっている。

 かつて母さまも、そして伝説のメービス王女も、こうして地毛を隠して生きてきたという。


 けれど、このウィッグのおかげで、私は王都でとびきり目立つ存在として注目の的となったし、カテリーナが意図した通り、私自身が“道を切り開く”ための武器となったのも確か。


 でも、今の私の気持ちは少し複雑だ。私のことを面白半分に振り返る人々の目が、どうしようもなく鋭く感じられてしまう。それは、自らの行動が招いた事態に対する、後ろめたさのせいかもしれない。

 広場の視線が、黒の記憶まで探ろうとする指先のように感じられた。


 私はいつの間にか背中を縮こませていたようで、そのことに気づいて少し恥ずかしくなる。けれど、そんなとき、ラウールがそっと私の耳に近づいて声をかけてくれた。


「ミツル、背筋を伸ばしていればいいよ」


 ごく平凡な一言のはずなのに、どこか優しげな響きに胸が温まる。彼の視線をちらりと探すと、ラウールは穏やかな笑みを浮かべてこちらを見つめていた。


「背筋を、伸ばす……?」


 私はほんの小さな声で、彼の言葉を反芻する。


「うん。あまり引け目を感じると、逆に周囲から不審がられるから。必要以上に怯えなくていい。自信を持つ……とまではいかなくてもね」


 どこまでも柔らかいその口調に、私は思わず心がほぐれるのを感じた。

 くしゃっと縮んでいた背中を徐々に伸ばしてみる。空気が一瞬冷たく感じられるけれど、凛としたものがすうっと胸の内に入り込むようで、ほんの少し勇気が湧いてくるから不思議だ。


 気づけば、ヴィルが低く息をつき、「堂々としていろ」と声を抑え気味に呟く。

彼に言われるまでもなくわかっているつもりだけれど、そのぶっきらぼうな気遣いに、申し訳なくもほっとしている自分に気づく。


 周囲のざわめきや好奇のまなざしに心が少しずつ疲れていくような気配を感じながらも、私は鞍をしっかりと握り直す。


 遠くに見える王都の石造りの城壁は、朝日に照らされてかすかに白く煌めいていた。その光を見つめながら、次に踏み出す一歩を少しずつ探っていく。

 騎乗したまま行進する私たちを取り巻く空気は冷ややかにも思えるけれど、その中で揺るぎないものを見つけるために、私はぎこちなく背筋を伸ばしてみる。


 その時だった。澄んだ朝の空気を切り裂くように、遠くから高らかな喇叭の音が響き渡る。

 王都に隣接する関所で、外門の開閉を知らせているのだろう。やわらかな日差しを浴びて、石造りの城壁が青空を鮮やかに切り取りながら、堂々とそびえ立つ。日向の石気と、門前の油差しの金属臭が、風にうすく混じった。


「そろそろ、王都の外門ね……」


 わかりきっていたこととはいえ、実際にその姿を目にすると、胸の奥が熱をもって高鳴るのを感じた。


```

門に近づくにつれ、往来は一段と慌ただしくなっていった。荷車を引く商人、駆け抜けていく馬車、そしてその合間を縫うように走り回る少年たち。生き物のようにうごめく人の波に、私は飲み込まれそうになる。

```


 心臓が早鐘を打ち、喉が乾き、胸が浅く波打つ。


 正面の門扉はすでに開いていて、規律正しく並ぶ兵士たちの姿が目に入る。

 その中でもひときわ目を引くのは、豪奢な刺繍があしらわれた紋章入りのマントを翻す壮年の男。私たちの姿を認めるや否や、彼は驚いて目を見開いた。


――ローベルト将軍。


 思わず、その名を胸の内で呼ぶ。

 かつて選定の儀式に乱入した私を呼び止め、白銀の塔で父さまと母さまの物語を、そして過去の経緯を語ってくれた人物。玉座の間で私を救うために用意された策に、実のところ度肝を抜かれたけれど、それも彼なりの考えの末の行動だったのだろうと今は思える。


 しかし今、門の前に立つローベルトの面差しには、落ち着いた雰囲気よりも険しさがにじんでいる。背後に控える数十名の兵士たちにも同様の張り詰めた空気が漂い、その厳粛さに圧倒されるように、私は馬上で言葉を失いかけた。


「……ミツル、無事でなによりだ。だが、君の軽はずみな行動のせいで、どれだけ周囲が迷惑を被ったかわかっているんだろうな?」


 低く重たい声音が、私の耳元で凍りつくように響く。視線が私の全身を一度なぞり、そこで止まった。

 ローベルトは私の姿を見下ろしたまま、一瞬だけ表情を揺らす。そこに感じられるのは、安堵と叱責が入り混じった複雑な思い。けれど、彼らしい厳粛な態度は崩さない。


「……はい、皆々様に大変なご心配をお掛けしてしまったこと、申し訳なく思っています。どんな叱責も、咎も、受ける覚悟です」


 声がわずかに震えてしまう。私は馬上からかすかに身を傾けて、小さく頭を下げた。その一瞬、胸に痛みが走る。これほどに大勢の兵士が並び、私を見つめる光景は、やはり気圧されずにはいられなかった。


 ローベルトは私から目を離さないまま、取り囲むように詰め寄っていた兵士たちへと一瞥をくれる。

 その一瞥だけで、先ほどまで漂っていたざわつきが嘘のように収まった。兵士たちが一斉に背筋を伸ばし、黙り込む。将軍の放つ威圧感に、空気が一瞬で引き締まった。


 槍の穂先が朝の光を鈍く返し、鎧の継ぎ目がこすれ、短い金属音が続いた。空気の輪郭がぴりりと締まった。


 続いて将軍は、私の背後に控えている長身の青年へと目を向ける。深紅の瞳をもつ、その名はラウール。彼の存在に気づいた将軍の表情に、さらに険しさが差した気がして、私は思わず息を呑んでしまう。


「……それで、そちらの男は何者だ。説明してもらえるか?」


 城壁の前で大勢の兵士に取り囲まれ、ローベルトの厳しい問いが石畳に鳴り響く。

 私は一瞬、胸の奥が強く締めつけられたような感覚を覚えた。けれど、この場で動揺を表に出すわけにはいかない。勢いに流されぬよう、短く息を整えてから、覚悟を決めて馬から降りる。


 鐙に重心を移し、左足から砂へ下ろす。痛む足をかばいながら小さく身を揺らすと、ラウールもまた静かな気配で鞍を下り、すらりと伸びた背筋を崩さずローベルトの前へ進んだ。引き締まった表情と端正な所作からは、まるで揺るぎない意志が見て取れる。彼には萎縮や戸惑いといった色が微塵も感じられない。


「こちらはラウールです。荷馬車の事故で投げ出され、意識を失っていたところを、通りかかった彼に助けていただきました」


 なるべく簡潔に、そして失礼にならないように。その一心で紡いだ言葉が、ひどく弱々しく聞こえはしないかと、自分の声を疑ってしまう。


 けれどラウールは、私の説明を補うように小さく頷き、無闇に弁解せずとも一度だけ毅然と頭を下げた。その落ち着いた態度が、私の張り詰めた気持ちをわずかに和らげてくれる。


「事故だと? いったい何があったのだ?」


 ローベルトの鋭い視線が、細い刃のようにラウールへと向かう。

 背後に控える兵士たちは、その将軍の視線に呼応するかのように、一斉に警戒を強めている。ぎらりと光る武器の柄を握りしめる手の動きが見え、広場に、鎧の継ぎ目の擦れる音だけが残った。


 それでもラウールは息を乱さず、穏やかさを保っている。


「あなたのご懸念はごもっとも。ただ、私は彼女のために手を貸しただけで、他意はありません」


 ラウールの声音は低く落ち着いていて、その瞳にはまぎれもない真摯さが宿っているように感じた。

 けれど、ローベルトは容赦なく目を細め、ラウールを見据え続ける。まるで、どんな些細な誤魔化しも見逃さないという意志が、あたりの空気を張りつめさせるようだった。


 何人もの兵士が剣や槍の鍔に手を添える気配に、私の背筋はぞわりと小さく震える。いつでも抜刀されそうな緊迫感が、視線という形でラウールと私を貫いていた。


「なるほど……詳しい経緯は後ほど聞かせてもらおう。

 だがミツル、私から言わせてもらえば、君は何者かに拉致され、王都から連れ去られた。そして馬車の事故というのも――君のことだ。状況に流されるままではいられず、独力で突破を図った。そうではないか?」


 ローベルトの洞察に、私は返す言葉も見つからない。心の奥にある小さな秘密さえ、あらわにされてしまったような気持ちになる。

 痛む足を引きずるようにして、何とか声を絞り出した。


「はい……将軍のおっしゃる通りです」


 私の認めるような返事に、将軍は短く頷くと、再び射貫くようにラウールを睨む。その横顔には、まだわずかな疑いの影が色濃く宿っていた。


「だとすると、この男、信用ならんな」


 その一言に、私は胸を鷲づかみにされたような感覚を覚える。


 ラウールは変わらず一歩も退かぬ姿勢を保っている。その背中が、今にも鋭い刃で切りつけられてしまいそうに見えて、胸がざわついた。


「どうしてですか。彼は私を助けてくださったのですよ」


 乾いた唇を噛み、声を押し出す。気づけば、いつもよりも高い声が喉の奥から飛び出していた。自分でも驚くほど、声が上ずってしまう。

 ローベルトはそんな私の様子を冷徹な視線で見極めるように見やり、鼻で笑うかのように、低く息を吐く。


「よく考えてみたまえ。出来すぎていると思わんか。都合よく“偶然居合わせた”など、それ自体が疑わしい。裏で君の拉致に一枚噛んでいても不思議ではない」


「そんな……何の目的で?」


 ローベルトの非情な言葉に対抗するように問いかえしたものの、その声はわずかに震えていた。言いながら、私自身も自分の頼りなさを痛感してしまう。ラウールの潔白を証明したいのにそれを示す明確な証拠など何もなく、焦燥感が胸の奥で煮え立つように熱を持ち始める。


 それでも、私の目にはラウールが本当に誠実な人としか映らない。彼の深紅の瞳に宿る静かな光、言葉のひとつひとつの重み。どれを取っても嘘とは思えない。


 だけれど、ローベルトの言葉はどこまでも現実的だ。すがりつきたい気持ちをはねのけるような冷徹な正論が、皮肉にも私に突きつけられる。


「いいか、ミツル。君はすでにわが国にとって重要な存在なのだ。その自覚を持て。君を手に入れようと、あるいは利用しようとする者がどこに潜むかは分からん。たとえどれほど甘い言葉をかけられても、その裏に何らかの思惑があると疑え」


 将軍の言葉は鋭い刃のごとく胸に突き刺さる。

 正論であるからこそ、反論ができない。その痛みがあまりにも強く、思わず唇をきつく噛みしめてうつむいた。ひんやりとした石畳の隙間から吹く微かな風が、心まで凍らせるような錯覚さえ起こす。


「彼がそうだというのですか?」


 上擦った呼吸を何とか整え、将軍の瞳を仰ぎ見る。ラウールもまた、いつの間にか身体の向きを変え、私のほうをそっと見守っていた。その鋼のように揺るぎない姿は、むしろ将軍の威圧感すらも受け流してしまうようにさえ見える。


 ローベルトはわずかに眉間の皺を深くし、ため息をつく。周囲の兵士たちが息を潜めて静まり返るなか、彼はきっぱりと断じた。


「その疑いはある。いや、ありすぎるくらいだな」


 それはまるで、刃の切っ先で胸を抉られるような一言だった。私の呼吸は一瞬にして浅くなり、込み上げる息苦しさに目を伏せてしまう。

 それでも、ラウールは一度も視線を逸らさず、将軍の瞳を堂々と受け止めていた。


 風が旗を払う音だけが、ひやりとした城門の影に残った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ