剣と罪と深紅の瞳
朝焼けの淡い光を浴びて、こちらへ歩み寄るラウールは、夢とうつつの継ぎ目に立つ影のようだった。声と気配に宿るやわらかさが、さっきまでの恐怖と痛みを、胸の奥から少しずつ洗い落としていく。それでもいちばん印象に残ったのは――彼の「立ち方」だった。
視線を上げた瞬間、頬を掠める風が草原をさっと撫でる。彼を包む景色ごと、抱きしめられたような錯覚に、鼓動がひとつ、胸の奥で乾いた音を立てる。
目は合わない。喉仏のあたりで視線が止まり、そこから上へ上げる勇気がなかなか出ない。耳の奥で、自分の呼吸が浅く整いきらないまま揺れている。
――なんてきれいな人……。
薄紅から金へほどける地平を背に、ラウールは朝の光そのものを借りたように佇んでいた。
銀の長髪は朝露を含む草葉のようにしっとりと光を返し、わずかな身じろぎに合わせて、細い金糸の反射が流れていく。
顔立ちは、思わず視線を奪われる均衡をしていた。頬の起伏が輪郭を澄ませ、鼻筋は冷えた空気をまっすぐ割っている。やわらかな弧を描く唇に、静かな生命の温度が差す。
そして――深紅の瞳。炎を抱いた宝石のようなその色は、静かな優しさと拭えない陰りを同居させていた。睫毛は濡れた影を落とし、まなざしの奥行きをいっそう際立たせる。
その眼差しに触れた途端、荒れていた呼吸がふっと深くなる。
「……大丈夫? 痛むところはない?」
長い道のりの果てに落ちる泉の一滴みたいに、その声はしんと胸に沁みた。問いの後ろに、風の細い音が布を撫で、私の鼓動が一拍遅れて追いつく。
私は見上げたまま、身じろぎもできずにいる。視線は揺れて、彼の肩口と草の露の間を行き来した。喉の奥で小さく鳴る呼吸が、体温の戻り方を教える。
小さく息を吐く。警戒は消えていない。けれど声音と所作の穏やかさに、こわばった筋肉がゆるむ。重い上半身をゆっくり起こし、掠れた声を押し出す。声は自分でも驚くほど小さい。
「……あ、ありがとうございます……。けど、まだ……頭が少し……」
焦点の定まらない視界に戸惑いながらも、うずく身体を支えようと腕に力を込める。すると、彼は勝手を知っているかのように、そっと手を差し出した。
ほっそりした骨格が透ける手背に、白磁めいた肌が朝光をやわらかく返す。触れ合う直前、掌から上がる微かな体温に、指先の震えが弱まる。
装いは白のローブ。裾には朝露を思わせる細い金糸の刺繍。内側から覗く深紅のベストが瞳の色と呼応し、静かな対比を作る。胸元の細いリボンが風に鳴り、微かな衣擦れが耳朶に触れた。首元の薄い飾りは朝霧の薄膜のように肌の白さを際立たせている。
視線を落とすと、足元のブーツはよく使い込まれていて、草原の湿りを確かに踏んでいた。遠くで鼻息が短く鳴り、朝靄の向こうから湿った土を踏む蹄の音が、間を置いて届く。繊細な外見の奥に、場数の匂いが淡く漂う。
「無理しないで。ほら、ここで少し休んで」
肩を支えられると、朝の冷えを含む清い匂いと、体温のわずかなぬくもりが近づく。
緊張の糸がほどけそうになり、私はマウザーグレイルを抱き直した。茉凛の眠る重みが、背筋の不安を支える。胸の内側で鼓動が少し落ち着き、指先の震えはまだかすかに残る。
「……あなたは、どうしてここに……?」
震える問いに、彼は一瞬だけ寂しげに伏目をつく。その影をすぐにひとつの微笑が拭い、ふたたびこちらへ向く。心音が一拍遅れて追いつき、音のない間に、布の微かな擦れだけが残る。
「僕はただの旅人さ。王都リーディスを目指していたんだけど、遠くから地割れがするみたいな音と振動がして、何事かと急いで駆けつけたんだ。そうしたら、あの残骸の近くに君が倒れていた」
低すぎず高すぎない声が、深紅のまなざしの落ち着きと重なって、胸にすとんと落ちる。呪いの気配は風に解け、清澄な草原の光と彼の輪郭がなじんでいく。
私は肩の力をぬき、浅い息を吐いた。目線はまだ低いまま、うなずく。喉を通る息が少し温かい。
視線が交わる。彼の指がそっと肩に触れただけで、胸の底に積もった警戒が薄皮を剥ぐようにほどける。
まだ初対面――油断はできない。けれど、その目に宿る静かな慈しみは、疑いに慣れた私の直感を、少しだけ緩めた。鼓動が一度、控えめに跳ねる。
「そうでしたか……あの、助けていただき、ありがとうございます」
私が言うと、彼は小さく首を振る。風にまぎれる仕草。銀の髪が朝焼けをやわらかく跳ね返す。
「礼なんていらないよ。君が無事で本当によかった。この惨状を見れば、正直、もう誰も助からないんじゃないかって思っていたから」
胸の奥がきゅっと縮む。縄の痕が風に触れてひりつき、手首の内側に残る油と汗の匂いが、さっきまでの恐怖を薄く呼び戻す。鼓動が浅く速くなり、息をひとつ飲み込む。
砕けた車輪の破片が草の上で鈍く光り、土に押しつけられた轍の線だけが、そこに人の気配があったことを示している。焦げの匂いはどこにもない。熱の名残りすら、風の中に見つからない。
複数の男たち、馬、縛られた私――今は瓦礫だけが残り、気配はどこにもない。耳鳴りのような静けさが、朝の空気に絡みついては離れない。
「……私を拐おうとした連中はどこ……」
口に乗せた音が、舌の上で苦くころがる。言い過ぎた、と胸の内側で舌を噛む。ラウールの横顔がわずかに動き、銀の髪の先が朝露を散らす。沈黙が一拍。自分の呼吸音が近くなる。
「ん……拐ったって?」
つい口が滑り、胸がちくりと疼く。頬が熱を帯びる。乾いた唇を結び直し、剣の柄を握り直すと、掌の砂がきゅ、と音を立てて滑った。
「あ、いえ、違うの。他に乗っていた人たちがいたはずで、荷馬車が壊れたなら、一緒に巻き込まれたはず……なのに、誰も居なくて、おかしいなって……」
言い換えた言葉が、冷たい空気にほどけていく。裾の端が露でしっとり重く、風に揺れて布が小さく鳴る。脛に草の感触が貼りつき、肌の表面の冷えが遅れて意識に上がる。
記憶の縁を手探りすると、彼は少し黙り、朝靄の残る地平へ視線を投げた。深紅の瞳が遠景の光を淡く拾い、眉間に落ちた影が、考えの深さを物静かに示す。
「僕が辿り着いた時、ここには君だけが倒れていた。ほかの人影はまったく見当たらなかったし……それと、あたりが異様に静かだったね。まるで何か見えない力が、一瞬にして消し去ったかのように」
破片は在るのに、人の匂いだけがごっそり抜け落ちている。
「……消し……去った……?」
胸の内側でなにかが軋む。冷たい汗が背を這う。灼熱の闇が地面をひび割らせ、すべてを呑む映像が脳裏で再燃する。呼吸が短く途切れ、鼓動が嫌なリズムを刻む。
――まさか、わたしのせい?
もし彼らを“消し去った”のが私だとしたら。吐き気に似た恐怖がせり上がる。けれど、焼け跡も、明確な残骸もない。それは――おかしい。痕跡の無さが、むしろ疑念を濃くする。
「言い方が悪かったかな。君は一緒に乗っていた人たちがどうなったか、心配しているんだね? おそらく、事故で慌てふためいて逃げだしたんじゃないかな? 馬車を曳いていた馬だっていないし、そうとしか思えない」
「……無事だと、いいんですけど……」
――拉致を依頼したのは誰? 王家の思惑か、他国の手か。私とマウザーグレイルの「関係」に、誰かが気づいている?
利用価値――そんな言葉が、喉の奥で嫌な音を立てる。唇を噛む。背中に闇の気配がまとわりつく錯覚に、両腕を抱いて震えを封じる。最後の語尾は、霧に吸い込まれるみたいに小さくなった。呼吸が浅く、胸がわずかに上下する。
ふと、彼の視線が戻る。深紅の瞳には疑いではなく、小さな「不思議」が灯っていた。
理解の及ばぬ現象へ向ける、静かな戸惑い。足もとを撫でる草の細い音が、会話の隙間を静かに埋めていく。
「それはともかく……ねえ、君の名前は? それに、どうしてこんなところにいたのか教えてくれないかな? 何も知らないままっていうのは、さすがに気になってしまうんだ」
「……あ……」
喉がからん、と鳴る。名乗りの言葉がうまく形にならず、私は剣を抱き直して呼吸を数える。心臓の鼓動が指先まで届き、数拍遅れて静まる。
「助けていただいたのに、ごめんなさい。私、ミツルといいます。
……本当のことを申し上げます。昨夜、“ある人”に会いに行く途中で、怪しい連中に捕まってしまって……それでこんなことに」
すべてを語るわけにはいかない。黙って去るのも違う。嘘はつけない、でも真実は渡せない――小さくうなずいて、自分に許す境界を決める。吐く息が少し温かく、胸の内で震えが細くなる。
「……そうか。それは大変だったね」
彼は息を呑み、まなざしを伏せる。その静けさに、遠いヴィルの面影が一瞬だけ重なり、胸の内がちくりと疼いた。けれど同時に、その優しさは確かな救いでもある。
「……馬車の壊れ具合から見て、危うく命を落とすところだったんじゃないか? 地面の亀裂やあの棘の跡を見るに、かなり強い“衝撃”があったみたいだよ。それで無事だったのは、奇跡かもしれないね」
「……うん。今はちょっと記憶があいまいで、説明はしにくいんだけど……気づいたら、あなたが声をかけてくれていて」
砕けた車輪、尖った石の棘。散らばる危うさの中で、私の身体に目立つ外傷はない。同じ場にいたはずの男たちも、馬も、影がない。その不在が、名づけにくい不安を呼び起こす。胸の奥で鼓動が一拍強まり、すぐに沈む。
彼は私の揺れを察したように、声を少しだけ確かにした。言葉の隙間に、風の冷たさと息の温度が交じる。
「何にしても、ここで長居は危険だよ。また何かが起こるかもしれない。さっき話したとおり、僕は王都に向かう途中だし、一緒に行こう。馬はあるから」
押しつけの匂いのない誘いだった。まっすぐにこちらを見る深紅の瞳が、胸の内側に小さな灯をともす。
剣の柄に残る体温を確かめながら、私はゆっくりと息を継いだ。胸の奥で間が揃う。心臓の音が、遠くの蹄と同じ拍で鳴る気がした。
第六章登場キャラクターは以下の通りです。
ミツル・グロンダイル
物語の主人公 。前世の記憶と「精霊の巫女」としての力を持つ少女 。
ヴィル・ブルフォード
ミツルの護衛騎士兼、剣の師匠 。「雷光」の異名を持つ元伝説的剣士で、ミツルの父とは親友だった 。ミツルを守ることに強く執着し、ラウールに嫉妬を抱く 。
茉凜
ミツルの前世からの親友で、魂が聖剣「マウザーグレイル」に宿っている 。高度な情報解析能力でミツルの精霊魔術をサポートする 。
ラウール・パブロ・デ・バルベルデ
銀髪と深紅の瞳を持ち、偶然ミツルを助ける 。
グレイハワード
ミツルの祖父でリーディス王国の先王 。現在は王立魔術大学の総長を務める 。
リディア
ミツル付きの侍女 。かつてはミツルの母メイレアにも仕えていた 。ミツルの境遇に同情し、常に優しく寄り添う支えとなる存在 。
カテリーナ・ウイントワース
元情報部の天才分析官で、ヴィルやミツルの父ユベルとは旧知の仲 。
ソレイユ
魔術大学でミツルが出会った快活で聡明な学友 。
アルベルト・カベスタニー
王立侍医院の首席侍医。
リーダル
王立侍医院の若い侍医 。
ファビアン・グランブイル / ノルド・フロイス
ミツルを政治的に利用しようと画策する王宮や貴族側の人物たち 。




