隠された水の牙—場裏青の解放
薄暗闇のなか、頬を木の板からそっと離した。
車体がぐらりと揺れ、床板のざらつきが皮膚に擦り込まれる。鉄輪の芯で鳴る乾いた軋みが、腹の底まで細く響く。鼻先には油と麻縄の匂い。目隠しの布は湿り、呼気が触れるたび微温い。唇が乾いてかすかに割れ、喉の奥で小さな痛みが跳ねた。深く――吸って、吐く。いまの自分にできるのは、音にして投げることくらい。
「……ここは……どこ……?」
情けないほど掠れた声が、布と木に反響して耳へ戻る。寝台で凍えるような冷えはない。意識は引き上げられる――ただ、手足は麻縄に固められ、板の冷たさが骨まで沁みている。
低い唸りと、わざとらしい咳払い。木箱が擦れ、底板の釘がきい、と鳴る。靴底が近づく。
「ちっ、目が覚めるのが早すぎるんだよ。薬物耐性でもあるっていうのか?」
髭面の便利屋――喉に砂利が混じった声色が、耳朶を荒く撫でる。
「軍の手が回る前に門外へ抜けて正解だったな」
張りのある若い声。
「追手はもういねぇだろ。あとは待ち合わせ場所で、こいつを渡せば仕事は終わりだ」
もう一人。三。荷台の闇に耳を沈め、位置を測る。心臓が節を早めるが、脈の音さえ蓋をする。
「教えなさい。……どこへ向かっているの?」
問うた刹那、髪を乱暴に掴まれ、首の皮がきつく引かれる。
「っ……」
顎を持ち上げられ、酸い匂いの吐息が頬を撫でた。縛られた手足では、身じろぎも不恰好にしかできない。
「しつこいやつだ。お前が知る必要はない。おとなしくしてろ。……下手に騒ぐとどうなるか、わかってるだろう?」
耳のすぐ傍、鈍くしけた声。
「ちっ……」
舌打ちが漏れた。
「助けが来るなんて期待は持つな。諦めるんだな」
ぶつ、と手が離れ、後頭部が板に跳ねて鈍い痛みが灯る。
「おとなしくしてりゃあ手荒な真似はしない。なんたって依頼主からは“無傷で連れてこい”と厳命されているからな。……しかしまあ、お前みたいな妙ちくりんな子どもに、いったいどんな価値があるんだか」
奥歯がぎりりと鳴る。唾を飲み、胸の奥へ声の温度を沈める。
――茉凜。あなたなら、どうした?
呼びかけても、返る気配はない。そばにあった温もりは遠のき、胸の中心に冷えだけが広がる。
「……私を拐って、何の意味があるというの……?」
返事はない。代わりに、くぐもった笑いが沼の底から泡立つように背筋を撫でていく。
荷馬車が石段を越え、全身が跳ねた。板の摩擦が皮膚を焼き、後ろ手の縄が食い込みを増す。麻繊維がじわじわと肌に噛み、指先が痺れる。
――呑まれない。お祖父様を救うと誓った。ここで沈むわけにはいかない。
頸の力でわずかに頭を上げる。逃走の算段は白紙。それでも、情報と“隙”は拾える。拾えば道になる。
「……答えなさい。依頼主とは、いったい誰なの……?」
震えを押し戻して投げる。目配せの空気、鬱陶しげな吐息、乾いた笑い。
「おとなしくしてれば、そのうちわかるかもしれないがな。いいか、ここはもう王都の外だ。お前の味方になる奴なんざ、どこにもいやしない。無駄なあがきはやめることだ」
胸がきゅ、と縮む。夜気は冷たく、思考の縁を鈍らせようとする。
――諦めない。必ず抜ける道はある。
まぶたの裏をきつく暗くして、呼吸を深く刻む。
私の深淵の黒鶴――暴れさせれば怪物になる。けれど〈場裏・青〉だけを、ごく薄く滲ませるのなら、危険は抑えられる。白も赤も封じたまま、青だけの繭を指先へ。
空気炸裂で吹き飛ばすのは速い。けれど今は視界も封じられ、四肢も縛られている。悪手だ。まずは“水”で縄を断つ。鳴海沢洸人の“疾槍”――針より細く、音より短く。
溢らせない。濡れは痕跡になる。滴は靴の布に吸わせて消す――逃がし道を、先に用意する。
「あなたたちに、言っておきたいことがある……」
「なんだ? 腹でも減ったのか? あいにく持ち合わせはないぞ。酒ならあるが、子どもにはきつすぎるぜ」
笑いが連なる。三。音の反響で位置の輪郭が立つ。
「それは遠慮しておくわ。お酒は嫌いじゃないけど、普段軽いワインを飲むくらいだしね。それより、私の持っている力がどんなものか……見たくはない?」
笑いが止む。車輪の軋みだけが、薄い膜の裏で鳴った。
「力だと? そりゃまた随分な言い草だな。手足を縛られていて何ができるっていうんだ?」
完全な侮りではない。わずかに構えが揺れる。
「……例の剣もどきなら俺が持ってるしな。身体検査はしたし、武器なんて隠してない。どうせ何もできんだろ」
暗がりで、金属の当たる小さな音。――“マウザーグレイル”は一つ、誰かの腕に抱えられている。
「へえ……だとすると魔術の類か何かか? それで、俺たちに何を見せてくれるっていうんだ? あまり愉快な余興でもなさそうだが。魔道具も魔石も無しで、何ができるっていうんだ? ええ?」
床板を靴先で叩く合図。振動が足裏へ走る。
脅しに対し、こちらは“見せる”だけで跳ね返す。警戒は上がるが、刃は他にない。
肩甲骨が板を擦るほどに、体をわずかにずらす。不自然にならない範囲で。
「……私の力は魔術とは違うし、“見かけほど”派手じゃないの。けどね――」
言葉で視線を引き寄せ、その一瞬に足首へ意識を沈める。
〈場裏・青〉。微粒の水を、皮膚と縄の繊維の“間”にだけ通す。汗と同じ温度で、匂いを立てない。芯だけを湿らせる。
「おい、何を企んでる。妙な詠唱を始めたら、即刻叩き伏せるからな」
釘を打つ声。恐怖は、いったん棚に上げる。結び目の像だけを強く結ぶ。
「……見たら驚くかもしれないわよ。何しろ、“昔”馴染が伝授してくれた技なんだから」
軽口の裏で、足首と手首に薄い膜を伸ばす。青白い気配は皮膚上で汗に紛れ、縄の芯だけを湿らせる。
闇の向こうでひとりが身じろぐ。位置を修正し、決意を締める。
――やる。
息と拍動を合わせ、繊維へ水を刷り込む。ほどけやすい角度を探り、
――〈場裏・青〉、限定解放。
糸より細い“水の槍”を、結節部へだけ打ち込む。空気を裂くほどにもならない微音。床板に跳ねる点の飛沫は、踵の布へ吸わせて消す。
外から見えたのは、足先がわずかに震えた程度。芯を削られた縄は、ふにゃりと力を失い、血の巡りが指先へ戻る。喉の音を殺し、体勢を崩さない。
「今……何か変な音がしなかったか?」
「馬車が揺れただけだろ。いちいち騒ぐな」
囁きが往復する。違和感は残っても、確信に届かない――その曖昧さが、いまの盾だ。
足首の縄が解ける。胸の底がひと呼吸だけ緩む。
手首は、もう少し圧がいる。水音と濡れを悟られぬよう、呼吸と同期して“間”にだけ打つ。自傷のリスク――手首の皮膚を切らない角度に微修正。灯りが来る前に済ませる。
――それでも、やる。
逃げ道は足から。次を開ける一瞬を掴む。濡れを最小に、滴は裾へ吸わせて消す。
会話が止む。ひとりがこちらへ歩み寄る。板がぎし、と鳴り、埃の匂いが揺れた。
「……おい、お前痛い目を見たいのか?」
威圧が落ちる。焦りを呑み込み、静かに返す。
「……さあ、どうかしら。私はまだ“見世物”を始めたばかりよ」
水槍をほんの少しだけ太らせ、後ろ手の縄へ移す。短く、乾いた噴出。繊維がぎちぎちと裂け、手首に熱い刺痛。――圧を上げすぎない。皮膚を守り、芯だけ切る。
「……おい、今度こそ何か聞こえたぞ」
ランタンを取る影。灯りは露見の刃。最後の一本だけ、撚りを見極めて、ぷつり――。
ふっと手首が軽くなる。ばらけた繊維が指に触れ、冷えと熱が同時に走る。心臓がどくん、と強く鳴った。
「くそっ、灯りだ! 暗くて何も見えん!」
頼りない黄が床を撫でる。滴はもうない。私は両手を板から放ち、固まっていた足腰を叩き起こす。灯りがこちらを掠めた瞬間、低い姿勢で荷台の隅へ滑る。埃が膝にまとわりつく。
「なっ……!? お前、いつの間にロープを……っ!」
吸い込むような息の気配が背に当たる。解き放たれた身体は、薄い水気を纏って闇を切る。
転がる勢いで隅へ。四肢はまだ覚束ないが、戻る選択肢だけはない。目隠しへ手を伸ばし、布を裂いて放る。布が床を滑り、男たちの靴先で止まる音。視界が開き、月と灯が瞳へ刺す。眩しさに目を細めるが、闇よりはましだ。埃が光に舞い、油の匂いが濃くなる。
「……この小娘、どうやって戒めを解いた……?」
荒い声。ランタンが持ち上がり、影が壁に伸びる。彼らの苛立ちは、いまはどうでもいい。手も足も動く。視野もある。あとは、この狭さで“いつ仕掛けるか”。それだけ。
掌と足首に、〈場裏・青〉の残響がまだ温い。悠長は敗着だ。今すぐ抜けるか、隙を作ってから刈るか。
板がぎし、と鳴る。足音が間合いを詰める。彼らの「小娘」という思い込み――いまだけは、その鈍さを刃にする。唇の内側を噛み、踵を木目に合わせて踏む。次の瞬間、私は――。
物語の始まりは深い暗闇のなかで、主人公が自らの置かれた状況を少しずつ把握していく過程が描かれている。 両手足を縛られ、視界が閉ざされた状態でありながらも、繰り返し問いかけを発することで、彼女はただの被害者として留まるのでなく、必死に活路を模索しようとしている。
周囲の男たちの言葉は終始低く抑えられ、不気味な静謐や嘲笑が混じっていて、空間全体が大きな圧迫感に覆われている。さらに「男たちが何人いるか」「どこへ連れて行かれるか」といった不透明な要素が次々に提示される。
一方、主人公が心のなかで繰り返し想起するのは、自分にとって大切な存在(“茉凜”や祖父)や、前世の仲間が残してくれた疾槍の技などだ。これらが「暗闇の囚われ」という陰鬱なシチュエーションに、一筋の希望の光を注ぐ要素になっている。いかにも絶望的な状況であるにもかかわらず、主人公が己の意志と特殊な力を頼りに行動を起こそうとする場面では、物語の緊張が一気に高まり、この先どうなるのか”という期待感を生み出す。
特に、周囲に悟られないほどの微量な水の操作を通して縄を切る描写は、細やかな集中力が必要な緊張感と、暗闇のなかで騙し合うような駆け引きを同時に感じさせる。そこで用いられる“場裏青”の能力が身体を傷つけかねない危険性や、あえて大技を選ばず繊細な方向で行使する戦略などから、主人公が状況を冷静に分析している様子もうかがえる。
さらに、“目隠し”を外すことで漸進的に視界が回復し、彼女の行動の自由度が増していく展開は、物語の起伏を生み出す。
暗闇・拘束・情報不足という三重の閉鎖状況。一方で、明確に示される“力”や“過去の仲間の存在”は、単なる絶望一辺倒の物語ではなく、逆転への伏線を強く感じさせる。こうした要素の配置によって、作品はスリリングな緊張とわずかな希望を同時に抱えながら進行していく。




