冬暁(とうぎょう)を駆ける影
カテリーナ宅の窓辺から、冬の朝陽がやわらかく揺れていた。ガラスを透けた光が家具の縁を金へ染め、淡雪色の床に淡い輪郭を落とす。
だが、その温度を味わう間もなく、ヴィルは息を切らせて門を飛び出す。石畳に昨夜の薄雪がうっすら残り、踏むたび小さく崩れた。
愛馬スレイドの鼻先から白い息が上がり、鉄蹄が乾いた石を打ち鳴らす。小石を跳ね、火花が瞬いた。
知らせが届いたのは夜明け間もない刻。離宮の侍女が駆け込み、言葉をもつれさせながら「ミツル様が忽然とお姿を消した」と告げた。
切迫した口振りの背後に、離宮の混乱が生々しく滲む。胸を掴まれるような不吉が全身を駆け抜け、ヴィルは立っていられなくなった。
「カテリーナ、俺はミツルを探す」
玄関扉を勢いよく開け放つ。冷気が暖気を奪い、廊下を抜けた風が彼女の亜麻色の髪をざらりとかき乱す。
振り返ったカテリーナの目に、一瞬の驚きが走る。いつもの快活な笑みはなく、険色がうすく残る。
「あいよ。それにしてもあの子に何があったんだい? 離宮の警備兵はなにやってんだ……」
低く抑えた声に、苛立ちと不安が混じる。奥の部屋から時計の針が刻む音が、やけに大きく聞こえた。彼女はまぶたをひとつ静かに閉じ、短い嘆息を飲み込む。
「わからん。確かに以前は不穏な気配があって、夜中に俺が目を光らせていたんだが、ここ最近はそれも影を潜めていた。だからって……油断した俺のミスだ……」
心の隙間を噛むような痛みが一拍で満ちた。
ヴィルは浅く息を吸う。握った拳の節が白くなり、額に細かな汗が滲む。
「それは仕方ないんじゃないか? あんたに調査してくれって言ってきたのはあの子なんだろ? そのために警備を増やしたんじゃないのか? だから、きっと……」
そこまで言って、カテリーナは言葉を飲み込む。唇がきゅっと結ばれ、視線が揺れた。冷たい外気が廊下をすり抜け、壁の絵の縁が微かに軋む。
「あいつ自身が自分の考えで動いた……そういうことだろう。だがなぜだ……まさか!」
沈黙の膜を破り、ヴィルの瞳が大きく開く。背筋が伸びるのと同時に、頬の色が引いた。
「どうしたんだい?」
カテリーナの警戒の色が、廊下に低く落ちる。ひと呼吸置いて、ヴィルが言う。
「お前なら、情報部のルートで耳にしているはずだ。ミツルの祖父であるグレイハワード先王陛下が、不治の病に冒されているってことを」
名を口にした瞬間、眉間に深い皺が寄る。言葉にしない痛みが、空気の密度を変えた。カテリーナは息を詰め、彼の顔色を見つめる。
「ああ、それとなくね。それがどうしたの?」
張り詰めていた糸がわずかに震える。廊下の隅から吹き込んだ風が、外套の裾を反らせた。ヴィルは肩をわずかに落とし、すぐさま言葉を継ぐ。
「西方大陸への出立が延期になったのは、俺があいつにその事実を告げたからだ」
自責の色を帯びた低い声が、廊下にこだまする。視線を落としたまま、唇の端を噛んだ。カテリーナはその横顔を見つめ、瞳に憂いを宿す。
「なんだって、あんたそんなことしたのかい? ミツルはなんて言った?」
急く響きの内側に、彼を気遣う温度が滲む。だが時間は待たない。廊下を撫でる冷気が、苛立ちを鋭くする。
「自分にはまだ多くの時間がある。だが、やっと会えた祖父との残された時間はわずかしかない。ならば共に過ごせる時間を大切にしたいと……」
ヴィルはまぶたを一度閉じ、息を長く吐く。その隙間に、ミツルの表情が脳裏を掠めたのだろう。カテリーナは小さく眉根を寄せる。
「そうかい……あの子、それで納得したのか?」
問う声に、ヴィルは短い沈黙を挟む。冬光が差し込み、二人の影が床で重なってほどけた。空白が、事態の重さをくっきりと浮かび上がらせる。
「ああ、一応はな……。だが、日に日に陛下は弱っていくばかりだ。あいつはそんな姿を目の当たりにして心を痛め、思い悩んでいたのかもしれん。あいつはそういうやつだ。人の痛みを自分の痛みのように感じてしまうような、繊細なところがある」
哀しみと焦燥が混じる声。カテリーナは呼吸を整え、揺るがぬ視線で受け止める。唇がわずかに震えた。
「じゃあ?」
嫌な予感が胸骨の裏側を爪でこする。冷たさがさらに鋭さを増す。
「あいつは気まぐれで行動起こすようなことはしない。きっと、陛下の身を案じて解決策を見出そうとしたに違いない。おそらくは、そのために離宮を抜け出したんだ」
決意の硬さが言葉の輪郭に宿る。ヴィルはミツルを知っている。突発ではない、と。カテリーナは飾り棚に視線を滑らせる。冬の花を挿した花瓶が、細く揺れた。
「だったら、あたしらに一言言ってくれりゃいいじゃないか」
苛立ちと歯がゆさが混ざる。いつもの軽さはない。重い空気が廊下に沈み、胸を圧した。
「そういう大事なことが言いにくいのがあいつなんだよ。俺たちのよく知る、ユベルみたいにな……。仲間を巻き込みたくないとか、心配させたくないとか言いやがって」
苦い笑みが一瞬だけ口元に触れ、すぐ消える。カテリーナも視線を落とし、厚手のカーペットが小さな動揺を吸い込んだ。
「なるほどね。たしかに彼、そういうとこあったよね。どう転んでも、やっぱり親子ってことか」
乾いた響きの奥に、諦めにも似たやさしさ。彼女はゆっくり瞬き、遠い場面を一つだけ胸裏に浮かべる。
二人にとって、ミツルの亡父ユベルは、酒を酌み交わす腐れ縁であり、国を憂い共に戦った盟友だった。
上層部に刃向かい、危地には真っ先に飛び込む。最後は責を独りで負って左遷された――それでも志は折れず、メイレア王女と出会い、「意思を持つ聖剣」を探すため国を出奔した。
その生き様は、尊敬のまま記憶に刻まれている。
「だから放っておけないんだ。あいつはなりは小さいが、大人も顔負けの強い意志の持ち主だ。どんなに悩んで考え抜いても、いざ動くとなったら臆することがない。まさにユベル・グロンダイルの娘だ」
まっすぐな眼差しに、微かな熱が宿る。カテリーナは小さく息を吐き、片手で髪を払って受け止めた。
「まだ十二か十三の子どもにしか見えないし、あんなにきれいで可愛らしいのにね……。けど、たしかに言葉の端々から感じる気持ちとか、なんだかわたしらとタメ張ってたもんね。いやはや、まったく困った子だ」
毒づく響きの奥で、唇がかすかに笑みの形になる。愛情は、そこに確かにある。ユベルもまた、困らせながら憎めない男だった。
「だから退屈しないのさ」
その一言のあと、ヴィルの視線がふっと横に逸れる。険しさと愉しさが、同じ温度で胸に灯る。
「だったら、なんとしても探し出して、捕まえないとね」
迷いのない頷き。伸ばした指先が、決意の昂ぶりでわずかに震える。
「そうだ。俺は外門の街道を目指す。お前は街区をくまなく当たれ。内と外で手分けするんだ。いいな?」
声の張りが、空気を引き締める。腰の武器が小刻みに揺れ、背筋はまっすぐだ。カテリーナは横顔を見つめ、静かに頷く。
「わかった。あんたも気をつけな。噂じゃクロセスバーナの密偵がうろうろしてるって話だ。ミツルが連中に拐われた可能性だってある」
言葉は静かでも、胸の底は冷たく震える。今もどこかで危険に晒されていないか――その像が離れない。弱音を吐く暇はない。足が自然に速まる。
「そういうことだ」
短く応じ、ヴィルは踵を返す。玄関へ流れ込む冷気が黒い外套を翻し、スレイドの嘶きが応える。鐙が鈍く響き、蹄が石畳を強く打つ。
カテリーナはその背を見送り、奥歯をわずかに噛んだ。横顔に、陰りが残る。
「まったく、人騒がせなんだから」
言葉だけ切り出せば苛立ちだが、底には深い憂いが滲む。革のブーツをしっかり履き直し、上着のボタンを詰め、短剣の収まりを指で確かめる。冬の冷気は刺すようだが、気にしている余裕はない。
「ミツル……いったい、どこへ行っちまったんだい?」
小さな呟きとともに、玄関扉を荒く閉める。石段を駆け下り、一度息を整え、ヴィルとは反対へ身を翻した。
こうして二人は別の方向へ走り出す。冬の朝陽はいつもより硬く鋭く、背を照らす。光に押されるように、二つの影が王都の通りを裂く。凍てた空気を切る足音が冷えを蹴り、静寂の膜を震わせながら遠ざかった。
やがて足跡は風にほどけ、動き始めた運命の歯車が、冷たい街路のどこかで確かに噛み合う。物語は次の舞台へ、否応なく加速していく。
城壁の方角で、鎖の鳴る音だけが長く残った。




