表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
268/644

かくしてお嬢様は消えぬ

 離宮の朝は、本来なら柔らかな光が回廊を撫で、澄んだ空気と朝露の香りに包まれて始まるはずだった。


 いまは扉という扉が開き放たれ、甲冑の打音が石を叩き、鍵環の澄んだ衝突音が廊を走っていく。侍女の声は上ずり、冷たい風が廊下を抜けて布をはためかせ、張りつめた気配だけが残る。


 侍女のリディアは大理石を強く踏み、裾を片手で押さえながら走る。足音が一つ鳴るたび、みぞおちがざわつき、呼気が白くほどけた。


 いつもなら寝台に夜のぬくもりがほのかに残り、目覚めの刻に合わせて甘いハーブティーを用意し、静かな笑顔を交わして身支度を整える――そんな小さな儀式が、彼女の朝を支えていた。


 今朝は、扉が閉じていたのに、布団は人の気配を欠いたまま整っている。鏡台の前、櫛は昨日の位置のまま、靴も揃っている。最初は「早起きして散策に?」と一瞬だけ思う。だが順に確かめれば確かめるほど、いつもの行動とは噛み合わない。


「どこにも見当たりません!」


 廊下の向こうの叫びが、鼓膜に鋭く突き刺さる。別の侍女が走り抜け、袖がリディアの肩をかすめた。


「そんな馬鹿な……」


 そばの執事は息を深く吐き、眼鏡の端をぐっと押し上げる。額に細かな汗が浮かび、帳面を持つ手がかすかに震えた。侍女たちは首を振り合い、互いの名を呼びながら持ち場へ散っていく。


 寝坊でも散歩でもない。衣服も手回り品もそのまま――ただ一つ、視線が止まる。お嬢様が片時も手放さぬ「白き剣」だけが、定位置にない。胸の奥で何かが音を立て、その深いところで渦が巻く。


「リディア、これほど探しても見つからない以上……誰かが連れ去ったか、あるいは……」


「いえ、それは考えられません! ミツルお嬢様が、何の備えもなく姿を消されるなんてこと……」


 口では否定しながら、胸の底では渦が巻く。どんな小さな用事でもひと言添える方だ。だからこそ、前触れなく消えたという事実が、恐怖に輪郭を与えた。


 執事は拳を固く握り、眉間に深い皺を刻んで命じる。腰の環が金属質に跳ねた。


「いいか、離宮内を隅々まで探せ! 庭園、温室、厩舎、さらには地下倉庫まで、決して見落としのないようにな!」


 腰の鍵束が一度、鋭く鳴る。号令の圧が石に染みた。


 号令に、衛兵が一斉に駆け出す。踵が石を打ち、槍の柄が肩で跳ねる。中庭まで怒号と足音が波打ち、朝の静けさを押し流す。扉番が走りながら閂を外し、伝声管の蓋が乾いた音で転がった。

 甲冑の継ぎ目から油が揮発し、鉄と湿土の匂いが一気に吹き抜けた。


 雲と小鳥の声で満ちるはずの景色は、必死の形相の兵と、祈る手を組む侍女たちの動きで塗り替えられていく。水差しが揺れ、盆の上で器がかちりと触れ合う。


「急いでブルフォード様にお知らせしましょう」


 言い切ったあと、手首が小さく震え、視線で執事の同意を探る。


 リディアは執事へ向き直り、表情を引き締める。脈が手首の内側を打ち、言葉より先に顎が固まった。


「彼は今、お嬢様の指示で王都街区での調査任務にあたっていると聞いています。でしたら、何か掴んでいるかもしれません。お嬢様がもし何らかの理由で外出されたのなら、護衛騎士が知らないはずはありません。急ぎの使いを出して、探してもらうのです」


 執事はまぶたを押さえ、息を整える。袖口の糸が一本だけほどけているのが目に入った。


「承知した。すぐに伝令を立てよう。彼なら、お嬢様に万が一のことがあっても必ず駆けつけてくれるはず……。頼むぞ、リディア、君も落ち着いて行動してくれ」


「は、はい……」


 厩舎で鞍が打ち鳴らされ、皮の匂いが風に乗る。早馬が石畳を蹴って飛び出す。蹄の拍動が空気をかき混ぜ、胸の奥を強く叩いた。馬丁の掛け声が遠くで返る。


「まさか、お嬢様がこんなことに……。どうして、どうして何もおっしゃらずに……いや、そんなはずはない。誰かの仕業だわ、きっと……」


 リディアは唇を強く噛む。指の甲から血の気が引いていく。


 廊下の各所から報せが戻る。走者が角を曲がり、報告が執事の耳へ吸い込まれていった。


「こちらは異常なし!」

「温室でも見かけない!」

「倉庫も鍵が閉まったままだった!」


 報告のたびに鼓動は上がる。聡明なお嬢様が痕跡もなく消える――頭では“自発的ではない”と分かっていても、足元がふわりと揺れた。


「……ブルフォード様に賭けるしかない」


 隣の侍女が肩に手を添え、低く囁く。手首の温度が頼りなく、皮膚に浅い震えを残した。


「お嬢様と深い信頼で結ばれているあの方なら、きっと手がかりを見つけてくださるわ」


 囁いた声の末尾がかすれ、肩の力がわずかに抜けた。


「ええ……そうですね。今は彼を信じるしかありません」


 リディアは小さくうなずく。窓下の広場では兵が走り、衣擦れと呼び声が朝光を曇らせていた。縄梯子が引き上げられ、物見台に影が増える。


 冷えが隅々にしみ込み、風がカーテンをはためかせるたび、胸の内で小さな悲鳴がこぼれる。


 やがて早馬が門を越えていき、離宮には重く浅い沈黙が降りた。報告は続き、誰かが声を上げ、また走る。大地が微かに揺れるような慌ただしさの中で、ミツルお嬢様の目撃は、いまだ一つもない。


「お嬢様……。どうか、ご無事でいてくださいませ……」


 祈りを噛みしめ、崩れかける心を支え直す。指の節が白くなる。


◇◇◇


 離宮から外へ伝令が走り、ほどなく王都外れの魔導兵団兵舎へ騒ぎが届いた。


 兵舎の工房は広大で、鋼の骨組みが天井近くまで組まれ、白い照明が冷たく返る。油と鉄粉の匂い。奥でくぐもった鼓動を刻む複合反応炉、四方の台座に国宝級の魔石。保護装置の縁から燐光が細く立ちのぼる。


 増幅と制御のためのコイルが床の魔法陣へつながり、呪符や触媒が整然と並ぶ。刻線に沿って歩く技師、数取りを指で刻む魔導兵。人の手と魔術が、無機質の肌理で噛み合っていた。


「同調出力が不安定になれば、下手をすると周囲一帯が吹き飛ぶぞ」


 グレイハワード先王陛下が、技師長へ静かに声を掛ける。


 老いてもなお風格は揺るがない。彼は自ら計器へ歩み寄り、目盛を指先でなぞって針の呼吸を読む。周囲の視線は炉の数値と手順に落ち、羽根ペンが羊皮紙の上を急ぎ足で走った。


「心配はご無用です、陛下。複合反応炉については引き続きモニタリングいたします。もしスパイク値が閾値を超えた場合、炉の緊急停止手順に移行します。よろしいでしょうか?」


「うむ、かまわん。物事に向き合う時は、急ぐことも焦ることも禁物だ。すべての手順は正確に、万全を期すのだ」


 四属性を同時に稼働させる試み。十六名の魔導兵が呼吸と鼓動を合わせ、専用兵装を介して操作を同調させる。

 先王は口の内側で節を数え、拍を一つだけ早めて確かめる癖が出る。手袋を締め直し、視線の合図が交わされた。成功すれば、国を守る切り札になる。


「……因縁深きクロセスバーナの名が再興し、大陸を渡り、西部国境付近に暗躍し始めたという噂もある。だが、この兵器が完成すれば、かつてのような多くの犠牲を払わずに済むかもしれん。それに――」


 先王は左手の指輪を見つめる。冷えた金属が皮膚に沈み、指の節で確かめた内側の浅い疵が、夜更けの約束をひと筋だけ疼かせた。


「――これは、ミツルが自由であり続けるための取引でもある……」


 机端の古びた手帳を引き寄せ、羽根ペンの先で式を一行だけ走らせる。紙は指の汗でわずかに波打ち、インクの匂いが立つ。引き出しの奥では、公印とは異なる色の封蝋箱が、蓋の隙間から鈍い光を沈めていた。


 その時、扉が荒い音を立てて開く。冬の風が燐光を揺らし、見張り台からの合図旗が窓枠の外をかすめた。


「失礼いたします、陛下!」


 離宮からの伝令が駆け込み、息を継ぐ間もなく告げる。濡れた靴底が床に水の跡を残した。


「ミツル様が……離宮より、何の前触れもなく姿を消されたとの報せです!」


 工房の低い唸りが、一拍だけ止まる。機械音さえ薄れる。視線が一斉に先王へ集まり、彼の瞳に険しい光が宿る。頬の陰影に、苦渋が一瞬走った。椅子に置かれた外套の裾がわずかに落ちる。


「……何だと? ミツルが、黙って姿を消したと?」


「はい。いまだ行方が掴めておりません! 護衛も付けておらず、愛用の剣以外の持ち物を置き去りにしたままとのこと。離宮の侍女たちは声を震わせ……」


「馬鹿な。あの子が出奔などするわけがない。メイレアの時とは違う……。必ず何らかの理由があるはずだ」


 先王は立ち上がり、椅子脚が床をきしませ、場の空気が一段低くなった。周囲の手が同時に止まり、次の瞬間、また一斉に動き出す。口元が固く結ばれ、苦さを噛みしめたまま視線が前へ走る。


 指先の微かな震えを技師長は見たが、先王は袖口でそれを隠し、息を一つ短く切る。草の苦みが舌の奥に残る――朝の薬の名残。感情を押し沈めるように工房を睥睨した。


「ローベルト将軍が視察に来ているはずだ。彼をここに呼べ! いずれにせよ、外門の閉鎖と警戒を厳重にせねばならん」


「はっ、ただいま!」


 合図から間なく、重い軍靴が戻る。精悍な眼光の将軍が進み出た。指揮杖が掌で一度だけ鳴る。


「陛下、ご用命とあれば――」


「ローベルト、王都外門を即時閉鎖せよ。出入りする全員を取り締まり、怪しい人物がいれば徹底的に洗い出すんだ。ミツルがまさか勝手に外へ出るとは考えにくいが、昨今の情勢を鑑みれば、用心に越したことはない」


「承知いたしました。直ちに兵を動かします」


 号令が走り、外で馬具が鳴る。伝令板が回り、封蝋が割られる。将軍は別の封筒を胸元に戻す。二重の折り筋がついたままの紙は、読むほどに薄くなる秘密を抱えていた。凍てた石に軍靴が刻む衝撃が、王都外縁へ滲んでいく。


「…………」


 命令を終え、先王は一瞬だけ目を伏せる。胸の奥で脈が一拍、遅れた。計器の針が一目盛りだけ震え、空気が結び直される。


 今のミツルは、ただの王族ではない。将来を担う可能性と、人々の祈りが重なる希望となりうる存在。そして、彼にとって何よりも大切な孫娘。陰謀の影を退けるには、猶予がない。


「……メイレアがいなくなった時、私は何もできなかった。この上ミツルまで失うようなことになれば、私は……。なればこそ、もう二度と悲劇を繰り返させてはならぬ。……これは、そのための必要悪なのであろうな」


 言葉に、周囲の背筋が伸びる。各持ち場の視線が交差し、また離れていった。


「技師長よ、このまま調整を続行せよ。皆、余計な心配をせずともよい」


「かしこまりました。陛下……どうか、くれぐれもご無理なさいませぬよう」


 老技師の声に、先王はわずかに微笑み、肩で外套を払って足を踏み出す。歩幅は半刻前よりわずかに小さいが、それでも前へ進む。苦渋の影を頬に宿したまま。


「心配に及ばんよ。老骨に鞭打ってでも、守らねばならんものがあるからな」


 照明が鋼の枠と魔石の彩りを際立たせ、炉の縁で光が瞬く。目盛りがわずかに跳ね、彼は短くうなずく。コイルの唸りに合わせ、術式の確認の声が重なった。


 離宮から始まった報は、兵舎を駆け、王都へ危機感をひろげる。


 外門閉鎖の命を受け、ローベルト将軍の兵が門と周縁へ散っていく。鎖が引かれ、閂が落ち、検問台が運び込まれる。鋼鉄と魔術の融合は完成へ近づき、同時に王家を揺らす影も形を帯びる。


 ミツルの行方はなお知れず、冬の風だけが冷えを運び、工房の燐光が蒼白に瞬き、遠くで鎖の鳴る音だけが残った。


補足 新型兵器と“自由の約定”――先王の真意

 作中で、グレイ先王が取り組んでいる四属性同調兵装の開発は、一見すれば「国防目的」という正当性をまとっています。事実、彼は「西部国境にてクロセスバーナの動きがある」と語り、それに備える抑止力として新兵装を構想しているように見えます。


 しかし、その直後、彼はこう呟きます。


「これは、ミツルが自由であり続けるための取引でもある……」


 この一文に、国家と個人、家族と政治、自由と従属という複層的な主題が、密やかに折り畳まれています。


●「守る」ではなく「自由であり続けさせる」

 注目すべきは、「守る」ではなく“自由であり続けさせる”という表現。

 これは、単に外敵からの防衛ではなく、“ミツルを王家の支配下に置かないための布石”と読めます。


 実際、彼女は過去に王の前で剣を抜き、玉座の間で騒動を起こしています。通常であれば、謀反未遂あるいは反逆の嫌疑で幽閉・追放されてもおかしくありません。にもかかわらず、現在彼女は離宮に“保護”され、しかも“自由”を保障された王家の養女として生きている。


 この“矛盾”を説明できるもの――それこそが、先王と現王の間に交わされた密約です。


●兵器開発=“交渉材料”としての裏構造

つまり、こう解釈できます

 王家としては、ミツル=〈黒髪のグロンダイル〉という“稀代の戦力”を、いずれ掌中に収めたいという野心を抱いている。


 しかしグレイはそれを拒み、彼女を戦力ではなく一人の人間として、自由意思を尊重すべき存在として保護している。


 そのために先王は、現王(あるいは王宮中枢)に対して「兵器開発の成果」という実利を提示することで、彼女の自由を“買い取っている”と解釈できます。


 言い換えれば、「国を守る兵器を造る代わりに、あの子には指一本触れさせない」という、ギリギリの綱渡り。


 そして、病を押してまで先王が兵器開発に尽力するのは、表面上は国家のためでありながら、本質的には“ミツルの自由を担保するための代償”に他ならない――という二重の構図が浮かび上がってきます。


●生きがいの“嘘”と、本当の願い

 先王はミツルに「私は研究を続けている方が良い」と語っています。それはおそらく“本心の一部”でありつつも、本当の本心――「彼女は自由であるべき(メイレアのようなはしない)」という思いを、本人の前では語れなかったのではないでしょうか。


■ 真の目的

 → 国家の防衛ではなく、

 → “たった一人の孫娘”の尊厳を守ること。


 この矛盾と嘘と祈りが交差する構造は、グレイという人物をより深く、より痛切に浮かび上がらせます。


総括 第五章の政治的陰影と“希望の取引”

 この章で明らかになるのは、表の物語(誘拐と失踪の謎)と、裏で進む“政治と倫理の交渉”の存在です。


 現王が欲する「黒髪の魔術師」という存在

 それを押しとどめるために動く、かつての王

 国家の抑止力と少女の自由を天秤にかけた、誰にも知られぬ取引


 それは、家族というにはあまりに巨大な、政治というにはあまりに個人的な、“どこにも置き場所のない約定”です。けれど、まさにそこに、第五章『孵化』の核が宿っています。


 ――誰かが、誰かの自由を、裏で支え続けている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ