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不具の紋章と虚ろなる深淵

 私は濃密な霧の中で、ただひとり立ち尽くしていた。足元から世界の輪郭が抜け落ち、どこを見ても白い靄しかない。その静寂は不気味なほど深く、意識を丸ごと呑み込もうとする。


 ふと、遠くから微かな声がした。深い井戸の底から呼びかけるような湿り気のある響き――暗い水面の波紋みたいに胸の奥でさざめき、じわりと広がっていく。


「……誰……? 誰が私を呼んでいるの……?」


 気づけば私は、その声のほうへ歩いていた。


 境界の曖昧な白い闇は、どこを踏み出しても同じ景色で、終わりのない迷いが胸を締めつける。――そのとき、どこからともなく荒い風が吹き荒れ、思わず目を閉じて腕で顔を庇った。


「なっ……何が起きてるの……?」


 激しい気流が容赦なく思考をかき乱し、呼吸の間も奪っていく。やがて風がぱたりと止むと、視界の奥に見慣れない影が浮かんだ。

 つい先ほどまで何もなかったはずの場所に、異界を切り出したような巨大な穴が、黙々と口を開けている。


「これって……『虚無のゆりかご』……?」


 白い靄を破り、縁を黒紫の瘴気が縁取っていた。雷光がときおり紫や赤に閃き、闇を貫くたびに心臓が激しく脈打つ。大地が歪められ、底なしの空洞が生まれたような光景。重たい意志めいたものが漂い、周囲の空気を貪り尽くそうとしている。瘴気には腐臭の気配が微かに混じり、それでもどこか妖しい輝きが宿る。

 美と禍々しさが同居する眺めに、背筋が冷たく凍った。


 そのとき、闇の向こうで無数の光の粒が瞬き始める。


 ――不具の紋章。


 歪んだ文様が呼吸するように形を変え、再構築されるみたいに揺らめく。脈動する中心部には、古代文字のような印が刻まれていた。読めるはずもないのに、なぜか“囁き”が脳裏へ直接染みこむ。


「……イ……コ……フ……シ……ウ……キ……レ……」


 以前のものと微妙に異なる不気味な響き。音のない声が頭の奥で反響し、思考を闇の縁へ沈めていく。手足は闇に縛られたみたいに動かず、視界中を走る黒紫の閃光が現実認識を捻じ曲げた。


 大地が震え、ひび割れから不定形の“何か”が溢れ出す。呼吸は浅く、正体不明の恐怖が神経を締めつける。濃い瘴気に溺れながらもがいていると、影の塊が嗤うように増殖し、意識がじわじわ蝕まれていく。


 逃げたい。声を上げたい。けれど唇は震えるだけで言葉を生まない。骨が軋むような内側の痛み。黒紫の裂孔はさらに大きく開き、歪む世界がその深淵へ私を引きずり込もうとする。夢だと理解しても、恐怖は剝がれない。苛烈な風が耳元を轟かせ、私は奈落へ突き落とされ――


 ――その瞬間、世界が白く反転するみたいに眩い光が広がった。視界を満たす輝きが悪夢を遠ざけ、呼吸だけを残して、私は覚醒の床へ放り出される。


 薄く目を開ければ、いつもの天蓋付きのベッド。見慣れた天井が戻っても心臓は早鐘を打ち、あの光景の残響が胸をかき乱す。

 巨大な穴、黒紫の瘴気、不吉な紋章の囁き――本当にただの悪夢だったのか。それとも何かへ導こうとしているのか。震える身体を抱きしめ、確かめようのない疑問に囚われた。


「いまのは……夢? でも、間違いない。あの時に見た『幻視』と同じ……」


 肩で大きく呼吸を繰り返す。悪い夢と言い切るには生々しすぎる恐怖が、胸にくっきり刻まれている。目を背けても押し寄せる波のように、意識を再び浸そうとする。運命の予兆――そんな嫌な予感さえ拭えない。


「もしかして……これが、私を待ち受ける運命だというの?」


 その瞬間、脳裏に茉凜の声が響いた。マウザーグレイルは枕元。睡眠を要さない彼女には、私の寝息の変化がすべて届いていたのだろう。


《《おはよう、美鶴。息がすごく荒かったし、心臓もかなりばくばくしてたみたいだけど……怖い夢でも見たの?》》


「茉凜、あなたには、私の夢そのものは見えないんだよね?」


《《うん。五感は共有できても、考えていることや夢まではわからないよ》》


「そう……ね? 私、なにか寝言とか言ってなかった?」


《《それはなかったかな。ちょっと苦しそうにうめいてたくらい。で、どんな夢だったの?》》


 私は、頭の奥にこびりつく映像を言葉へ変えていく。巨大な穴、脈打つ黒紫の瘴気、歪んだ文様の囁き――瞼の裏にありありと焼きついていた。


 “虚無のゆりかご”。果てなく魔獣を生む深淵。悪夢ではなく現実を侵しはじめる脅威だと、直感が警鐘を鳴らしている。


 夢の出来事でも、鼓動はなお不穏に高鳴る。まるで夢から連れ出された何かが胸の奥に潜み続けるようで、私は布団の縁を強く握った。


「……本当に、最悪の悪夢だったわ。濃い霧の中でひとりぼっちになって……そこに、前に見たことがある、大きな穴があって。黒紫色の何かが漏れ出していたし、不吉な雷まで走って……。そのうえ、まるで闇の底から直接迫ってくるような、意味のわからない声まで聞こえて……」


 言葉を重ねるたび、映像がじわじわ現実へにじむ。夢の名残が、まだここにいる。


《《……そうだったんだ。とても怖かったんだね……》》


「……ええ。正直に言えば、あんなに怖い夢はそうそうない。ただの夢ならまだしも、あれには“あの時”に感じた幻視と同じ空気があった。胸がぎゅっと冷たくなって、呼吸が止まりそうな感覚に襲われたの」


 私はベッド脇に立てかけられたマウザーグレイル――茉凜の本体を見つめる。剣の形をしながら意思を宿し、私の声に応える。不思議さを超えるほど、いまは心強い。


《《それって、なにか予兆めいたものか、現実の出来事と絡み合っているのかもしれないね。私たちの経験上、こういう夢って無関係だった試しがないし……》》


 静かな声色の奥に、事態の重さが滲む。


「ええ。だって私たちが前世で初めて出会った時だって、何度も見せられた夢の情景が導きの手がかりだったものね……。それを誰が仕掛けたかはわかっているけど」


 胸の奥がちくりと痛む。前世――デルワーズとマウザーグレイルが定めた「精霊子の器」と「導き手」。夢に背を押されるように出会った運命。


「でも、今回のは違う気がする。あの不具の紋章が、私のお腹の痣と似た形で、また映ったの。これみよがしに、あの景色と紋章を私に見せつけようとしているのって、いったい誰なの……?」


《《なんていうか……》》


「どうしたの?」


《《デルワーズにできないことを、あなたにはできる……そんな存在のことを考えてたの。もしかして……》》


 胸の奥がひやりと冷える。聞きたくない答えが、いま浮かび上がろうとしている。


「あなたの言いたいことはわかるわ。虚無のゆりかごが、ただの自然現象じゃないってことも……もっと大きな意志が働いていて、異界に通じている可能性だってあるってことも。デルワーズとマウザーグレイルの世界と世界、時間と時間を渡る力を思えば、まるで不思議じゃないもの」


《《つまり……》》


 私は軽く息を吐き、続けた。


「――あの声には、はっきり敵意が感じられるの。恨み節と呼んでもいいかもしれない。そんな声を私に何が何でも聞かせたいのだとしたら……“敵”の存在を疑うべきかもしれないわ」


《《うーん……なんだか“これからお前を倒してやる”って、挑発してるみたいな感じがするんだけど》》


「まさに言い得て妙よ。虚無のゆりかごの向こうには、私に敵意を向けてくる“何か”がいるのかも。あれは何らかの宣戦布告……そんな気さえするわ。あの紋章って、実は『お前は排除すべき敵だ』っていう烙印だったりして。それがどうして私に浮かび上がったのかはわからないけどね……」


《《うーん、さすがにどうかな? ちょっと考えすぎじゃない?》》


「だとしても、あらかじめ心の準備くらいはしておきたいの」


 もし本当に私を狙って魔獣の大群が押し寄せたり、王都近くに虚無のゆりかごが出現したりしたら――想像だけで背筋が冷える。


「だって、歴史が示しているでしょう? リーディスの巫女と聖剣の存在はクロセスバーナの野望にとって最大の障害になり得たはず。つまり、排除の対象になりやすいのよ。もし仮に、禁忌の術によって任意の場所に『虚無のゆりかご』を生み出せるのだとしたら、その可能性はゼロじゃないはず」


《《飛躍しすぎじゃない? それこそ考えすぎだってば。美鶴って、何でも悪い方向に考えちゃう。そこが悪い癖だよ》》


「わかってる。けれど、実際にリーディスが軍備拡張を始めていたり、お祖父様が新型の大型魔導兵装に関わっていたりするのを見れば、みんな内心ではクロセスバーナを警戒してるのよ。……警戒しているはず。少なくとも、私はそう見ている」


《《大丈夫だって。リーディスは大国だし、昔の西部戦線だって勝ってきたんだから。魔獣対策だってきっちりしてるよ。それにわたしたちがいれば、どんな敵が来たって平気平気!》》


「本当に……あなたのその楽観ぶりには脱帽するわ」


《《だって美鶴が心配症すぎるんだもん。それに、みんながそれぞれ頑張って備えているんだから大丈夫だよ。なるようにしかならないんだしさ》》


「まあね。退位したとはいえ、この国には聡明なお祖父様がいる。あの強情な王様だって、彼の経験と知識に頼るしかないのが現実だものね」


《《でしょ? だから私たちも、自分にできることをして、あとは普段通り過ごせばいいの》》


「そうね……焦ったって仕方ないわね。私ひとりで何とかなる問題でもないし」


《《うん、それよりも、まずは顔を洗ってしっかり目を覚ますことからはじめよう!》》


「そうね……それに、お腹も空いてきちゃった」


 苦笑して布団をはね、ベッドから立ち上がる。窓の外はまだ紺青で、夜の名残が空を覆っている。遠い地平がわずかに白み始め、朝の気配が近づいていた。


「じゃあ、さっそく行ってくるわ。茉凜、ちょっと待ってて」


 枕元のマウザーグレイルの鞘にそっと触れ、部屋の扉を開ける。人気のない廊下は、夜と朝のはざまの静けさを湛えていた。


 窓の向こう、群青の空に白い刷毛雲。微かに冷たい空気を肺いっぱいに吸い込むと、不安に包まれていた心が少しずつほどけていく。


 さあ、今日が始まる。夜明け前のひんやりした光を浴びながら、決意を新たに、洗面所へ足を進めた。

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