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碧い瞳と微睡(まどろ)む剣

 扉を押し開ければ、ひんやりとした風が頬を撫で、昼下がりの陽射しが広がる。ついさっきまでの温かなにぎわいから一転、外気はわずかに冷たく、石畳の白がまぶしく弾んだ。背後で扉が低く響き、その音が静かに回廊へ吸い込まれていく。


 ソレイユが嬉しそうに微笑み、「ありがとう。ミツルさんとお話できて楽しかった」と言葉をかけてくる。桜色に染まった頬が愛らしく、つられて指先の緊張がふっとほどける。


「こちらこそ。楽しかったわ。また図書館かどこかで会いましょう。今度は……精霊魔術の小さな実演をしてみせるから、楽しみにしていて」


「本当に? ふふっ、楽しみだな。じゃあ、またね!」


 トレイを返却して先に出たソレイユは、駆けるような足取りで別棟へ向かっていく。小さな背中が廊下の影に消えるまで見送ってから、胸の前で指をひとつ重ね直し、息を軽く吐いて空を仰ぐ。――胸の内で静かに、新しい扉がそっと開いた気がした。


 けれど次の瞬間、聞き慣れた低い声が、風よりやわらかく背後から耳をかすめる。


「……随分と、打ち解けたみたいじゃないか。いい感じだ」


 ――ヴィル……。


 その名が胸の奥でひそやかに弾み、振り返らずとも輪郭が浮かぶ。大きな扉のそば、壁に肩を預けて腕を組む姿を思い描くだけで、鼓動がそっと速まる。


 ゆっくり振り返れば、やはりヴィルがいた。

 長い睫毛の影が頬に落ち、広い肩をわずかに傾けてこちらを静かに見ている。切りそろえた金の髪が光を受けて淡く揺れ、その青い瞳の奥に何が映っているのか、つい上目遣いで確かめてしまう。視線が絡んだ瞬間、肩先がきゅっと強張り、指先が布越しに小さく丸まる。


 その変化を見てか、ヴィルの表情にふっと心配の色が差した。


「おい、なにを呆けているんだ? 俺の顔に何か付いているか?」


「べ、別に。何か用かしら?」


 はっと我に返り、声の高さを抑えつつそっけなく問い返す。喉の奥がひゅっと狭まる感覚をひと呼吸でなだめる。ヴィルは口の端をわずかに吊り上げ、目元に小さな笑みを浮かべた。そのささいな変化だけで、胸の奥が落ち着かなくなるのが自分でも可笑しい。


「ずいぶんな言い方をするじゃないか。『西方大陸からの船乗りや商人、渡来者やクロセスバーナ難民から情勢の聞き取りをしろ』と言いつけたのは、お前だろうが?」


 言葉が真っ直ぐに届き、一瞬だけ返事が遅れる。まばたきの一拍のあと、視線が喉元から鎖骨へ、そして再び瞳へと揺れた。答えを探すように、唇が小さく動く。


「……ええ、たしかに頼んだけど。まさか、もう戻ってきたの? 報告は急がなくてもいいって言ったのに」


 できるだけ平静を装って言葉を重ねる。けれど胸の奥では、不安と期待が細い渦を巻き、呼吸がひとつ熱を帯びる。


 しばらくの間、彼は離宮を離れてカテリーナの家を拠点に情報を集めていた。そのあいだ私は図書館にこもり、頁の匂いと沈黙に身を預けていたけれど、心のどこかに小さな隙間が生まれてしまっていた。振り返ればいつもヴィルがいる――そんな日常に慣れすぎて、いないと胸の奥がうすく冷えてしまう。


 ――彼がいないと……寂しい?


 その言葉が頭の中で輪郭を持った途端、頬の内側がくすぐったくなり、反射的に視線を伏せる。理由はまだうまく言語化できないまま。


 ヴィルは少し苦笑し、受け止めるようなやわらかな目で口を開いた。


「“急がなくてもいい”とは言っていたが、例の国の情勢がどうしても気になってな。急ぎで駆け回ったおかげで、いくつか面白い話を仕入れてきた。それで、お前に報告に来たわけだ」


「そ、そうだったの……それはご苦労さま」


 上ずらないよう注意しながら返す。距離が少し詰まり、風に混じる彼の体温がふと近い。胸の奥が浅く揺れた。


「なぁ、俺が戻ってこないあいだ、寂しかったか?」


 一瞬で空気の重心がずれる。わざと落とした声が、鼓膜ではなく腹の奥を叩いた。


 端正な横顔に小さな悪戯っぽさが灯り、頬がさっと熱を帯びる。睫毛の影がひときわ濃く揺れ、視線を横へ逃がす。


「……わ、私は図書館で大事な調べものをしていたし、むしろ時間がいくらあっても足りないくらいよ。もう、毎日充実してるんだから」


 強がりを口にしながら、右手の指先が裾をきゅっと摘む。一呼吸の間を置いて視線を戻すと、ヴィルは覗き込むように見つめ、その温かなまなざしに触れた途端、胸の奥の氷が少しずつ融けていく気がした。


「はは、そうか。お前が寂しがるなんて想像しづらいからな……。まあいい。報告はまた後でゆっくりするとして、取り急ぎいくつか伝えておきたいことがある」


 ヴィルは腰のポーチを軽く叩く。布越しの乾いた音に、紙とインクの手触りがよぎる。彼が駆け回って集めた断片たちが、そこに眠っているのだとわかった。依頼したのは私なのに、ここまで手際よく戻ってくるのが、悔しいほど心強い。


「……思ったより早かったのね。でも、そこまで根を詰めなくてもよかったのに」


「そうはいかないさ。手際のよさが俺の取り柄だからな。――それとも、“お前に会いたくなった”、と言った方が納得してもらえるか?」


「そ、そういうのはやめて。からかわないでってば」


 冗談だと分かっていても、胸の拍が一つ多く跳ねる。睨むふりをしながらも、視線の端で彼を追ってしまう。頬の熱は、風よりゆっくり引いていった。


「はいはい。……まあ実際、集めた情報は早くお前に伝えたかったんだ。興味を持ってることだろうし、報告すればお前だって安心するだろう?」


「……期待してた以上の成果があるなら嬉しいけど。離宮への連絡や、他の用事だってあるのに、そんなに駆けずり回ってて本当に大丈夫なの?」


「問題ないさ。しばらくはお前に帯同して、研究がどんなところへ向かうのか見守らせてもらうつもりだ。――本の山に熱中するあまり倒れられちゃ、お目付け役の俺が一番困るからな」


 軽口の奥に、気遣いの温度がしっかり宿っている。

 以前の私なら、こういう厚意を照れ隠しで跳ねのけてしまったかもしれない。今は、その温かさごと受け取りたいと思える――もはや否定のしようがない。


「でも、あなたがいてくれるだけで、本当に心強いわ」


 言い切った直後、ヴィルの瞳がわずかに驚いたように揺れ、その奥に淡い光が宿る。私の声色が彼の胸に触れたのだと、上目遣いのまま、そっと息をついて確かめた。


「そう言ってくれるなら、俺も張り合いがある。――何かあれば遠慮なく言ってくれ」


「ええ、わかってる。……ありがとう、ヴィル」


 正面から目を合わせ、まつ毛をゆっくり伏せて礼を告げる。胸に残っていた小さな硬さが、すっと溶けていった。


「おう」


 短い声と、口元にだけの笑み。それだけで、心がふわりと弾む。


 ――やっぱり、私はヴィルがいないと寂しいんだ。


 図書館の匂いも好きだけれど、彼が戻ってきて、何気ない言葉を交わすだけで、胸の真ん中が静かに温まっていく。


 言葉にならない安心と、ときめきがやわらかく混ざり、唇に自然な微笑が宿る。ふと腰の“白き剣”がかすかに揺れた気がしたが、茉凜は何も言わない。ただ遠巻きな気配が、そっと寄り添ってくる。


 それでいい。今は、このぬくもりをそっと抱きしめていたい。クロセスバーナのことも、情報収集も、書庫の調べものも、どれも大切なのは変わらない。でも――


 ――いまは、この人と一緒にいられる幸せを、ちゃんと味わっていたい。


わがままだとしても、ヴィルはきっと嫌がらない。そんな確信が、光のように胸を照らす。扉の外の冷たい風でさえ、今はどこか心地よかった。



「じゃあ、続きは場所を変えて話しましょうか。報告を早く聞きたいわ」


「ああ、そうだな。さっさと行くか」


 軽く笑い合い、並んで歩き出す。歩幅が自然に揃い、影が石畳に二つ、やわらかく重なっていく。胸の奥で灯った小さな光は、歩くたびにまた明るくなる。これから待ち受ける研究も、希望の色を帯びて進めていける。


――いい歳して昼間から飲んで、ぶっきらぼうで、無神経で……それなのに並ぶと呼吸が楽になる。ほんと、不思議だよね。


 彼がそばにいてくれるなら、私は前に進める。そう思えるだけで、世界はこんなにも優しく色づいていくのだと、改めて知った。


 ふと、腰の剣がほんのわずかに震えた気がする。茉凜はやはり何も言わない。

 いつもなら軽口を挟んでくるのに、こういうときだけ不思議なほど静かで、空気を壊さない。それが可笑しくて、愛おしい。


 ヴィルの足音が石畳の上で一定のリズムを刻み、隣を歩きながら彼の歩調や息づかいが、じんわりと心を落ち着かせていく。背筋には心地よい緊張が細く走り、そのたびに――いや、茉凜の気配が微かに寄り添ってくる気がした。私が誰かの隣でこうして歩いていることを、彼女はどんな顔で見ているのだろう。


 視線を剣へそっと落とすと、鍔が揺らめき、虹色が一瞬きらりと弾んだ。気のせいかもしれないけれど、合図のように思えてしまう。


「どうした? マリンが何か言っているのか?」


 不意にヴィルの声が首筋をくすぐり、小さく息を吸って顔を上げる。彼がほんの少し首を傾げた。


「……ううん、何でもないわ。今は黙ってる」


「そうか。俺も話ができたら楽しいのにな。まぁ……何を言われるか恐ろしい気もするが」


 ヴィルは肩をすくめ、冗談の軽さで空気をやわらげる。その仕草につられて、目尻が自然と緩む。


 見上げれば、ガラス窓からの光がヴィルの髪を淡く照らし、床には二人分の影が長く落ちている。影は同じ方向に伸び、重なりながらわずかに揺れた。茉凜の声がなくても、まるで三人で歩いているみたいな、不思議な連帯感が胸を満たしていく。


 前世の私とは、もう違う。ヴィルがいて、茉凜がいて、そして私がここにいる。ただそれだけのことが、これからのすべてを変えていく――その確信が、そっと息を深くしてくれた。

 前世からの因縁や未熟さを抱えたヒロインが“恋愛”という新たな感情に目覚めつつある。


前世の「美鶴」と今生の「ミツル」の融合による葛藤

対人関係の経験不足・恋愛観の希薄さ

 前世での「柚羽 美鶴」は、茉凜の存在に盲目的に“依存”し、最終的には理解しあい魂の盟友として結びついた。恋愛観というものはほぼ育たず、加えて周囲との関係も「必要最低限のやり取り」にとどまっていた。そんな前世の人格を継承しながらも、今生の「ミツル」が11歳の時に前世が覚醒し、2年近く経ってやっと「もう一度生きなおす」ことを始めている段階。


 この設定は、ヒロインが“恋愛下手”として描かれる理由をしっかりと支えてくれます。なぜ素直になれないのか、なぜ人に対して踏み込めないのか――その背景として“前世の未熟さ”と不器用さが背景にある。



今生での「甘えたい気持ち」と前世からのブレーキ

 今生のミツルは子どもらしく「父性的なもの」に甘えたい欲求を持っていたが、前世の美鶴が「甘えるな」と抑制してきた。前世を経てきた分、自立や戦いの経験は豊富でも、心の交流や弱音を吐く行為には慣れていない。


 ここに、ミツル/美鶴の内部での“意地っ張り”が生まれる理由があります。いわば、ヒロインが恋愛に対して素直になれない“二重構造”が存在している。



ヴィルとの距離感――“恋愛未満のムズムズ感”

「いないと寂しい」「いると落ち着かない」絶妙な揺れ

 ヴィルは彼女をからかいつつも、冗談の裏に思いやりをちらつかせている。ミツルが「いないと寂しい」「戻ってきてくれると安心する」という感情を抱きはじめたのは、恋愛感情の芽生えを示すサイン。しかし本人はそれをまだ“恋”と自覚しきれていないため、“ムズムズ感”“じれったさ”が伝わる。


素直になれない性格とヴィルの包容力

 ミツルは“恋愛感情”がわからず、照れ隠しや強がりで誤魔化してしまう。対するヴィルは「からかいつつも、ちゃんと隣で支える」「自分からそっと寄り添う」包容力を持ち、ミツルを柔らかく受け止めてくれる。この組み合わせは、王道の一つ。「ツンとしたヒロイン×余裕あるヒーロー」の構図。



剣“茉凜”がもたらすファンタジーの深みと、ふたりを見守る存在感

ファンタジーらしい“魔導兵装”

 本来ならただの道具である“剣”が人格を持ち、しかもかつてはヒロインにとってほぼ唯一のパートナーだった。


ふたりの関係が進むほど、茉凜は置き去りにされる存在?

 茉凜は身体を持たないため、時間が流れる中でどうしても“取り残される”感が強い。しかし、だからこそ茉凜は「美鶴ミツルには幸せになってほしい」と切に願っているようにも感じられる。


 まるで“母親や姉妹”のように見守る立ち位置にも似た茉凜の沈黙が、物語を切なくも温かく彩っている。「自分はいつか消える」と。


「恋愛感情を知るまで」の物語――変化していく美鶴/ミツル

今後の変化への期待感

 恋愛を知らなかった前世の美鶴が、今生で改めて人生をやり直している。

徐々に「対等に向き合いたい」「傍にいてほしい」という感情を自覚していく過程。

また、「甘え」ではない新しい絆のかたちをミツルが模索する物語としても、大きな発展を感じさせる要素。


“父性的なもの”から“恋愛対象”へのシフト

 これまでミツルが欲していた“父性的なもの”とは違う、対等なパートナーとしてヴィルを認め始めている。「守られたい」よりも「隣で共に歩みたい」というヒロイン像。


 いずれヴィル自身の真意も明らかになり、二人が本当の意味で向き合う瞬間こそ、物語の大きなクライマックスになり得る。


葛藤を内包したヒロイン像

 前世からの人格が影響することで、ミツルは恋愛経験のなさと意地っ張りな部分を併せ持ち、独特の魅力を放っている。


包容力とミステリアスさを併せ持つヴィル

 冗談交じりで柔らかいアプローチをする一方、彼自身の本心がまだ見え切らないという余白。


第三者的に見守る“茉凜”

 剣でありながら人格を備えた存在が二人の間に立つことで、ファンタジー世界の奥行きが増し、また切なさや温かさを演出している。


 これらの要素が合わさって、“恋愛未満の微妙な距離感”と“ヒロインの不器用ながらも前に進みたい気持ち”が際立ちます。


 「前世の自分を抱えながら新たに生き直すヒロイン」が、戸惑いながらも“恋心”に気づいていく物語展開。まだ“ムズムズ感”の段階でストーリーが留まっているからこそ、今後の変化や恋愛成就への期待感が高まる。

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