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精霊族の遺産と学び舎の少女

 食堂の扉を押し開けると、昼休みの熱が一気に押し寄せた。鍋から立つ湯気と香りが重なり、家庭の台所に似たやわらかな熱気と匂いが、空席の少ない広間に薄く漂っている。


 私はカウンターでサラダとスープを受け取る。木のトレーが掌に馴染み、器の縁のあたたかさが指先に残った。


 大きなテーブルへ紛れ込めば、見知らぬ声が自然と混ざるのだろう。けれど胸の奥がわずかに縮み、結局は隅の空席へ。トレーを胸元で抱え直し、椅子の脚が床を擦る音とともにそっと腰を下ろす。


 たまには輪に溶け込むべきかもしれない。けれど私は客人の身の上。いずれ旅立てば、この学び舎からも離れる。


 そう割り切るのは、たぶん性分だ。

 前世に“弓鶴”と呼ばれていた頃、距離感の拙さで“氷の王子様”なんて渾名まで背負った。今生の“ミツル”も大して変わらないのかもしれない――唇の端だけで、小さく笑う。


 背もたれに身を預け、スープをすくう。立ちのぼる湯気が頬を撫で、まろやかな塩味が凝った頭の糸をほどく。

 談笑はガラスの向こうのように遠く、陶器の触れ合う澄んだ音だけが、時おり近くで弾けては消えた。


 ふと、腰のベルトの“白き剣マウザーグレイル”を意識する。

 見た目は剣だが、分類は魔導兵装。革越しの重みが確かにある。視線がないわけではないが、総長の許可証があるぶん、驚きはしても咎められない。――それでも、この重さが自分を際立たせる。そんな気がしてしまう。

 革のホルダーの角が腰骨に当たり、位置を確かめるみたいに重みが返ってくる。


――また端っこで小さくなってる。ほんと、こういうのばかり。……でも、気楽ではあるんだよね。


 思った矢先、視界の端で影が揺れた。顔を上げると、図書館で声をかけてきた少女が、申し訳なさそうにこちらをうかがっている。肩で揺れる淡い茶髪。トレーを抱える腕が遠慮深い。


「あの、よかったらなんだけど……ここ、相席させてもらっても大丈夫かな?」


 はにかむ声に、肩の力が少し抜けた。

 胸の奥でトクンと小さく跳ねる。喉に張る薄い緊張を自覚しつつ、さっきの自分を思い返す。「これじゃだめだよね」と、背をちいさく押された。


「……え、ええ。もちろん。荷物、ちょっと寄せるね。よかったらどうぞ」


 ぱっと明るくなる顔。向かいの椅子が軽く軋む。年頃はたぶん、私と同じくらい。

 私は皿の縁を指先でそっとなぞり、いったん視線を落とす。釉薬の冷たさが指腹に残った。勇気を集めて彼女を見上げ、微笑みがほどける。


「改めてこんにちは。私、ソレイユっていうの。さっき図書館で、急に話しかけちゃってごめんなさい。あなたが読んでいた本がすごく気になって……それでつい、声をかけちゃったんだ」


 言い切ってから、彼女は口元を片手で押さえる。表情がくるくる変わって愛らしい。私はつられて笑った。


「ううん、全然気にしなくて大丈夫だよ。私、夢中になると本当に周りが見えなくなっちゃうから、声をかけてもらえて逆に助かったかも……」


 スープをひと口。喉を通る温度が胸の真ん中に静かな熱を置く。


「……私はミツルっていうの」


「ミツル……素敵な名前だよね。えっと……ここには研究生として来てるのかな? 前にお見かけしたことなかったから、もしかして聴講生とか……?」


「私? ええと……そう、まあそんな感じかも。調べ物があってこの学び舎に来ているだけで、普通の生徒みたいに講義とか実習には出ていないんだ」


 立場の説明は難しい。離宮に養われ、“グロンダイル”という名がこの国では余計な意味を帯びる。総長と直に繋がるなどと付け足せば、目立つに決まっている。

 想像しただけで、好奇の針が肌に刺さる。私は微笑を保ち、視線だけ皿の縁へ逃がした。薄い水滴が光を小さく弾く。


「そうなんだ。……あ、もし聞いちゃいけないことだったらごめんね。私、ちょっとお節介なところあるから。図書館でミツルさんが本を読んでいる姿、とても熱心だったから……つい、気になって見ちゃって」


 下がる眉の素直さが、むしろ好ましい。『気にしないで』と返し、スープをひと口。喉を通る温度が胸の真ん中に静かな熱を置く。

 彼女は息を和らげ、パンをひとかけらちぎった。漂う香ばしさが、湯気に混じる。


「そういえば、さっきミツルさんが読んでいたのって、伝説上の神秘って呼ばれている精霊魔術の本だよね? 実は私も、精霊魔術のことを調べてみたくて。けど、ここの大学には体系的な魔術や錬金術の教本がたくさんあるのに、精霊魔術に関するものって本当に少ないんだよね……」


「そうかも。確かに精霊魔術の本って、ごく限られた書棚にしか置かれていないよね。使い手がもういないから、実証的な研究や検証もしようがないって、よく言われてるみたい」


 ソレイユは身を少し乗り出し、瞳に光を宿す。紙の匂いが衣の袖口からかすかに立った。


「精霊魔術って、どうしてそんなに希少なものになっちゃったんだろう……?」


 スプーンを置き、一拍の間を取る。ことばを絞る。


「……精霊魔術って、ずっと昔には確かに存在していた術式なの。でも実際のところ、“精霊族”っていう特別な種族じゃないと使えないらしくて、彼らがいなくなった今では、本当に使える人はほとんどいないみたい」


「精霊族……? その人たちって、一体どんな種族だったんだろう? 暮らしや考え方も気になっちゃうな」


「彼らはね、自然と調和しながら共存することを主義にしていたみたい。生きるための糧以外の殺生はできるだけ避けて、必要以上に自然を傷つけない。それができたのは、“精霊子”――自然の中に漂う微細なものを感じ取ることができたからなんじゃないかな」


 厳密には自然そのものではなく“情報の微粒子”――そう言い切りたくなる手応えはある。けれど“まだ仮説にすぎない”。今はここで止める。


「すごい……。そんな力を持つ人たちって、どんな場所で暮らしていたのかな?」


「うん……森の奥や山の斜面、わたしたちから見るとちょっと“遠い”場所にひっそり住んでいたらしい。自然と調和して暮らすためには、なるべく外の世界とは距離を置く必要があったのかもしれないね。いらぬ争いを避けるために、人目につかない場所で、慎ましく暮らしていたって記録があるの」


「へえ……でも、どうしてそんな人たちがいなくなっちゃったんだろう?」


「ほんとのところは、誰にも言い切れないの。自然に寄り添いすぎて外の変化に弱かった、とも、災害で一気に数が減った、とも言われていて……どれも仮説のまま。今はね、草の根の伝承と、詠唱を要しない不思議な術の記録が、わずかに残るばかりなの」


「だから“幻”みたいな扱いになるんだね。昔は確かにあったのに、いまはもう伝説……そこがまたロマンなんだよね」


 その目の輝きに、私の指も無意識にスプーンを緩めた。


「そうね。今となっては、失われた術式と言っても過言じゃないかも。精霊族がいなくなった以上、正統の継承は途絶えた。でも、遺跡や古い文献のあちこちに落ちた痕は残っていて……それをつなぎ直そうとする研究者も、まだ少しはいるんだ」


「……じゃあ、ミツルさんは何か手応えを掴めそう? 精霊子について、何か感じたりできるの?」


 真正面からの問い。私は視線をいったん落とし、言葉をそっと並べる。


「手応え……うん、少しはあるかも。精霊族の“自然へのまなざし”をなぞるだけでは足りなくて、私は術の核にある“精霊子”――精霊のかけらみたいな存在の気配に触れられる瞬間を待つの。それを媒介にして、自分なりの術を積み上げてきた、そんな感じかな」


「すごい……! それって、精霊族の名残を受け継いでるってことじゃないかな? もしかして、あなたは精霊族の末裔なの?」


「さ、さあ……それは。私のやり方は、本来の精霊魔術とはたぶん違う。独学で継いだ寄せ木みたいな術だし、まだ道の途中で……でも、精霊子の気配に耳を澄ます感覚だけは、手放したくない、かな」


「すごい。才能って、きっとそういうことを言うんだね。私には到底真似できないよ……憧れちゃう」


「特別なことはないんだよ。むしろ私は普通の魔術が全然だめで、発動条件の式や呪文、魔法陣――そういうのが本当に分からなくて。魔石だって反応してくれない。ここにいていいのかって、不安になることもあるし」


「そんなふうに言わないで。できないことは誰にでもあるよ。でも、ミツルさんは他の誰にもできないことをしている。それだけで、もうすごい。私は……何もかも中途半端で、精霊魔術を学びたいって思っても、怖くて一歩が出ないの」


「私も、以前はそうだったかもしれないわ。でも、興味を持つこと――それがきっと最初の一歩なんだと思う。大切なのは“知りたい”“やってみたい”を手放さないこと。探究心があれば、いつか道は開けるって、ある人に教わったの」


「探究心……うん。今、胸に小さな明かりが灯った気がする。ありがとう、ミツルさん」


 彼女の目がいっそう澄み、窓辺の光がテーブルにやわらかい縁を落とす。その笑顔に合わせるように、胸の奥で小さく震える声が響いた――茉凜の声だ。


《《うん、素直でいい子だよね。こういう前向きさ、わたしは嫌いじゃないな》》


 姿は見えないのに、剣の内からの明るい調子が、胸の奥のこわばりをふっとほどいた。パンの甘い匂いが近くでほどける。


「ねえ、もしよかったらなんだけど……今度、私の術を“見て”もらえる場を用意できるかもしれない。理屈より、まず触れてもらうほうが伝わると思うから」


「本当に……? そんな機会、もらってもいいのかな。うれしい、ぜひ見てみたい」


 弾む声。握られた指に嬉しさが透ける。


「もちろんだよ。興味を持ってくれるのは、私も本当に嬉しいし、きっとお互いの学びになるはず」


「ありがとう、ミツルさん。すごく楽しみだよ!」


 真っ直ぐな感謝が胸の内側まで温めてくる。誰かと気持ちを分かち合う――そのささやかな実感が、今の私には驚くほど大きい。

 窓のガラスに午後の光が斜めに射し、器の縁が細く光った。食堂のざわめきは、祝福のささやきのように遠のいていく。


 魔術大学という学び舎を舞台にしながら、「精霊魔術」という失われた術式をめぐる謎や、主人公・ミツルの内面に潜む葛藤を軸に展開しています。


主人公ミツルの内面と“通りすがり”という立場

前世で“弓鶴”と呼ばれていた頃の孤立感

 前世の自分が美鶴としては一度死に、デルワーズの策謀により、弟である男の子の“柚羽 弓鶴”に憑依させられた。自身の正体を勘付かれたくないため、他人との接触を避けていた。その“孤独”の感覚が、今生の“ミツル”としても変わらず残っている。


“通りすがり”という自己認識

 いずれ旅立つ運命を自覚しているがゆえに、あえて周囲と深く交わろうとはしない姿勢が見える。そんな彼女がソレイユから話しかけられ、ふいに生まれる「交流のきっかけ」に戸惑いながらも、少しずつ惹かれている点が注目ポイント。


 このように、主人公には「孤独」でいることを良くも悪くも“常態”とする気持ちがある一方、人からの声かけを「ありがたい」と感じる矛盾した感情が混在しています。そこに、物語のテーマの一つである“他者との繋がり”が浮かび上がると考えられます。


失われた術式「精霊魔術」と“精霊族”の存在

精霊魔術の希少性

 かつて存在した“精霊族”が滅んだことにより、純粋な形での継承がほぼ絶たれた術。誰もが扱えるわけではなく、現代の魔術理論からも外れた特異な術式。


精霊族の在り方

 自然との調和を重んじ、生きるための糧以上の殺生を避ける種族だった。彼らは“精霊子”という目に見えない自然の力を感じ取ることで、自然と深く結びついていた。


研究の難しさと人々の興味

 現在は多くの人が見向きもしない、あるいは「幻」としか扱わない古代の魔術分野だが、ソレイユのように「少しでも触れてみたい」と夢を抱く者もいる。この精霊魔術は、物語全体において“失われた宝”のような存在感を放っています。同時に、それが“戦いのための兵器”にもなり得る、しかし本質は自然との共生にあるという二面性を示唆している点が興味深いところです。


ミツルの“精霊子”への感受と葛藤

ミツルは“精霊子”を感じ取れる特別な存在

 しかし、一般的な魔術の理論や術式を理解するのは苦手。だからこそ「他の魔術師と並んでいいのか」と自問してしまう弱さが垣間見える。


一般的な魔術について

 扱うためには、長い学習期間と膨大な知識が求められる。四年から六年をかけてやっと一人前になれるというのは、魔術における実務者の標準的な成長過程を示している。一方で、多くの魔術師は「僧侶のお教」を身につけるかのごとく、呪文や魔法陣を“実際に使える”状態にはしていても、理論そのものを深く理解しているわけではない。


 それは二千年という長い歳月をかけて試行錯誤され、ようやく体系づけられた魔術理論が、いかに複雑で高度なものかを物語っている。グレイ総長のような研究者がその難解な理論を深く読み解けるのに対し、多くの魔術師は“使い方はわかるが、根本の意味まではわからない”まま日々の実務にあたっている――いわば「研究」と「実務」のあいだに、決定的な隔たりがあるということだ。


 結局、理論を構築する研究の世界と、理論を用いて魔術を運用する実務の世界とは、似て非なる道を歩んでいる。だからこそ、理論を徹底的に掘り下げる研究者がいなければ、新たな発展や革新的な魔術の再構築は難しい。それ故「魔術大学」という研究機関は重要なのだ。


 一方で、多くの魔術師は“意味はわからなくとも実際に呪文や魔法陣を使えればいい”というスタンスで実務に専念している。この両者の関係が、まさに「実務と研究は違う」という現実を物語っているのだろう。


前世からの試行錯誤

 前世“弓鶴”のときに積み重ねた“戦うための魔術”が、果たして本当に精霊魔術の本質と合致しているのか……という自責の念を感じている。


精霊魔術の“純粋さ”を取り戻すこと

 ミツルが目指しているのは、かつての精霊族がもたらした「自然との共生」的な姿。「兵器としての魔術」や人間の都合に合わせた術でなく、真の意味で“精霊と対話する魔術”を追い求めている。


 これは、「失われた自然との共生理念をどう取り戻すか」という大きなテーマにも繋がっており、物語に深みを与える要素だと考えられます。


ソレイユとの出会いがもたらす光

ソレイユの素直な好奇心

 彼女は精霊魔術の稀少性に対して純粋な興味を抱き、積極的に質問をぶつけてくる。ミツルにとって、こうした好奇心を持つ同年代の友人は初めてに近い存在のように思える。


肯定される喜びと“一歩”の象徴

 励まされることで、ミツルは“自分が持つ力の意味”を再認識し、また他者と分かち合いたいと思い始める。


“探究心”というキーワード

 ミツルが言う「探究心があれば道は開ける」という考え(グレイ総長から得た)にソレイユが共感し、さらに前を向こうとする流れは、互いの心を温かくしている。今後の展開としても、ソレイユとの交流が新たな扉を開くきっかけになることが示唆される。


茉凜(マウザーグレイルに宿る存在)の立ち位置

剣に宿る人格、茉凜

 物語中、彼女はミツルの心の声を代弁したり、あるいは背中を押したりする存在として描かれています。姿は見えずとも、ミツルにとっての“相棒”“理解者”のような役割。


軽口混じりのコメントが示すもの

 「ポジティブさが嫌いじゃない」など、やや砕けた調子を添えることで、会話シーンに柔らかさが生まれている。茉凜はミツルの迷いや不安をときに揶揄しながらも支えていると言えます。


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