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紋章に刻まれし運命

 お祖父さまは、私の下腹部に浮かぶ奇妙な痣へ、静かに視線を這わせた。眼差しには探究の透明な光が宿り、古書の片隅に描かれた稀少な挿絵を解読する学者のようでもある。

 淡い昼下がりの光が古めかしい壁面と装飾をやわらかく照らす中、この微妙な「印」に込められた意味を一つも取り落とすまいと、細心の注意で観察しているように見えた。


 隣のリディアは、わずかに身を寄せてきたが、私の肌を覆うでも、露骨に目を逸らすでもない。そのかすかな吐息が耳元で揺れるたび、王女として超えてはならぬ一線を踏み出したのだと、私は否応なく自覚する。


 この場で肌を晒し、先王に奇妙な痣を示すなど、常軌を逸している。それでも、今は必要だと判断した。何より、お祖父さまは叱責することなく、その原因と意味を解こうとしてくれている。


 低い声が、空気をふるわせた。


「……ふむ。見れば見るほど、紋章の意匠に酷似している。入れ墨ではないな――こんなものが一朝一夕で刻まれるはずがない」


 その一言に、壁際で気まずげだったヴィルが、かすかに肩を揺らす。視線は壁の装飾へ向いたまま。先ほどの狼狽は幾分収まったらしい。私とお祖父さまを取り巻く空気の流れを、慎重に読もうとしているのだろう。


「ミツル、この痣は、いつ頃から現れはじめたのかね?」


 詰問ではなく、未知の資料を確かめる研究者の声音。

 正確な返答を促す穏やかさに、私はドレスの裾を持つ手をいったん止め、浅く息を整える。ここに嘘は不要だ。


「三か月以上前です。北方エレダンを発ち、リーディスへ向かう途上、ごく軽い擦り傷のような痕から始まりました。やがて色が濃く、形も明確に……いつの間にか、はっきりした紋様として浮かんでいて。体調に変化はなく、病の兆しも見られなかったので、医師も回復術師も避けて――放置していました」


「なるほど。初めから完成形ではなかった、というわけか」


 私はこくりと頷く。落ち着いた声色が、羞恥と緊張をわずかに緩めてくれる。

 ここにいる誰も、私を一方的に責めはしない。むしろ、この事象の意味を解くために、皆が真摯でいてくれるのだと感じる。


「それ以降も体調に異変はありません。……人目を避けたくて、そのままに」


 背後で、小さな咳払い。


「言っとくが、俺はそんなもんまともには見ていないからな。あの時は……暗かったし、慌てていたし、それに、できるだけ見ないように心がけてた。……本当だ」


 ヴィルの必死の弁明に、頬が一気に熱を帯びる。

 熱に倒れて意識のないまま着替えさせられた、あの記憶が過る。努めて忘れていたできごとを、この場で蒸し返すなんて――。


「う……」


 羞恥が胸の内で弾け、視線を向けるのもためらわれる。

 下心のない正直者なのは知っている。けれど、この空気でそう言える神経には、呆れるしかない。私は唇を噛み、目を閉じ、心の中で唱える。


 ――平常心、平常心。


 深呼吸をひとつ。顔を上げ、話の本筋へ戻す。


「……それでは、続きを」


「ああ、その前に。もう下ろしてよい。確認は済んだ。――恥ずかしい思いをさせてしまったね」


 お祖父さまのやわらかな声に、胸がほどける。私は静かに裾を下ろし、肌を覆う。背後からリディアが手を添え、生地の乱れを整えてくれる。


 一方でヴィルは、壁際で体重を移しながら宙を見つめる。居心地の悪さを隠せていない。――後で、少し念を押しておこう。もう、変に我慢はしないと決めたのだから。


 お祖父さまは悠然と顎鬚を撫でる。そこにあるのは、非難ではなく、理解と探求の静けさだ。


 私は咳払いひとつ。ここまで来たのなら、もう退かない。


「……王都に到着してから、この痣はいっそう明瞭になりました――」


 胸の奥を確かめるように、慎重に言葉を紡ぐ。


「――まるで、目に見えない“力”が、その紋様を刻み込もうとしているかのように……」


 喉奥で言葉が震える。

 お祖父さまが「入れ墨めいている」と評したのは、まさに的確だった。誰の仕業でもないのに、身体には無遠慮な“印”が浮き、定まらぬ曲線と、意味不明な幾何が重なってゆく。


「そして、聖剣の選定の儀式の朝、いっそう鮮明になったのです。入れ墨や傷痕ではなく――誰かの意志が働いているとしか思えない。

 ……ここへ来てからは、見られぬよう細心の注意で。着替えのときも、湯浴みのときも、必死に」


 リディアが小さく息を呑む。ヴィルは無言で腕を組んだままだが、眼差しには先ほどより深い思索が滲む。お祖父さまは頷きも否もせず、ただ沈思を深めている。


 これは自然発生の模様ではない。抽象的な形であっても、明らかに意図を帯び、何かの意味を潜ませている。千年、万年の底に沈んだ歴史の残骸が、今、私という媒介をとおして再び語ろうとしているかのように。


「……だから、これは単なる身体的特徴ではなく、ある種の“意志”や“力”が関与している――そう考え始めました」


 ……お祖父さまは、深くうなずきもせず、否もせず、沈思のままだ。


「お祖父さま。やはり私は、生まれながらに何らかの運命を背負わされているのでしょうか。王都に入るにつれて紋様は明確に、そしてあの紋章と瓜二つの形を幻視として――すべて、何らかの脈絡を成しているように思えます」


 言い終えると、重い沈黙が降りた。

 リディアは気配を立てずに控え、ヴィルは苦い顔で腕を組み直す。尋常でないことを、全員が感じている。


 浅く息を吐く。先ほどまで胸を塞いでいた羞恥や恐れは、風に散る塵のように遠のいていく。秘密をここで開くことが、心を澄ませてくれる。


 やがて、お祖父さまはまぶたを上げ、深い瞳でまっすぐに見据えた。そこにあるのは驚きや苛立ちではなく、慎重な探究者の面差し。


「ミツル、君の言葉は十分に重い。この奇妙な紋様は通常巫女には見られない。メイレアにも無かった以上、伝統的な血筋の表れでもない。

 ――つまり、君が“巫女ではない”と感じる根拠の一つになり得る。そして、巫女とは異なる存在――かつて“兵器”として生み出された者。君は、その情報を“黒いプレート”から得た。そういうことだね?」


「……はい――」


 静かな問いは、石を水面へ投げ入れるように、胸へ波紋を広げる。紋様の話から、一転して“兵器としての存在”へ。心中に、かすかなさざ波が立つ。


「――おっしゃる通りです」


 短く答えると、お祖父さまはわずかに頷く。断定ではなく、さらなる情報を求める目だ。くぐもった空気の中で、指先がゆるやかに顎鬚を梳く。


「では――その者の名は? そして、彼女も痣を持っていたか。君は知っているのかね?」


 名と痣。二つの関連を問う言葉に、私は反射的に首を傾げてしまう。なぜ名乗りと身体的特徴を――その意図を測りかねて、声がわずかに上ずった。


「どうして……そんなことを?」


 お祖父さまは、変わらぬ静けさで答える。


「君は報告してくれたね。“黒いプレート”には、ただの記録でなく、誰かの記憶や思念が宿ると。巫女に見られぬ紋様を持つ君と、かつて“兵器”として造られた存在――もし両者に共通項があるなら、紋様や幻視の謎に一歩近づける。彼女にも痣があったなら、同じ“意図”が通底している可能性がある」


 一瞬、逡巡が走る。――デルワーズ。黒いプレートを介して垣間見た、“兵器として作られた存在”の名。私と同じ容貌、漆黒の髪、緑の瞳。ロスコーの記憶で見た彼女は、鏡に映る自分のようだった。


 ここで黙しても、先へは進めない。お祖父さまは嘲らない。知により、理解により、解こうとしてくれる。


「以前申し上げた通り、その者の名は『デルワーズ』といいます。見た限り、母や私とほぼ同一の容姿でした。

 ……ただ、痣については確認できませんでした。もしかすると、彼女はまだ“完成”に至る前だったのかもしれない。はっきりした特徴は掴めず――のちに紋章が与えられた可能性も否定できません」


 名を口にした瞬間、空気に目に見えない波紋が広がる。背後でリディアがかすかに身じろぎ、ヴィルは腕を組み直して瞳を細める。


 お祖父さまは、顎鬚へやっていた手を止める。沈黙は、古い頁を静かに繰る気配に似ていた。


「その名について私なりに調べてみたが、記録には現れない。だが、“兵器として造られた存在”という性質に加え、マウザーグレイルの初期所有者と目される者が、なぜ君に似た容姿を持ち、いまこの紋様の謎と絡むのか――やはり偶然とは思えぬな」


 低い声に、慎重な推論がにじむ。


「もしこの紋様が古代の禁忌に通じる特別な印であり、クロセスバーナの“失われた名”を指し示すのだとすれば――いま、君を媒介にその呪縛が再び息を吹き返そうとしているのかもしれぬ。刻印や奇妙な紋章に関する伝承は点在し、リーディスとの因縁も深い。散逸した断片を繋げば、デルワーズという存在が、長い歳月の底で糸を紡ぎ直す“媒介”となっている可能性が高い」


 私は無意識に唾を飲む。紋様、兵器、虚無、クロセスバーナ――ばらばらだった欠片が、いま組み上がる予感。


「もし“虚無のゆりかご”の背後に、かつてのクロセスバーナの野望が潜んでいるのだとしたら――デルワーズ、あるいは巫女と騎士に連なる因果が、いま再燃しようとしている……そういうことですね?」


 口にして、初めて戦慄が追いつく。古代の遺志が現代へ呼び戻され、私がその中心に据えられる――信じがたいが、完全な否定もできない。


 お祖父さまは静かに頷く。


「君の見立ては妥当だ。クロセスバーナ由来の資料と遺物は、改めて洗い直すべきだろう。ミツル、デルワーズ、そして“不具”の紋様――この三つが織りなす因果が、君の運命の輪郭を浮かび上がらせるかもしれん。

 ローベルトを通じ、各地の遺跡探索に便宜を図ろう。これはもはや君ひとりの問題ではない。リーディス、ひいては世界をも揺るがしかねぬ試練となりうる」


 壁際で沈黙を守っていたヴィルが、わずかに身を起こす。渋面のまま、瞳だけに硬質な光。


「ミツル。これから向かう西方には、その名を復活させた連中が幅を利かせている――“クロセスバーナ”の再来と囁かれる国だ。噂どおり禁忌に手を出しているなら、お前の探す答えに一歩近づけるかもしれない」


 安易な期待ではなく、慎重な可能性が滲む。磨いた刃で意志を試すみたいに、さらに続く。


「だが、あの地の情勢は悪化の一途だ。秩序は揺らぎ、悪い噂も絶えない。踏み込めば、危険と陰謀が渦巻いているかもしれない。……それでも行くのか?」


 ごまかしの利かない問いが、覚悟を透かす。不器用な率直さが、今はありがたい。胸の奥の揺らぎが、熱を帯びて浮かぶ。


 すべてを解くなら、暗い深淵へ足を入れねばならない。そこには、マウザーグレイルの転移に巻き込まれた母の手掛かりも、あるかもしれない。

 王家預かりの安全圏を離れ、人知れぬ脅威に向かうことになる――それでも、立ち止まれない。


 静かな緊張が満ちる。私はヴィルを見返した。リディアは息を呑み、お祖父さまは目を細める。三者三様の眼差しを受け、唇を結び、静かに声を発した。


「……ええ、もちろん。危険があることくらい承知しているわ。けれど、何が起きているのかこの目で確かめない限り、私たちは前へ進めない。未知の闇に振り回されるだけなんて、まっぴらよ」


 言葉と同時に、小さな種火が胸に灯る。受け身を拒み、未知へ挑むための火。私たちは西方へ向かう。その先の真実が、どれほど残酷でも、もう逃げない。


 薄手のカーテンを透く光の下、古い血統と忘れられた名、その陰に潜む遥かな秘密が、静かに頁をめくろうとしている。時の狭間で眠っていた真実が、今まさに呼吸を取り戻す――その確かな気配を、私はこの身で感じていた。


今回は文脈と展開の意図


文脈解説

 この場面は、王家預かりの養女である「私」が、自らの下腹部に浮かび上がった奇妙な痣を、お祖父様(先王)に見せているという、日常から逸脱した状況を描いている。王家の場で、肌を露わにし、ましてや先王陛下に対し特異な印を披露するなど、王女としての品位や礼儀の観点からは明らかに逸脱している行為だ。


 それにもかかわらず「私」はそうする必要性を感じ、行動に移している。この「必要性」とは、単に身体的な異常を見せることではなく、その異常が単なる病気や生理的変化ではなく、古代から続く何らかの魔術的・歴史的・運命的要素と結びついているとの推測があるからだ。聖剣の選定といった王家ならではの行事との関連、巫女制度や兵器的存在が示唆される背景、さらには西方大陸やクロセスバーナといったキーワードが今後浮上することを考えると、単なる「痣」以上の意味合いを帯びている。


 この状況で、お祖父様は、敬意や道徳的懲罰ではなく、根っからの学者目線で冷静な態度で接する。叱責や非難に転じず、淡々と事実確認や観察を行う姿勢からは、王族という身分や血筋を超えた深い洞察力と懐の深さを感じさせる。また、侍女リディアや護衛的存在であるヴィルといった脇役たちが繊細な反応を見せており、彼らは不思議な現象に直面する主人公を、必ずしも制止せずに見守り、あるいは不器用に気遣う態度を示す。これらの人物間のやりとりは、物語世界で主人公が一人きりではなく、理解者や協力者が身近にいることを示唆している。


展開の意図

 この場面が物語全体において果たす意図には、以下のような点が挙げられる。


主人公の決意と行動原理の提示

「私」が品位や礼儀を捨ててまで痣を見せる行為は、受動的な立場から能動的な探究者へと転換しようとする姿を示している。恥ずかしさや恐れを越えて未知の謎に立ち向かう彼女の態度は、これからの物語で彼女が自ら運命を切り開こうとする意志を表し、その主体性を印象づける。


世界観や物語上の謎の提示

痣が自然発生するのではなく、外的な力や歴史的因縁によって浮かび上がる可能性が示唆される。「巫女には見られぬ紋様」「兵器として生み出された存在」「クロセスバーナ」「虚無のゆりかご」といったキーワードや要素が、断片的に示されている。これらは物語全体が持つ壮大な世界観、古代からの因縁や封じられた歴史的事実の存在を匂わせ、後の展開への期待と疑問を抱かせる。


人間関係の再確認と信頼関係の醸成

お祖父様が怒ることなく、理解しようと努める姿勢、リディアが動揺しつつも控えめな仕草で支える様子、ヴィルが不器用ながらも関与を避けられない状況が描かれることで、物語は登場人物たちの微妙な力関係や感情を提示する。これにより、主人公を取り巻く周囲の人々が単なる従属的な存在でなく、それぞれ独自の感情や反応を持つことが示される。


物語の方向性を示す起点

この場面は、主人公が現状の秩序や安寧を壊し、未知の領域へ踏み込む転換点である。奇妙な痣、古代の禁忌、巫女や兵器の存在が示唆されることによって、今後の展開は国際的・歴史的な広がりを伴うものとなることが予想される。西方大陸への移動や禁忌を犯す勢力との対峙、過去から続く運命的な問題の解明などへ、物語がスケールアップする布石として機能している。


総合的意味

 本シーンは、主人公の行動を起点に、物語がより深い謎と歴史的因縁へ踏み込む土台を築く。読者は、「なぜ痣が現れたのか」「兵器としての存在とは誰なのか」「古代から続く禁忌や因縁は何をもたらすのか」といった問いを抱き、この後の物語展開を強く意識することになる。主人公がこの段階で恥と恐れを乗り越えて一歩踏み出すことにより、読者は主人公が運命を切り開く主体として新たなステージへ移行したことを理解する。


 つまり、この場面は謎を提示しつつ、主人公が決意を固め、周囲(祖父、リディア、ヴィル)との関係性と信頼を再確認し、後々その謎と運命に正面から挑むための準備段階として設計されている。それが本テキストの文脈的意義と展開の意図であるといえる。

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