風にほどける想い
「あれっ……?」
「おっ?」
すべてが解き明かされたと思っていた世界は、驚くほど静かにその幕を閉じた。幻想の庭園は潮が引くみたいに痕跡を残さず消え去り、私たちは元の広大な練兵場に戻っている。
驚きはない。最初から“いつか終わる夢”だと知っていた。
ヴィルは、いつも通りに冷静な面差しで現実を受け止めている。
「案外、あっさり終わったね……」
私がぽつりとつぶやくと、彼は微かに息を吐いた。その呼吸は、遠くで揺れる木立の葉音のように静か。
「まあ、夢なんてそんなものさ。まさかお前、もっとあの中に浸っていたかったのか?」
「まさか。あんなわけのわからない空間でずっと二人っきりだなんて、息苦しくてしょうがないわ」
本当は、もう少しだけあの不思議な空間に身を委ね、彼と言葉を交わしていたかった。肩書きも使命も置いておけるなら。
それでも、私は強がった言葉を選ぶ。ヴィルは苦笑めいた表情で肩をすくめ、唇の端をわずかに上げる。
「ふん、言ってくれるじゃないか。俺もようやく解放されて清々してるところなんだが?」
彼が唐突にわずかに身を寄せる。
その距離感は、以前の私なら戸惑いを感じたかもしれない。でも今は、不思議と心が和らぐ。さっきまでの世界が、私たちの間にひそやかな何かを残していったみたい。
「……さて、聖剣に関する謎はひとまず判明したし、今日の用事はこれでおしまい」
私は急に話を切り上げ、立ち上がった。ドレスについた埃をぱん、と払う。
ヴィルも背伸びをしながら練兵場の地面からゆるりと立ち上がる。
その背中はいつ見ても大きくて温かみのある、でも頼りたいのに頼りたくない壁のようなものだった。けれど、あの“壁”は思い込みだったのかもしれない。
もっととりとめのない話をしてみたかった。剣術や魔術、過去や使命といった重たいものから解放されて、たわいのない冗談や日常の話を。彼には迷惑かもしれないけれど、そんなことを考える余裕が今はある。
あの場所が、心の結び目を少し解いた。
ただ、あの黒いプレートに触れた瞬間、刹那的に起動した謎はまだ解けない。マウザーグレイルの根本機能である「IVGシステム解放」についても分からないまま。けれど、宿題が残っていることが不安より“小さな挑戦”に近い。
私たちが再び歩き出せば、いつかくだらない冗談を交わしながら、同じ地平を見渡せる日が来るかもしれない。**小さな灯が胸にともる。**それはほんのわずかなきっかけにすぎないけれど、私にとっては確かな一歩だ。
ヴィルはちらりと私を見て、何も言わずにまた歩き始める。その背中を追いながら、私は軽やかな足取りで彼の隣へ並ぶ。
世界は変わらないようでいて、すでにほんの少し変わり始めている。そのことに、私はひそかな安らぎを感じていた。
《《美鶴?》》
「なぁに?」
いつものように心の中にひそむ茉凛が、まるで耳元で囁くような声をかけてくる。その音色は優しく柔らかく、私にだけわかる秘密の合図のようだ。
《《時間はまだお昼前でしょ? 門限は日暮れなんだから、まだまだ時間はたっぷりあるよ? 久しぶりに街で遊んできたら?》》
その提案は思わず笑みがこぼれるほど嬉しかった。
離宮を出た時はそんな自由が許されるなんて思いもしなかったのに、朝にあった出来事のおかげで不安は消え、今は空を見上げれば澄みきった青が広がっている。
「そうだね、そうしようか。茉凛の期待に応えるために、朝は紅茶一杯で我慢したんだから、もうお腹が空いて仕方ないの。だけど……さすがに私にも限界があるわよ? あれもこれも食べろって押しつけないでよね?」
冗談めかして言った瞬間、茉凛は急に黙り込んだ。その沈黙は、いつもの彼女らしくない。
「えっ? どうしたの、茉凜? 何か不満でも?」
腰に下げた剣に視線を落としながら問いかけると、茉凛が少し真面目な声で返してくる。
《《違うの。わたし、これまで流れてきた情報をもとに解析に集中してみたいの》》
「なにそれ、ウソでしょ? あなたらしくない」
これまで、好奇心に任せて美味しいものや新しい刺激を求めては私を翻弄してきたはずなのに。彼女が真面目に集中したいだなんて、本当に意外すぎる。ちょっぴり驚きながら口をつぐむと、茉凛は少し拗ねたように言いかける。
《《あのねー、わたしだってマジになる時くらいあるんだから……もうっ》》
「ごめんごめん。でも本当にいいの? せっかくの機会なのに美味しいものはいらないの?」
《《いいのいいの。感覚接続を外しておくから、ヴィルと二人きりで楽しんできて》》
「え……?」
思わずヴィルの方へ視線を走らせる。私の独り言のようなやりとりに、彼は関心がないふりを装っている。でも、その態度は優しく放っておいてくれているようでもあって、なんだかくすぐったい。
《《いいじゃない、たまにはヴィルとデート気分なんてのもさ。へへっ……》》
悪戯っぽい声色に、私は小さく息をつく。
「はぁーっ……まったく、解析なんて言ってるけど、それ口実なんでしょ?」
彼女は私とヴィルのやりとりを見て、からかっているに違いない。その楽しげな気配が、声の途切れる直前まで私をくすぐってくる。
《《あー、聞こえない聞こえない。というわけで、従者ヴィルを引き連れて街へGO! じゃあね……》》
ぷつりと切れる声に、私は肩をすくめて笑うしかなかった。
「なんてつれないのかしら。せっかくの機会なのに……」
軽く首を傾げてヴィルを見上げると、彼は私の様子に気づいたのか、わずかに含み笑いを浮かべて言葉をかけてくる。
その笑みは、私の中の不安や照れを優しく包み込み、これから訪れる街でのひとときを、静かに、けれど温かく照らし出しているようだった。
「マリンと何を話してたんだ? 王都で遊ぶ算段でもしてたんじゃないのか?」
ヴィルのその問いかけは、私には少し意外だった。
普段なら「好きにすればいい」と突き放すような物言いをする彼が、まるで私を誘うような調子で聞いてくるなんて。戸惑いを隠せないまま、私は言葉を探した。
「それがね……茉凛が情報解析に集中するって言って、引きこもっちゃったのよね。だから……」
「うん?」
私の声を拾うように、ヴィルが少し身を乗り出す。その仕草に、どうしてだろう、胸がわずかに高鳴る。逃げ道を絶たれたような感覚と、ほんのわずかの期待が入り混じって、自分でも妙な心地だった。
「その……一人じゃつまらないし、よかったらヴィルもついてきてくれないかな? ダメ……?」
言葉にしてみると、自分がどれほど勇気を振り絞ったか実感した。彼が断ったらどうしよう、そんな不安が頭をよぎる。
けれど、ヴィルは軽く頭を掻き、あからさまに面倒くさそうな顔をするでもなく、ふっと息をついた。
「しょうがないな。俺も今日は暇だし、付き合ってやるよ。あとでカテリーナのところにも寄りたいしな。お前もそのつもりだろう?」
驚くほどあっさり受け入れられた私は、拍子抜けするやら胸があたたまるやら。
いつもの素っ気なさを崩さないのに、こちらの希望をさりげなく叶えてくれるその態度は、私にとって何よりも嬉しい。まるで小さな贈り物を手渡されたような、甘くて静かな幸福が、胸の奥でそっと花開いていく気がした。
私は少し視線を逸らしながら、小さな笑みを浮かべる。どう返事をすればいいのだろう。ありがとうが言えず、何気ないふりをして……
「……うん、じゃあ一緒に行こう?」
結局、私は丁寧な感謝の言葉も挟まず、控えめな誘い方を選んだ。自分からお願いしたにもかかわらず、上手く言えないもどかしさが頬を微かに熱くする。
それを聞いたヴィルは、ほんの一瞬目を丸くしたように見えたけれど、すぐに口元をほころばせる。抑えた笑いが喉の奥で転がり、やがて静かな笑顔へと溶け込んだ。
その笑顔は、剣や戦場が似合う彼には不釣り合いなほど穏やかで、まるでいつかの少年の面影を宿しているみたいだった。
私の胸の奥で、小さく柔らかな波紋が広がる。外見や雰囲気にとらわれていた過去の自分が、いとおしくて、そして少し照れくさい。
ヴィルの笑顔は、まるで黙って「さあ、行こうか」と告げるように、私の先を示していた。私はその目を受け止めるように軽くうなずき、二人で並んで歩き出す。
ここまでの経緯や心情を整理すると、茉凛がとっている行動や発言には、以下のような背景や意味合いが含まれています。
まず、前世において、美鶴と茉凛は「好き」と誓い合うほど親密な関係でした。しかしその「好き」は、一般的な恋愛関係や性的嗜好といった次元に縛られない、魂の深い部分で結ばれたような特異な絆であり、必ずしも肉体的結びつきを求めるものではありませんでした。そうした関係は「恋愛」と呼ぶには曖昧なもので、互いへの依存や共鳴、共生に近いともいえます。
ところが、転生後の今、美鶴だった存在はミツルとして新たな肉体と人生を得て、生前とは違う視点や感情を持ち始めています。かつての「美鶴」とはもう完全に同一ではないため、前世における茉凛との関係も、そのまま維持されているわけではありません。ミツルは「母さまのようになりたい」「お母さんになりたい」といった、新たな人生観・価値観・目標を持ち始めている。これは前世の美鶴にはなかった方向性であり、ミツルとしての肉体や環境が彼女の意識と感情を少しずつ変えていることを示しています。
茉凛は、そんな変化を理解し、受け入れています。前世で得られなかった「幸せ」を、今世ではミツルに手にしてほしい。その幸せの形が、母親になること、家族を得ること、またはヴィルや他の人物との穏やかな関係を築くこと――いずれの形であっても、茉凛はミツルが本当の意味で自立し、自分自身の幸せを見出してほしいと願っています。
しかし、茉凛自身はあくまでコピーされた存在であり、身体を持たず、いつかは置き去りにされ、消えるかもしれない不安を抱えています。そのため、口では軽口を叩きながらも、心の奥底では苦悩しているのです。大切な相手であるミツルが、自分に依存し続けるのではなく、新しい感情や人生観を受け止めて前へ進むよう、あえて後押ししている。自分が消えるかもしれないことを知りながら、茉凛はミツルの未来を優先し、自分がいない世界でも彼女が幸福であることを望んでいるのです。
つまり、茉凛は軽やかな態度でからかいつつも、実は複雑で切ない思いを抱きながら、ミツルを新たな幸福と自立へ導こうとしていると言えます。




