紫陽花の傘の下で
茉凜という人は、ほんとうに不思議だ。
どんなときも堂々として、思ったことをそのまま言葉にし、子どものような笑顔で笑う。
その姿を見るたび、私はまるで別の世界を覗いているような気がした。どうしてあんなに、真っすぐに生きられるのだろう。
私は、いつだって自分を抑えこむことしかできない。彼女の自由さに触れるたび、胸の奥に小さな嫉妬が滲む。
しかも彼女には、あの危険な現実にさえ恐れの色がない。死の影がすぐそばまで迫っているかもしれないのに、茉凜はいつもと変わらず笑っている。そんな姿を前にすると、私はどうしようもなく戸惑ってしまう。
恐ろしくはないのか。――私には到底、真似できない。
それでもいちばん私を混乱させるのは、彼女が私を決して責めないことだ。
私が彼女の人生を狂わせてしまったのかもしれないのに、茉凜は「相棒だよ」と言って笑う。
その優しさが、時に痛いほど胸を刺す。喉の奥が熱くなり、恥ずかしくて顔を上げられない。どうして彼女は、こんなにも柔らかく在れるのだろう。
それに、茉凜は“かっこいい”人だ。弓鶴の姿をした私よりも背が高く、姿勢もよくて、どんな場面でも自信に満ちている。整った顔立ちではないのに、不思議と目を奪われる。陽光を浴びるたびに輝きを増すようなその存在感が、羨ましくて、時々こわくなる。
料理も上手で、佐藤さんと一緒に作るお弁当はいつも完璧だ。ふたを開けるたび、胸の奥で小さくため息が漏れる。私には、あんな余裕も器用さもない。
茉凜はまるで、私の持っていないものを全部持っているようで、その眩しさが時に苦く感じられる。
それでも――目を逸らせない。惹かれてしまう。
その矛盾こそが、彼女という存在そのものなのだと思う。
◇◇
茉凜は私にとって、「強い人」そのものだった。けれど、その強さがどこから来ているのかは分からなかった。
一年前、彼女が落雷事故に遭ったことを私は知っている。左腕の力は戻らず、二本の指はほとんど動かない。額には小さな傷跡が残ったままだという。
それでも彼女は、その事実をまるで他人事のように笑って語る。痛みを背負っているのに、その気配をまったく感じさせない。
ある日、私は恐る恐る尋ねてみた。
彼女は少しだけ目を見開き、それからいつもの調子で、懐かしそうに笑いながら話し始めた。
その笑顔を見ていると、痛みさえも宝物のように大切に抱いているように見えた。
悲しみや苦しみを封じ込めるのではなく、自分の一部として受け入れている――その静かな覚悟が、彼女の本当の強さなのだと感じた。
◇◇
「それがもう、うまくいかないことばっかりだったんだよ!」
茉凜は笑って話す。かつてバイクトライアルに熱中した日々を、懐かしい映画のワンシーンみたいに。
「十回やって一回成功すれば上出来。だけどね、怒っちゃダメなんだ。失敗しても、自分を許してあげなきゃ。だって頑張ったんだもん」
その声には、失敗すら抱きしめるような温かさがあった。
彼女の言葉は、不思議と心をほどいていく。
「やり直すなら、まず深呼吸して、どうして失敗したのか考えて、次はどうすればいいかを冷静に考えるの。これね、お父さんの受け売りなんだ」
笑顔の中に滲む誇らしさがまぶしい。
父と娘が一緒に泥だらけになって練習している光景が、自然に浮かんでくる。
彼女の原点は、そこにあるのだろう。失敗しても前を向くこと。努力をやめないこと。その教えが、茉凜という人を形づくったのだ。
彼女の話を聞いていると、空の色や風の匂いまで鮮やかに感じられた。
週末ごとに家族で練習に出かけ、仲間と競い合い、笑い合った日々。
努力が実を結び、やがて世界大会まで出場するようになったとき、彼女の目はきっと、誰よりもまっすぐに未来を見ていたのだろう。
しかし、高校入学を前にしたある日、運命の雷がその夢を断ち切った。
左手は動かず、ハンドルを握ることもできなくなった。
その瞬間、彼女の世界は音もなく崩れ落ちた。
けれど、彼女は闇に沈みきることはなかった。
不思議な夢を見たという。光と影のあわいを漂うような夢。
彼女はその夢を“もう一度、生き直すための合図”だと受け取った。
「いつまでも塞ぎ込んでたってしょうがないでしょ? だから、その夢に出てきた場所を探してみようと思ったの。なにかが変わるかもしれないと思って」
そう言って笑う彼女の横顔に、私は言葉を失った。
死にかけた身体で、なお「生きる」を選ぶ。
恐れを抱えながら、それを力に変える。その勇気の在り方が、胸に焼きつく。
「わたしは事故で一度死んだも同然だから。生きている今を大切にするって、当たり前のことだと思うの。せっかく生きてるんだから、ちゃんと生きなきゃね」
その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。
彼女の笑顔は、痛みを越えた場所にある。
――だからこそ、眩しくて、手が震えるほど羨ましい。
私もまた、一度死んだ身だ。絶望の底に沈み、世界の色を失った人間だった。
けれど、彼女に出会い、少しずつ光を取り戻した。
茉凜の言葉には、痛みを抱えた者だけが持つ優しさがある。
その強さに触れるたび、私の中の氷が少しずつ溶けていく。
彼女の光が、私の未来を決めてしまうのが怖い。
それでも――その光を、もう手放すことはできなかった。
◇◇◇
六月の初夏、やわらかな陽射しが降りそそいでいた。
表向きはいつも通りの学校生活、笑顔も会話も変わらない。けれどその裏では、命を賭して襲い来る刺客たちとの、静かな戦いが続いていた。
襲撃者たちは感情のない影のようで、ただ命令に従い、私たちを狙う。剣を抜くたび、胸の奥で冷たい不安がひたひたと広がる。
移動は常に護衛つき。藤堂さんの車に乗り、降り立てば周囲には監視の目が張り巡らされている。
郭外の虎洞寺氏が、敵の特徴や位置情報をすべて掌握してくれているおかげで、私たちはかろうじて安全を保っていた。
虎洞寺邸の地下本部には、街全体を見渡す巨大なデータサーバーがある。防犯カメラとドローンの網が、あらゆる人の顔を照合し、変装すら通じない。
機械仕掛けの視線が守っているはずなのに、私の心はひどく脆かった。
私は戦っても、誰一人傷つけられなかった。敵の精霊子を奪い、意識を落とす――それだけだ。
血を流させるたび、自分の中の何かが壊れそうになる。
けれど、弓鶴という器を完成させるには、それしか道がない。根源再生と解呪のために。
人を殺す覚悟など、私にはない。
けれど、命令に従った彼らの末路を想うたび、背筋が冷えた。
この無慈悲な世界の現実を、茉凜にだけは知られたくなかった。
彼女がその残酷さに触れれば、あの笑顔が消えてしまうような気がしたからだ。
黒鶴の力が、一刻も早く消えてしまえばいい――。
それでも立ち止まれない。闇の奥に眠る“導き手”が現れるまでは、歩くしかなかった。
柔らかな陽射しの下、初夏の光が頬をなぞる。私はその温もりに一瞬だけ目を細め、再び顔を上げた。
◇◇
梅雨入りの頃。雨の道を、茉凜と二人、傘を差して歩いていた。
湿った空気のなか、舗道が薄い鏡のように光を返し、私たちの足音をやさしく飲み込んでいく。
道端に咲く紫陽花が目にとまり、私は思わず足を止めた。
青と紫の花びらが雨に濡れ、淡い光を散らしている。
指先で花をそっとなぞると、ひんやりした感触が掌に残った。
その瞬間、長く固まっていた心が、少しだけゆるむ。
「弓鶴くん、どうしたの?」
茉凜の声で我に返る。慌てて手を引っ込めた拍子に、花びらの上の雫がぽたりと落ちた。
恥ずかしさを隠すために、私は紫陽花の花言葉を話し始める。
取り繕う言葉が空に溶けていく。
「次の休みに、紫陽花の名所に行ってみない?」
彼女の明るい提案に、一瞬言葉を失う。
その笑顔がまっすぐすぎて、心がざわめいた。
距離を取れば平静でいられると思っていたのに。
「……別に行きたくはないが、茉凜が行きたいなら、かまわない」
そう答えながら、声がわずかに震える。
彼女はその揺らぎを察したように、優しく笑った。
雨の音が静かに重なり、紫陽花の色だけが鮮やかに残った。
私は彼女の横顔を見つめながら、降りしきる雨音の奥で、自分の鼓動を聞いていた。
◇◇
日曜の朝、藤堂さんの運転する車が、初夏の光の中を滑るように進んだ。
向かう先は、茉凜が調べてきた紫陽花の名所。石寄瀬から四十キロ先の寺。
到着すると、彼女は迷いもなく私の手を取った。
「ほら、早く行こ!」
あっけにとられ、思わず素の声が漏れる。
「ちょ、ちょっと待って!」
美鶴の頃の口調が出てしまい、焦る。けれど茉凜は笑って私を引っ張る。
その無邪気さに、胸の緊張が少しずつ解けていく。
参道の両脇には紫陽花が咲き乱れ、青、紫、薄紅が風に揺れていた。
雨上がりの空気が清らかで、呼吸するたびに胸の奥まで洗われるようだった。
池のほとりでは、花々が水面に映り込み、まるで絵画のような光景が広がる。
「きれいだ……」
思わずこぼれた言葉に、茉凜は嬉しそうに頷く。
その顔を見ているだけで、頬が自然に緩んでしまう。
心が溶ける。罪悪感さえ、少しだけ遠のく。
「ね、来てよかったでしょ?」
無邪気な笑顔がまぶしくて、私は視線を逸らす。
閉ざしていた心に、彼女が光を射し込む。
「あ、写真撮ろ!」
突然の声に振り返る間もなく、スマホのレンズが向けられた。
「おい、待て――!」
シャッター音。
画面には、目を閉じて気まずそうにしている私と、楽しそうに笑う彼女。
その落差があまりにも可笑しくて、彼女は声を上げて笑った。
「いいじゃない、その顔。最高だよ」
頬が熱くなる。恥ずかしさと、それでも胸の奥がほんのり温かい。
彼女の笑い声が風に溶けて、花々の間を渡っていく。
雨上がりの光が、二人の影をやわらかく重ねた。
紫陽花の香りと、彼女の笑顔。
そのすべてが、私の中の氷を少しずつ溶かしていった。




