始まりの回廊の巫女
虎洞寺の叔父様に背を向けたとき、わたしの足取りに迷いはなかった。上帳の要求は、やがて柚羽家存続のため、わたしと弓鶴のどちらかを「差し出せ」という形で届く。その予感はもはや憶測ではなく、腹の底に沈潜した、冷たい確信だった。
叔父様もまた、思い悩んでいるようだった。たとえ彼がわたしをこの屋敷に匿い続け、波風を立てぬ道を模索したとしても、わたしに逃げ隠れるつもりはない。柚羽の後継者として、責務を担う。幼い頃の甘美な記憶に蓋をして、わたしは己にそう言い聞かせた。たとえそれが傀儡の当主という、名ばかりの座であろうとも。
弓鶴だけは、救わなければならなかった。
始まりの回廊で根源の声を聴けなかった「無資格者」として報告し、彼を選抜の対象から外す。それは郭外で功績を上げた叔父様だからこそ可能な、裏からの手引き。深淵の血族の名簿を管理する彼にとって、記録を一枚書き換えることなど、朝露を払うより容易い。そうして弓鶴を、この死に満ちた因習から完全に切り離したかった。
幸い、弓鶴は事件当時の記憶を曖昧なままにしている。両親の死さえ、まだ実感には至っていないようだった。その茫漠とした瞳を思うと、爪が掌に食い込む。彼が何も知らず、宿命の渦に呑まれることなく、静かな日々へ戻れるのなら――ただ、それだけを祈った。
屋敷を去る朝、まだ眠っている弓鶴の枕元に膝をついた。その穏やかな寝息を聞きながら、わたしは彼の頬にそっと触れる。
「……お姉ちゃん、がんばるから。あなたは、幸せになるのよ」
喉の奥が焼けるように熱かった。その痛みに耐え、わたしは上帳の言いなりとなる道を選ぶ。山深く佇む柚羽の家へ、虚ろな舞台へと、戻るために。
ただ一人、幼い頃から世話をしてくれている佐藤さんだけが、付き従ってくれた。彼女が肩越しに向けた淡い微笑みが、荒れ果てた心に微かな温もりを灯す。
帰り着いた屋敷に、往時の幸福はひとかけらも残されていなかった。ひどく冷えた空気が、わたしを迎える。かつて宴の音が響いた広間も、花々の香りに満ちた庭も、今は色褪せた影絵のように沈黙していた。その静寂の中、わたしは重い決断を奥歯で噛みしめながら、軋む廊下を歩んだ。
◇◇◇
こうして、わたしの「深淵の巫女」としての生活が始まった。だが、その立場が見せかけに過ぎないことを、初日から嫌というほど思い知らされる。日々の勤めは、古文書の管理と、時折、血族の子供たちを「始まりの回廊」へ案内することだけ。
回廊で、わたしは母から受け継いだ舞を捧げ、根源の欠片を呼び覚ます。幼子たちはその声を受け、判定を下される。声を聴けなかった子供は、無残にも郭外へ追いやられ、「力なき者」として朽ちていく。
では、声を聴けた者が幸せかといえば、決してそうではない。
その先には、血と苛烈な修業が待ち受ける。術者たちは心をすり減らし、暗殺者として陰に生きる。深淵の力とは、他者の命を断ち切ることでしか、己の存在を証明できなくなる呪いにも似ていた。
書庫の片隅で古文書をめくるたび、彼らの殺しの手口が生々しく目に飛び込んでくる。人混みに紛れ、すれ違う刹那、標的の体内へ極小の歪んだ領域――「場裏」を滑り込ませ、内側から生命そのものを断ち切る。残るのは原因不明の突然死。検視官の目には、何の痕跡も映らない。
それは三つの家名――大気を操る「白」の柚羽、熱を操る「赤」の真坂、水を操る「青」の鳴海沢――に伝わる、あまりに静かで、残酷な技だった。
殺しが日常と化す中で、命の重みは希薄になる。心は熱を失い、麻痺した意識が暗い膜で覆われていく。彼らはその道を選んだのか、選ばざるを得なかったのか。いずれにせよ、その宿命は魂を静かに浸食していく。
わたしは目を伏せ、その重い現実を淡々と受け止めていた。巫女という形式的な役割の背後に、底知れぬ闇が広がっている。
血族の子供たちを導くたび、わたしは微かに唇を噛み締めた。彼らは無邪気な笑顔のまま、その先がいかに過酷な道であるかも知らずに歩いていく。わたしが差し示すこの道が、悲痛な未来へ通じていることを知るのは、この場にただ一人。
深く沈む無力感に視線を落としながら、わたしは微笑みの仮面を張り付け、その務めを果たし続けた。その苦い矛盾を、ただ息を殺して飲み下して。
◇◇◇
それでも私は動き始めた。計画を完遂するために、静かに、確実に。
両親が残した資料と叔父様が与えてくれた情報を糸口に、私は始まりの回廊へと足を運んだ。根源の欠片との対話を重ねていく。そこでは解呪に求められる特別な要素や過程が、秘めやかな囁きのように紡がれていた。
ひとつ呼吸を置き、私は精霊子の器としての内側を育てるように、慎重に己を広げていく。あまりに急な拡張は、私自身を食い潰す刃となると知っていたから。
八年という時が流れ、私の内なる器は完成形に近づいていた。だが弓鶴と異なり、私は「完全な黒」にはなり得ない。すべてを呑み込むほどの容量は持ち合わせていなかった。
根源は、そんな事態を予期していたのだろう。私の肉体に、淡く不穏な変質が広がり始める。遺伝子へと仕組まれた深い介入によって、受容結晶体とも呼べる異物が臓府や組織の奥で増殖していく。それはまるで、闇のほとりで咲く忌わしい花のように、ひっそりと私を内側から蝕んだ。
その変質がもたらす苦痛に、息が詰まる。不意に視界が赤く滲み、日常の何気ない動作すら困難になるほど身体が悲鳴をあげた。立ち上がるたび、呼吸をするたび、内側で異物たちがひび割れるように鳴る。
幾度となく膝が折れそうになりながら、それでも私は諦めることを拒んだ。叔父様を介して手に入れた鎮痛薬――ほとんど麻薬に近いそれだけが、私を支える朽ちかけた柱だった。痛みは意識を回転させ、薄暗い迷路をさまよわせる。だが、私の中にある信念の核が揺らぐことはなかった。
いかに肉体が苦痛に喘ごうとも、私の瞳から光は消えない。未来のために、立ち止まることは許されない。深淵の暗がりに光の筋を差し込むため、私は歯を食いしばって歩む。
運命という歯車をこの手で引き抜くために、私はただ、己を燃やし続けるしかない。その決意が、炎のような灯火となり、私の暗い道をかすかに照らしていた。