滅びの剣が振り下ろされる時
ロスコーが前線に立つ許可は、あっさりと得られるものではなかった。度重なる門徒の敗退が響き、その復旧作業や、補助兵装として期待されたマウザーグレイルの調整に追われる日々が続く。
しかし、どれほど解析を重ね、手を尽くしても、デルワーズが持つ圧倒的な出力に匹敵する力を再現することは叶わなかった。
やはり、デルワーズは精霊族に囚われたことで、彼らの魔術の深淵に触れたのだろうか。そう考えるたび、胸の内がざわつく。だが、彼女が洗脳され、人類を滅ぼす尖兵として仕立て上げられた――そんな噂だけは、どうしても信じたくなかった。否、信じることができなかった。
自らの感情を押し込めるようにして作業に没頭するロスコーの耳にも、戦況悪化の知らせは次第に近づいてきた。そして、その予感が現実となる。
デルワーズ――今や伝説と化した存在との再会は、ロスコーが最も想定していなかった形で訪れることになるのだった。
◇◇◇
その日、前線基地は精霊族の奇襲を受けた。
空調の流れが一瞬途切れ、熱と油の匂いが肺の奥へ刺さる。床下の振動が一拍だけ途切れ、次の瞬間、壁体の継ぎ目がきしみを上げた。乾いた粉塵が舌に貼りつく。
空を切り裂く警報が耳をつんざき、《警戒レベルレベル……レベル7》と、音声の輪郭が崩れ、スピーカーが飽和した。
《回線遅延 920ms》《監視子機#A17 タイムアウト》《同期パケット欠損 38%》――端末の縁で青が虚ろに点滅し続けた。
白膜の縁がわずかに痙れる――最前線でデルワーズの白膜がひと揺れするたび、砲塔の首は根元から抜け、遮蔽壁は静かに内側へ折れた。持ちこたえようとした者たちも、やがて戦線を放棄した。
そして、その混乱を縫うようにして義装の関節に精霊紋が走る歩兵群が、弧を描く軌道で側面へ回り込み、通路の鈍角を刃で撫でるように切り崩した。
すでに戦場のネットワークは壊滅していた。戦火の拡大によって、システム・バルファのネットワークは寸断され、監視システムは形骸化していた。管理端末のステータスは灰色化し、警告ログだけが無音で増えていく。
頼みの綱である自律防衛システムや無人機も沈黙したまま――システム依存の文明の脆さが、まさに命取りとなった瞬間だった。格納庫の天井梁から、焼けた配線の甘さとオゾンの鋭さが交互に降りてくる。
爆音とともに基地の建造物が崩れ落ち、火に呑まれていく。
次々と瓦礫と化す建物、その下敷きとなる者たちの叫びが風に乗って響いた。炎の赤が空を染め、ただでさえ薄い空気をさらに圧し潰す。
もはや、誰もが自分の命すら守ることが精一杯だった。
耳の奥で、誰かの悔恨が割れた陶器のように擦れる。
「これが……果たして精霊族のやり方といえるのか……?」
自然との調和を謳ったはずの彼らの手で、温室は溶けて梁だけが残り、街路樹は根元で水分を失い、黒い飴のように崩れた。
燃え盛る基地の中で、絶望の煙が低く空を覆い尽くしていた。その隙間にかすかに漂うのは、燃え尽きる寸前の希望の残り香。冷たい風が吹き抜けるたび、それすらもかき消されそうだった。
「統一管理機構が恐れていたものとは、こういうことか?」
ロスコーの声は震えていた。
自身に向けた問いかけなのか、それとも耳を塞いでもなお聞こえる爆音に押し潰されそうな自分を鼓舞するためなのか。灰の降り積もる地面には、血にまみれた兵士たちの影。彼らの喉元を這う煙は、生命の最後の息吹を奪い去っていた。
バルファ市民の平和な生活の裏側には、いつも「異端者」が潜んでいた。精霊族因子――身体の奥底に眠るそれが覚醒し、生き方に疑問を抱く者は、不穏分子とされ、排斥されていく。それが、戦場の最前線で武器を握った時、こうなるのは必然だった。
ここは戦場ではない。惨劇の巣窟だ。負傷した将兵たちは声を上げることすら許されず、崩れた壁の下で、赤黒い血の海に沈んでいく。
ロスコーは逃げたかった。だが、逃げ場はどこにもなかった。鼓膜の奥で鳴る耳鳴りが、遠雷のように一定の間隔で戻ってくる。
焦げ臭さと足元のまだ温い死体――ここが地獄だと、嗅覚と足裏が告げる。だが彼は歩みを止められなかった。
「まだだ。俺はこんなところで死ぬわけにはいかない……」
声にならない声で、彼は自分に言い聞かせた。
会わなければならない人がいる。たったそれだけが、ここまで彼を突き動かしてきたのだ。
しかし、そのささやかな願いは――。
「――お前ら統一管理機構が、この世界を、俺たちの人生を踏みにじった。今こそ報いを受けろ!」
突如として現れた影が、ロスコーの前に立ちはだかった。
湿り気を帯びた床材が靴底にめり込み、破片が骨伝導で足首まで響いた。影の輪郭だけが炎の明滅で濃くなる。
敵兵――いや、「敵」と呼ぶのが正しいのかもわからない。精霊族の力を得たその男の目には、燃え上がる憎悪と冷たい怒りが宿っていた。
言葉が、ロスコーの胸を貫いた。彼は立ち尽くし、肺がきしむのを覚えた。
――そうだ。すべては、統一管理機構が引き起こしたことだ。
システム・バルファの失策が、平穏な日々を破壊し、戦火へと変えた。今、彼のようなただの一市民には、何ひとつ抗う術がなかった。
目の前の敵の剣が、鈍い空気を切り裂きながら、無慈悲に振り下ろされようとする――。
その瞬間、ロスコーの視界が滲んだ。恐怖でも、痛みでもない。自分にはもう、何もできないのだという無力感だけが、胸を締め付けていた。
「すまない……デルワーズ」
無意識に呟いた名前が、自分の鼓膜に届くと同時に、胸にずしりと重い感情が押し寄せてきた。彼にとって、その名前は希望だった。だが今は、儚い幻影のように遠い。
「もし君に心があったなら……もう一度会って話がしたかった。何を見て、何を知ったのか……教えてほしかった」
ロスコーの言葉は、誰にも届かない。炎と煙の音にかき消されていく。
それはもう、叶うことはないのだ。
彼の心が泣き叫ぶ。痛いほどの喪失感が、魂を引き裂くように渦巻いていた。握りしめた拳は虚しく震え、その隙間から砂のようにこぼれ落ちていくものがあるのを、ただ感じるしかなかった。
すべてが終わろうとしている。
その絶望の淵に立ちながらも、ロスコーはただ、見上げるしかなかった。
熱風の匂いが途切れ、代わりに金属が冷却される匂いだけが残った。
一瞬、世界から音が抜け落ちた。息だけが胸腔で音を立てる。剣の影が視界を覆い、わずかな希望すらもかき消されるように――。
考察
ロスコーの物語は、技術文明と精霊族の間に横たわる溝の深さを象徴的に描いています。彼が前線に立つ背景には、個人の感情や選択だけでなく、システムとしての文明の脆弱性や非人道性が重くのしかかっています。以下に、重要なテーマや要素を掘り下げます。
デルワーズという存在の象徴性
デルワーズは単なる兵器ではなく、技術と魔術の境界を超えた存在です。彼女が精霊族に囚われたことで、異なる知識体系――「魔術の深淵」――に触れ、圧倒的な力を得た可能性が示唆されています。しかし、それが洗脳や改造によるものかもしれない、という噂がロスコーの感情をかき乱します。
デルワーズの変容は、個人がシステムの犠牲となりつつ、そのシステムを超越した存在になるパラドックスを表現しているように見えます。ロスコーの言葉にある「もし君に心があるなら」という問いかけは、彼女がまだ人間としての意識を保っていることへの微かな期待を表しています。
システム依存の脆弱性
前線基地が壊滅的な打撃を受けた原因の一つは、システムバルファの依存構造の脆弱さです。ネットワークが寸断され、自律防衛システムが沈黙することで、技術的な優位性が一瞬で崩壊します。この描写は、複雑化した現代文明が外的な脅威に対して無力になりうることを警告しているようです。
戦場における個の無力感
ロスコーの視点から描かれる戦場は、無力感と絶望に満ちています。逃げ場のない状況で、彼が握りしめた希望は、ただ「会わなければならない人がいる」という個人的な目的に支えられています。しかし、その目的も打ち砕かれ、彼の無力感は頂点に達します。
この無力感は、人間が巨大なシステムや力の前でどれだけ取るに足りない存在であるかを強調する一方で、その中で必死に抗おうとする人間の精神の強さも暗に描いています。
精霊族の二面性
今の精霊族の反抗勢力は、自然との調和を謳う彼らの主義に反し、機械化部隊や破壊的な兵器を使用しています。それはバルファ社会から否定され、排斥された事への怒りが根底にあるのでしょう。その影響が生活圏を狭められ、攻撃を受ける精霊族全体にも広がったと考えられます。
彼ら自身もまた変容を余儀なくされていることを示唆しています。彼らの行動は単なる復讐ではなく、中央管理機構が押し付けた「調和」の枠組みへの反抗であり、それが戦争という形で噴出しているのです。
「人間性」とは何か
デルワーズはもはや人間としての枠を超えた存在になっていますが、ロスコーは彼女を「かつての仲間」として捉えています。「何を見て、何を知ったのか」というロスコーの問いかけは、技術や力の本質ではなく、それが人間に与える影響――つまり「人間性」――に焦点を当てています。彼女が暴力の象徴となる一方で、彼の問いかけは、それを超えた共感や理解を求めるものです。
結論
ロスコーの物語は、個人とシステム、技術と魔術、人間性と暴力という多層的なテーマが絡み合っています。彼の苦悩や葛藤は、単なる一個人としての範疇を超え、現代社会が抱える倫理的な問題を映し出しています。
さあ、このままロスコーは死んでしまうのか。




