名前で呼ぶまでの距離
茉凜との出会いは、決して平穏ではなかった。
黄昏の公園、深淵の三家「青」の使者――鳴海沢洸人が現れる。冷徹な彼の要求に、私は断固拒否で応じた。だが彼は容赦なく青属性の〈場裏〉を領域解放し、茉凜ごと私を圧倒しようとする。彼女を危険に晒したことで、私の中の「黒」が暴走し、理性も自我も溶けかける。
喉の奥に鉄の味が広がり、耳の内側で低い唸りが膨らんでいく。
怒り、恐怖、そして破滅的な高揚感が混ざり、私は初めて制御不能なほどの黒の力を解放した。視界も意識も失われ、全てを呑み込む深淵に沈みかけた。
◇◇
意識が落ちる直前、虎洞寺氏が【天】を動かし、領域を収めて搬送の段取りを切る気配だけが遠くにあった。
目覚めれば屋敷の一室。虎洞寺氏の言葉で、私は暴走し洸人を殺しかけたと知る。〈場裏〉の扱いすら未熟な私が、本能だけでそれを解き放った――その事実は、自分の中に「怪物」がいるような恐怖を残した。
だが暴走が止まった理由はただ一つ――茉凜だった。領域の外縁が一瞬だけ緩み、彼女はその縫い目へ駆け寄り、抱きしめてくれた。
掌の熱が胸骨に触れ、ほどけた呼吸が肺の奥まで届いていく。
血族でないはずの彼女が〈場裏〉の気配を捉え、私の力を静める。その不思議な力に、私は感謝と同時に複雑な罪悪感を抱く。
茉凜は、深淵の世界に巻き込まれたことを知り、恐怖しながらも毅然と「家族だって、絶対に死なせない」と宣言した。その強さに私は驚く。
虎洞寺氏は彼女の力を“安全弁(安全装置)”として活用する決断を下し、彼女は虎洞寺邸で暮らすことに。だが私は彼女を守るつもりが、結果的に運命の渦へ引き込むことになる。その罪悪感と、彼女の強さへの尊敬が胸で交錯した。
茉凜を守りたい。だが「導き手」であるならば、運命に巻き込むしかない。その覚悟と苦しみの狭間で、私は進むしかなかった。
◇◇◇
こうして私たちは「運命共同体」となった。私は彼女を“安全弁”として割り切ろうと努め、冷たく振る舞う。しかし茉凜は太陽のように屈託なく、毎朝笑顔で挨拶をくれる。その光が心の壁に亀裂を生じさせる。彼女を道具扱いし続けられるのか――その揺らぎに、私は怯えた。
歓迎会のため買い出しに出た帰路、突然、明が現れる。かつての許嫁であり、今や勝ち気で影を帯びた彼女は、強い執着をあらわにして私を連れ出す。明はまず「保護する義務」を口にし、上帳の通達を示したのち、嫉妬の吐露へと傾いた。私は茉凜を守るため、あえて冷酷な言葉で彼女を突き放す。
「加茂野、貴様は俺の道具に過ぎない。道具風情なら持ち主の言うことに黙って従っていろ」
心にもない言葉が茉凜を傷つけた。胸に罪悪感が広がるなか、私は明に連れられ、海沿いの廃ホテルへ。
明は「深淵の黒」を手にした私の危険性と、上帳の抹殺命令を告げ、真坂家へ来て身を守れと懇願する。しかし私は、自分の力で弓鶴を取り戻すと決めていたため応じられない。明は苦悩と嫉妬、家族を巡る血と孤独の過去を吐露する。私には、彼女の痛みに寄り添うことしかできなかった。
そのとき、【天】の導線で茉凜が廃ホテルに現れる。明の殺意が茉凜に向けられ、激しい攻防が始まる。茉凜は常人には回避不可能な攻撃を全てかわし続け、明の「赤」の力までも誘導で外し、最終的に【天】の誘導罠に明を嵌める。
茉凜は怒りに涙を滲ませながら私を叱る。
「柚羽くん、わたしはあなたにとって必要な道具なんでしょ? その道具を忘れていくなんて、この大馬鹿がっ!!」
私は初めて気づく。彼女を必要としているのは自分自身でもあると――。
罠から抜けた明が再び暴走。私は決意を込めて茉凜に問う。
「俺は、黒を使ってあいつを止める。すまないが、手を貸してくれるか……?」
「うん、いいよ……。たとえあなたが暴れたって、わたしが止めてみせる」
指先を重ねた刹那、皮膚を撫でる風がひとつの拍に揃う。
二人で手を取り、黒の力を展開する。深淵の闇を、茉凜の光が貫き、巨大な黒い翼が生まれる。その一体感は、まさに“ふたつで一対のツバサ”だった。
◇◇◇
黒の力が解放される――破壊と恐怖が渦巻くなか、茉凜の手の温もりだけが、闇の底で私をかすかに支えていた。どんなに狂気が迫っても、彼女の存在は、嵐のなかの小さな灯火のようだった。
黒は明の精霊子ごと怒りと狂気を巻き取り、呑み込みかける。私はただ、彼女を傷つけずに済むよう祈るしかなかった。「すべてを呑み込む深淵の黒」――その本質の一端を、私はようやく自分の体で知ることとなる。
「弓鶴くん……あたしから力を奪ったの……? そんなの、ひどいよ。どうして……?」
明の声が闇に消えていく。助けたかったのに、また誰かを苦しめてしまう――その痛みが胸を貫く。明は付き人に連れ去られ、私も茉凜も力尽きて倒れ込んだ。最後に残ったのは、茉凜の温もり――どんなに小さくても、決して消えない光だった。
◇◇
包帯の白が光を弾き、薬草の匂いが薄く残っている。
目覚めると、うたた寝をする茉凜の姿。包帯の白が痛々しい。彼女を守りたい一心だったのに、私は結局また彼女を巻き込んでしまった。
「柚羽くん、わたしの手を取ってくれてありがとうね。嬉しかった……」
穏やかな声に、思わず怒鳴ってしまう。
「なんて無茶なことをしたんだ、お前は!」
「それはお互い様じゃないの? あなただって無謀だったんだから」
自分を責め、彼女を守ろうとした気持ちが空回りしていたと気づく。「これは俺だけの問題だ」と強がるが、彼女は静かに首を振る。
「何言ってるの? もうとっくに巻き込まれてるし、無関係なんかじゃないよ。あなたがあの力を使うことになったら危険なのはわかってる。それを止められるのはわたしだけだって聞いた。道具なんて言われるのは嫌だけど……でも、使えるならちゃんと使って。お互いに生き延びるためには、協力した方がいいに決まってるじゃない。だから――……わたしは、あなたをひとりぼっちにしたくない」
その一言が胸を撃つ。自分一人で背負うのではなく、共に生きる選択を――彼女はもう、ただの“安全弁”ではなかった。
「……そうだな、確かにお前の言う通りだ。どうやら俺には、お前が必要らしい……」
「じゃあ、これからは一緒にがんばっていこうよ。ね、相棒?」
「相棒」という言葉に、胸がふっと軽くなった。どんな困難も、これからは二人で乗り越えていける。彼女の存在が、私にとって新しい「生きる理由」になり始めていた。
その一方で、明の猛攻をどうして茉凜が避けられたのか――その謎だけが心に残る。彼女は「見え方が変になる」と曖昧に語るが、いまはその力の正体を問うより、ただこの新たな絆を信じて歩き出すしかなかった。
こうして私たちは、初めて「相棒」として、未知の未来へと踏み出した。
◇◇◇
明との一件を境に、私と茉凜は自然と名前で呼び合うようになった。その変化はさりげなく、けれど胸の奥に波紋を広げていった。彼女の優しさは、私の心の氷を静かに溶かしていく。それが心地よい一方で、受け入れてしまえば自分が変わってしまいそうな不安もあった。
四月、新たな学園生活。私たちは翡創学園の一年生に留年として編入した。同じ校舎にいるのが妙に落ち着かず、私は「学校では俺に近づくな」と突き放す。不器用な自己防衛だったが、茉凜は気にせず、私を強引に引っ張り校舎へと導く。
茉凜の行動は周囲の注目を集めた。私は影のように彼女の光を受けて立つしかなかった。「だから面倒なことになるんだ」と呟いても、彼女は「気にしない」と笑う。そのたびに、心の壁に小さな亀裂が増えていった。
やがて、虎洞寺邸での同居が校内に広まり、噂と視線が降り注ぐ。ある昼休み、茉凜が弁当を差し出してくる。周囲の目が痛く、私は衝動的に弁当箱を払ってしまった。教室が静まり返り、彼女の悲しい表情が胸に突き刺さる。耐えきれず教室を飛び出した。
屋上で自問自答する私に、かつての友人・灯子が現れる。
「あなたって、本当に変わってしまったのね。人の気持ちがわからないのは、あなたの方じゃないの? 理由はどうあれ、彼女にあやまりなさいよ」と静かに告げられた。
昼休みの終わり、廊下で茉凜と鉢合わせる。私は小さく「すまなかった……」とだけ告げる。彼女は驚いた後、ふわりと優しく笑った。
「ううん、全然気にしてないよ。でも、いつもお昼を食べてないみたいだから…。相棒の健康管理は大切でしょ?」
その言葉に、私は初めて真正面から「……心配かけてすまない。これからはちゃんと食べるようにする」と返した。茉凜の無邪気な笑顔が、凍てついた内側に春の光を差す。
私は確かに、彼女の優しさによって、ゆっくりと変わり始めていた。胸の奥で静かに何かがほころび、その雫がやがて新しい花を咲かせる予感がした。
◇◇◇
あの出来事以来、私たちは自然に名前で呼び合うようになった。茉凜が「その方が気楽だからさ」と微笑んだとき、私はただ頷くしかなかった。冷静を装っても、彼女の言葉には、どこか心がざわめく温度があった。
どれだけ冷淡に応じても、茉凜は飄々と笑い、何気ない日常の話題を明るく投げかけてくる。その無防備な優しさや笑顔に触れるたび、胸の奥がぽかぽかと温まっていく。
――これが「普通の子」の感覚なのか、
と不意に思う。私はずっと人と深く関わらず、世間知らずのまま生きてきた。だから、茉凜の存在は新鮮で、一言ごとに小さな波紋が広がる。彼女といると、不思議なほど心が軽くなるのだった。
ある日、思い切って尋ねた。
「どうして、俺なんかのために世話を焼いてくれるんだ? 得することなんてひとつもないのに」
茉凜は少し考え込んでから、無邪気な笑顔を浮かべた。
「うーん、なんでだろう?」
本当に理由など気にしたことがないような、そのまっすぐな返事に言葉を失う。
「何か理由があるだろう?」
「どうかな? でも、同じお屋敷に住んで、同じ学校に通ってるんだもの。それなりに仲良くしたいって思うのは、当たり前じゃない? 損するとか得するとか、そんなの気にしてないよ」
「俺はただ必要に迫られて一緒にいるだけだ。それ以外に理由なんてない」
そう言うと、茉凜は首をかしげ、笑顔のまま返してきた。
「そう? でも、相棒なんだから、良好な関係を築くことは大切でしょ。信頼関係ってやつ?」
その言葉は透明な水のように、静かに心へ染み込む。その純粋さと優しさが、守ってきた殻の隙間から柔らかな光となって射し込んできた。私はただ、何も言わず、その心地よい変化を受け入れるしかなかった。




