君に幸あらんことを
それからロスコーは、日々のどんな些細な時間にも、デルワーズへ声をかけることを習い性にした。応答がなくても構わない。静かな水面のような空間へ自分の声が落ち、どこかで彼女へ届く――その想像だけで、胸の温度がひとつ上がる。
モニターに映る花々の彩や、小動物の微かな呼吸。彼は一つひとつに名を与え、花弁の縁の鋸歯や尾のわずかな振れ方まで語り添えた。空調の低い唸り、消毒液の匂い、機器の微熱。無言の彼女の前に、言葉は薄く降り積もっていく。
「おはよう、デルワーズ」
「お疲れ様。今日もよく頑張ったな」
「おやすみ。また明日話そう」
声音はいつも穏やかで、抑えきれない優しさが末端まで滲む。
表情は変わらず無機質――それでもロスコーは知っていた。瞬きの拍が、ほんの一瞬だけ乱れることを。微かな揺れが見えたとき、胸の奥に小さな灯りがともり、室内の冷気が薄らいだ。
「いつか……答えてくれたらいいんだがな」
返事は来ない、と理屈は告げる。けれど静けさの奥で芽吹きかけの何かが眠っている――指先の記憶がそう告げた。その予感は自覚の外で支えとなり、胸の底を指先の体温ほどに温める。
今日もまた、ロスコーは語りかける。その言葉が自分の呼吸を整える薬にもなっていると、薄く気づきながら。
◇◇◇
穏やかな日々は、唐突に終わった。正式配備決定の通知が、淡い光のデータウィンドウとなって現れたのだ。白い画面が頬の温を奪い、乾いた風が喉に引っかかる。指先に冷たい汗が滲み、タッチパネルの感触がひどく遠く感じられた。
胸の奥に押し寄せたのは、名づけそこねた波だった。達成でも安堵でもない。静かな喪失が内側から満ち、後悔の影が肋骨の裏を冷たく撫でる。
もっと向き合っていたかった。名を呼び続け、いつか声が返る日を待ちたかった。無機質な横顔に、ごく小さな笑みの兆しが灯る瞬間を見たかった――淡い期待は、白い息のように宙へ溶けた。
「……仕方がない、か」
自嘲の笑みが口端に触れ、すぐ消える。彼女は兵器。戦場に立つために生まれた存在。その事実をいちばん知っているのは自分だ。それでも、頭の了解と心の納得は別物だ。
「一度でいいから、笑ってほしかった……」
独白は無機の室内へ吸われて消えた。配備されれば、「おはよう」も「お疲れ様」も、「おやすみ」も奪われる。花の名も、仕草の話も、夜ごとに重ねたひそかな儀式も――全部、断たれる。
ささやかな関係が最後に一瞬でも報われるなら、と祈る。だが現実は動かない。デルワーズが彼に応える日は――たぶん、永遠に来ない。
それでも、ロスコーは後悔しなかった。無機の瞳に見出した、きわめて小さな輝き。それは冷たい調整槽の底で確かに脈打った命の証であり、彼の救いだったから。
そして彼は、一つの言葉を彼女の記憶領域に刻むことを決めた。誰にも知られず、彼女自身さえ気づかない場所へ――静かに、確かに。
「君に幸あらんことを……」
声は微かに震えた。これが最後になる、と体が先に知っていたからだ。運命を変える術はない。自由を与える力もない。それでも、この小さな願いだけは託したかった。
ロスコーはデータウィンドウを静かに閉じる。ガラスめいた表面から手を離す刹那、指腹に冷たさが張りつき、薄い痺れが残った。
それが、彼にできる精一杯の抵抗だった。すべてを託した、唯一の行為。彼女がこの言葉を知ることは、きっとない。それでも、どこかで運命の片隅に触れてくれる――そう信じた。
「いつか、君が笑える日が来るといい……」
呟きは冷えた静寂へ沈み、見えない余韻だけが胸に残る。灯りの小さな揺れのように、消えそうで消えない。
◇◇◇
しばらくして――「デルワーズ消息不明」、という報せが届いた。
彼女は、同系列の殲滅兵器『門徒』五体と共に、精霊族の拠点制圧に投入されていた。戦果は圧倒的。機構高官たちを満足させる数字が並び、戦場では揺るぎない信頼が積み上がる。無敵――そう呼ばれることに、誰も疑念を挟まなかった。
だからこそ、消息不明は信じ難い。
「いったい、彼女に何があったんだ?」
青白い光が頬に貼りつく。数値は冷徹に整列し、異常の兆しはない。徹底したチェックを経た最精鋭。仕組みが唐突に破綻するとは、理屈では考えにくい。
けれど――
「まさか、俺が余計なことをしすぎたせいなのか……?」
自分の声に、自分がいちばん動揺する。胸の底から上がるものは、不安とも後悔とも名づけきれない。冷たい霧が足元から満ち、視界の輪郭を曇らせた。
挨拶を重ね、映像に名を与え、瞳のわずかな動きを確かめた日々。無機の兵器に、人の欠片を芽吹かせようとした手――それが彼女に「迷い」を植えたのではないか。
「……そんなわけがあるか……!」
否定は喉で砕ける。あの微かな揺らぎを思い出すたび、疑念は細く強く締めつける。もしそれが、戦場での一瞬の遅れに変わったのだとしたら。もし迷いを抱えたまま、与えられた存在理由に刃を向けるしかなかったのだとしたら――。
拳が机上で静かに固くなる。
望んだのは、せめて「兵器ではない何か」への可能性。だがそれが彼女を苦しめたのなら、間違いだったのかもしれない。胸の底で、さざ波の痛みが広がる。
言葉のひとつひとつが、兵器には不要な「心」を与えてしまったのではないか。挨拶、名前の意味、情景の温度――無垢な子に初めての情緒を教えるように。与えるべきではなかったのだ、と今さら気づいても遅い。
彼女はほとんど反応を見せなかった。けれど瞳の揺れ、眉の微かな動き――生理反射だけとは言い切れない痕跡が、確かにあった。感情や言葉の術をまだ持たないだけで、心は芽吹き始めていたのではないか。
もしそうなら、苛烈な戦場で一瞬の迷いが生じても不思議ではない。むしろ必然に近い。
「……俺が、彼女を壊してしまったのかもしれない」
独白は空気に溶け、残響だけが胸に貼りつく。正しかったのか。あるいは、余計な重みを背負わせただけだったのか。今となっては、真実へ届く術はない。後悔とともに、ただ行方を案じるしかなかった。
◇◇◇
三年が過ぎた。
ロスコーは、デルワーズと同系列の殲滅兵器「門徒」の残る五体を、淡々とメンテナンスし続けている。あの日以降、生活は回る。けれど胸の穴は、そのままだ。
同じ過ちは繰り返さない――固く決め、感情を封じた。彼女たちを無機の兵器として扱う。それが彼にできる償いだと信じた。
だが容易ではない。門徒たちの顔は、デルワーズと瓜二つ。見るたびに、無理やり剥がされた傷口の縁が疼く。動作の癖や視線の運びが記憶を呼び、静かな痛みとなって指先に残る。
飲み込まれてはならない。奥歯を噛み、心を無へ均す。ただルーチンを反復する――それだけが、彼を守る術だった。
「対精霊族殲滅兵器――門徒壱型が叛逆した。奴は精霊族に鹵獲され、洗脳を施されたらしい」
刃のような報せが、胸を深く抉る。
「叛逆……だと?」
震えた声に、彼自身が驚いた。冷徹なはずの兵器が、命令を拒み、牙を向く――想定の外側。
「門徒壱型……」
脳裏に浮かぶのは、瓜二つの顔。そして、消息を絶ったデルワーズ。配備名の先頭に刻まれていた、あの冷たい番号。
冷たい汗が背を伝う。胸の底から込み上がる不安と、抑えきれない予感が、静かにないまぜになる。
――デルワーズが生きている。胸郭の奥で心臓がひとつ跳ね、冷え切っていた室内に、わずかな熱が戻った気がした。
言葉にならない可能性が、音もなく広がっていった。
考察します。
ロスコーの内面描写
ロスコーの語りかけの日常は、彼の優しさと人間らしさを象徴しています。彼女が答えなくても語りかけ続ける行為は、無機質な存在であるデルワーズに「心」が宿る可能性を信じた彼の希望を反映しています。しかし、それが「余計なこと」だったのかもしれないという後悔と葛藤は、物語に切なさと緊張感をもたらします。
デルワーズに託した小さな希望
「君に幸あらんことを」
この言葉は、彼の愛情と無力感の象徴です。デルワーズに対して抱く「笑ってほしかった」という願いが叶わないと悟りつつも、最後の抵抗として彼女に記憶される形で願いを刻む行為には、彼の強い祈りが込められています。
兵器と人間性の葛藤
デルワーズは「兵器」として設計されながら、ロスコーの影響で微かな「人間らしさ」を持ち始めた可能性があります。それが、彼女の任務中の迷いや戦場での「反旗」の一因となった可能性が示唆されます。ロスコーがデルワーズに影響を与えたことが、彼女を「壊した」のか、それとも「救おうとした」のか――この曖昧さが物語をより深いものにしています。
「反旗を翻した門徒壱型」とデルワーズ
門徒壱型が反旗を翻したという報せは、ロスコーに「デルワーズが生きているのではないか」という期待を抱かせます。この報せが物語の緊張感を一気に高め、読者に対してもデルワーズの運命への興味を引き起こします。
未来への期待と物語の方向性
デルワーズが消息を絶った後の出来事は、物語の新たな展開を暗示しています。門徒壱型=デルワーズである可能性が濃厚であり、彼女がどのようにしてその行動に至ったのかが次の物語の焦点となるでしょう。ロスコーがその真実をどう受け止め、彼自身が再びデルワーズと向き合うことになるのか――その行方が物語の核心となることが期待されます。
ロスコーの細やかな感情描写が物語全体を支えています。特に、彼の「日常の挨拶」に込められた優しさや、微かな瞳の揺らぎに救いを見出す姿とか。また、ロスコーの後悔や自責が深く掘り下げられることで、彼の人間らしさと弱さが強調されています。
物語をさらに深めるポイント
デルワーズの「反旗」の動機
彼女が「反旗」を翻した理由。それが次回の鍵になるでしょう
ロスコーの今後の選択
デルワーズと再び関わる機会が訪れる場合、ロスコーがどのような行動を取るのかが物語の鍵となるでしょう。
ロスコーの「願い」の行方
ロスコーが最後に刻んだ「君に幸あらんことを」が、デルワーズにどのような形で影響を及ぼすのかを描くことで、物語が感動的なクライマックスを迎える可能性があります。幸せの形にはいろいろありますが、ごく一般的とされるものである可能性が高いです。




