柚羽の家に生まれて
―― これは、私が『ミツル・グロンダイル』になる前の物語 ――
深淵の力を持つ一族、柚羽の家に生まれたことの意味を、当時のわたしは知らなかった。ただ、両親と二つ違いの弟、弓鶴と共に過ごす陽だまりのような日々が、永遠に続くと信じて疑わなかった。
電気と細い電話線だけが文明と繋がる山奥の古い屋敷。そこでわたしたちは、世界の喧騒から守られるように、静かで満ち足りた日常を送っていた。
朝になれば、台所から味噌と炊きたてのご飯の香りが漂う。
「朝ご飯ができたわよ」
母さまの優しい声。裏庭の畑では、父さまが露に濡れた土に触れている。
「お前たちも手伝え」
その無骨な手に似合わぬ優しい眼差しで、わざと厳しい声を出す。
弟の弓鶴は、わたしの袖を小さな手で引っぱった。
「お姉ちゃんも一緒にやって」
鳥のさえずりが朝靄に溶け、木々の葉擦れが子守唄のように響く。その青空の下で過ごした平穏な時間が、どれほど脆く、儚いものだったか。それを知ったのは、わたしがまだ十一歳の時だった。
蝉の声が降り注ぐ夏の日、わたしは弓鶴と川辺で遊んでいた。冷たい流れが脛に絡み、弓鶴は小魚を追って網を振るう。水しぶきが光り、一瞬だけ虹が走った。
「お姉ちゃん、見てて! 今度こそ捕まえるから!」
汗ばんだ弟の背中を見て、わたしは微笑む。
「駄目よ、あんまり騒ぐと逃げられちゃうだけだって」
「いいの。だって楽しいんだもん!」
ほんの些細な会話。それだけで、充分だった。
すぐそこに待ち受ける、運命の影の濃さを知る由もなく。
その日は、何もかもが変わる日だった。
腹の底を揺るがすような、鈍い音が家に響く。喉の奥が凍りつくような感覚に、全身の血の気が引いた。わたしは家へと駆け戻る。心臓が激しく脈打ち、苔むした門をくぐった。
その瞬間、わたしは息を呑む。
生臭い鉄の匂いと、何かを焦がしたような異臭が鼻をついた。息が詰まり、弓鶴の手を無意識に強く握り締める。
「……嘘、でしょ……?」
呟いた言葉が、耳鳴りの中で空虚に響いた。
広間は破壊され、柱は無惨に折れ曲がっている。家そのものが、巨大な獣に蹂躙されたかのようだった。床にはおびただしい血の海が広がり、その上に黒ずくめの男たちが倒れていた。
無残に切り裂かれた手足。苦悶に歪んだ断末魔の表情が、目に焼きつく。胃の腑がせり上がり、吐き気をこらえた。
「なん……で……?」
震える声は、自分のものとは思えなかった。喉がひきつり、言葉にならない。
そして、その血溜まりの真ん中に、弟の弓鶴がひざまずいていた。虚ろな瞳が見つめる先には、変わり果てた両親の姿があった。
耳の奥で、何かが断ち切れる音がした。
鼓動が耳鳴りへ変わり、足元がふらつく。
「父さま……母さま……! うそでしょ、返事してよ!」
届くはずのない声を求め、わたしは叫んだ。弓鶴は地面に膝をついたまま、ぴくりとも動かない。その小さな背中は、魂の抜け殻のようだった。視界が歪むほどの痛みが、わたしを貫いた。
「弓鶴、しっかりして……!」
震える足を引きずり、彼のもとへ近づく。
その背中に、異様なものがあることに気づいた。真っ黒な、塊。
悪意そのものが具現化したかのように、それは不気味に蠢いていた。
「あれ……なに……? 弓鶴、な、なんで……」
背筋に、氷のような冷気が走る。禍々しい圧迫感に体が硬直し、伸ばした指先が震えた。
「弓鶴……?」
返事はない。弟は、何かに取り憑かれたように無表情で、ただ前を見つめている。その瞳はガラス玉のように光を失い、深い闇を湛えていた。
「弓鶴、何か言って……返事してよ……」
言葉は、深い闇に吸い込まれていく。
その瞬間、わたしに湧き上がったのは、恐怖ではなかった。
――この子を守らなければ。
その思いが、わたしを動かした。無意識に弟のそばへ駆け寄り、冷たく硬直した体を抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫だから……」
震える声で、何度も繰り返した。彼の骨ばった感触が、腕に痛いほど伝わってくる。
「お姉ちゃんがいるから……怖くないよ……」
その言葉が届いているのかは、わからなかった。
心臓の鼓動だけが、やたらと大きく聞こえる。頭がくらくらする。両親の姿を見れば、悲鳴がこぼれ落ちそうになる。それでも、弓鶴を抱きしめることで、わたしはどうにか自分を保っていた。
そのとき、お手伝いの佐藤さんが戻ってきた。蒼白な顔で息を切らしながらも、その瞳には強い意志の光が宿っていた。
彼女はすぐさま弓鶴を背負い、わたしの手を引いて森の奥へと走り出した。
「お嬢様、早く……!」
「で、でも……父さまと母さまが……」
佐藤さんは歯を食いしばるように目を背ける。
「今は、生き延びることが大事です、急いで……!」
涙をこらえ、わたしは頷くと、森の闇へ駆け込んだ。
気づけば、倒れた杉の根元に背を預けていた。視界の縁で、朝焼けが滲む。
あてもなく走り続け、たどり着いたのは、ごうごうと音を立てる滝壺の奥にある、暗く冷たい洞窟だった。湿った土と苔の匂いが鼻をつく。どこからか、かすかな声が耳に届いた。
「佐藤さん、ここは……?」
「ここなら外にいるよりは安全だと思って……私もここに入るのは初めてで……」
人の姿は見当たらない。なのに、不思議な囁きが耳を揺らす。風の音のようでもあり、鈴の音のようでもあった。
《《あなたたちには力がある。あなたたちには私の願いをかなえる可能性がある。だから生きなさい》》
その声は恐ろしく、けれどどこか温かかった。
「いま……誰かの声がしましたか?」
佐藤さんがかすれた声で訊ねた。
「いいえ、わたしには何も……」
咄嗟に嘘をついた。なぜか、この声のことは秘密にしなければならない気がしたのだ。
この場所こそが、後に「始まりの回廊」と呼ばれる場所であったことを、わたしはまだ知らなかった。
◇◇◇
その後、わたしたちは叔父である虎洞寺 健に救われた。
海辺の町「石与瀬」にある広大な屋敷。
「よく生きていてくれた……あとは私に任せなさい」
叔父は落ち着いた声で私たちを迎え入れ、温かい部屋を用意してくれた。
「叔父さま……どうしてこんなことに……」
「落ち着きたまえ」
揺らめく炎が壁に影を落とす和室で、彼はわたしの頭をそっと撫でた。
「不安かもしれないが、私は紫鶴の子である君たちを必ず守り抜くと約束する。だから……これから先、どんなことがあっても、決して生きることを諦めてはならない。いいね?」
母さまから、叔父の話を聞いたことはほとんどなかった。
初めて向き合ったとき、その鋭い眼光が心の奥底まで見透かすようで、わたしは思わず身を固くした。
けれど、彼の不器用ながらも必死な態度は、少しずつわたしの警戒心を解いていった。目の奥に隠された深い苦悩。それは、長い間、誰にも言えない重荷を背負ってきた人の影だった。
ソファに座り込んだまま顔を上げられないわたしに、彼が温かい紅茶を差し出す。湯気が立ち上り、微かに甘い香りが漂った。
「飲めるか……? 少しは落ち着くはずだ」
不器用な仕草に戸惑いながら、カップを受け取る。その温かさが、冷え切った指先にじんわりと沁みた。
「……ありがとう、ございます」
「いや……困ったら何でも言ってくれ。私ではなんの頼りにもならないかもしれんが……」
彼は恥ずかしそうに目を逸らし、後頭部の髪をかき上げた。その仕草に、わたしは言いようのない安心感を覚えた。
◇◇◇
山奥の家しか知らなかったわたしにとって、その屋敷は別世界だった。大きな庭、広々とした部屋、そして美しい海。潮の匂いに、血の匂いの記憶がかすかに溶けていく。
「……ここ、すごく大きいね」
縁側から庭を眺めても、弓鶴は無表情のままだった。
あの日以来、彼は言葉をほとんど交わさない。硬い殻に閉じこもってしまったかのように、ただ虚ろな目で遠くを見つめるだけだった。
「弓鶴、今日は少し一緒に散歩しない?」
庭先に連れ出しても、彼は小さく首を振るだけ。肩にそっと手を置くと、あの日の忌まわしい光景が蘇り、息苦しくなる。
あの背中の黒い塊。あれはいったい何だったのか。
――弓鶴の中で、何が起きてるの?
問いは浮かんでも、答えはどこにもなかった。
わたしは、どうしても惨劇の理由を知りたかった。
そのためには、「深淵」と呼ばれるものについて、もっと理解しなければならなかった。
屋敷の書庫に忍び込み、埃っぽい古い本をめくっても、「深淵」が何を示すのかはわからない。異能、呪い、という断片的な単語。まるで、誰かが意図的にその知識を封印したかのようだった。
――知りたい。そうしないと、わたしたち家族が奪われた理由が見えない。
焦燥感だけが膨らみ、眠れない夜が続いた。
だから、わたしは虎洞寺氏に真実を問いただした。
※1 【深淵の根源】
その存在の名は現在秘匿。かつて何らかの理由で私たちの世界に落ちてきた異界の存在。この世界には適応できず、最小単位の精霊子という存在に分解してしまった。すべての元凶。
深淵の根源は、この世界におけるすべての出来事の起点であり、その出現が招いた運命の歯車は今も回り続けている。異世界から転移してきたその存在は、すべての精霊子の起源となり、この世界の法則を歪め、未知の力をもたらした。深淵の根源自体が何であるのか、その姿を知る者は一人もおらず、その名すらも秘匿されている。それが人間の世界に与えた影響は計り知れない。深淵の力の本質を解き明かすことが、この物語の鍵である。
※2 【精霊子】
精霊子という概念は、深淵の血族がつけたもので、とある世界における純粋精霊の残滓。認識できない。
精霊子は、異界から転移してきた存在であり、その正体は人々には到底理解できない。精霊子は純粋な精霊の残滓であり、異界の根源から生まれた力を宿している。しかし、その力を認識し、制御することができる者は極めて限られており、その力を誤用すればすぐに破滅をもたらす。精霊子は、解放と同時に呪縛となり得る力であり、それを宿した者はすべてを呑み込み、世界を変える存在となる。深淵の血族にとって、精霊子を操る力こそが最も重要であり、その使い方によって運命が左右される。
※3 【上帳】
深淵の血族の最高意思決定機関。三家と現役を引退した実力者たちで固められ、決して表には姿を見せず、その正体は一切不明。解呪を望む勢力と現体制の維持に固執する勢力に二分されている。
深淵の血族の中でも、最も強大な力を持つのが「上帳」と呼ばれる意思決定機関である。上帳は三家の血族と、解呪に反対する勢力を取り込んだ実力者たちによって構成され、その存在は秘密裏に運営されている。上帳の正体は一切不明であり、その意思はすべての血族に影響を与える。解呪を望む勢力と、現体制の維持を望む勢力に分かれた上帳の中で、激しい権力闘争が繰り広げられている。解呪の道を目指す者たちにとって、この組織が邪魔な存在であることは明白であり、彼らの計画が成就するためには、上帳の動向に大きな影響を与えなければならない。
※4 深淵の【黒】
すべての精霊子を呑み尽くす器として知られている。この色を持つ者は、精霊子を全て集めることができる唯一の存在であり、深淵の黒は厄災の元凶とも言われ、また一部では希望の象徴ともされている。その存在は、深淵の根源の再生を果たすために不可欠な力であり、深淵の血族にとっては重要な意味を持つ。
【第二章登場キャラクター】
柚羽 美鶴 / 柚羽 弓鶴
物語の主人公。死んだ姉の魂が弟の身体に入っている。
加茂野 茉凜
物語のヒロイン。美鶴(弓鶴)の「相棒」であり、「安全装置」、そして「導き手」マウザーグレイルを宿す存在。
真坂 明
男性のような名だが女性。弓鶴の元許嫁。茉凛への複雑な感情を抱えつつ、後に共闘する仲間となる。
【主要な協力者・関係者】
鳴海沢 洸人
当初は監視役として登場するが、次第に美鶴たちの協力者となる。冷静な術者。
虎洞寺 健
美鶴と弓鶴の叔父(美鶴の母・紫鶴の兄)。郭外組織を率い、水面下で「解呪」を目指す策略家。
佐藤さん
虎洞寺家に仕えるお手伝いさん。美鶴と弓鶴の過去を知る、母親のような存在。
如月 灯子
弓鶴(本来の)の友人。演劇部所属。後に洸人と親密な関係になる。
【敵対者・鍵となる存在】
曽良木 信十郎
美鶴たちと二度にわたり敵対した強力な術者。「掃除屋」としての顔も持つ。
深淵の根源―デルワーズ
異世界から来た精霊器。深淵の血族を生み出した元凶であり、「解呪」の鍵を握る存在。
【その他(登場・言及された人物など)】
藤堂
虎洞寺健の部下。天のリーダーとして警護や作戦指揮に関わる。
新城 聡 医師
虎洞寺健の友人で医師。血族(郭外)であり、美鶴(弓鶴)の診察を担当。
新庄
明に仕える執事。
演劇部員たち
学園祭の演劇に関わった生徒たち(高岸、坂上部長など)。
天のメンバー
虎洞寺健配下の実働部隊。警護や作戦支援を行う。
上帳
深淵の血族を統括する組織。解呪を巡り、強硬派と穏健派が対立している。
美鶴・弓鶴の両親(特に母・紫鶴)
回想や会話の中で、彼らの「解呪」への願いや過去が語られる。