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黒髪のグロンダイル  作者: ひさち
第一章
2/764

魔獣狩りの黒髪のグロンダイル

※本作は、固有名詞の洪水・過剰な描写・遅い展開・長い余韻を意図的に配し、即時快感報酬を求める“なろう系”読者をふるい落とす構造でお送りします。

本作は、辛い現実からの一時逃避や心を潤す娯楽ではありません。「たくさんの人に読んでもらいたい」「自信作です」といった詐欺的な宣伝もいたしません。

あらゆる“受ける”要素を排除し、テンプレの真逆を進み、地雷を乗り越える思考実験として設計された遊戯です。──ここまで読んで理解できたなら、読む必要はないと判断できるはずです。

 これは挑発ではなく、正直に「読む価値がない」「無意味」と思っているからです。

 空の血潮が薔薇からすみれの静脈へと変色する。

 谷間の底で、街は沈黙していた。

 風は氷礫ひょうれきを孕み、〈北壁〉を抜ける。すすけた岩稜に立つ四人の外套を、風が深く煽った。骨身に染みる疲労。道は、ようやく終わろうとしていた。


 先頭はカイル。若き剣士だ。

 鈍色にびいろのフルプレートが大柄な体躯を覆う。背には歴戦の傷跡を刻む大剣。燃える夕陽を浴びた横顔に、静かな達成感が宿る。彼は仲間たちの乱れた歩幅、浅い呼吸を静かに測った。


「みんな、よく踏ん張った」


 カイルの声は、気負いがなく乾いている。甲冑の縁に触れる風が冷たい。


「街に戻ったら俺がおごる。うまい飯とエールで、疲れなんて吹き飛ばそう」


 飾り気のない笑み。背の大剣に刻まれた新たな傷痕だけが、今日の戦闘の激しさを語っていた。


 彼のすぐ後ろに、弓兵のエリスが続く。

 秀麗な眉間に皺を寄せ、矢筒の残り少ない矢羽根を神経質につまんだ。豊かな金色の髪が風にかれ、砂埃を散らす。


「何を言うの。こんな僻地で、まともな食事にありつけるわけがないでしょう?」


 吐き捨てる言葉。だが、その声は疲労で微かに掠れていた。


「……熱い湯浴ゆあみができるなら我慢してあげる。早くこの砂埃を洗い流したいわ」


 その瞳の奥に、温かな休息への抗いがたい渇望が揺れた。


 隣には、若き魔術師フィル。少年と呼んでいい風貌だ。

 彼は上機嫌だった。手に入れたばかりの魔石を夕陽にかざす。魔石の芯が、指先に氷の舌を這わせた。


「今回の収穫は上質だね。当面の活動資金には困らないよ」


 頬に浮かぶ、悪戯っぽい笑み。手の中の輝きは、命を賭した戦利品だ。


 最後尾は、初老の回復術師レルゲン。

 銀白色の髭を揺らし、その足取りは頼りない。それでも仲間が遅れぬよう、必死にしんがりを務めている。乾いた喉をごくりと鳴らした。


「……わしはもう、くたくたじゃ。一刻も早く宿で横になりたい」


 声に、長年の苦労が刻まれている。


「それから、冷えた葡萄酒も一杯やりたいもんじゃ。……年寄りの肝には毒じゃわい」


 四人は、黙々と夕陽に染まる道を進む。

 足元の小石が、からり、と鳴った。

 今日を、生き延びた。その実感を、ゆっくりと噛み締める。岩を踏む靴裏の音だけが、夜の気配を帯び始めた空気に溶けていく。


 生きて帰れる。ただそれだけのことが、こんなにも尊い。

 彼らは温かい食事と柔らかな寝台を思い描いていた。


◇◇◇


 中央大陸の北方、自由辺境都市【エレダン】。

 その名は、過酷な環境と恐怖の象徴。凍える風が吹き、空には鉛色の雲が垂れ込める。街はいつも薄暗い半光の中に沈んでいた。周囲は見渡す限りの不毛な岩地だ。風に身を捩る枯れ木が点在する。


 だが、真の闇をもたらすのは自然ではない。【魔獣】。正体不明の異形の怪物たちだ。

 どこから現れ、なぜ徘徊するのか。理由は誰も知らない。黒紫色の硬い体毛やぬらつく鱗、鋭い牙。世界の悪夢を寄せ集めた冒涜的な姿。獲物と見なせば容赦なく襲いかかり、後には血痕と残骸しか残らない。

 これほどの恐怖が日常にあるにもかかわらず、人の流れは絶えなかった。

 理由は一つ、【魔石】だ。

 

 魔獣の体内にのみ宿る、希少な結晶体。その輝きは魔術の源泉となり、人々の生活を支える。魔石に魅入られた冒険者たちが、血塗られた大地へ足を踏み入れるのだ。

 エレダンは、危険な商いと命懸けの狩りの拠点。大陸中から腕利きが流れ込み、街には独特の熱気と緊張感が渦巻いていた。


◇◇◇


 風が止んだ。

 岩塩の匂いを運んでいた風が、ぴたりと止んだ。

 カイルは足を止め、仲間を振り返る。その瞬間、大地が揺れた。微かに、しかし確実に。

 黄昏の空気が凍る。誰もが息を呑み、荒野の彼方へ視線を送った。


 遠い地平線が、灰色の雲を背に、揺らめいていた。

 黒い巨大な影の波が、こちらへ溢れ出してくる。

 その影は、風を噛む速度で大地を侵食し、不吉な振動が足元から伝わる。影は明確な地鳴りを伴って押し寄せてきた。


「……なんだ、これは……」


 カイルが低く呻く。全身の筋肉が瞬時に強張った。

 本能が告げる。あれは、ただの影ではない。血と肉に飢えた、魔獣の群れだ。


「ま、魔獣…!? こんな数……」


 黒い影は地響きを伴って迫る。

 猛り狂う魔獣どもの、地の底から響く唸り声が空気を濁らせ、耳朶を打った。


「どうして!? ギルドの地図に“湧き場”なんてなかったはずよ!?」


 エリスの声は恐怖に震えていた。無意識に弓を掴む指が白い。


 カイルは仲間たちを見渡す。フィルは魔石を抱えて硬直し、レルゲンは呆然と振り返っている。


「今考えても仕方ない! 走れ!」


 カイルの声が、凍りついた現実へと彼らを叩き戻す。短く、鋭い命令。カイルが弾かれたように走り出すと、三人も我に返って後に続いた。


「くそっ……! 帰り道でこんな目に……!」


 カイルが毒づく。

 装備は限界だ。継ぎ接ぎの革鎧、刃こぼれの剣、残り少ない矢。疲弊しきった彼らは、あまりにも無力だった。

 背後で地響きを立てる魔獣の群れが、砂塵を巻き上げながら迫る。


◇◇◇


「ひっ……! ち、近い…! もう……!」


 エリスが悲鳴を上げ、振り返りかけた刹那。カイルが手を伸ばし、彼女の腕を強く掴んだ。


「見るな! 前だけ見て走れ! 何も考えるな!」


 カイルの声が、熱い呼気と共に響く。


「数が多すぎる! カイル、どうすれば──!」


 フィルの叫びが風に千切れる。レルゲンの足取りは重く、喘ぎ声が痛々しい。


「あっ!?」


 エリスが足元の岩に体勢を崩す。カイルが咄嗟に支えた。その一瞬の遅れが致命的になる。

 耳をつんざく咆哮。地鳴りと共に、背後の影が伸びる。


「走れ……走れっ!」


 カイルがうめく。鉛のように重い脚に最後の力を振り絞り、不毛の大地を駆ける。

 魔獣の黒い波が、今まさに、この小さなパーティーを呑み込もうとしていた。

 砕け散りそうな心を繋ぎ止め、ひたすらに走る。荒い息遣いだけが、風の鳴咽と共に荒野に消えていく。


 冷えきった空気に混ざる咆哮が、じわじわと距離を詰めてくる。

 抗いがたい衝動に駆られ、カイルは足を止め、きびすを返した。

 地平線の向こうまで黒々と滲む影。どこまでも続く、絶望的な数の群れ。


「まずい……! あれは、ダイアーウルフだ!」


 喉から絞り出した声は、錆びた鉄が石を削る響きだった。

 巨大な狼の異形の魔獣。強靭な筋肉、黒光りする硬い毛並み。岩をも砕く牙と爪。

 鋭い咆哮が、雷鳴のように鼓膜を打った。


 カイルは奥歯を噛み締める。


「奴らは足が速い! このままじゃ追いつかれる! ……どこか、隠れる場所は……」


「そんな場所、どこにもないじゃない!」


 エリスが叫び返す。頬は血の気を失い、瞳は逃げ場を探すが、映るのは剥き出しの岩肌と舞う砂粒だけだ。


 深い決意が、カイルの胸の底で形を結んだ。彼は仲間たちを見る。瞳に絶望を浮かべるエリス。蒼白なフィルの顔。額に深い皺を刻むレルゲン。


「……仕方ない。俺が時間を稼ぐ。お前たちはその隙に逃げろ!」


 カイルは刃こぼれの剣の柄を、指の関節が白くなるほど強く握る。彼は決然と仲間に背を向け、迫る魔獣の群れを見据えた。


「カイル! 何言ってるの、絶対にだめよ……!!」


 エリスの悲鳴は、カイルの揺るぎない横顔の前で虚しく消えた。彼女は唇を噛み締め、震える拳を握りしめる。


「カイル……」


 フィルがかすれた声で呼ぶ。レルゲンは息を詰めていた。

 立ち竦む仲間を前に、カイルは片頬を歪め、努めて軽く笑う。


「へへっ、気にするな。この程度で、死んでたまるかよ」


 その冗談が、凍りついた彼らの足を動かす最後のひと押しだった。


「いいから行け! 早く!」


 張り詰めた声が荒野に響く。

 フィルが弾かれたように走り出す。レルゲンがよろめきながら足を踏み出す。エリスも、唇を噛み切りそうなほど締め付け、涙で滲む視界のまま、前だけを見据えて駆けた。


 悲壮な足音が遠ざかっていく。


「死んだら……承知しないからねっ!!」


 風に乗って届いたエリスの声は、ひどく強がっていた。

 カイルはその声が聞こえなくなるまで黙って耳を澄まし、やがて肩をすくめて小さく笑う。


「……当たり前だ」


 小さく呟き、背の大剣の柄を、改めて両手で握りしめる。ずしりとかかる重み。それが、最後の拠り所。


「仲間を守って死ぬ、か。まぁ……こういう終わり方も、悪くはない」


 刹那──

 世界を揺るがす突風と轟音。

 砂塵が竜巻のように舞い上がり、大地が呻いて震える。カイルは反射的に腕で顔を覆った。


◇◇◇


「な、なんだっ!?」


 叫びの先に、信じがたい光景が広がっていた。

 牙を剥こうとしていたダイアーウルフたちが、次々と宙を舞う。黒々とした獣の体が空高く放り投げられ、凶暴な遠吠えは喉の奥で無様に途切れた。


 何が起きた。

 カイルは息を呑み、その光景に釘付けになる。

 混沌のただ中に、ふわりと人影が浮かぶ。

 薄い革鎧。華奢な体つき。一人の少女。

 その小柄なシルエットが、嵐の空気を静かに割って進み出る。長く艶やかな黒髪が、荒れ狂う風に美しく翻った。


「我が器に集え、精霊子せいれいしよ! 来いっ! 黒鶴くろつるっ!!」


 少女の凛とした叫びが、凍てつく空気に清冽せいれつに響く。

 声に応え、彼女の背から夜闇そのものが一対の翼となって音もなく解き放たれた。

 あらゆる光を拒絶する漆黒。羽ばたくたびに、硬質で静かな風が生まれる。羽根の先端に、金と銀の燐光が星屑のように瞬いた。


 カイルは、その光景に目を見開く。

 一歩、少女が大地を踏むたび、黒い翼は周囲に清浄な微粒子を乱舞させた。

 その人間離れした気配に、ダイアーウルフたちは前進を忘れる。低い唸り声を上げ、本能的な恐怖に立ち尽くしていた。


 少女の細くしなやかな指先が、静かに腰の剣へと伸びる。

 瞬間、鞘の刀身が内側からほのかな光を放った。黒ずんだ荒野を射抜く、純白の輝き。

 ロングソードに匹敵する長大な剣。だが少女は、驚くほど軽やかにそれを抜き放つ。


 全ての音が消えた。

 ……


 嵐の荒野。夜闇の翼を広げ、月光の剣を静かに掲げる少女。

 その異様な存在が、カイルの中に激しい奔流を呼び起こした。恐怖か、畏敬か。名状しがたい感情が、肋骨の奥で熱を孕む。

 幻ではない。確かな現実が今、ここで織り成されていた。


 少女が高く掲げた白き剣の光が、荒涼とした大地を切り裂く。

 彼女の一歩が、この荒野の運命を、カイル自身の運命を、根底から塗り替えていく。

 その存在は、絶対的だった。


 カイルの視界に、少女が静かに息を止め、純白の剣を振り上げる姿だけが映る。

 刹那、地を蹴るよりも速く、黒い翼が生む風圧と共に滑るように前へ。

 光の軌跡を残して魔獣の群れへと突っ込む。


場裏じょうり白! 爆裂のブラスト・シールド!」


 確かな力を持つ言葉。

 瞬間、彼女の周囲に、白く輝く微粒子が練り固められた半透明の光球がふわりと浮かぶ。

 カイルは、迫る魔獣の牙を見て叫んだ。


「危ない! 逃げろっ!」


 警告は、風に溶けた。

 鋭い爪を振り上げ少女に襲いかかったダイアーウルフが、彼女に触れる寸前、守護の光球が一斉に震動を始めた。

 次の瞬間、球体が内側から炸裂。

 凄まじい破裂音。山鳴りに匹敵する轟音が荒野に響き渡る。

 衝撃と爆風が、凶暴な魔獣たちを無慈悲に吹き飛ばした。断末魔の叫びが、空に虚しく散る。


 三度目の衝撃波がカイルの膝を揺らした。

 余波の風が砂粒を巻き上げ、惨劇の舞台を白濁した砂嵐へと変える。

 カイルは、ただ呆然と立ち尽くす。

 破壊の中心で、少女は穏やかな呼吸を保ち、瞳には氷のような冷静さを宿していた。

 守護の球体は防御壁ではない。近づく者すべてを粉砕する、攻撃の一撃だったのだ。


 舞い散る砂煙の中、夜闇の翼をゆるやかに揺らし、少女は月光の剣を構えて静かに立つ。

 そのあまりに華奢な姿が、見る者に不思議な安堵と、底知れぬ畏怖をもたらした。


「どうなってるんだ……?」


 低く漏らした声は、自分自身への問い掛けだ。

 背後で、魔術師フィルが眉間に深い皺を寄せ、困惑と共に少女を見つめている。


「……詠唱も魔法陣もなしに、これほどの……? 法則から外れている……」


 フィルの声は掠れ、学究的な好奇心が恐怖を上回り始めていた。


 突如、少女が動きを止め、冷ややかに背後を振り返る。

 澄んだ瞳には、薄氷のような冷たさ。


「あなたたち、いつまでそこにいるつもり? こいつらは私が片付ける。とっとと下がって!」


 五十を超えるダイアーウルフの群れを、一人で? 正気の沙汰ではない。


「馬鹿を言うな! これだけの数を一人でなんて、無理に決まってる!」


 カイルは叫ぶように警告する。

 だが、少女は意に介さない。鋭く、冷たく吐き捨てる。


「いいから、下がってと言っているの。この場は私に任せなさい!」


 苛立ちを隠さぬ声音。有無を言わせぬ力が、退却を余儀なくさせる。


「だ、だいたい、そんな剣一本で、どうやって……!?」


 カイルの戸惑いの声に、少女は心底不機嫌そうに、じろりとした視線を返す。

 その瞳には、道理の分からぬ子供をたしなめるような、冷ややかな軽蔑の色があった。


「“そんな剣”ですって…? ……まあ、いいわ。あなたたちがいたら邪魔なの。巻き込まれたくなかったら、さっさと行きなさい!」


 言葉は残酷なまでに明快だった。

 氷の針のような苛立ちが、カイルたちの心を突き刺す。

 カイルは完全に圧され、何も言い返せない。エリスもフィルもレルゲンも、息を呑み、肩を強張らせている。

 カイルは、悔しさに奥歯を強く噛み締め、踵を返し、走り出すほかなかった。


◇◇◇


 彼らの背中を、少女の冷たい瞳が静かに見送っていた。

 やがてその姿が霞の中に消えるのを見届け、少女はふっと息を吐く。唇の端がわずかに持ち上がり、不敵で妖しい笑みを浮かべた。

 

 彼女は再び剣を両手で構え直す。

 極限の緊張感と、揺るぎない自信を纏う。月光を宿す刀身が淡く輝き、少女の決意を静かに反射した。


 ダイアーウルフたちは動きを止め、目の前の小さな存在を固唾を飲んで見据える。黒く濁った瞳の底に、確かな畏怖の色が滲んだ。


 張り詰めた静寂。それを破るように、少女は手に持つ剣へと囁きかける。

 その声音は柔らかく、しかし決して砕けぬ意思を封じ込めていた。


「さてと。邪魔はいなくなったし、そろそろ本気でやっちゃおうか、茉凜まりん

 ……え? あ、そうか。うん、確かに。先に一箇所に纏めた方が、効率はいいかもね」


 白き剣が何かを囁き返し、彼女が同意したかのような、不思議なひとり対話。

 続いて、少女は白き剣を天高く掲げ、荒野に向けて凛とした声を張り上げる。


「場裏白、風嵐のトルネード・バインド!」


 言葉が紡がれた瞬間、空気の密度が変わった。

 ダイアーウルフたちは、一斉に、白く輝く透明なドーム状の檻に囚われ、動きを封じられる。

 檻の中では、目に見えない風が荒れ狂い、無数の鞭のように彼らを翻弄した。断末魔の吠え声と苦痛の呻きがドーム内部で不気味に反響する。


 遠巻きに見ていたカイルたちは、息を呑んだ。

 世界の法則そのものを書き換える、異質な存在。彼らは、その悪夢のような一幕を目に焼き付けるしかできなかった。


「ほら、お前たち、おとなしくそこに集まれ」


 少女の冷ややかな、しかし楽しげな声が空気を切り裂く。

 刹那、ドームに閉じ込められたダイアーウルフたちは、荒れ狂う不可視の力に操られ、互いを踏みつけ合いながら、狭い空間の一箇所へと無様に寄せ集められていった。

 あれほど凶暴に吠え猛っていた彼らの尊厳が、完全に踏みにじられる。

 カイルたちは、ただ唖然として立ち尽くすしかなかった。


 この少女は、一体何者なのか。

 答えの出ない問いが、荒野を吹き抜ける冷たい風と共に胸をかき乱す。

 ゴミの山のように積み上げられたダイアーウルフたち。


 少女は、月光を宿す剣の切っ先を、静かに、有無を言わせぬ威厳をもってすっと向けた。

 その頬は、ほんのりと上気している。瞳の奥には、どこまでも冷徹で、燃えるような光が宿っていた。

 唇に浮かぶのは、薄く残酷な微笑。

 肌を焼くような熱気が走る。


「場裏赤、焦炎スコーチング・ブレイズ!」


 声が響くと同時に、ドームの内部で凄まじい爆炎が渦を巻き、天へと昇った。

 紅蓮の火柱が内側で猛り狂う。囚われた魔獣たちの絶叫と、肉が焼け焦げる鼻を突く臭いが、空気を一瞬にして満たした。


 目を覆いたくなるほどに残酷な地獄絵図。

 だが、その凄惨な炎は、ドームを形作る光の膜の外へは一歩も漏れ出さない。すべての苦痛と破壊が、少女の意志が定めた結界の中に凝縮され、封じ込められていた。


 カイルの視界には、燃え盛る炎を見つめる少女の横顔だけが映っていた。

 その美しい顔立ちは、遠い世界の出来事を見るように、静かに澄み切っている。時折吹く風が、彼女の長い黒髪を優雅に揺らした。

 炎の奔流がすぐ目の前で猛威を振るう中、彼女だけが時間の流れから切り離され、泰然と白き剣を構えて立っている。


 カイルたちは、言葉を失っていた。

 ここは血と暴力で生存を賭ける、残酷な荒野だったはずだ。

 それが今、目の前では、世界の理から外れた少女が、理不尽な力でこの場の秩序を創り変えている。

 恐怖か、畏敬か。定めようのない感情が、彼らの胸に鉛のように重く拡がった。


「……まじかよ……」


 カイルは、乾ききった虚ろな声を漏らす。

 荒野に木霊する断末魔の叫び。その残酷な音が、鼓膜に突き刺さる。

 やがて風が惨劇の痕跡を砂で覆い始めたが、辺りにはまだ、肉が焼け焦げる生臭い臭いが残り、焼き尽くされた大地が生々しい傷跡を晒していた。


「これは、ただの魔術じゃないよ……。詠唱もなしに、異なる属性の力を、こうも自在に……ありえない……」


 フィルは大きく目を見開き、遠くに立つ少女の姿を凝視する。


「既存の魔術体系じゃ説明がつかない……これは法則から外れた、別の体系だ」


 魔術師としての探求心に火が付いたように、彼は呟いた。


 ドーム内部で燃え盛っていた炎が、今はまばらな赤い残滓を残し、静かに消えていく。

 中心で溶け落ちたダイアーウルフの群れは、もはや元の形を留めず、黒く焼け爛れた焦土と化していた。


 少女はその結果から一瞬も目を背けず、自らの作品を検分するように、悠然と観察している。その唇にごくかすかな、見る者をぞっとさせる妖しい笑みが浮かんだ。

 焼き尽くされ、動くもの一つない残骸。背後に広がる不気味な静寂。


 その中で、少女の存在は、息を呑むほど異彩を放っていた。

 冷たく艶めく黒髪。夜闇の翼。雪片の刃を思わせる白き剣。そして、地獄絵図を前に微動だにしない、氷の冷徹さ。


「これで、終わりっ……と」


 少女が、芝居の終幕を告げるように淡々と放った言葉が、風に散る。

 あまりにあっけない響きが、カイルたちの耳に奇妙な余韻を残した。

 遠く、西の空にかすかに残る夕暮れの光が、荒野を弱々しく照らす。

 その中で、少女の小さな影は、見る者に戦慄を覚えさせる漆黒のシルエットとして際立っていた。


 火蓋は、落ちた。


◇◇◇


 すべてが終わり、戦いの残響が静寂に溶けこんだ頃。

 謎めいた少女が、ゆっくりとカイルたちへ近づいてきた。

 先ほどまでその背にあった荘厳な黒い翼は、今は影も形もない。彼女は穏やかで儚げな姿へと戻っていた。

 猛々しい破壊の力を振るった戦士と、今目の前にいる、触れれば壊れそうなほど繊細な少女が、同一人物とは信じがたい。

 彼女の顔立ちは驚くほど柔らかく、その表情に血と恐怖の気配は一片もなかった。

 一瞬前までの鬼気迫る殺意は消え去り、今はただ、神聖ささえ感じさせる美しさと、可憐さだけがその身に宿っている。


 剣先から放たれていた冷徹な光は、完全に消えていた。

 少女の薄緑色の瞳は、春の若草が萌え出る泉のように深く、穏やかに澄んでいる。艶やかで長い黒髪は、夕暮れの淡い光を受けて静かに揺らめいた。

 形の良い唇は穏やかな弧を描き、その温かさが周囲へと広がる。まだ幼さを残す小さな顔。うっすらと桃色を帯びた白い頬は、内気な少女のはにかみのようだ。長いまつげが伏せられるたびに、その影がそっと頬をかすめ、見つめる者の心を和ませていく。


「……みんな、大丈夫そうでよかった」


 囁くような声だったが、そこには春の微風のような温もりと、心からの安堵が滲んでいた。


 その声を聞いた瞬間、カイルたちの体から、こわばっていた恐怖と緊張がゆっくりと溶けていく。

 凄惨な戦場を一人で駆け抜けた同じ人物が、今はこんなにも穏やかで、守りたくなるほど愛らしい。

 彼女がそこに立つだけで、荒れ果てたこの場所に清浄な命の気配が芽生える。


「あ、ああ……。おかげで助かった。本当に、ありがとう」


 カイルは心の混乱を拭えないまま、精一杯の感謝を込めて礼を述べた。声はまだ少し震えている。


 少女は、それに応えてふわりと柔らかな笑みを返した。


「ううん、気にしないで。当然のことをしただけよ」


 その含みのある言葉に、白髪まじりの髭を撫でながら、レルゲンが静かに問いかける。


「お嬢さん……いや、お主、もしや巷で噂の“黒髪のグロンダイル”ではないかな? 単独で、いかなる魔獣の大群をも屠ると噂の──」


 レルゲンの声には、長年の経験からくる確信と、わずかな皮肉が混じる。


「……やれやれ、年寄りの肝には毒じゃな」と、彼は小さく付け加えた。


 少女は肯定も否定もせず、ただ神秘的に笑みを深めるだけだった。

 長く美しい黒髪が、ふわりと風に揺れる。


 先刻までの肌を刺す殺意や狂気を微塵も感じさせない、あまりに清らかなその表情が、カイルたちの心をさらに深く惑わせた。

 エリスやフィル、毒づいたレルゲンまでもが、一瞬、呼吸を忘れて見入ってしまう。

 彼女の澄んだまなざしは、若緑色の深い透明感をたたえ、いかなる邪念も差し込む隙がないように見えた。


 カイルは戸惑い、驚き、そして畏敬にも似た尊敬の念を抱え、心の奥で静かに問いかける。


 ――この少女は、一体何者だ? なぜ、あんなにも矛盾した力を持っている?


 その疑問は、彼らが信じてきた世界の法則を超え、未知の領域へと誘うようだった。

 ただ一つ言えるのは、彼女がいなければ、自分たちはあの場で無残な死を迎えていたということ。

 凄惨な光景を見たばかりなのに、目の前の少女の陽だまりのような笑みが、これほど心を温め、安らぎを与えてくれるとは。


「……重ねて礼を言う。君がいなければ、俺たちは……。とにかく、救けてくれてありがとう」


 カイルは、胸に溢れる感謝を込め、深く頭を下げた。その言葉には、エリスやフィル、レルゲンの声にならない思いも重なっている。

 死の淵から解放された安堵感が、少女の穏やかな微笑みと共に、彼らの胸を温かく満たしていく。


 風に揺れる彼女の長い黒髪が、地平線へと沈む夕闇の最後の光を受け止め、荒野をわずかに照らす。

 彼女の正体も、隠された事情も、今はまだ何もわからない。

 ただ、奇跡としか言いようのない救済が、彼らの上に降り注いだことだけが事実だった。


 やわらかな笑み。風になびく黒髪。

 その光景は、カイルたちの記憶に深く刻まれ、決して忘れられないものとなるだろう。


 黄昏の赤が完全に落ちる直前、少女の影だけが風に揺らがなかった。


◇◇◇


【リーディス王国――王都リーディス「白翼の塔」最上階】


「……グレイハワード様。“黒髪のグロンダイル”と名乗る魔獣狩りの少女について──ローベルト将軍より続報が届いております」


 年老いた従者が、大理石の床に膝をつき、静かにこうべを垂れた。

 報告の声が消えたあと、塔の高窓から忍び込んだ春の風が書簡をめくり、淡い紙の匂いを運ぶ。


 純白のローブをまとった影――腰まで届く白髪と、雪を湛えた豊かな髭を持つ老人は、黙ったまま鉛雲の空を仰いでいる。

 皺に刻まれた横顔に揺らぎはない。だが、胸前で組んだ指がわずかに締まった。

 その仕草は、遠い昔の記憶を手繰るように慎ましく、そしてどこか温かい。

 窓枠に吊された小さな風鈴が、ふいに鳴る。


「……あの子の、黒髪を継いだのか」


 銀の音色に合わせ、老人の目許をかすめた淡い陰影だけが、“誰か”――遠い昔に在った者への静かな懐旧を語っていた。

一話の構造的意義

この第一話は、大きく二重の始まりを孕んでいます。


第一の始まり 「英雄たちの物語」

冒頭はあくまで、若き剣士カイルとその仲間たち――戦い抜いた冒険者の帰還譚として始まります。

夕暮れ、疲労、労いの言葉、そしてささやかな報酬への憧れ。


これは“冒険者の日常”の延長線であり、「彼らが主人公である」と読者に錯覚させる構造になっています。


読者はこの世界の“常識=テンプレ”を彼らと共に歩みます。


そして――


第二の始まり 「黒髪の異端の出現」

その“常識”が一瞬で崩壊する。

黒髪の少女の出現と共に。

この切り替えは、静から動、希望から絶望、そして秩序から逸脱へと、読者の視点そのものを更新する劇的装置になっています。


ここで初めて読者は気づきます――

この物語は、“カイルたちの冒険譚”ではなく、“少女の存在そのものが世界観を凌駕する神話”であるということに。


◆キャラクター構図:典型性と逸脱の対比

登場人物役割備考

カイル剣士・リーダー主人公と錯覚させる典型的構成。だが、少女の登場で視点が転覆する。

エリス弓兵・皮肉屋 冷静だが感情を隠しきれない。少女の力に翻弄されて本性を露呈する。

フィル魔術師・好奇心学術的視点から少女の“異常さ”を見抜くが、理解できず恐れも抱く。

レルゲン回復術師・古参年の功と経験が、異常への直感的警戒感を募らせる。

黒髪の少女“黒髪のグロンダイル”理から逸脱した存在。暴力と慈愛を同時に宿す。


少女の出現は、この4人を「ただの人間」に引き戻す。

彼らは皆、世界の常識の中で“それなりに強者”だった。

だがこの章で、彼らは「神話に出会った村人」に還元される。


◆少女の描き方:〈二重性〉の演出

1. 破壊の女神としての側面

黒翼の召喚

謎の魔術による複数属性の即時展開

戦略的思考と冷酷な殺傷決断

群れの無力化→焼却処理


これはもはや“戦闘”ではなく、“粛清”とすら呼べる。

フィルの観察から明らかなように、彼女の力は「魔術ではなく、概念そのものの書き換え」に近い。

ここに、“神性”と“異端性”が混ざる。



2. 慈愛の少女としての側面

救出後の“陽だまり”の微笑

黒髪が風に舞う柔らかい描写

穏やかな声、優しい眼差し

「当然のことをしただけよ」の自己抑制


この瞬間、破壊者が守護者へと転じる。殺戮の余韻を残した荒野に、少女は“清らかな風”を運び込む。

このコントラストが読者の感情を大きく揺さぶる。

「恐ろしいのに、美しい」

「神のようなのに、人間らしい」


その違和感こそが、物語全体を通しての「黒髪のグロンダイル」の核心。

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