守護者の誓いと私の答え
「……前の王様?」
声を発した瞬間、自分の耳に届いたその音が、あまりにも脆く頼りないことに驚いた。喉の奥で掠れ、消え入りそうな響き。私の心がすでに冷え切っていることを、まるで誰かに暴露されたようだった。
リーディスの先王――その名が持つ重みが、まるで冬の冷たい霧のように私の心に覆いかぶさってくる。その一言が、どれほど多くのものを含んでいるのか、まだ理解しきれない。ただ、胸の奥にざわざわと広がるものがある。
「そうだ」
ヴィルの声は低く、どこまでも静かだった。その抑揚のない響きは、真実を語るときのそれだ。嘘や誤魔化しの影は一切感じられない。けれど、その冷静さが私の中の混乱をいっそう激しく掻き立てた。
「……母さまの、父親……」
口をついて出た言葉が、空気の冷たさにすら揺れるように震えているのがわかる。息が胸の奥で引っかかり、次の言葉がなかなか出てこない。
「つまり……私にとって、祖父にあたる。そういうことよね?」
自分で言葉にしてみて初めて、その響きがどれほど重いものかを実感する。胸の奥にざらついた感覚が広がり、冷たく硬い塊となって私を締め付けた。
ヴィルは答えず、ただ静かにこちらを見つめている。その目は冷静だが、どこか私の反応を待つようでもあった。
ふと、カテリーナの話が脳裏をよぎる。
『先代の王は柔軟な方針を持つ賢君で、彼の治世には穏やかな日々が続いていた』という。しかし、母さまが訴えた未曾有の厄災の接近を、ついに受け入れようとはしなかった。
胸の中で何かが鋭く揺れる。彼がかつての王であり、祖父でもある。だが、その二つの立場の間にある深い隔たりを、どう受け止めればいいのかわからなかった。
「お祖父さま……」
言葉にするたび、胸の奥がざわついていく。感情が一つにまとまらず、疑念と失望、そして微かな怒りが渦を巻いている。
気づけば唇を噛んでいた。乾燥した空気がそれをさらに痛みとして伝える。眉間に力が入りすぎて、鈍い痛みを覚えるほどだった。
ヴィルは私のその仕草を見ても、表情を崩さない。ただ、彼の目の奥に何か言葉にできない微かな変化が宿っている気がした。
私は息を吸い込み、声を振り絞るように問いかけた。
「それなら、なぜもっと早く教えてくれなかったの?」
声が震える。胸の中で湧き上がるのは怒りとも悲しみともつかない感情だった。視線を落とし、拳をぎゅっと握りしめる。爪が掌に食い込みそうになるのを無理やり堪える。
「ねぇ、どうして……?」
問いかけたのは、自分自身だったのか、それとも彼だったのか。曖昧なまま、声になった言葉が冷たい空気に溶けていく。けれど、その小さな響きが部屋全体を揺らしたような気がした。
重たい沈黙が場を支配する中で、それを破ったのはローベルトだった。
「先王陛下は、メイレア王女の消息を長く案じておられた。そして――選定の儀式における君の振る舞いを耳にし、ついに面会をご決断なさったのだ」
その声は低く、静謐でありながらも、遠い感情を奥底に隠し持つような響きを帯びていた。一語ごとに胸へと沈み込み、私の混乱をいっそう濃くしていく。
「……先王が? 大罪人の娘とされる私に、いまさら何を望まれるというのですか?」
思わず声を荒げていた。その勢いに、自分自身が驚いたほどだ。けれど、喉の奥に溜まった感情はもう抑えきれない。
「それに、母の言葉を退け、家族としての絆さえ切り捨てた方なのでしょう? そのような方が、なにをいまさら――」
息が詰まるような感覚が胸を満たし、言葉の続きを失った。その隙間を埋めるように、ヴィルがゆっくりと一歩前に出る。その動きには慌てた様子はなく、ただ私に向き合うための静かな意志が感じられた。
「俺たちが先王と会ったのは、選定の儀式の後だった」
彼の声は凛としていた。低く落ち着いた響きが、波紋のように空間に広がる。その瞳が私を真っ直ぐに捉える。
「特に驚きもなく、むしろ静かに事実を受け止めておられた。お前の存在について、以前から察していたようにも見えたが、それがどの程度の確信だったのかは、俺たちにも分からない」
彼の言葉は、事実を告げるだけのもので、そこに迷いや誤魔化しの気配はなかった。けれど、その正確すぎる声音がかえって私の胸を締めつけた。
「察していた……? 私を? どうやって? いったい何の意味があるの? ただの興味本位なら御免被るわ」
言葉を吐き出すたびに、胸の中で燻っていた感情が表に溢れ出すようだった。けれど、その感情の形は自分でも掴み切れない。怒りなのか、苛立ちなのか、それとも混乱か。声の震えが、どれほど自分の不安定さを映し出しているのかが嫌でも分かる。
ヴィルを見上げる視線には、問い詰める焦燥があり、同時にどこか救いを求めるような微かな光が宿っていたかもしれない。
彼はそんな私の視線をしっかりと受け止めた。息を短く吸い込み、口を開く。その仕草一つ一つが、彼の言葉に込める覚悟を物語っているように見えた。
「落ち着け、ミツル」
その声は深く低く、それでいてどこか穏やかな響きを持っていた。私の乱れた感情を包み込むような静けさを帯びている。
「お前の疑念も怒りも、理解できているつもりだ。だがな、先王がお前の身を案じ、手を差し伸べようと必死だったのは事実だ。それに――」
ヴィルの瞳がわずかに揺れた。けれど、その奥に宿る信念の光が、私をさらに動揺させる。
「――過去に何があったのか、その真実を、お前は知りたくはないのか?」
「真実……ですって?」
問い返した声は、驚きと不信が入り混じり、細く震えていた。
「そうだ」
ヴィルは一度ゆっくりと頷く。言葉に迷いはない。
「……お前が探し求めている真実だ。その答えを知る人物と、向き合いたくはないのか? お前が本当に抱えているものをぶつけられる相手――それを持つのは先王だけだ。だからこそ、俺はこの判断を下した。裏切り者と罵られることなど、覚悟している」
その言葉は、私の胸に鋭く突き刺さった。彼の声には、痛みすらも静かに飲み込むような強さがあった。
彼はいつだってそうだ。
私が必要としているものを見抜き、それを届けようとする。そのためなら、自分がどう思われようと構わない。そこに迷いも躊躇いもない。
――なんて不器用なの。真っ直ぐすぎる。
オブシディアン・アラクニドと戦った時も、私が熱を出して倒れた時も、偽装のためにウィッグを探してくれた時も――思い返せば数え切れない。その度に、彼は私にとっての「最善」を考え、必死に動いてくれた。例え、それが私にとって受け入れ難いものだったとしても。
「……あなたは、どうしてそこまでしてくれるの……」
思わず口をついて出た言葉。問いかけた私自身がその答えを知りたかった。
ヴィルは一瞬だけ目を伏せ、唇を引き結んだ。その表情に浮かぶのは、迷いや逡巡ではない。ただ、言葉を慎重に選んでいる気配だった。
「お前を守ると誓いを立てた以上、それが、それだけが俺の変わらぬ“絶対”だ」
その一言が私の心を強く揺さぶった。胸の奥に小さな棘が刺さるような痛みと、同時にじんわりと広がる温かさ。それは、冷え切った身体に染み渡る焚き火の熱に似ていた。
私は視線を逸らすようにして、かすかに俯いた。手元で指を絡ませながら、震えを抑えようとする。言葉を返そうにも、何かが喉を塞ぐようで、すぐには声が出なかった。
ヴィルは私の言葉に、しばらく何も言わずに立っていた。視線だけがわずかに動き、空気に何かを探すような気配を見せる。そして、ほんの一拍遅れて、小さく頷いた。
「ミツル、今すぐ俺を殴れ」
「ちょっと、ヴィル!?」
ヴィルの声は驚くほど低く、静かな決意が滲んでいた。
「どんな言い訳をしようと、罪は罪だ。俺はお前の信頼を裏切った。仲間として――罰は甘んじて受けるべきだ」
真っ直ぐに言い切るその瞳に、曇りは一片もなかった。仄かな光を宿した灰色の眼差しは、冬空の冷たさを思わせながら、不思議と温かかった。その視線を受け止めた瞬間、胸の奥で何かが静かに崩れていく。
それまで怒りだと思っていた。彼の裏切り――そう呼ぶしかない行為に、私は憤っていたはずだった。けれど、この感情は怒りでも悲しみでもないと気づいた時、息が詰まるような心地がした。
「……そんな簡単に殴れだなんて、無責任なこと言わないでよ」
自分でも驚くほど声は震えていた。情けなくて、それでも言うしかなかった。言葉の端に滲む微かな笑みは、湧き上がる矛盾を抱きとめようとするせいだったのかもしれない。
ヴィルは何も言わず、ただ見つめていた。冷たい光の中に立つ彼の表情は一点の揺らぎもなく、それでいてどこか優しい。まるで「お前の答えを、すべて受け止める」と言っているようで、視線を逸らすことすらできなかった。
庭木を揺らす風の音が遠くから届いた。冬の冷たさが頬を刺すのに、二人の間を流れる時間だけは凍てつかない。痛みを含みながらも、確かに温かな静寂がそこにあった。
「もう……私がそんなことをするわけないでしょ。済んだことよ。どうでもいいの。助けられたのは事実なんだから……」
逃げるように吐き出した言葉に、自分でも驚いた。本当はそんなふうに思ってなんかいない。誤魔化しきれない苛立ちが胸をざわつかせる。本当は――ただ「ありがとう」と言いたかっただけなのに。
「そうか……ありがとうな、ミツル」
ヴィルはふっと微笑み、淡い光の中で表情をわずかに緩めた。
――そんなこと言うなんて、ずるいじゃないの。
心の中でそう呟いた瞬間、胸の奥が不安定に揺れた。何がずるいのか、自分でもわからない。けれどその一言と微笑みが、心を容易く掻き乱していく。
その時、私は父さまが彼に何を見て、何を託したのか、ほんの少しだけ理解できた気がした。不器用で、口数は少なく、遠い場所にいるようでいて――それでも真っ直ぐに、自己を投げ打ってでも他者を守ろうとする人。それが、ヴィルなのだ。
「……わかったわ」
喉の奥に絡みつく感情を押し出すように、私は短く言葉を紡いだ。その一言が決意に変わった瞬間、張り詰めていた心の糸が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
ゆっくりと顔を上げる。視線の先に立つヴィルの姿が、ぼんやりと滲んで見えるのは、潤んだ瞳のせいだろうか。それとも、心の奥底でざわめく感情のせいだろうか。
彼の瞳が揺れていた。氷のように冷たい色合いの中に、ほんのわずか波紋が広がったように見える。それは、私の言葉を待つ者の目だった。
「……私、先王陛下に会うわ」
静かに、けれど確かな意思を込めて告げたその声は、自分でも驚くほど穏やかだった。さっきまで胸をかき乱していた怒りや苛立ちは、不思議なほど消えている。残ったのは、諦めにも似た、けれどほんの少し温かい感覚だった。
――これがヴィルなんだもの。しょうがないじゃない。
そんな思いがふと胸をよぎる。
意識しないまま、唇がかすかに緩んだ。微笑むつもりなどなかったのに。それでも、胸の奥から湧き上がる小さな安堵が、表情ににじみ出てしまったのだろう。
主人公が「これがヴィルなんだもの」と受け入れ、かすかに微笑む場面では、彼女の中に芽生えた微かな安堵が表現されています。この小さな微笑みは、彼女がヴィルの行動や真意を理解し始めたことを示す重要なポイントです。実はもうかなり惹かれてます??
この微笑みには、主人公がヴィルに対して特別な感情を抱きつつある兆しが確かに表現されています。単なる仲間としての信頼感や安堵を超え、どこか彼に対して好意的な感情が含まれているようにも読めます。特に、「これがヴィルなんだもの」というフレーズには、彼の不器用さや真っ直ぐさを受け入れるだけでなく、それをどこか愛おしいと思うようなニュアンスが感じられます。
惹かれている可能性の根拠
ヴィルの特性への理解と受容
ヴィルの無骨で不器用ながらも誠実な行動に対し、主人公が「しょうがないじゃない」と心の中で微笑むのは、彼の在り方を受け入れている証拠です。これは、単なる仲間意識や義務感ではなく、彼自身の人間性への肯定的な感情が芽生えていると言えます。
安堵と信頼の交錯
怒りや疑念が消え、微かな安堵を覚える彼女の感情は、信頼だけでは説明しきれない複雑さを含んでいます。彼女がヴィルの行動や言葉を心から信じられるようになり、そこに温かさを感じるのは、好意の初期段階とも解釈できます。
「微笑み」という象徴
この場面の微笑みは、感情的な転機を象徴しています。ただの友情ではなく、彼の存在そのものに対して柔らかな感情が宿り始めている可能性を示しています。微笑みには「理解」や「親近感」、さらには「尊敬」にも似た感情が込められており、これらは恋愛感情の始まりによく見られる要素です。
ヴィルの「守る」という言葉への反応
「お前を守る。それが俺の誓いだからだ」というヴィルの言葉に主人公が揺さぶられる描写も、彼女の内心に特別な感情があることを示唆しています。ただの同情や感謝ではなく、胸の奥で温かい感覚を覚えるのは、彼女がヴィルの存在に惹かれている証かもしれません。
まとめ
この時点では、主人公が自覚的にヴィルに恋愛感情を抱いているわけではないかもしれません。しかし、彼の存在が特別なものであることに気づき始めている段階であり、自然と惹かれている可能性が高いです。




