母さまの消失と私がすべきこと
重い沈黙の中、暖炉の薪がぱち、と乾いた音を立てた。その響きが消えた刹那、ヴィルの低い声が空気を裂く。視線は、私の手にあるマウザーグレイルへ注がれていた。
「まずその白い剣だが、素性が謎だな。お前もよく知らないと言っていたが」
「うん……」
私はそっとマウザーグレイルの柄を指でなぞる。
視線を落としながら、記憶の奥底を手探りで掘り起こした。霧に包まれた過去を手繰るたび、忘れかけていた棘が心の柔らかい場所に刺さるように、胸が軋む。
「この剣はね、家の壁の高いところにいつも掛けられていたの。物心ついたときにはもうそこにあって、いつから、なぜそこにあるのか……なにもわからなかった。ずっと不思議だった……」
言葉を紡ぐうち、記憶の深い水底に沈んでいた光景が、陽炎のように揺らめき始める。
「一度だけ、好奇心から手を伸ばそうとしたことがあったの。でも、その時は父さまがひどく叱って、触ることを許してくれなかった。それ以来、剣には決して触れちゃいけないと思っていた」
「そうか。あいつがお前を剣から遠ざけていたというのは聞いていたが……」
彼の声に含まれた共感が、逆に心の波紋を広げる。
「それとは、また別の話なの」
当時の恐怖が蘇り、喉が詰まる。その声の震えを抑え込むように、私は一度唇を固く結んだ。
「どういうことだ?」
ヴィルは剣を見つめ、眉間に刻まれた皺が彼の困惑を物語っていた。
「言ったでしょ? この剣はわからないことだらけだって。私たち家族にとって、とても危険なものだったんだと思う」
ヴィルは黙って頷き、暖炉の炎へ一度視線を移す。その沈黙が重く部屋に降りかかる中、私は心を決めて続けた。
「あるとき、母さまが剣を抱きしめていたの。すごく真剣な顔で、まるで恋人に語りかけるように、剣と話しているみたいだった」
視線を遠くに泳がせ、その光景をなぞる。人目を忍ぶように剣に触れていた母さまの、あの不思議な空気まで再現するように。
「気になって尋ねてみたら、『ミツル、この剣にはちゃんと心があるのよ。あなたにはまだ早いけれど、大きくなったらきっとわかるようになるわ』って。そうやって、時々剣と話をしているんだって言われたの」
その言葉を口にすると、母さまの柔らかな声が胸の奥で響き、唇がかすかに震えた。
「心が? 剣に?」
ヴィルの低い声に、素直な驚きが滲む。
「うん。母さまは本当に、剣と会話しているようだった。あのときは意味がわからなかったけど、すごく神秘的で、何かとても大切なことだと感じたの」
その感覚を確かめるように、そっと胸に手を当てる。
「でも、三年前、大変なことが起きたの。急に家が激しく揺れ始めて……」
記憶がこめかみを脈打たせる。ヴィルの表情が強張った。
「何があった? まさかその剣が原因か?」
「ええ、そう……」
強く握りしめた手に、じっとりと汗が滲む。
あの時、剣は光を放ち、部屋中が白に染まった。真空に放り出されたように耳の奥がキーンと鳴り、私はただ立ち尽くすしかなかった。
母さまの切羽詰まった声が、今も耳に残っている。
「まだ早すぎる……」「まだ力を解き放ってはだめ」。
「力? その剣に秘められた力ってことか?」
「たぶんね……」
声が震える。ヴィルの瞳が鋭く光った。
「母さまは光の中で剣に手を伸ばそうとしていた。私は怖くて、『やめて』って叫んだけど、母さまには届いていなかったみたい。手が剣に触れた瞬間、ただ一閃の白い光が世界を消し去って……。まるで鉄鎚で心臓を直接殴りつけられたような衝撃に、意識が遠のくのを感じたわ」
胸が苦しくなり、言葉が喉で詰まる。
「目を開くと、光は消えていて、剣が床に転がっているだけだった。だけど、母さまの姿はどこにも見当たらなかった」
ヴィルが身を乗り出す。
「まさか死んだってことか?」
「そんなことあるわけないでしょ!!」
思わず叫んでいた。私の声は、認めたくない現実への必死の抗いだった。
ヴィルは驚いたように目を見開き、わずかに口を開けたまま固まる。
「ああ、すまない……」
申し訳なさそうに呟き、彼は視線を床へ落とした。重苦しい静寂が、息を詰まらせる。
「……ごめんなさい。冷静にはなれそうもないわ」
ヴィルは目を伏せ、深いため息をついた。
「わかっている。言いたくなければもういい。無理をすることはない」
不器用な言葉に滲む気遣いに、私はゆっくりと息を吸う。
「大丈夫……。これは私の推測だけれど、母さまはこの剣の力に巻き込まれ、どこかへ飛ばされてしまったんじゃないかと思うの」
その言葉に、ヴィルは驚きに目を見開いた。
「飛ばされた!? 転移の魔術なんて、伝説でしか聞いたことがないぞ」
「だからこそ危険なのよ、この剣は。いつから存在し、どんな秘密が込められているのか、まるでわからないのだから」
「そうか……」
ヴィルの深いため息が、私の胸を重く揺らした。
「それから、どうなったかって、知りたいのよね……?」
「ああ……」
彼の声は、不安にかすれていた。
「父さまは、こう言ったわ。『お母さんは必ずどこかで生きている』って。それから、私を知り合いに預けて、母さまを探しに行こうとしたの。でも、私は嫌だった。母さまがいなくなったうえに、父さままで私を置いて行ってしまうなんて……。一人ぼっちになることが怖くて堪えられなかった。だから必死で、何度も父さまに縋りついてお願いしたのよ」
当時を思い出すと、胸がきゅっと締まる。
父さまは困った顔で微笑み、「しょうがないな」と私の同行を許してくれた。そして私たちは、この剣を携えて旅に出た。
ヴィルは頷き、小さく息をつく。
「あいつは結構寂しがり屋だったからな。本音では、お前にそばにいてほしかったんだろう……」
その言葉に、私は悲しげに微笑む。
「そうかもしれないわね……」
声に滲む虚しさは、消せなかった。
「でも、もしあの時、私が素直に留まっていたら、旅についていかなければ、父さまは死なずに済んだのかも……」
その言葉が喉を通り抜けると、胃が固くねじれるように疼いた。
「何もできない足手まといがいたせいで、父さまは命を落としたのかもしれない……」
唇から零れた言葉が、胸の奥で鋭い痛みに変わる。息が詰まるほどの悲しみが、心をひしぐように締めつけた。
「私がいなければ、父さまは一人で逃げることだってできたはず……」
声がかすれ、目頭が熱くなる。涙が溢れそうになったその時、ヴィルの低い声がそれを制した。
「やめろ……」
その声は、微かに震えていた。彼は手を伸ばしかけ、ためらって止める。
「お前のせいなんかじゃない」
ヴィルの瞳が、私を真っ直ぐに見つめる。
「お前が責任を背負う必要はない。あいつなら、そう言うはずだ」
彼の言葉は優しい。けれど、私の胸に刻まれた傷は、そう簡単には癒えない。
「でも、もう父さまは帰ってこない……」
言葉と共に、涙が頬を伝った。
重い沈黙の中、私はただ泣くことしかできなかった。
ヴィルは私の涙を見つめながら、静かに口を開く。そのまなざしは、落ち着いた中にも強い意志を秘めていた。
「自分を責めたい気持ちはわかるが、それよりも大事なのは、これからお前がどう生きていくかだ。もし俺があいつ、ユベルだったなら、こう言うだろう──」
彼は一度、短く息を吸う。
「──『どんなに絶望の淵に追い込まれようとも、顔を上げろ、立ち上がれ、そして前に進め』とな。あいつが、ユベルが、かつて俺にくれた言葉だ」
その言葉は、まるで父さまの声そのものが、耳元で響いたようだった。
心の奥に凝り固まっていた何かが、解けていく。涙が止まり、胸の内にわずかな光が差し込んだ。
「……そんなこと、私にできるのかな……」
不安が滲む問いに、ヴィルは諭すように続ける。
「いいか? 過去に自分を縛っていては、決して前へは進めない。悲しみや苦しみを乗り越えて、その先を切り開くんだ。お前が自分を許し、前に進むことで、あいつの名誉だって守られる」
その言葉には、厳しさと深い優しさが溶け合っていた。
「そうすることで、お前自身が生きている意味、存在の意義を示すことができる。お前が自分を信じ、前へ向かうことで、新たな光が見えてくるんだ」
ヴィルの言葉が、心の凍てついた部分をゆっくりと溶かしていく。
きっと、こんな私の姿を見たら、父さまは「情けない」と笑って叱るに違いない。そうだ、私は進まなければ。あの人の期待を裏切らないために。
「それに、あいつの願いは、もう俺の願いでもあるんだ」
その意外な響きに、私は息を呑んだ。
「えっ……?」
彼の瞳に、決意の光が灯る。口元には、氷の湖面に射す陽光のような、静かで力強い微笑みが揺れていた。
「前へ進む強さを示せ。俺はお前を全力で支えるつもりだ。ユベルの代わりとは言わないが、それくらいはさせてくれてもいいだろう?」
その言葉が、凍てついた心の底から、私を引き上げてくれる。
ヴィルは穏やかに問いかけた。
「お前は、これから何がしたい? 何を望む?」
答えは、もう決まっていた。
「私は、いつか母さまを探し出したい。きっと、どこかで生きていて、私を待っているはずだから」
揺るぎない決意を込めた声に、ヴィルは満足そうに頷き、ゆっくりと立ち上がる。
差し出された彼の手を、私はためらわずに取った。
「私、やれるだけのことはやってみるよ。時間がかかっても、絶対に諦めない」
私の言葉に、ヴィルは力強く手を握り返す。そのぬくもりが、心に火種を灯した。
「よし、それでいい」
父さまも、母さまも、そして私も、まだ続く物語の只中にいる。
けれど、隠された真実は、もっと残酷なものなのかもしれない。私がこの剣の名を明かせないのも、その一環なのだろう。
それでも、行かなければならない。
一年前、この身体の中で前世の記憶が芽吹いた理由と、それがもたらした悲劇の落とし前。
そのすべてに私たちが向き合うことから、もう、逃れることはできないのだから。




