玉座の間
選定の儀式から一週間以上が過ぎ、ようやくその日が来た。白銀の塔の最上階へ迎えに現れたのは、意外にもローベルト将軍その人。
石段をのぼる重い靴音が近づくたび、胸の奥で細い紐がきゅっと締まる。錠前の金具がかすかに鳴り、扉が開く。冷えた空気の切れ目に、堂々たる影が差し込んだ。淡々とした面差しの奥に、私を気遣う柔らかさが、ごく薄く灯っている。
「ローベルト様、どうして……私なんかのために。……あなたが?」
口にした途端、疑問はかえって膨らみ、私は将軍の瞳を見上げた。冷静な眼差しが、真っ直ぐに問いを受け止める。
「ミツル、君はメイレア王女の娘だ。それは紛れもない事実――」
低く静かな声。言葉の端に、雪の上に毛布を掛けるみたいな温度がある。
「――王家の血筋を引く者に対し、玉座への案内を衛兵ごときに任せるわけにはいかない。それでは礼を欠くというものだ」
短く吸った息が喉に触れ、熱を帯びる。ここへ至るまでの孤独と葛藤を、彼は見ていたのだと思えた。
「そ、そうですか……」
追いかける言葉は自然にほどけ、胸の奥だけがゆっくり温まる。
ローベルトはふと視線を寄越す。測る冷静さと、守る意志の光が、静かな表層の下で交わっていた。
「決意は変わらないのだな?」
短い間。声には確かな温かみが混じる。
「もちろんですとも」
応えると、背筋が素直に伸びた。視線がそっと背を押す。
「では、これから王の御前に向かうことになるが――」
音のない切り替えで、彼の声は平坦に戻る。
「そこから先、私は何も手出しできない。末席から君を見守るだけだ。それでも構わないか?」
「はい。それが正しいことだと思います。私にどのような沙汰が下されようとも、お気になさらず」
頷いた将軍の呼気が、ほんのわずか温度を落とした。覚悟を、黙って認めてくれる。
「わかった。君ならば何の問題もなかろう」
彼は踵を返し、扉へ向かう。背中には盾のような安心感が、薄い光沢で宿っていた。
歩き出す前に、私は一度だけ部屋を振り返る。白い石壁の粉っぽい匂い、窓を洗う淡い光。ここでの長い時間、茉凛と語りあかした夜の温度。前世のこと、この世界でのこと、これからのこと。彼女は私の眠りの合間にもマウザーグレイルの解析を進め、少しずつ機能を解いてくれた――わずかでも、確かな力だ。
涙の痕を吸ったはずの石は冷たい。けれど私は違う。メービスが、母さまが選び取ったように、私も自分の足で行く。
「では行こう」
将軍が身を翻す。私はその背を追い、部屋を後にした。
ひんやりとした石段を下りる。足音が壁に跳ね、静けさを薄く震わせる。肩越しに届く彼の気配は、護るのではなく導く者のそれだった。
出口が近づく。外気が頬を撫で、思わず身が粟立つ。ローベルトが立ち止まり、振り返った。
「寒いか?」
「少しだけ。でも、大丈夫です」
自分の声が驚くほど落ち着いていて、息がすっと通る。
外は夕暮れ。西の空の橙が城壁の影を長く引き、空気は澄んで冷たい。それでも胸の内側に、小さな灯がともっていた。決意か、茉凛や人々から託された勇気か。はっきりと名は付けられない。ただ、ここに立つ事実が私を強くする。
――メイレア王女の娘。リーディス王家の血筋。
さっきの言葉が、静かに胸に沈む。重さはまだ測れない。それでも歩みは、次の一歩を選べると知っている。
玉座の間へ向かう廊下で、将軍は一度も振り返らない。彼の歩みは道筋を熟知した者のまなざしで進み、私は安心と緊張を半分ずつ抱えたまま続く。大理石の床に靴音が澄み、古い紋章旗がわずかな風で擦れ、布目の音が耳の奥でかすかに鳴った。
《《ミツル、緊張してる?》》
「うん……」
唇だけで返す。囁きは小さくても、茉凛には届く。
《《そっか……。でもさ、こういう時に『緊張するな』って言われても、無理だよね。だってら、ほら深呼吸してみて?》》
言葉の温度だけで、張り詰めた糸が少し緩む。吸って、吐く。吐く息に、不安の細片を混ぜて流す。
《《……思い出してみて 私たちでやった演劇のこと。あの時、あなた、すっごく緊張してたでしょ。でも本番が始まったら、もう別人みたいだった。スイッチが切り替わったみたいに、役に入り込んでたよね。だから、今度だって大丈夫。絶対にね》》
照明の熱、幕の埃、袖の暗さ――あの小さな舞台が胸に立ち上がる。二人で何かを作った時間の手触りが、掌に戻った。
「うん、大丈夫……ありがとう、茉凛」
口角がわずかに上がる。その小さな動きが、自信の輪郭を呼び戻す。
けれど、今から演じるのはもう「役」ではない。茉凛の言うとおり、「巫女」は私の生の名だ。黒髪、薄緑の瞳――身体に刻まれた巫女の証。厄災のたびに生まれ、危機を告げる声。だが人々が見つめるのは危機ではなく「資源」。母さまが怒りを燃やした理由。父さまも、ヴィルも、あの西部戦線の地獄に引きずり込まれた。
どれほどの血と命の上に、いまの繁栄が立つのか。王侯貴族がむさぼる権益。その頂に座る「王」。
私は目を閉じる。吐く息に混じるのは怒りでも諦めでもない。果たすべき役割を、ただ喉奥で受け入れる感触だけ。
◇◇◇
玉座の間は、冷たい緊張を孕んでいた。高い天井、石の広間。威厳の造形は見目麗しいのに、吸うたびに胸が浅くなる閉塞が漂う。中央を赤い絨毯が真っ直ぐ貫き、その先に、四十を過ぎたとおぼしき王。
選定の儀では遠すぎて顔は霞んでいた。いま近くで見ると、傲慢と自信の匂いが薄く漂う。冷たい瞳はまっすぐにこちらを計り、刃の光を秘めていた。
玉座の両脇には家臣たち。一人は顎を撫でる宰相。高慢な笑みの端に侮蔑と不信が混じり、存在ごと値引きする視線。もう一人はぎょろりとした老臣。湿った眼が室内を泳ぎ、時おり私へ品定めの針を刺す。そのたび、肌に粘る嫌悪が薄く残る。
脇を固める衛兵たちは無機の眼差し。鎧の接ぎ目が金属の匂いを発し、靴底が石を擦る音だけが、張り詰めた沈黙に細い切れ目を入れる。
一歩ごとに絨毯が冷気を吸ってくれる気がするが、空気の冷徹は揺るがない。ここに満ちるのは「暖かい」権威ではなく、「冷たい」支配の象徴だ。
私は王へ視線を戻す。石のような表情。迎え入れる素振りはなく、むしろ若輩を排する構え。その視線を正面から受けるたび、鼓動が一打強まる。
動じない。示すべきは礼と覚悟。
「王の御前である、跪け」
低い声が落ち、視線が一斉に集まる。私は呼吸を整え、前へ。
王の眼、宰相の笑み、老臣の湿り気。すべてを受ける覚悟で、背を伸ばし、ひと呼吸。前世の舞台で覚えた所作を、手順だけを残して静かになぞる。
右手でスカートの裾を摘み、左足を静かに引く。膝を折る。余計な力の抜けた滑らかさに、空気が一瞬止まった。
額を下げる。視界に赤い絨毯だけが流れ、迷いが落ちる。
「ミツル・グロンダイルと申します。国王陛下の御前にてお言葉を賜る栄誉を頂き、心より感謝申し上げます……」
凛とした声が、広間を澄んだ水で満たす。抑揚は静かで、芯は揺れない。
顎を撫でていた宰相の指が止まる。老臣の目が大きく揺れ、家臣たちの顔に露骨な驚きが走った。衛兵の幾人かは眉を寄せ、意識がこちらへ寄る。すべて無意識の反応。
「……これは」
宰相の吐息まじりの声が漏れる。冷徹を裏切るわずかな戸惑い。
「なかなか堂に入ったものだ……」
老臣の呟きには、なお疑念の滓が残る。
王だけは動かない。鋭い眼が射抜いたまま、奥に冷さと、わずかな揺れ――驚きか、評価か――を宿す。
「ほほう」
短い唸り。張り詰めた空気がいっそう締まる。玉座にもたれ、冷ややかに言葉が落ちた。
「挨拶すらまともにできぬ田舎者と思っていたが……どうやら杞憂だったようだ」
空気が細く震え、場の重心がわずかに移る。最初の侮蔑からは想像しづらい変化。
私は深く息を吸う。よし。礼と覚悟を示す。それだけだ。
「陛下、この者の取り調べは、どうか私めにお任せいただければ……」
宰相が一歩進む。低く抑えた声の裏で顎を撫でる指が速くなり、動揺が隠れない。
「いや、ここは余が直接問いただそう――」
王の一言が、申し出を鋭く断ち切る。張りが戻り、空気が引き締まる。
「――興味が湧いた」
淡々とした声音に、玉座の圧が乗る。視界の端で宰相が退く。顎を撫でる指だけが、なお止まらない。
私は王と視線を結び直す。内側の波を押さえ、呼吸の音だけを聴く。顔の筋肉を、静かに整える。
《《いいよ、ミツル。その調子。ほら、みんなポカーンとしてる。完璧なツカミだね!》》
肩の力がひとつ抜けた。小さく息を整える。
冷たい蔑みは、驚きと戸惑いへ。最初の一石が、水面に同心円を広げていく。
それでいい。私は、やるべきことを果たすのみ。
この場面は、メイレア王女の娘としての血筋がもたらす高貴な佇まいと、前世から培った演技力や所作が絶妙に融合し、ミツルが周囲の侮蔑や偏見を払拭する過程を描いたものです。以下に、考察を示します。
ミツルの佇まいの集約
このシーンで重要なのは、ミツルの存在そのものが「二つの世界」の結晶であるという点です。彼女の高貴な美貌や気品は、母であるメイレア王女から受け継いだ血統の証ですが、舞台演劇でメイヴィス姫を演じた前世の経験が、彼女の所作や振る舞いに絶対的な完成度を与えています。この「二つの要素」が集約されることで、周囲が抱いていた「黒髪のグロンダイル=無礼で野蛮なハンター」という偏見を打ち砕く説得力を生んでいます。
ミツルの動作に対する細やかな描写(例:スカートの裾を持ち上げる角度や膝を折る動作)や、声の響きが空間全体を変える描写は、彼女の内面の決意と外面の洗練を同時に伝えています。これが、物語の緊張感を高めつつ、ミツル自身のカリスマ性を読者に印象付ける大きな要素となっています。
周囲の意外な反応の演出
ミツルの所作や礼儀に対する周囲の反応は、このシーンの対比を鮮烈にする重要な要素です。特に、宰相や老臣たちの驚愕や戸惑い、衛兵たちのわずかな動揺が、侮蔑から評価への空気の転換を生み出しています。
侮蔑を浮かべていた宰相が動揺を隠せず顎を撫で続ける仕草や、老臣の短い台詞にこもる困惑と認めざるを得ない葛藤の表現は、彼らの心情の変化を巧みに伝えています。また、王の冷徹な視線に隠された「興味が湧いた」という一言は、彼女への関心が単なる興味本位ではなく、内なる評価を含んでいることを暗示し、期待感を抱かせます。
ローベルト将軍の導き
このシーンの序盤におけるローベルト将軍の言葉や態度は、ミツルの「正当性」を周囲に印象付けるための布石となっています。彼の毅然とした態度と、「玉座への案内を衛兵にさせるなど礼を欠く行為だ」という台詞が、ミツルの立場を格上げする一方で、彼女がこれから挑むべき運命の重さを示唆しています。
ローベルトの存在は、単なる付き添い以上の役割を果たしています。彼は彼女を守る盾ではなく、「導く者」として描かれ、彼の静かな信頼がミツルの内なる決意を強化しています。この対比が、彼女の孤独と覚悟を際立たせています。
茉凛の存在の重要性
茉凛の声がミツルの緊張を和らげるだけでなく、彼女の内面を明確に伝える役割を担っています。ミツルが内心の動揺を茉凛と分かち合い、彼女の励ましで精神を安定させていく描写は、単なる独白以上の感情の深みを生んでいます。また、茉凛の軽妙さが、場面の張り詰めた空気を適度に緩和し、一息つかせる役割を果たしています。
王と家臣たちとの緊張関係
ミツルと王、そして家臣たちとの間に漂う緊張感が、このシーン全体の基調となっています。特に王が放つ冷徹な視線と、「興味が湧いた」という短い言葉は、ミツルを試し、観察する姿勢を象徴しています。この緊張感が、物語全体の不安定な均衡を象徴し、今後の展開への伏線となっています。
考察のまとめ
この場面は、ミツルが「大罪人の娘」や「野蛮な小娘」という偏見を覆し、メイレア王女の娘としての血統と、自らが築いてきたものを融合させて新たな立場を確立する瞬間を描いています。彼女が見せる「所作」「言葉」「佇まい」は、彼女自身の過去と未来をつなぐ重要な要素です。また、周囲の反応を通じて、彼女が周囲の認識を覆し、場の空気を変える力を持つ存在であることが印象付けられています。




