信頼のツバサが導くもの
私はそっと目を閉じた。
長い旅路の中で幾度も揺らぎ、迷い続けてきた自分が、不意に遠ざかっていくような感覚に包まれる。静かに息を吐き出すと、胸に広がるのは、不思議なほど澄んだ静けさだった。まるで霧が晴れた青空を見上げるような、そんな心地よい解放感だった。
そっと瞼を開けると、ローベルトがじっと私を見つめていた。その眼差しは、深い湖の底に灯る光のように穏やかで、けれど確かな意志を湛えている。それを正面から受け止め、私は口を開いた。
「これから進む道は――私自身で切り拓きます。それが父と母が私に託した願いであるならば」
声に込めた意志は揺るぎない。言葉を紡ぐたび、胸の奥に確かに存在する熱が広がっていくのを感じた。
ローベルトはしばし目を伏せ、ゆっくりと頷いた。その表情には深い安堵が滲んでいる。
「よく言った……。これでようやく、私も背負っていた重荷も下ろせるような気がする。君には感謝する」
「えっ……!?」
思いがけない言葉に、一瞬息を呑む。驚きに目を見開きながら、慌てて首を振った。
「感謝だなんて……そんな。むしろ私の方こそお礼を言わせてください。ローベルト様とお話しすることができて、本当に救われました。ずっと、手がかりもなく、何も見えない霧の中を、ただ彷徨っているような気持ちでしたから……」
自然と声が震えるのを感じた。これまで胸の中で渦巻いていた不安や孤独、それらが一言一言となって流れ出す。
「本当に……ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。言葉では伝えきれない感謝の気持ちを少しでも届けたい一心だった。
ローベルトは短く息を吐き、口元にわずかな微笑みを浮かべた。
「礼などいらない。私はユベルとの約束を果たしたかっただけだ。
長い間、それだけが心残りでな……軍に残り、内側から変えようと足掻いてきたが、結局変えるだけの力は持てなかった。将軍になどなっても、所詮与えられる権限など限られている」
「将軍……!?」
驚きのあまり、思わず声が大きくなる。
「あなたは、そんなに地位の高い方だったのですか……?」
「どうでもよい」
ローベルトは軽く手を振り、言葉を遮った。その仕草は彼の価値観を如実に物語っていた。地位や名誉などには興味がない。ただ、守りたかったものがあっただけなのだろう。
「しかし……見れば見るほど、君は本当にメイレア王女に瓜二つだな。まるであの夜見た彼女が目の前にいるように錯覚する」
唐突にそう言われ、胸の奥が少しだけざわついた。
脳裏に母の言葉が浮かぶ――まるで今も耳元で囁かれたかのように鮮明に。
『あなたは私の鏡写しね』
私はぎゅっと拳を握りしめ、わずかに微笑んだ。その言葉の意味が、今は痛いほどよく分かる。
「そうですか……」
言葉に静かな想いを込める。
「でも、それを誇りに思います。私と母は確かに繋がっている。その証なのですから」
自分でも驚くほどの確信がこもった声だった。それは、どれほど時が経とうとも揺らぐことのない絆への信念そのものだった。
ローベルトは微かに目を細め、優しく頷いた。
「そうだとも。君は間違いなく、彼女の意思を受け継いでいる。そして、君自身の意思で、その絆をさらに強くするだろう」
その言葉は、胸に深く沁み込んでいった。まるで冷えた心をそっと温める陽の光のように、私の中でじんわりと広がっていく。
それは祝福であり、未来への期待であり、同時に私自身を奮い立たせる力強い励ましでもあった。
私は、彼の言葉を心の中にそっと刻むように小さく頷いた。
その動作にこめた感謝の気持ちは、うまく言葉にできなかったけれど、きっと伝わっているだろうと信じたかった。
するとローベルトが、どこか含みを持たせた調子で口を開いた。
「あと、“これから話すことは誰にも言うな”と念を押されたことなのだが、伝えておこう……実はだな、選定の儀式の数日前、私はブルフォードと会っていたのだ」
その意外な言葉に、私は驚きで目を見開いた。
「本当ですか? ヴィルが……あなたに?」
言葉が途中で詰まる。信じられないというよりも、何かが急に腑に落ちたような感覚があった。彼が王都に来てからの間、一体どこで何をしていたのか、実はずっと気になっていたのだ。
「本当だとも。あいつめ、私の動向を追い回していたようだ。それも極めて巧妙にな。まったく執念深い奴だ。どうにも煩わしいので、こちらから近づいて問いただしてやったのだ」
ローベルトが少し笑みを浮かべながら肩をすくめる。
その仕草は、まるで彼とのやり取りが手に取るように見えるかのようで、思わず胸が少し温かくなった。ヴィルの不器用で無骨な行動が、妙に彼らしく思えたからだ。
「……それで、何を話したんですか?」
私は、彼の次の言葉を待ちながら前のめりになった。
「君のことだよ。奴は君がどれほど父親譲りの強さと誇りを持っているかを熱く語った。そして、選定の儀式でどんな危険が起こり得るのか、警告までしてきた」
ローベルトの声には、ほんのわずかだが敬意が滲んでいた。それが意外に思えたのか、私は思わず目を見張る。
「そこで、私も少しばかり介入させてもらった……というわけだ」
「そうだったのですか……」
その一言に、私は言葉を失った。
ヴィルが裏でこんなにも動いてくれていたことを、私は何一つ知らなかった。それどころか、どこかで彼を疑ってしまっていた自分が、急に恥ずかしくなる。
「まったく、あいつの友情と忠義には頭が下がる。そして、君に対する確かな信頼もだ」
その言葉に、私は思わず顔を上げる。
「私のことを、信じて……?」
小さな声で問い返すと、ローベルトは穏やかに頷いた。
「彼はこう言っていたよ。『ミツルは若いが芯は強い。まさにユベル・グロンダイルの血を継ぐ者。俺たちが大好きだった男が遺した娘だ』――そう、はっきりと言い切った」
その言葉が心に響き、私は喉の奥が詰まるような感覚に襲われた。涙が溢れそうになるのを必死に堪えながら、胸に押し寄せる熱い感情をどうしていいか分からなくなる。
――ヴィル……あなたって人は。
言葉は少なくても、いつもそっと支えてくれる人。どんな時でも、私の背中を見守っていてくれる人。 そんな存在がいることを、私はこれほどまでに誇らしく思ったことはなかった。
ローベルトが静かに言葉を続ける。
「君は、誰に恥じることもないユベルの娘だ。そして、ブルフォードの信頼に値する存在でもある。それを忘れるな」
その言葉は、私の胸の奥深くにしっかりと刻み込まれた。私は感極まってしまいそうな気持ちを必死で抑え、もう一度強く頷く。
「……私、ヴィルにお礼を言います。ちゃんと言葉で伝えたいです」
涙を拭いながら、私はそっと微笑んだ。それが今の私にできる精一杯の答えだった。
ローベルトは短く頷くと、その表情をわずかに引き締め、どこか試すような静かな声で言葉を重ねた。
「そうだな。だが、その前にやるべきことがあるだろう?」
その問いかけは穏やかだったが、胸の奥に響く重みを宿していた。
私は自然と背筋を伸ばした。気づかぬうちにこわばっていた拳をそっと開きながら、視線をまっすぐにローベルトへと向ける。そして、小さく頷いてから、覚悟を込めた声で応えた。
「ええ……わかっています」
言葉を発する瞬間、胸の奥で静かに燃え上がる決意が、力強い鼓動となって自分自身を支えているのを感じた。その声には、もう迷いも恐れもなかった。ただ、自分が進むべき道を見据える強い意志だけが宿っていた。
その私の姿をじっと見つめていたローベルトの表情が、ほんのわずかに柔らいだ。深く刻まれた眉間のしわがゆっくりと解ける。まるで、彼が心の中に抱いていた懸念が、少しだけ軽くなったかのようだった。
「その意気だ」
彼は静かに頷くと、どこか安堵したように続けた。
「私にできることは少ないかもしれん。だが、君がその試練を乗り越えるためなら、できる限りの助力を惜しまないつもりだ」
その声には温かな真心が込められていて、私の胸にじんわりと染み渡るようだった。
「ありがとうございます、ローベルト様」
私はゆっくりと頭を下げる。その動作には、自分でも驚くほど自然と敬意と感謝の念が込められていた。
「その言葉だけでも、私にとっては十分心強いです」
頭を上げた時、ローベルトは静かな微笑を浮かべていた。その微笑には、彼が私に託してくれた信頼と期待が確かに込められているように感じられた。
ふと、膝の上に置かれた緑色のウィッグに視線を落とした。それは、これまでの私を守り続けてくれた象徴だった。
その柔らかな髪の感触に指先が触れるたび、胸の奥にどこか懐かしい感情が蘇る。けれど、それと同時に気づかされる――もうこれは必要ないのだと。
偽りを捨て、本当の自分として進むことを決めた今、それはただの「過去」として、ここに静かに横たわっている。
ローベルトが口を開く。その声は、先ほどよりもさらに深く静かで、言葉に重みがあった。
「君がここまで自分の力で切り拓いてきた道を、私は誇りに思う」
その言葉には、揺るぎない確信が宿っていた。そして続く言葉は、胸を打つような優しさを帯びていた。
「君はユベルとメイレアの娘だ。二人が見守っていると信じて、前へ進め」
その瞬間、胸の奥に小さく灯っていた炎が、一気に燃え広がるような感覚に包まれた。ローベルトの言葉が、まるで道しるべの光となり、私の未来を明るく照らしてくれるようだった。
「……はい。必ず」
力強く頷くと同時に、深く息を吸い込んだ。
今、この瞬間の全てを胸に刻みながら、私は未来に向けて歩み出す準備を整える。
ヴィル、ローベルト、そして父さまと母さま――その全ての想いを背負い、きっと私は進んでいける。どんな困難が待ち受けていようとも、信じて進めば道は切り拓けるはずだと、そう強く思った。
このシーンは、主人公が内なる迷いから解放され、自分の使命と向き合い、それを受け入れる重要な転機を描いています。同時に、ローベルトとの対話を通じて、彼が担ってきた過去の責任や信念が明かされることで、物語全体に深みが与えられています。
主人公の内面的な変化
主人公が目を閉じて息を吐き出す場面は、象徴的な「決意」の瞬間です。ここでは、長い旅路を経て抱えてきた不安や迷いが「霧が晴れる」ように解消されていきます。これにより、主人公が精神的に成長し、前へ進む覚悟を決めたことが描かれています。
彼女の言葉――「これから進む道は私自身で切り拓きます」――は、自らが主体的に未来を切り開くという宣言であり、受動的だったこれまでの姿勢からの脱却を示しています。この言葉には、父と母の遺志を受け継ぎつつも、単なる後継者としてではなく、自らの意思で行動する決意が込められています。
ローベルトの役割
ローベルトは、主人公にとって「過去」と「未来」をつなぐ存在です。彼の語る父ユベルと母メイレアの物語を通じて、主人公は自分の生きるべき道を再確認します。
特に、「ユベルとの約束を果たしたかった」というローベルトの言葉は、彼自身の長年の苦悩と、主人公に対する期待がにじんでいます。彼は将軍という地位を持ちながらも、体制を変える力を持てなかった自分に無力感を抱きつつ、主人公に希望を託します。
ヴィルの存在感
ローベルトから語られるヴィルの行動は、主人公にとって大きな励ましとなっています。表立って自分の気持ちを示さないヴィルが、影でどれだけ彼女を支えてきたかが明かされることで、彼の不器用な優しさが際立ちます。
特に、「ミツルは若いが芯は強い。まさにユベル・グロンダイルの血を継ぐ者」というヴィルの言葉は、主人公にとって強い肯定であり、自信を与えるものでしょう。彼の行動が主人公を陰で支え、彼女の内面的な成長を促す役割を果たしている点が印象的です。
過去から未来へのバトン
ローベルトが「君は真にユベルとメイレアの娘だ」と断言する場面は、主人公のアイデンティティを確立する重要な一言です。この言葉は、主人公が親の影を追うだけでなく、自らの意思でその絆をさらに強くしようとする姿勢を肯定しています。
また、ローベルトがヴィルや主人公に対して抱く信頼は、物語全体に「人々の思いがつながっている」というテーマを強調しています。主人公はただ一人で使命に挑むのではなく、多くの人々の支えと想いを背負って進む存在であることが強調されています。
ウィッグと「偽り」からの解放
膝の上に置かれた緑色のウィッグは、主人公の「過去の象徴」であり、「偽りの姿」の具現化です。それに触れる場面は、過去の迷いや保護された自分を振り返りつつ、それを超越しようとする決意を象徴しています。このウィッグがただの「過去」へと変わり果てた描写は、主人公が新たなステージへと進む準備が整ったことを示しています。
テーマの展望
この場面は、「使命」と「個人の意思」の交錯がテーマとなっています。主人公は親の意志を受け継ぐ存在でありながら、自分自身の意思で道を選ぶ力を得ています。彼女の成長は、過去の重荷を背負うことではなく、それを力に変えることにあります。
ローベルトとヴィル、そして亡き父と行方知れずの母の想いが織りなす物語の中で、主人公がどのようにして自らの道を切り拓き、次なる試練に立ち向かっていくのか――その展開が強く期待されるシーンです。




