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西部戦線後

 暖炉の火が揺れ、壁に伸びる影が濃くなった。薪が弾け、樹脂の甘い匂いが低く流れる。


 ローベルトが紡ぐ過去の真実は、私にとってあまりにも重い。その一言一言が、心の中に嵐を巻き起こす。耳を塞ぎたくなるような運命の手応え。息が詰まり、喉の奥がひりついた。


 それでも、「知りたい」という思いは留まるところを知らない。どんなに辛くとも、目を背けることはできないのだ。ローベルトの言葉の先にある、母の知られざる姿を知りたい。あの人が背負ってきたもの、見ようとしなかったもの、そして隠そうとしたもの――すべてを。


「それから、どうなったのですか?」


 私は声の端に焦燥を滲ませて問いかけた。窓の隙間風が蝋の匂いをかすかに揺らす。


 ローベルトはふと腕を組み、息を沈めるように、長く吐いた。その一息に込められた苦悩が、部屋の音をわずかに吸い込んでいく。


「王女との約束通り、私たちは軍の上層部に掛け合うことにした」


 彼の声は、谷底から反響して戻るようだった。言葉の端々に、悔いと諦念が色濃く滲む。


「だが……取り付く島もなかった。それは予想できたことではあったがな」


 ローベルトは短く苦笑し、窓の外へ視線を投げた。傾きかけた陽の光が埃を照らし出す。漂う塵が金粉のように舞い、喉に乾きを置いていった。彼の横顔は険しいままだった。


「魔獣の巣が発生する――その事実が甚大な被害をもたらすのは間違いない。だが、それ以上に大きな利益を国にもたらすこともまた事実だ」


 その一言が、喉奥に冷たい棘を差し込んだ。


「はい。それは存じています」


 息といっしょに声が零れた。ローベルトはその言葉を受け、そっと頷く。その瞳に、遠い記憶の色が宿る。


「そうか……ならば話が早い。

 上層部にとって、巣の発生はある種の“収穫”とも言える。魔素が極限まで濃縮された巣は、貴重な資源を生む場所でもある。巣から尽きることなく湧き出す魔獣から得られる魔石――それは、経済と軍備、両方の基盤を支える重要なものだ」


 彼の声は平静だ。だがその奥に宿る冷たい怒りを、私は感じ取らずにはいられなかった。


「だが、それと引き換えにどれほどの血が流されるのか。

 ……それもまたこの世界の真実だ」


 低く抑えた声に、熱がかすかに滲んだ。


「それでは……母の警告は――」


 恐る恐る口にした言葉が、喉を通る瞬間に震える。


「一笑に付されるだけだったよ」


 ローベルトは、自分を責めるように視線を伏せた。


「いや、むしろ“誰がそんな馬鹿げた話を持ち込んだのか”と詮索される始末だ。メイレア王女の言葉だったとは、とても明かせなかった。それがどれほどの波紋を呼ぶか、想像するだけでも恐ろしい」


 私は言葉を失った。母がいかにして声を上げ、その声がいかにして届かなかったのか。想像するだけで、呼吸が浅くなる。


 ローベルトの語る声には、底に沈むような痛みがあった。あの日の出来事を語るたび蘇る後悔が、彼の胸の奥でなおも燻っている証のようだ。


「ユベルは……怒りを抑えられずにいた」


 その短い言葉の熱量に、私は思わず姿勢を正す。ローベルトは視線を少し落とし、慎重に言葉を選びながら続けた。


「彼は元々上層部と反りが合うタイプではなかった。『銀翼』の翼長として長年務める中で、何度も衝突を繰り返してきたからな。その苛烈なまでの現場主義は、上の者たちには扱いづらい厄介者に映っただろう」


 彼の声が少し低くなる。そこには、かつての仲間を語る懐かしさと、その道がもたらした悲劇を振り返る苦しさがあった。


「だが、この時ばかりは……特に激しかった」


「特に、ですか?」


 問い返すと、彼は頷き、拳を握りしめた。膝の上で、その拳が静かに震えている。


「そうだ。彼にとって、メイレアの言葉を無視する行為は、理不尽な現実そのものだった。いや……そんな言葉では足りない。彼の目には、それが『歪み』、あるいは『愚かさ』そのものに映ったのだろう」


 抑えられた声に、当時のユベルが抱えた怒りが克明に刻まれている。


「彼は、王宮に直談判を申し出た」


 ローベルトが言葉を切った。その沈黙が、次に続く語りの重みを強調する。私は促すように、気配を沈めて声を重ねた。


「そこで、なんと言ったのですか?」


 彼は目を閉じ、ひと呼吸置く。苦々しさを滲ませた声で語り始めた。


「『迫りくる未曾有の脅威を放置するというなら、自分一人でも行く。上がどう判断しようと、自分は伝説の巫女の言葉を信じる。正しいと分かっていながら背を向けるなど、人として最も恥ずべきことだ』――そんな調子だったそうだ」


 怒りを押し殺したからこそ生まれる、鋭さと手応えのある言葉。ローベルトは少し顔を伏せ、低く呟いた。


「だが、当然のことながら、家臣たちは彼の訴えを聞き届けるどころか、冷たくあしらった。『巫女の言葉など、ただの伝説や迷信に過ぎない。そもそも巫女とは何者を指すのだ』と、笑い飛ばす者さえいた。ユベルは……その場で、机を叩きつけて立ち上がった」


「……そんなに?」


「そうだ。彼は日頃冷静沈着で、感情を制御することに長けた男だった。その彼ですら、この時ばかりは怒りを抑えることができなかったのだ。それほどまでに、彼は彼女の言葉を――いや、彼女そのものを信じていたのだろう」


 ローベルトは俯き、拳をさらに強く握りしめる。その仕草に、彼自身の無力さへの悔恨が滲んでいた。


「私は……と言えば、自分の無力さを噛みしめるしかなかった。そして――」


 声が小さく途切れる。私は息を詰め、次の言葉を待った。その沈黙の長さに耐えきれず、恐る恐る問いかけた。


「……そして?」


 短い沈黙の後、ローベルトは苦渋に満ちた表情で顔を上げた。その瞳に、過去の記憶がありありと映る。


「数カ月後のことだ……」


 低く、音を立てずに放たれた声が、部屋の空気を一瞬で冷やした。


「メイレア王女の言葉は、現実のものとなった――」


 その一言が、私の背筋を凍らせた。部屋の空気が、薄い膜のように張り詰めていく。


「それが……」


 声が震えそうになるのを堪え、言葉を続けた。


「……いわゆる、西部戦線と言われる魔獣の大発生だったのですね?」


 ローベルトは短く頷いた。その仕草に、事実を肯定する以上の感情が込められている。長い年月を経ても消えぬ疼きと、逡巡。その沈黙が、彼の心の奥底を映していた。


「そうだ……」


 彼の声は、厚みのある余韻を残して部屋に響いた。


「リーディス西部国境線のほぼ全域が、天を覆うほどの黒紫の闇に包まれた。その場にいた者は皆、魔術適正の有無に関わらず、肌を刺す魔素を感じたものだ。空気がねじ曲がり、現実そのものが歪む――まさに地獄だった。いや、言葉では足りぬかもしれん……」


 彼の声には、今もその光景が鮮烈に焼き付いている。苦々しい横顔を前に、私はそっと問いかけた。


「その戦いに……あなたも、父も赴いたのですね?」


 ローベルトの視線がわずかに下がる。そのまなざしは、遠い過去を見つめて霞んでいた。


「ああ……」


 静かに吐き出された一言に、どれほど多くの想いが込められているのか。彼は一瞬目を伏せ、続けた。


「その実情については、あまり語りたくはないが……」


 声が掠れ、苦悩が浮かぶ。その場に立ち会った者だけが背負う傷跡が、口ぶりから静かに滲み出ていた。


「ええ、それはよく理解しています」


 私の短い言葉が彼を和らげたのかは分からない。彼は小さく頷き、苦しむように肩を上下させた。部屋に、鉛のような沈黙が落ちる。


 胸の中で、問いかけたい言葉が燻っていた。小さな種火のように熱を帯び、声にしなければと私を駆り立てる。だが、その瞬間を掴めず、私は沈黙を貫いていた。


 この場を逃せば、もう二度と真実には触れられない。そう思った瞬間、迷いを振り切って口を開いた。


「ローベルト様……あなたはヴィル・ブルフォードという方をご存じでしょうか?」


 私の言葉に、ローベルトの表情がかすかに揺れる。ほんの一瞬、その眼差しに驚きの色が浮かんだ。


「……もちろん、知っているとも」


 低く響く声は、感情を抑えながらもどこか懐かしい。彼は私をまっすぐ見据えたまま続ける。


「彼はユベルの副官であり、最も信頼する盟友だった。戦場において、ヴィルは常にユベルと並び立ち、その決断を支え続けた男だ」


 ローベルトの声には確かな敬意が込められている。その響きに、私は自然と背筋を伸ばし言葉を重ねた。


「実は……私は彼と出会いました。そして、父の戦いについても聞きました。戦場の狂気、民衆を守るために父が取った行動。そして……その結果も」


 ローベルトの眉がわずかに寄せられる。その目は、過去を掘り起こすように静かな光を帯びていた。短く息をつくと、彼は視線を伏せた。


「そうか……君はブルフォードと会っていたのか」


 彼はしばらく思案するように間を置き、低い声で続けた。


「だが、ブルフォードはメイレアについて何も知らぬはずだ。あの件は、私とユベルの間だけに秘められたものだからな」


「はい。確かに彼は、父と母の関係について何も知りませんでした。それだけは、はっきりしています」


 私の言葉にローベルトは深く頷いた。その仕草に静かな安堵が見えたが、同時に重々しさも滲む。


「もしもの事態に備えるため、ブルフォードを巻き込むべきではない。そうユベルと決めたからだ……いや、それが正しい選択だったのか、今でも自信はないがな」


 ローベルトの言葉は鈍く響き、私の心にも影を落とす。父が抱えた使命の重さを、今更ながらに突きつけられた。


「ユベルは、誰よりも民を想いながら戦場に立ち続けた。だが、その正しさは疎まれる原因にもなった。彼が民衆を守るために取った行動は正しかったが、それが彼を嫌う連中にとって絶好の口実となったのだ。命令違反と戦線放棄――その罪で翼長の地位を剥奪され、本国送りとなった」


 彼の声には、微かな苦悩が滲んでいた。


「当時の私は戦線の維持に追われていた……ユベルを助ける術もなく、ただ彼が処罰を受けるのを黙って見ているしかなかった。今でもそれが悔やまれる」


「……父は、どれほど無念だったことでしょう」


 私の言葉に、ローベルトは短く頷いた。そして語りの調子を落としながら続けた。


「その後も戦況は一進一退を続けたが、なんとか巣の活性時期を乗り越え、三年の戦いは終息へと向かった。そして……戦後処理を終えた帰路で、あの報せが届いたのだ」


「……報せ?」


 私の問いに、彼の表情が険しくなる。深く息をつくと、静かに続けた。


「そうだ――ユベル・グロンダイルが、メイレア王女を拐い、国外へ逃亡したという報せだ」


 その言葉が、私のこめかみを冷たく締め付けた。


 声にならない震えを押し殺し、かすれた声で呟いた。気づけば拳が固く握られている。混乱する思考の中、私の視線はローベルトの表情を捉えていた。彼の瞳には奥行きのある何か――心の奥底に秘めた真実を思い返すような色が宿る。


 静かな間が落ちる。彼はゆっくりと首を振った。その動作は慎重で、語られることの重さをひしひしと感じさせた。


「そうだ。それは真実ではない。少なくとも、全てではない」


 その一言が、私の中で何かを引き裂いた。暗い影を宿す真実が私を覆い尽くしていく。その奥に、父と母に纏わる秘密が隠されている。そんな確信にも似た予感が、胸の中で囁き始めた。


 私は何も言えなかった。ただ、目の前で語られる過去の記憶を必死に追うことで精一杯だった。


「彼を突き動かしてきたもの。それは理不尽な現実に対する怒りだ」


 ローベルトの声は低く、どこか沈痛だった。確かな思いが込められたその言葉に、私は耳を傾けた。


「上層部との軋轢、王宮での家臣を前にした国を憂う口上、そして西部戦線での彼の選択。そのどれもに共通するのは、この国を守ること、そして人民を守ることだった。そして、それはメイレア王女の言葉と願いに根ざしたものだ。そう思わないかね?」


 彼の言葉に、私は思わず短く頷いた。


「……はい」


「そして、メイレア王女もまた、誰よりもこの国の安寧を望んでいた。しかし、国はその彼女の警告を無視し、結果として厄災に対する対応を遅らせ、多くの人命を犠牲にした」


 ローベルトの語る言葉が、重い霧のように頭上に覆いかぶさる。耳の奥で鼓動がくぐもり、視界の縁がわずかに鈍る。この国の無策さ、失われた無数の命。母が必死に訴えても届かなかった声。それらが、私の中に渦巻く感情を引き起こした。


 私は、怒りに似た感情を込め、わざとありえない仮説を口にした。


「では……あなたは、父と母がそんな『くだらない国』を見限った……とでも言いたいのですか?」


 その言葉が落ちるや、ローベルトの瞳がわずかに見開く。驚愕の色を一瞬だけ宿し、胸の底へ息を沈める。暖炉のはぜる音に重ねて、穏やかな声が返った。


「そんなわけがなかろう……」


 机上の影が長く伸び、彼の横顔の皺へと静かに沈んだ。


「少なくとも、二人に共通するのは、一点の曇りもない、決して諦めることのない強固な意志を込めた瞳だ。そんな者たちが、現実から逃避するような真似をするわけがない。君自身、よく理解しているはずだ」


 彼の言葉は、私の心の奥に静かに響いた。少しだけ深呼吸をして、私は力強く答える。


「……はい」


 ローベルトは小さく頷き、続ける。


「そして、ここから先は私の推測であり、願望も混じった話だ。しかし……私はこう考えている。

 ……彼らは、何かを探し求めて、国を後にしたのではないか?」


「探していた……?」


 私は思わず問い返す。その言葉には、私の知らない何かが隠されている気がしてならなかった。


「国を救うため……いや、もしかしたらこの世界そのものの矛盾を正すために、何か必要なものを探し求めていた。そう思えないか?」


 その言葉に、私の心臓が高鳴る。何かを探していた――それは、一体何だったのか。


「まさか……」


 私の視線は、そっと手に握られた剣に落ちた。

 白い剣――マウザーグレイル。父が最後に握っていた剣であり、母が大切に守り抜いた剣。これが、二人の探していた何かに関係している。そんな思いが、ふと頭をよぎった。


「もしかして……それはこの剣を指すのではないでしょうか?」


 ローベルトの目が微かに見開かれる。その反応は、私の推測が的外れではないことを示しているようだった。彼は短く息をつきながら、静かに頷いた。


「うむ、私はその可能性に期待して、君をここに招いたのだ」


 ローベルトの声は深く静かで、部屋の空気をさらに重厚にした。彼が放ったその一言は、私の胸に鋭く突き刺さる。同時に、そこに潜む何かを震わせた。心の奥にしまわれていた鍵が、ひとりでに回るかのようだ。


 答えを探す私を見つめ、彼は短く息を吐いた。


「これで、私の意図を理解してもらえただろうか?」


 その問いは穏やかでありながら、どこか試すような色を帯びていた。

 私は喉の奥で引っかかる言葉を飲み込み、ただ深く頷く。言葉にならない感情が渦巻いていたが、それを表す術を持たない。彼の言葉が指し示すものは、私が避けられない道。それが、どうしようもなく鮮明に迫ってくる。


「では、私からもあなたに明かしましょう」


 気持ちを整えるように深く息を吸う。覚悟を込めた声で、言葉を紡いだ。


「父と母は、この剣を『マウザーグレイル』と呼んでいました。そして、それは王家が所有する聖剣と全く同じ名前を持ち、大きさも形状も一致しています。この奇妙な一致について、あなたの見解を伺いたいのです」


 ローベルトは眉を僅かに動かし、静かに視線を伏せる。その表情は、記憶の奥底を探るようでもあり、慎重に言葉を選んでいるようでもあった。


「そうだな……」


 抑えたローベルトの声が、静寂の中で響く。それは慎重さを含み、言葉の先に宿る重みを予感させた。


「少なくともメイレア王女にとって――王家の聖剣は、本当の『聖剣』ではなかった。そう考えれば、辻褄が合うだろう」


 予想していた答えだった。それでも、その一言が私の胸に冷たい重石を落とす。心がざわめき、視界の隅の剣の柄が妙に重々しく感じられた。


「……それは、正しいことなのかもしれません」


 気づけば、私の声は抑えられていた。静かな響きに、自分自身の戸惑いがにじむ。


「母にとってこの剣は、単なる武器ではなかったのでしょう。それは――おそらく父の死後、私に引き継がれてからも同じです」


 目を伏せながら言葉を紡ぐたび、胸の内に眠っていた記憶がよみがえる。

 あの夜、剣を手にした瞬間に感じた、誰かの思念が流れ込むような感覚。あれは夢でも幻でもなかった。


「この剣を受け継いでからというもの、私は力に目覚めると同時に、この剣の中に宿る存在――その魂と心を通わせるようになったのです」


 視線を上げると、ローベルトがわずかに目を細めてこちらを見つめていた。その瞳には興味と慎重さが混じり合い、彼の思索の深さを伺わせる。


「もし、それが事実であるとするならば……」


 ローベルトは考え込むように一呼吸置き、その静かな声を続けた。


「王家が守ってきた聖剣は、紛い物である可能性が高い。だが、真贋を見極めるには、実際に触れて確かめるほかない。それができるのは、王女の娘である君だけだ」


「ええ、そうです」


 私は深く頷きながら答えたが、その声には自然と力がこもった。


「けれど……その機会を得ることは容易ではないでしょう。特に王家や貴族、国の上層部が認めるはずもありませんから」


 ローベルトの口元がわずかに緩む。その笑みに込められたのは、皮肉とも冷笑とも取れる微妙な色合いだった。


「その通りだ。彼らは伝承を信じようとはしないくせに、それを政治の道具として利用することには熱心だ。まったくもって厄介な連中だよ」


「仮に私が持つ力――“精霊器接続式魔術”を示したとしても、それすらもただの『まやかし』として片付けられるでしょう。それが権力者のやり方です。見え透いていますよ」


 吐き捨てるように告げた瞬間、自分の声がかすかに震えていることに気づいた。苛立ちと悔しさが胸の奥で燻り、剣の柄を握る手に自然と力が入る。


「それでも、君は挑まねばならない」


 ローベルトの声が冷静に響いた。抑えた調子には、どこか慈悲深さを含む確固たる意志が宿る。


 彼の視線が私を射抜くように絡め取る。瞳の奥には、私の迷いを見透かしたかのような鋭さがあった。彼は多くを語らずとも、言葉の重みで私を導こうとしている。


「現国王になってからというもの、王室の体制はますます硬直化し、統制を強めてきた。だが、その歪みはもっと前から始まっていたように思う。

 メイレア王女が姿を消し、先代の王が生気を失い、玉座にお見えになることも稀になったあの時期から、何かが狂い始めたのだ――」


 ローベルトの言葉は低く響き、過去の闇を底から掬い上げるようだった。その一言一言が、胸に鈍い手応えとなって押し寄せる。


 私は、思わず小さく首を傾げた。


「……先の王と母の間に、一体何があったのでしょう……?」


 その問いを発した瞬間、ローベルトは瞳を伏せ、短い沈黙を挟む。目の奥で記憶を探るような微かな動きがあった。それからゆっくりと顔を上げ、言葉を選ぶように静かに口を開いた。


「私には断言はできない。ただ……一つ確かなのは、先王陛下がメイレア王女を失ったことで、今も深い後悔を抱いているということだ」


 彼の声には、微かな憐憫が滲んでいた。それが、私の心の奥底にどこか刺さる。


「そうですか……」


 自然と視線を落としながら呟いた。もしその言葉が事実なら、直接問いただしたい思いが湧き上がる。


「一度、先王にお会いして、直接話を聞いてみたいです……。今はどちらにおられるのですか?」


 その問いに、ローベルトは短く息をつく。


「離宮に隠居していると聞いている。だが、不在が多いらしい。私としても君を引き合わせたいところだが、現状では……難しいだろう」


 彼の言葉の端々に、現状への歯痒さと無力感が滲んでいた。それが余計に私の胸に残念な思いを募らせた。


「……それは残念です」


 私の口から自然と零れ落ちた声に、ローベルトは短い吐息を漏らした。それは慰めにも叱咤にも似た、微妙な余韻を帯びていた。


「だが、まずは国王との謁見が待っている。これは避けられまい。そして、それが君にとって最初の試練になる」


「はい。望むところです」


 私がそう答えると、ローベルトの眼差しが僅かに変化した。期待と警戒が入り混じったような複雑な色が、その瞳に揺れている。


「くれぐれも、謁見の場では冷静でいることを心がけてもらいたい」


 ローベルトは一拍置き、言葉を選びながら真剣な声で続けた。


「……だが、万が一危険を感じたら、何を置いても逃げ延びることだ。それが可能なだけの力が、君にはあるのだろう?」


 その問いかけに、私は一瞬息を詰めた。そして、わずかに口元を緩めて微笑む。


「……そう見えますか?」


「もちろんだとも」


 彼の答えは淡々としているが、揺るぎない信念の込められた言葉だった。


「君は閃光ユベルの娘であり、魔術師『黒髪のグロンダイル』だ。その名に恥じぬ実力の持ち主であるはずだ。違うか?」


「それは過分な評価というものです――」


 私は苦笑しながら頭を少し下げた。


「――私など、大したものではありません」


「そうか。だが、ひとつだけ言わせてほしい」


 ローベルトは改めて姿勢を正し、私をまっすぐ見据える。その表情には、ただの助言ではなく、重みのある思いが込められていた。


「ユベルとメイレア王女は、その剣と君という存在に、すべてを託したのではないかと、私は思うのだ」


「……私に……?」


 自分でも驚くほどか細い声が漏れる。その言葉の手応えが、胸に深く沈んだ。自然と問い返す私の目を、ローベルトはまっすぐに捉えた。


「そうだ」


 彼の瞳には揺るぎない光が宿っていた。その光は、過去と未来をつなぐ信念のように力強く輝いている。


「希望的観測など、私の性には合わないが、それでもそう信じたいのだ。二人が君という未来に託した思いを――」


――希望。


 その言葉に、胸の奥で静かに灯った炎が広がる。冷たい孤独を溶かし、私の心全体を覆っていく。


――決意。


 それが私がこれから歩むべき道を照らす、揺るぎない光であることを確信する。


――そして、使命。


 過去と未来をつなぐそれがどれほど重くとも、背負わねばならない。今なら、そう言い切れる。


「それでは……」


 私はそっと顔を上げ、まっすぐローベルトを見据えた。


「その時が来たのなら、私もこの偽りの姿を捨てましょう」


 そう口にした瞬間、自分の声がどこか震えていないかと不安になる。

 ローベルトは一瞬驚いたように眉を上げたが、すぐに深い理解の色を瞳に宿し、何も言わなかった。ただ、私の行動を待つように静かに視線を向ける。その沈黙が、私の迷いを消し去ってくれるようだった。


 ゆっくりと両手を頭に沿える。


 この国に足を踏み入れて以来、この偽りの姿に守られてきた。指先が緑色のウィッグの柔らかな毛に触れる瞬間、ほんの少しのためらいが胸をよぎる。それでも、覚悟を新たにした私は、その髪を掴む手にわずかに力を込めた。


 指がウィッグの根元を丁寧にたどり、耳の周囲に施された留め具に触れる。普段と違う慎重な仕草に、鼓動が少しずつ速くなるのがわかった。


 金具が外れる音が静寂の中に小さく響く。留め具の冷たさが指腹に移り、皮膚がきゅっと縮む。髪の根元にこびりついた微かな汗の塩気が、指先にざらりと残った。その音が、私に決断を促す。


 外す準備が整ったウィッグの長い髪が、重みを感じさせながら肩に流れ落ちる。私は片手でそれを支え、もう片方の手で頭部に固定された最後の留め具に手をかけた。


 肺を満たす息をひとつ置き、動作を止めた。


 偽りの象徴――それを取り払えば、もう戻れない。何かを失う恐怖が、静かに胸を締め付けた。


 けれど、私は目を閉じ、もう一度喉奥まで空気を押し込んだ。静かに手を動かし、残る金具を外した。


 ウィッグが頭から離れる。

 指先から滑り落ちる緑色の長い髪。それはまるで過去の名残が形を持ったかのようだ。その鮮やかな緑が肩からさらりと滑り落ちるのを、私はほんの少しだけ視線で追った。


 やがてその動きが止まり、私の膝の上に収まる。触れていた指先にはわずかな温もりが残っていたが、それが偽りであることを思えば、それすらも消えていくように感じられた。


 偽りの髪が落ち、むき出しのうなじを空気が撫でた。革張りの椅子がわずかに軋み、部屋の匂いが入れ替わる。ひやりとした感触が走る。さっきまで肌に触れていた暖炉の熱が、いまは遠のいている。私が本来の姿をさらけ出したという現実が、そこにあった。


 ローベルトの瞳が微かに揺れる。その変化は一瞬のことだったが、彼が目の前に現れたものを受け止めるまでの葛藤を感じさせた。


 窓の明かりの中に現れたのは――漆黒の黒髪。


 それは夜闇そのものを映し出すような、深い光沢を帯びていた。緑色の鮮烈な印象とは正反対の色彩。それが私本来の姿だ。


「……そうか」


 低く絞り出すような声が、ローベルトの口から漏れる。その声には、さまざまな思いが混じり合っているようだった。


 彼は深く頷き、静かに視線を戻した。


「これが、君の真の姿か……」


 その言葉は鈍く沈み、けれどどこか優しさを含んでいた。それは私の中にあった迷いを溶かし、代わりに静かな覚悟を染み込ませていく。


「はい、これが私です」


 緑色の髪があった場所を軽く撫でながら、私は初めて自分の言葉に確信を込めて答えた。その声は静かだったが、どこまでも真っ直ぐだった。


 ローベルトの瞳に揺れていた感情は、今や穏やかな光へと変わっていた。そして、彼の言葉が再び静寂を破る。


「黒髪のグロンダイル――まさに君にふさわしい」


 その言葉が胸に響いた瞬間、私は目を閉じて静かに頷いた。これまで纏っていた偽りの緑色の髪を膝に抱えながら、私の中に一つの決意がはっきりと宿った。


 黒髪が空気を吸い、私の名を思い出す。


 これから歩むべき道――それは、もう迷うことなく、胸の奥で静かに光っている。

 このシーンは、心情の描写とキャラクター同士の対話を中心に据え、物語の中での重要な転換点を描き出しています。


ローベルトの語りが果たす役割

 ローベルトの話す「先王とメイレア王女」のエピソードは、単なる過去の語りではなく、主人公が自らの使命を認識し、前に進むための鍵となっています。ローベルトの声には、語り手としての重厚さと信頼感が込められており、語られる内容は、主人公にとって受け止めるには重すぎる運命そのもの。しかし、その重さを真正面から受け入れようとする主人公の姿勢が、この物語の芯を形作っています。


主人公の内的葛藤と成長

 主人公は母の知られざる一面を知り、自分に託された使命の大きさを次第に理解していきます。その過程で、彼女の内面的な変化が繊細に描かれています。


葛藤と覚悟の表現

 ローベルトの話を聞くうちに生まれる「知りたい」という焦燥と、「知ることで負う痛み」への恐れが、交錯する心情として丁寧に描かれています。特に、主人公が「現国王と対峙する覚悟」を固める場面では、決意が静かに、しかし力強く育まれていることが感じられます。


「希望の灯火」としての使命感

 ローベルトが「ユベルとメイレアは、君に希望を託した」と断言する場面は、主人公がその重責を受け止めつつも、それを希望として前向きに捉える転機となっています。この「灯火の広がり」という比喩表現は、主人公の成長と使命感を象徴する描写です。


ローベルトの存在と語りの重み

 ローベルトの語り口には、彼自身が過去に抱えた痛みと無力感が滲み、彼が主人公に語ることで過去を清算しようとしているかのようにも感じられます。特に、「先王がメイレアを失った後に抱いた後悔」や、「ユベルの怒り」という具体的なエピソードは、物語の背景に厚みを与えています。


 また、ローベルトの台詞には、主人公への期待と警戒心が交錯していることが明確に描かれています。「冷静さを保て」という忠告や、「危険を感じたら逃げろ」という言葉の裏には、主人公を守りたいという思いが滲んでおり、それが彼の父母への敬意ともリンクしています。


シーン全体の構成とリズム感

 このシーンは、物語の流れを停滞させることなく、情報と感情を織り込んでいます。


王室の現状と過去への言及

 現国王の統治がどのようなものであるかを提示しつつ、先王とメイレア王女の関係に触れることで、過去の王室内の複雑な感情と政治的背景を描き出します。


主人公の質問を通じた情報の掘り下げ

 主人公がローベルトに「先王と母の関係」や「王室の変遷」を問いかけることで、過去の真実が少しずつ明らかになります。


使命と覚悟を明確にする転機

 ローベルトの言葉を受けて主人公が「自分が何をすべきか」を自覚し始める様子が描かれています。このシーンを境に、彼女が「託された希望」を胸に行動に移る準備が整うのが分かります。

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