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ヴィルとユベルと剣の友情と真実

 あれから、しばらくの時が過ぎた。


 ヴィルの鋭い眼差しは、私の内側をすべて見通すようで、その視線に触れるたび、背筋に冷たいものが走る。だが、彼の低い声がもたらす奇妙な安堵もまた、確かだった。なにより、彼が父さまと繋がっているという事実が、私をこの場所に留めていた。


 指先が震えても、この手を離すことはできなかった。逃げずに前へ進む。その脆い決意だけが、今の私を支えていた。

 込み上げる感情に蓋をするように、私は引きつる唇を無理に持ち上げた。それが偽りの笑みだと、自分がいちばんよくわかっている。


 ヴィルは、何も問いたださなかった。私の強張った表情を無理に解そうともしない。重い沈黙ではなく、奇妙な安らぎと呼べる空気が、二人の間に漂っていた。


 それからの日々は、共にあった。狩りに出て魔獣を討ち、昼食を分け合う。街に戻れば夕食を囲み、夜は暖炉の火を前に、少しだけ酒を飲みながら語り合った。


 酒が入ると、ヴィルは饒舌になった。琥珀色の液体が杯に注がれるたび、固く結ばれていた言葉がほどけるように溢れ出す。彼が語るのは、私の知らない父さまの過去だった。


 父さまは、どんな人だったのだろう。

 私の知る父さまは、森の奥の小さな小屋で、母さまと静かに微笑み合う人だった。暇さえあれば剣を振り、私を背負っては森の草花について教えてくれる、優しい人。怒れば怖かったが、それでも、私にとってはただ一人の“父さま”だった。


 ヴィルの言葉は、私の知らない父さまの輪郭を、少しずつ描き出していく。

 そのひとかけらずつを胸に仕舞うたび、何かが私を満たしていくような感覚があった。


「俺は東の辺境の村にある剣術道場で生まれた。だが、親父とは折り合いが悪くてな。ある日、勢いのまま家を飛び出しちまった。それから俺の人生は放浪の連続だった。各地を渡り歩き、武者修行をしながら傭兵やハンターとして名を上げ、向かうところ敵なしで自信満々だった俺は、もっと強い相手を求めて渇望していたんだ。今にして思えば、俺も青かったということだな」


 彼にそんな血気盛んな青年時代があったとは。今の落ち着いた雰囲気からは想像もつかない。私は暖炉で爆ぜる火の粉を見つめ、揺らめく炎の奥に彼の若き日の幻を探した。


「そんな時、南の大国リーディスに“閃光”と噂されるユベル・グロンダイルという強者がいると耳にした。あいつは国家騎士団に所属し、その実力で勇名を轟かせていた。俺はこの機を逃すまいと決め、リーディスへ向かい、接触の機会を狙ったんだ」


 父さまが、騎士団に。しかも文化の最先端といわれるリーディス王国に。思わず息を呑むと、こめかみが小さく脈打った。


「ある日、街の酒場であいつを見つけたんだ。仲間たちと陽気に談笑する姿からは、覇気というものがまるで感じられなかった。『こんな程度なのか』と高をくくって、俺は挑戦状を叩きつけたんだが、その瞬間、あいつの周囲の空気が一変した。凄まじい闘気が立ち上り、俺は武者震いが止まらなかったよ」


 わかる気がする。本当に強い人は、その力を安易に見せつけたりはしない。彼の言葉に、私はごくりと喉を鳴らした。


「ところが、あいつは俺の申し込みを拒んだ。戦いたいなら騎士団に来いと挑発してきてな。腹が立ったけれど、その挑発に燃えた俺は、興味もなかった国家騎士団に入団することになった。生意気な騎士連中の鼻を明かしてやりたかったしな」


 その反骨心は、どこか私にも通じるものがあった。挑発されて黙っていられない気質も。


「あいつの推薦で騎士団に加わった俺は、瞬く間に実力を示して頭角を現した。だが……ユベルだけは俺にとって越えられない壁だった。初めて刀を交えた時は、そりゃもう、こてんぱんにやられたもんさ」


 彼の言葉が、すぐには意味を結ばなかった。ヴィルと父さまは同格だと、そう思い込んでいたから。彼自身の口から語られる父さまの強さが、胸の奥を静かに揺さぶる。


「俺の剣がいくら素早く、激しく振り下ろされても、あいつは一分の隙も見せない。むしろ、確実にカウンターを入れてくる。水面を滑るような変幻自在さで、全くつかみどころがなかった。自分の未熟さを痛感したものだ」


 その戦いぶりに、私は父さまの剣の残像を重ねていた。あの水のように滑らかな動き。あの華麗さの源を、垣間見た気がした。


「だがな、それが逆に俺の闘志に火をつけた。毎日、諦めずに打ち合いを繰り返すうちに、不思議なことにあいつへの強い信頼と友情が芽生えていったんだ。倒したくて仕方ない相手だったはずなのに、気づけば一緒に剣を交える日々が楽しくてな。もちろん、いつだって勝ちたいと思っていたさ。でも、それ以上にあいつと剣を交わすこと自体が喜びになっていた。そうしているうちに、俺はあいつと対等に戦える力を手に入れた。その時は嬉しかったな……」


 過去を懐かしむ彼の横顔を見ていると、暖炉の火とは違う熱が、胸に灯るのを感じた。言葉よりも剣で語り合う友情。父さまもまた、彼の中に特別な何かを見出したのだろう。


「それから俺は、あいつの副官として数多の戦場を共に駆け抜けた。あいつのおかげで俺は強くなり、成長できたと思う。辛いこともたくさんあったが、そのすべてが貴重な経験だ。あいつとの日々は、俺にとってかけがえのないもの。ユベルはただの上官じゃない、師であり、仲間であり、唯一無二の友だった」


 彼の声に滲む、揺るぎない敬意。

 目頭が熱くなる。ヴィルの言葉を反芻するたび、内臓を熱で炙られるようだった。私の中で、父さまの存在がさらに大きく、眩しい光を放ち始める。


 だが、次に続いた言葉は、私の心を鋭く抉った。


「……なのに、あいつがどうして、あんなことに……」


 それまで滑らかだった彼の言葉が、不意に途切れる。

 苦悩を滲ませた表情に、後頭部がじわりと汗ばんだ。次に語られる真実が、ただならぬ重さを宿していることを、肌で感じ取っていた。


「なにがあったの?」


 喉が渇く。知りたい。けれど、知るのが怖い。


「知りたいか?」


 私はこくりと頷いた。


 しばしの逡巡の後、ヴィルは手にした杯に視線を落とす。


「あいつの娘であるお前には、知る権利があると思う。話そう……。今から二十年以上前、リーディスの西方国境一帯で、魔獣が大発生した。後になって『西部戦線』と呼ばれるようになる戦いの始まりだ。ユベルは王家直下の銀翼騎士団の右翼リーダーとして出陣し、俺は副官として従った。だが、そこはまさに地獄だった……」


「地獄……」


 その一言を、私は小さく繰り返す。

 想像しただけで、砂嵐のような耳鳴りがした。これまで私が相手にしてきた魔獣の群れとは比べものにならない数が、津波のように押し寄せてくる。その光景に、身体が震えた。


「近隣の村々や人々は次々と魔獣に蹂躙され、俺たちは守るために必死に戦った。三日三晩、休むことなく剣を振るったこともある。戦線はなんとか維持できたが、絶え間ない戦いと長引く補給線のせいで、兵站が滞った。兵士たちはとうとう食料も底を突いた」


 彼の語る惨状に、胃の腑を直接掴まれたように息が苦しくなる。


「ユベルは上層部に物資補給を何度も求めたが、思うようにいかなかった。飢えた兵士たちの中には、略奪に走る者も出た。人間は極限に追い込まれると、生きるために何でもやってしまう。それが、戦場の狂気というやつだ」


 ヴィルの目に、過去の痛みが滲んでいた。


「ユベルはその惨状に耐えられず、戦線を俺に預けて、わずかな手勢で規律を乱した連中を片っ端から捕らえて回った。逃げ惑う民には、身銭を切って保障し、退路を確保してやったんだ」


 父さまが、どれほどの困難に立ち向かったのか。彼が国土と民を護る真の英雄だったのだと知るたび、胸の奥が焦げるように熱くなった。


「俺はユベルの行為に、深い感動を覚えたよ……。あいつこそが本当の騎士だと思った。しかし……その行動が上官たちの反感を買った。『出過ぎた真似をするな』とか、『戦線放棄とは何事だ』とか。それに、ユベルの出世を妬む連中には、まさに格好の機会だったんだ。結局、あいつは命令違反と戦線放棄の罪で左遷されて、本国へ送り返されてしまった」


 私は思わず唇を噛んだ。


「そんな理由で? 父さまは正しいことをしたのに! なのに左遷なんて……」


 喉がひきつり、掠れた声が漏れる。怒りと悲しみに、奥歯がぎりりと軋んだ。


「その通りだ。俺は“騎士団”って看板に唾を吐きかけてやりたくなった」


 ヴィルは冷ややかに言い放つ。その瞳の奥に、深い哀しみが宿っていた。


「だが俺は、ユベルが最後に託してくれた言葉を胸に刻んでいたんだ。『いかなる苦難が訪れようとも、この国と民を背負い、決して揺らぐな』、とな」


 その言葉の重みが、私にも伝わってくる。


「やがて魔獣の発生は収まり、戦いは終わった。俺は本国に戻り、ユベルに報告したかったよ。『約束通りやり遂げたぞ』ってな」


 けれど、そのとき、彼の表情が険しく歪んだ。杯を持つ手が微かに震え、琥珀色の液が縁で揺れる。


「だがな、戻った俺を待っていたのは……信じられるか? 俺自身、今でも信じたくない話なんだがな」


 彼の声が、苦々しく震える。


「ユベルが……よりにもよって王家の第三王女をさらって、行方をくらましたっていうんだ」


 その言葉と同時に、暖炉の火がぱちりと爆ぜた。世界の音が遠ざかり、視界の縁が白んでいく。床が抜け落ちたような感覚に、息が喉の奥で凍りついた。


 気づけば、私は叫んでいた。


「嘘だっ!」


 胸の奥がひりつき、目の奥が灼ける。それは、あらゆる理不尽からの、必死の拒絶だった。


「俺だって信じたくなかった。だが、その噂はもうどうにもならなかったんだ。話を聞かされた時には、あいつには多額の懸賞金がかけられ、立派な“お尋ね者”になっていた……」


 彼の言葉が、背骨を氷柱で打ち据える。冷たい衝撃に手のひらが震え、息が詰まった。


「父さまが、そんなことするはずがないっ!!」


 感情のままにテーブルを叩く。拳の痛みが、さらに混乱を煽った。


「当たり前だ。ユベルの行動には必ず理由があるはずだと、俺は信じていた。だから、事の真相を確かめるために騎士団を辞めて、旅に出たんだ」


 その言葉が、凍てついた絶望の中に灯る、小さな光になった。


「しかし、どんなに探し回っても、あいつの行方は杳として知れなかった。それでも俺は諦めなかった。二十年近く、あいつを探し続けてきたんだ」


「そ、そんなに……? あなたは父さまのために、そこまで……」


 涙がこみ上げる。彼の揺るぎない友情に、感謝の気持ちが溢れて止まらなかった。


「ところで話は変わるが、お前の母親について知りたい」


 不意の問いに、肩が強張った。彼の静かな声が、心の奥に潜んでいた恐れを呼び覚ます。


「どうして、そんなことを聞くの? あなた、何が言いたいの?」


 声が、自分のものではないように震えた。


「どうしても、お前のお袋の名前を確認しておきたいんだ」


 彼の視線が、私を逃げ場のない角へと追い詰めていく。


「それに、何か意味でもあるの……?」


 問い返す喉が擦れた。来る、と直感が告げている。無意識に剣の柄を握る手に、じっとりと汗が滲んだ。


「俺はな、お前がユベルと、その王女との子供なんじゃないか、と考えている」


 全身から、血の気が引いていく。

 彼の言葉が刃となって心を貫き、呼吸が浅くなる。鼓動が耳の奥で破裂音を立て、テーブルの木目がぐにゃりと歪んで見えた。


「お前の母親の髪の色は黒、瞳は緑がかっている、そうだな?」


 その穏やかさが、残酷なまでに私を追い立てる。


 私は自分の髪に触れた。ごわついた漆黒の髪。この大陸では、あまりに珍しい色。


「ええ、私と同じよ……」


 彼の真剣な眼差しに押され、そう答えるのが精一杯だった。


「そうか。俺が聞いた特徴と一致する。何より、この大陸で黒髪は極めて珍しい」


 言葉が重くのしかかり、心臓を直接掴まれたように痛む。


「それじゃ、私は……?」


 唇から漏れた声は、か細く震えていた。


 暖炉の薪が爆ぜる音だけが、やけに大きく響く。ヴィルは一度、固く唇を結び、まるで口の中で何度もその名を転がすようにしてから、ようやく、絞り出すように言った。


「母親の名は……メイレア――」


 その音節が、私の胸を打ち抜いた。


「メイレア・レナ・ディウム・フェルトゥーナ・オベルワルト、というのではないのか?」


 続く言葉の一つ一つが、刃となって胸を裂く。

 瞬間、鼓膜の奥で何かが破裂したように、鼓動だけが世界の音になった。


 嘘だ、と頭の中で繰り返すことしかできない。


 ヴィルは静かに息を吐いた。


「やはりそうか……。彼女はリーディス王家の正統な血筋を引く、紛れもない王族だ」


「母さまが、リーディスのお姫さま……?」


 その言葉が、胸に突き刺さる。


「そうだ。つまりお前はリーディス王家の血筋を継いでいる」


 私の小さな世界が、根底から覆された。


「そんなのどうでもいい……父さまと母さまは、私が見ていても恥ずかしくなるくらい仲が良くて、とてもそんなふうには見えなかった。ただ……」


「ただ?」


「私たちは人の来ない森の奥でひっそり暮らしていた。父さまは人前では偽名を使っていて、母さまは決して森から離れようとしなかった。それが不思議だったの……」


 声が震え、呼吸が乱れる。過去の断片が浮かび上がるたび、胸が苦しくなった。


「なるほど……。二人の間に何があったのかは、俺にも分からない。でも、俺はあいつを信じている。名前を隠して暮らしていたのには、きっと何か深い理由があったはずだ」


「それって、もしかしてこの剣のことかしら……?」


 マウザーグレイルに手を伸ばす。冷たい金属の感触が、心の底まで染みていくようだった。

 すると、剣を通じて茉凜の声が響いた。


《《美鶴……ごめんね。わたしが目覚めたのは、あなたが前世を取り戻した時だから、二人については何も知らないの……。たぶん、マウザーグレイルはそれを覚えているのかもしれない。でも、それを知るには深く潜らないといけないと思う》》


 言葉が、鉛のように心に沈む。

 彼女の悔しさが流れ込んできて、自分の無力さと混じり合い、息が詰まった。真実のために、彼女にこれ以上の負担はかけられない。


「どうすればいいっていうの……」


 心が叫ぶ。

 目の前に広がるのは、あまりにも深く、暗い森だった。どちらへ踏み出せばいいのか、今はまだ知る術もなかった。けれど、この手で真実を掴み、辿り着かなくてはならない――そう、思わずにはいられなかった。

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