お昼のためにならない魔術講座
戦闘の熱がまだ肌に残る中、私たちは昼食のため、水場があると聞く場所へ馬を進めた。
広大な狩り場を行き来する狩人たちが、束の間の休息を得るという中継地点。疲れを癒やすには、確かにちょうどいい。
やがて辿り着いたのは、目印程度の粗末な小屋と、古びた井戸がひとつあるだけの場所だった。乾いた風が、砂埃を小さく巻き上げている。
「うん、ここなら少し休めそうだな」
ヴィルがスレイドから軽やかに降り立ち、詰めていた息をふっと吐いた。
「そうね、水があるのは有り難いわ」
私も馬上から降り、井戸の縁石に手をかける。ひやりとした石の感触。中を覗り込むと、澱んだ水が底に揺らめき、湿った苔の匂いがした。喉の奥で、小さなため息が漏れる。
「水の方はどうだ? 使えそうか?」
ロープの先に結ばれた古い釣瓶を見下ろし、ヴィルが尋ねる。
「人が飲むにはちょっとね。馬には問題ないと思うけど」
私が肩をすくめると、彼は「まあ、いいだろう」と頷き、さっそくスレイドを水場へ連れて行った。
その間に、私は乾いた土の上に薄い毛布を広げる。ごわついた布の感触を確かめながら腰を下ろし、昼食の準備に取りかかった。空腹を訴える腹の音を聞き、ようやく一息つく。
腰のベルトに下げたマウザーグレイルに指先で触れ、茉凜に呼びかけた。
「茉凜、お昼ご飯だよ。今日はちょっと奮発したんだ。期待して」
《《うん、お昼お昼! お腹空いてるから楽しみっ!》》
心に響く快活な声に、強張っていた口元が自然と緩む。
包みから取り出したのは、ライ麦に似た「グリム麦」の硬いパン。それから「ヴァルド」と呼ばれる獣の干し肉と、「ドレイク」という単角牛の乳から作られたチーズ。日本の食卓とは比べようもないが、ここエレダンでは上等な部類に入る。
やがて、馬の世話を終えたヴィルが少し離れたところに腰を下ろした。旧知の友のように、その動作には奇妙な安心感があった。
《《おっと、ヴィルが来たみたいだから静かにするね》》
茉凜の意識が、ふわりと内側へ溶けていく。
「もう腹ペコだ。早く食べよう」
その声に応じ、私は彼の分の食事を薄布で包んで差し出した。
「はい、どうぞ」
「おう。ありがとうな」
「いただきます!」
そう呟き、私は目を閉じてそっと合掌する。
その仕草が珍しかったのだろう。ヴィルが不思議そうに首を傾げた。
「イタダキマス? それって何の呪文だ?」
彼の問いに、思わず笑みがこぼれそうになる。前世で当たり前だった習慣は、この世界では奇妙な儀式に映るらしい。
「これはね、ご飯がおいしくなる呪文だよ。作ってくれた人たちや、食材になってくれた生き物や作物へ感謝するためのものなの」
説明すると、ヴィルは顎に手を当て、しばし考え込む。
「へえ……初めて聞く考え方だが、面白いな。ありかもしれない。俺も真似してみよう」
彼は私と同じように、無骨な手を合わせた。
「イタダキマス」
その素直さに、胸のつかえが少し和らぐ。堅物に見えて、案外と柔軟な人なのかもしれない。
私はパンをナイフで薄く切り、塩気の強い干し肉と、豊かな香りのチーズを乗せて口に運んだ。素朴だが、噛みしめるほどに麦の風味が広がる。この荒れ地で新鮮な食材は望めない。それでも、この組み合わせに満たされる自分が少し嬉しかった。
食べ進めるうち、ヴィルが腰の水筒を外し、無造作にこちらへ差し出した。
「お前も一杯どうだ? 酒は好きなんだろ?」
つんと鼻をつく、強いアルコールの匂い。
まさか昼間から勧められるとは。私は呆れた視線を彼に向け、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「あら、この前は私を子供扱いしてたのに、急にどうしたの?」
皮肉を混ぜて問いかけると、ヴィルは唇の端を上げて答える。
「見た目がどうあれ、俺は一人前として扱うつもりだ。お前には、それだけの実力がある」
その真っ直ぐな言葉に、心臓が不意に跳ねた。
前世から数えれば二十一歳。けれど、この身体はまだ十二歳。精神は大人でありたいと願いながら、肉体との乖離が思考を鈍らせる。どう振る舞うのが正しいのか、答えは出ない。
「昼間からは勘弁してよ」
ため息と共に言葉を返す。ヴィルは気にした様子もなく水筒を呷った。
「かもしれんが、この辺りじゃ、ろくな水は手に入らんだろ? ならば、俺は酒の方が気楽でいい」
荒れ地で澄んだ水は銀貨より高い。旅人の多くが薄酒で喉の渇きを紛らわせる。
私は【場裏青】の力で純水を生み出せるが、その事実は唇の裏に隠した。
「喉を潤すなら新鮮な水が一番。それに私はそんなにお酒に強くないし、感覚が鈍るのは命取りよ」
「そうか? 俺は少し酒が入った方が調子がいいがな」
「はぁ……」
やれやれ、と息をつく。こういうだらしなさには呆れるしかない。
けれど、彼が持つ別の顔も知っている。だから、頭ごなしに否定もできずに、私は黙って食事に意識を戻した。
沈黙の後、ヴィルが興味深そうな眼差しを向けてきた。
「ところで、さっきの戦いでお前が見せたあの魔術、複数属性を同時に行使できるって言ってたが、どういう仕組みなんだ? よかったら、少しでいい、教えてくれないか?」
私はパンを持つ指先へと視線を落とす。
この力は、この世界の理からあまりに逸脱している。説明は容易ではない。それでも、彼にだけは嘘をつきたくなかった。
「別に構わないけど、私の“魔術”は本当に特殊なの。うまく説明できるか自信はないわ。それでもいい?」
「ああ、俺は専門外だし、仕組みなんてよくわからん。簡単でいい」
彼の飾らない返答に、微かに口元が緩んだ。
すべてを話すことはできない。半分は比喩に頼ることになるだろう。私の力は、表層は似ていても、その根幹が全くの別物なのだから。
一度、息を吸う。彼を見つめ、言葉を紡ぎ始めた。
「まず、魔術が発動する領域を作って、それを相手の近くに送り込み、取り囲むの。それから、その領域の中で、私がイメージしたものを形にしていくの」
「ふむ」
「最初に使ったのは、風の魔術。通称竜巻の囚って名付けてるんだけどね。竜巻は知ってるでしょ?」
「もちろん」
「その竜巻を、相手を包み込むほどの大きさで、限定領域の中に閉じ込めて、強烈に巻き起こす。すると巻き込まれた魔獣は、まず身動きがとれなくなるわ。相手の動きを先に封じるのは、魔術師として基本中の基本」
「なるほど……。限定領域内で竜巻を凝縮するだなんて、高位の魔術師でも難しいだろうな」
「ほんと? じゃあ次は地棘突。地の魔術で、相手の真下の地面を操作して尖った棘を生やし、一気に突き上げるの。串刺しになれば、もう逃れようがないわ」
「そいつは凄まじいな……」
「とどめは隕石轟。火の魔術で巨大な火球を作り、相手の頭上から叩き落とす。直前で弾けさせると効果的よ。鉄なんか瞬時に溶けちゃうし、魔獣が耐えられるはずがない。その熱を風の障壁で隔離すれば、私には一切熱は届かないわ」
本当は、違う。メテオストライクの熱源は火球ではない。【場裏赤】で限定空間そのものを超高熱の真空にし、解放と同時に空気と反応させる。それが爆熱と爆風の嵐となるのだ。そんな理不尽な火の魔術は、この世界に存在しない。
深淵の黒鶴と場裏の関係は、魔石を動力源とするこの世界の体系から、完全に逸脱している。
私の話を聞くヴィルは、驚きに目を見開いていた。その様子がおかしくて、私はつい口元を綻ばせる。
「それだけの高度な術を、一瞬で同時に発動し、しかも正確に制御するだなんて……正直、ぶったまげたな」
「そう? 私にとってはこれが当たり前だから……」
まつ毛を伏せて微笑んでみせる。彼の称賛は過剰に聞こえた。それでも、その真っ直ぐな響きが胸の奥を微かに揺らす。
「そうあっさり言われると、俺としては困るんだが……全く、お前はとんでもない奴だ。その年でありながら、間違いなく当代随一の天才魔術師と言えるだろう」
真剣な視線に、戸惑いを覚える。唇が、わずかに乾く。喉がひりつき、言葉は一拍遅れて落ちた。
「……大げさよ、それは」
軽やかな調子で返してみたものの、内心は複雑だった。
この世界で目覚めて一年余り。魔術の常識はわからない。だが、自分の力がその範疇にないことだけは、理解していた。
「そんなことはない。俺はいろいろな戦いで魔術師を見てきたから、断言できる。だがな、一つ気になることがある」
ヴィルの目が、剣のように鋭く光る。その光に、背筋が伸びた。
「無詠唱で、複数属性を、複雑かつ強力に同時並行で行使する。それ自体は凄い。だが、それを可能にする“魔力の源”はどこにあるんだ?」
……やはり、そこに行き着くか。
喉が渇く。指先が微かに冷えていくのを感じた。どう答えるべきか、言葉がまとまらない。
「それは……」
私が口ごもる間、風の音だけが響く。ヴィルの視線が、私を射貫いていた。
「その剣が、そうなんじゃないのか?」
マウザーグレイルの正体を見抜いた彼だ。当然の帰結だった。
彼が常識的な推測を口にすることがわかっていたからこそ、焦りが内側で膨らんでいく。
「だとしたら、少なくとも国宝級を超える超弩級の魔石が、最低四種類は内蔵されているんじゃないのか?」
違う。でも、それをどう伝えればいい。嘘はつきたくない。真実を告げるのは、もっと怖い。
私は唇を固く結んだ。相手を欺くか、秘密を暴くか。その二択しかないように思えた。
長い沈黙の中、必死に答えを探す。
「……はずれね。そんなものなんて無いわ」
「だとしたら、どこにあるっていうんだ?」
眉間に皺を寄せ、ヴィルがさらに踏み込んでくる。息が詰まり、彼の顔を正視できない。
「ねえ、ヴィル。もし……その動力源っていうのが私自身で、この剣は私の力を安定させる補助装置だとしたら、どう思う?」
言葉を紡いだ瞬間、ヴィルの表情が凍りついた。その瞳に、ありありと動揺が浮かぶ。
「そんな馬鹿な。そんな膨大な魔力を生み出すなんて……それじゃあお前は魔石そのものだ。そんな人間、いるはずがない。それに魔力が尽きたら終わりだろうが?」
核心を突かれ、返答に窮する。この力の異質さを知られれば、彼はきっと……。
ごくり、と喉が鳴った。
「だよね……。じゃあ、こう考えてみて。私が魔石とは別の理の力の源を集める、人の形をした大きな器だとしたら? それも底なしで、どこまでいっても満たされないくらいのとんでもない大きさの……」
自分でも何を口走っているのかわからなかった。それは、私が人であることすら否定しかねない言葉。
ヴィルは目を見開き、息を呑んだ。
「な、なんだと……? そんな、ありえないだろ……」
彼を睨むように見上げたけれど、その真っ直ぐな視線に射抜かれて肩がこわばる。喉が詰まり、呼吸が浅くなる。爪が、強く握りしめた掌に食い込んだ。
ヴィルはただ黙って私を見つめている。私の言葉に潜む、不穏な何かを噛み締めるように。
彼の沈黙が、刃のように心の柔らかい部分を抉る。思考が焼き切れそうだった。これ以上は、無理。私は道化の仮面を被るように、わざと軽薄な声を作った。
「なーんてね。……本気にしないで。ただの思考遊戯よ、『そうだったら面白いな』ってだけの」
乾いた笑みが唇に張り付く。声が震えなかったか、それだけを気にしながら、必死で思考の壁を築いた。魔力効率も、生体構造も、全てを無視した空想。そう、これは馬鹿げた思考遊戯に過ぎないのだと。
ヴィルが、こわばっていた息を大きく吐き出した。
「……冗談はやめろ、寿命が縮む」
「ごめんなさい。ちょっと驚かせちゃったね。本当のところ、この剣の仕組みも私にはよくわからないの。どうして私が《《ここ》》でこの力を使えるのかも……」
なおも困惑を深める彼の視線に耐えきれず、私は微笑んだまま、そっと背を向けた。膝の上の毛布を、指先が強く握る。
「父さまも母さまも、何も教えてはくれなかった」
喉の奥に、苦いものが込み上げてくる。
「……ただ、これが大切なものだということだけ。それしか、私は知らないの」
込み上げてくる熱を誤魔化すように、私はきつく瞼を閉じた。
「でも一つだけ確かなのは、この剣と共にあるからこそ、私は力を使えるということ……」
内に潜む、得体の知れない何か。未知の力を秘めたこの剣。
その二つが合わさった自分がどうなってしまうのか。考えるだけで、胸の奥に冷たいものが広がっていく。それはまるで、薄明の回廊で、過去と未来、どちらにも開かぬ扉の前に一人、立たされているような感覚だった。