螺旋階段の先に
どれほどの時間、階段を登り続けたのだろう。規則的な足音が石に返り、湿りを含んだひんやりした空気が肌に張りつく。壁に取り付けられた持続反応術式の魔道ランタンが淡く灯り、その光が小窓から差す陽光と交わって、時の感覚を曖昧にしていた。
疲れを覚え、一息つこうと小窓へ寄る。眼下には魔術大学の複雑な建築群が幾何学に連なり、庭園や小塔が規則正しく配置されている。まるで学び舎そのものが一枚の巨大な魔法陣を描いているかのようだ。
視線を横へ流すと、白亜の王宮が視界を占める。広すぎる敷地の中央に白銀の塔が威風堂々とそびえ、太陽の光を受けてきらりと硬質な輝きを放っていた。近隣の建物とは一線を画すその光は、権威と神聖の気配をはっきりと刻む。
「これが、この国の中心たる光……」
独り言が唇からこぼれる。自分がどれほど高くまで来たのか、そして向かう場所の重みが、ようやく骨に入る。
「どうかね、ここから眺める景色は……」
老いた身に似合わず、グレイさんの息は上がっていない。子どもの私に歩調を合わせているのだろう。出会いのときのふらつきは、やはり演技――そう結論づけるしかない。
「はい、とても美しいです。隣に見える白亜の王宮は、眩しいくらいで、特に光り輝くあの白い塔を見ていると、どこか遠くの夢のように感じます……」
正直に胸の内を述べる。
「ふむ、正直な感想だ」
満足げに頷くと、彼は指摘も急かしもせず、穏やかに先を促した。その沈着さに、思わず敬意が湧く。
「王宮の白銀の塔、この国の象徴であると同時に、一つの束縛でもある」
歩みは崩さず、声だけが低く落ちる。
「遠くから眺める者にはその輝きが美しく映るが、内側にいる者にとっては、それは重く厳しい現実の象徴でもある。夢を見つづける者、夢に飲み込まれる者、そしてその夢の中で己を見失う者――どの立場に立つかは、人それぞれだがね」
含みのある響き。私は再び窓の外へ目をやる。夢のように美しい景色――だが、その裏を彼は知っているのだ。
「……グレイさんは、あの場所で何か経験されたことがあるのですか?」
軽率だったかもしれない。だが彼は気を悪くせず、短く笑った。
「多少なりともね。だが、私はそこに縛られることを嫌っていた。だからこそ、こうして今、君と一緒にこうして階段を登っているのかもしれない」
「そう、ですか……」
喉が詰まり、胸の奥がわずかに疼く。縛られる感覚――私もかつて知ったものだ。
彼はそれ以上語らない。石の段に足音だけが規則正しく刻まれ、私も歩を重ねる。
視界の先の階段を見つめながら、無意識に母さまを思った。
王宮という場所で彼女は何を見て、どのように重みと向き合っていたのだろう。誇りだったのか、束縛だったのか。黒髪という運命を抱えながら――。
考えるほどに、母さまは遠い。私には王宮も白銀の塔も、ただの遠景に過ぎない。だが彼女にとっては、それが厳しい現実だった。そう思うと、不安が胸の内をさざめかせる。
風が髪を荒く揺らし、冷たさが頬を刺す。なのに、その冷たさがいまは心地よい。この高さでしか見られない光景が、圧倒のままに胸を満たす。
王都リーディスの屋根が川のように連なり、その流れが王宮を中心に収束していく。街全体が王宮を支え、その輝きに包まれている錯覚。白銀の塔に陽が跳ね、その光は天へ吸い込まれていく。
北を望めば、穀倉地帯の広がり。畑の息づかい、柔らかな丘陵の線。さらに奥には山々が壁のように連なり、白を冠した峰が青空に凛と映えていた。
――この景色を、母さまも見たのだろうか。
不意に胸が熱を帯びる。彼女が何を見て、どう感じたのかを私は知らない。けれど、いま目の前の景色が彼女にとっても特別だったなら――小さな灯が胸にともる。
「この景色、君にはどう映るかね?」
背から届く低い声。優しさが問いにまじる。
私は言葉を探し、もう一度遠くへ目を戻した。
「……とても美しいです。でも、同時に、少し怖いような気もするのです」
「怖い?」
彼の眉がわずかに上がる。
「はい。すべてが完璧に見えるけれど、その分、この美しさの中に隠されたものがあるんじゃないかって……そんな気がして。
私はまだ、それを見つけられていないのですけれど」
言葉にするうち、曖昧だった不安が形を帯びる。壮麗さの裏にある“何か”――それを知る必要があるという直感だけが、私をここまで連れてきた。
「なるほど」と短く呟くと、彼は窓枠に片肘を置き、視線を遠くに滑らせた。
「君の感性は鋭いな。確かに、この景色はただの美しい絵画じゃない。見る者の立場によって、その意味を変える。何を見るか、何を見つけるか、それは君自身の手で探し出すものだ」
その言葉は、静かな道しるべのように胸に灯る。
息を整え、広がる景色を見直す。この壮大な風景のどこかに、私の“答え”がある――そう信じた途端、冷たい風に吹かれながらも心は澄みわたった。そっと目を閉じ、祈るように深く息を吸う。小さな勇気が、胸の底から湧く。
◇◇◇
最上階に据えられた素朴な石のテーブル席を、グレイさんが指し示す。
壁際には装飾のない銀盆のティーセット。彼は無駄のない動作で銀壺から湯を注ぎ、茶を淹れ始めた。金属のカップに触れる湯が微かな澄音を立て、冷たい空気に細く溶ける。昔からここに住む者のような手つき――「総長」という肩書きが、一瞬遠のく。
「あの、お構いなく……」
遠慮が口をつくが、彼は動じない。魔道コンロに置かれた湯の静かな沸きが耳を撫でる。ちらりと視線を寄越し、軽く笑む。
「気にすることはない。ここにいるときの私は、一介の老人に過ぎないのだから。それに、これは私のわがままだ。本来なら、この場所に個人の趣味を持ち込むなど許されることではないのだが。……まあ、これは秘密ということで」
湯気の向こうで、茶葉を測る指先が迷いなく動く。誰かのために淹れる所作が、彼の生活に沈着しているのが見て取れる。
「でも……総長であるあなたが、こんなことをするだなんて……」
思わず漏らすと、彼は軽く肩をすくめた。
「地位や肩書きというものは、人を縛るためのものではないよ。それに、私が茶を淹れたところで、世界の何かが大きく変わるわけではない。
むしろ、こうして穏やかに誰かとお茶を楽しむ時間こそが大切だと思うのだ。君もいずれ、この意味がわかる日が来るだろう」
長い日々の重みを帯びた声。私はただ見つめる。湯気越しの柔和な横顔が、吹き抜ける冷気の高所を不思議と温かくした。
やがてやわらかな香りが立ちのぼる。差し出されたカップの温もりが掌にしみ、慎重にひと口――淡い甘みと仄かな苦みが広がり、固さがほどけていく。
「……とても、美味しいです」
思わず呟くと、彼は満足げに頷いた。
「それはよかった。この茶葉は特別なものではないが、私にとっては馴染みのある銘柄でね。慣れ親しんだものには、いつも安心感があるものだ」
その言葉に、ふと母さまを思う。王宮で、彼女にも“馴染み”はあったのだろうか。――答えのない問いを胸に、もう一口。
「君は自分で選び、ここへやってきた。だろう? 私はきっかけは与えたかもしれないが、手助けはしていないよ。
しかし、門番の兵は融通の利かない連中でね、君のような年頃の子なら、普通は怖れをなして引き下がるものだ。だが、君は臆することなく、堂々としていた」
不意の評価に、驚きと気恥ずかしさが胸に広がる。
「見ていた……のですか?」
問うと、彼は小さく頷き、茶目っ気の光を宿す。
「ああ、離れた場所からこっそりとね。君がどう振る舞うのか興味があったのさ」
少しむっとする。だがそれを正面からは出せず、目を伏せたまま言葉が滑る。
「ずいぶんと、意地が悪いんですね……あっ、すみません! 言い過ぎました!」
慌てる私に、喉の奥で愉快そうな笑い。
「いやいや、君の通りだよ。意地が悪いのは、若い頃からの変わらぬ私の性分だ」
“昔の自分”――意味を探りたかったが、彼は視線を遠くに置き、問いを飲み込む。
「それにしても、あの門番たちにはいい薬だっただろう。彼らは肩書きや権威に屈する者が多いが、君のように己の信念をもって堂々と立ち向かう姿を前にすれば、少しは考えを改めるかもしれん」
「そんな、大げさです……ただ、どうしてもここへ来なければならないと思っただけで……」
カップの縁に指を添えたまま応じると、彼は微笑するだけで何も足さなかった。その沈黙は、不思議と温かい。
「さて、ひと息ついたところで、そろそろ話の本題に入ろうか」
立ち上がると、最上階の空気がきゅっと引き締まる。微笑を湛えた横顔から、次が雑談ではないと、本能が告げた。私は慌ててカップを置き、背筋を正す。掌の温もりが、緊張でわずかに震える。
「君がここへ来た理由、その背後にあるものを知りたくてね。もちろん、個人的な事情を詮索するつもりはない。だが、この塔にたどり着く者の多くは、自分が求める何かを手に入れたいという強い意志を抱えているものだ。君もそうだろう?」
遠くで風が低く唸り、間をつなぐ。私は小さく頷いた。
「……はい。でも、まだその答えが何なのか、自分でもはっきりとはわからないのです。ただ、ここへ来れば何かが見つかるかもしれないと思って……」
言いながら胸が熱を帯びる。彼は責めず、静かに頷いただけだった。
「それでいい。明確な答えがなくても、人は時に動き出さなければならない。だが、ここから先は覚悟が必要になる」
目が、刃のように一瞬光る。室内の温度が肌へぴんと張りつき、心に重みが落ちる。
「ここから見える景色は美しい。だが、この塔の真の役割は、その景色の向こう側を知ることにある。君が求めるものがどんな形をしているか、私にはわからない。だが、それに向き合う準備ができているかどうか、問いかける必要があるだろう」
息をのむ。冷たい風の気配が胸の奥に沁み、――ここが“ただ美しいだけ”ではないと、ようやく輪郭を帯びる。
「……私は、その覚悟を持つために、ここに来たのかもしれません」
絞り出すと、彼は静かに微笑んだ。安心と淡い期待が重なる色。
「そうか。それならば、一つだけ忠告をしよう」
椅子に座り直し、柔らかな光を背に、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「この塔に登った者の多くがそうであるように、君もまた求めるものが手に入った瞬間、それが本当に自分に必要だったのか疑問に思うことがあるかもしれない。それでも、その疑問を恐れず、答えを見つけるために進み続けることだ。
時には迷い、立ち止まることがあってもいい。ただ、進むことを諦めないことだ。それが、この塔を登る者に課せられる試練だ」
重みが胸に沈む――なのに、力が湧く。私はカップを両手で包み、指先を温もりに沈めながら小さく頷いた。
「ありがとうございます。私、進みます……たとえそれがどんな道であっても」
吹き上がる風が髪を揺らす。そっと拳を握り、心に小さな決意を灯した。
考察
階段と登攀のモチーフ
物語の冒頭で描かれる石造りの螺旋階段は、主人公が何か大きな目的や答えを求めて「自分自身と向き合いながら進む」ことの象徴として機能しています。この登攀の描写には、息苦しさや足音のリズム、ひんやりとした湿気といった五感に訴えるディテールが込められています。時間感覚を曖昧にする光の効果や、小窓から見える壮大な景色も、主人公の心情とシンクロしています。
白亜の王宮と白銀の塔の象徴性
王宮とその中心にある白銀の塔は、この国の権威や神聖さ、そしてそれに伴う「束縛」を体現するものとして描かれています。主人公の母がその象徴に縛られた人生を送ったことを暗示し、それが主人公自身の運命にも影を落としている可能性を示唆しています。塔の美しさは魅力的でありながら、同時に冷たさや孤高といった負の側面も感じさせる表現です。
グレイ総長の人物造形
グレイ総長は、地位や権威に囚われない柔軟で思慮深い人物として描かれています。彼が自らお茶を淹れるという行動は、彼の自由な精神や心の余裕を象徴しています。また、主人公に対して「何を見るか、それをどう感じるかは君次第」という言葉を投げかけることで、主人公の自主性を尊重しつつ、背中を押す役割を果たしています。このような導き手としてのキャラクター性は、物語に深みを与えています。
母親への想いと主人公の葛藤
主人公が母親の過去を想像し、その運命を自分と重ねる描写が、物語全体に情感を与えています。母親が「忌むべき黒髪」という運命を背負いながら、この塔や王宮の中で何を見て何を感じたのかを知りたいという主人公の切実な思い。この葛藤が物語の核として機能しており、塔の景色を通じて内面的な変化が描かれています。
試練の予感と物語のテーマ
グレイ総長が主人公に向けた「覚悟」と「進むこと」についての言葉は、この物語のテーマを象徴する部分です。求める答えを得ることで新たな疑問が生まれる可能性や、それでも進むべき理由を説く彼の言葉は、単なる教訓に留まらず、主人公の内面的な成長を暗示しています。




