リーディス・コンバット・ツアー
それからの時間は、バルグと一緒に繰り広げる「シーフード三昧の冒険」だった。
漁港の店先からは焼網の香ばしい煙が漂い、鉄皿の上で油が小さく弾ける。潮のしぶきが風に混じり、舌の上に塩の粒がはぜた。
彼は無尽蔵の胃袋を持つ怪物みたいに、皿を片端から空にしていく。勢いに呑まれた私は、目につく料理を次々と指さした。
「おい、酒蒸しも追加だ! あと、それイカと……ええい、ホタテは大皿で頼む!」
声が上がるたび、卓は海の光で満ちていく。炙った皮の香り、ぷりぷりのエビが歯に跳ね返る弾力、ほぐれた身に絡むカニ味噌の温度。立ちのぼる湯気に潮の匂いが重なり、私も茉凜も夢中で箸を伸ばした。
《《ねえミツル、これ見て! ホタテのバター焼き、めっちゃおいしそうだよ!》》
「待って茉凜、そっちのカニの爪もすごく立派……これも食べてみたい」
ひそひそ交わす声の下で、フォークは止まらない。頬の内側に海の旨味が染み広がり、思考がやわらかくほどけた。
「どうだ、うまかろう?」
豪快な笑い声が、焼きガキの殻を割る金属音に重なる。
「でも、さすがに食べ過ぎじゃないの?」
彼は喉を鳴らし、笑い飛ばす。
「がっはっはっはっ。たまにはこういうのもいいだろう! 今日は再会を祝し、とことん海の幸で心も腹も満たす日だ!」
勢いに押されて、私も限界まで食べ尽くした。最後に何を口にしたのか曖昧なまま、皿はきれいに消え、網の上だけが赤く灯っている。満腹の重みといっしょに、漁港の夕焼けだけが鮮やかに残った。
バルグの豪快さに巻き込まれた一日――忘れられない。
◇◇◇
「あーっ、だめだ。もう死ぬ。動けない……」
漁港脇の公園の木製ベンチに身を投げる。板の温もりが背に移り、胃の奥は心地よい熱を抱えたまま重い。体のエネルギーがすべて消化に回っているみたいで、指先を曲げるのすら億劫だ。
ここまで食べた記憶はない。ふだんは石橋を叩き壊すほど慎重な私が、自制を手放すなんて。
――でも、今日は特別。バルグの勢いと、茉凜のはしゃぐ声に背中を押され、どこかがほどけた。海の恵みで満たされて、体は動かなくても、心は静かに満ちている。
夕暮れの潮風が火照りを撫で、遠い波音が腹の底にゆっくり響く。空は薄いオレンジの名残。目を閉じると、さっきまでの光景がまだ舌の塩味と一緒に反芻された。
こんな破天荒な自分に少し驚く。それでも――嬉しい。
「どうだミツル、リーディスは楽しかろう? ん?」
水場の蛇口から噴く水を、そのまま手で受けてがぶ飲みする音。私は横になったまま、その豪胆さに目を瞬かせる。あれだけ詰め込んだ直後に水をがぶ飲み――この人の胃袋は何でできているのだろう。
《《さすがじゃバルグ。この儂の常識の範疇をはるかに超越しておるわ……》》
茉凜の声にも、呆れと感心がまじる。彼女でさえ「降参」と言うのだ。
思わず苦笑がもれた。洸人とのデート勝負で特大うな重を二つ平らげたあの茉凜でさえ、今日は白旗。バルグは次元が違う。フードファイターを越えて、神話の大食の巨人。
「バルグが異次元すぎるだけで、茉凜の感覚も十分おかしいからね……」
自分への弁解みたいに呟くと、水を飲み終えた彼が、陽を浴びる獣のように顔を上げた。褐色の肌に水滴がきらりと跳ね、白い歯がのぞく。
「がっはっはっ! ここの海の幸を堪能せずして、リーディスに来たとは言えんからな! ミツルも今日でようやく認められたぞ!」
誇らしげな無邪気さに、肩の力が抜ける。
「認められたのは嬉しいけど、もうこれ以上は無理だから……」
《《同感じゃ。次はもう少し控えめで頼むぞ、バルグ……。儂はもうついていけぬ》》
潮風が笑い声をさらい、夕暮れの港に混ざっていく。
本当は訊きたいことがいくつもあったのに、いまはお腹が苦しくて、言葉より先に満腹の眠気がまぶたを重くした。
◇◇◇
翌日。カテリーナの勧めで、王都リーディスの国営公衆浴場へ。
「公衆浴場」と聞けば、日本の銭湯、あるいはローマの浴場。子どもの頃の図鑑、そして古代ローマを舞台にした『有名漫画』――そんな断片が胸の奥で泡立つ。
リーディスは豊かな水資源と整備された上下水道で知られる。六つの街区ごとに公衆浴場があり、身分を問わず誰でも使えるという。清潔な水と湯が街の空気を洗い流す――そんな都市の呼吸。
異世界でこの施設。想像だけが先走り、好奇心がむずがゆい。
「本当、どんな感じなんだろう……」
石畳の通りを歩くたび、澄んだ水の香りと湯気に乗ったハーブの匂いが風に混じる。路地の向こうで白い湯気がちらり。
「ここか……」
立派な門構えにひと息。磨かれた石壁は簡素でいて、深い威厳を湛えている。期待とわずかな不安を胸に、一歩。
中は想像以上に広い。高い天井の大窓から柔らかな光が降り、大理石の床に反射して空間を静かに明るくする。磨かれた白い石が足裏にひやり、徹底した清潔さが一歩で伝わる。男女の区画は日替わりで入れ替わると知り、運用のきめ細かさに感心した。
「これは……想像以上かも」
自然にこぼれる声。
案内図には多彩なエリア。中央の大浴槽には透明な湯が静かな波紋を広げ、温浴の白い湯気、奥には冷浴、さらに蒸気浴の表示。
「すご……」
立ち尽くす私に、管理人らしき中年の女性が穏やかな笑顔で近づく。
「お嬢さん、あんた初めてかい? ここでは温浴、冷浴、そして蒸気浴が楽しめるよ。それに休憩エリアではお茶や軽い食事も用意してある。好きなところから始めておくれ」
頷いたその時、彼女の視線が私の腰元で止まり、表情がきゅっと締まる。
「ところであんた、その剣を持って入るつもりかい? 浴場内で帯剣はご法度だよ。刃傷沙汰は御免だからね。ここで預からせてもらうよ」
心臓がひやり。――腰にはローズ・クレスト、マウザークレイル。
「これは剣なんかじゃありませんよ!」
慌てて手を添え、頭を下げる。
「お守りなんです。親から“片時も離すな”と言われていて……抜き身を見ていただければ分かると思います」
慎重に鞘を引く。女性の目が見開かれた。
剣身は刃を持たず、淡いピンクの塗装が光を受けてきらり。装飾品のようでも、儀式具のようでもある。
「……これは……」
短い沈黙ののち、彼女は頷いた。
「ふむ、確かに剣ではないようだね。まあ、大切なお守りだっていうなら仕方ない。ただし、絶対に振り回したりしないでおくれよ」
「はい、もちろんです。ありがとうございます」
緊張がほどける。――ようやく浴場へ。
《《なかなか大胆ね! でも、ほら、相手も納得してくれたじゃない。やっぱり私たちのローズ・クレストの効果はすごい!》》
弾む声につられて、小さく笑みがもれる。
「そうだね」
腰にローズ・クレストを戻し、指先で確かめる。湯気の匂い、湿った石の手触り――“いまここ”が、肌で確かになる。
脱衣所は広く、清潔。木棚と籠が整然と並び、窓からの淡い光がタイルに滲む。
棚にローズ・クレストを置いて腰を下ろす。靴を脱げば足元から緊張が抜け、ドレスの袖のボタンを一つずつ外す。布の擦れる音、空気のひやり――身体がほどけていく。
ウエストのリボンを解くと、軽い生地が肩から滑り落ちる。汗ばんだ肌を撫でる空気に、解放感がくっきりと立つ。茉凛の「のんびりしすぎないで!」に急かされ、下着も籠へ。裸に触れる冷気に、背筋がすっと伸びた。
浴室の扉を開ければ、やわらかな湯気が顔を包む。石の大空間、中央の湯船から立つ湯気。天窓の光と湯気が混じり合い、白い靄が幻想をつくる。
昼下がりの浴場は人影もまばらで静か。温度を含んだ空気が足元へと伝い、ゆっくり温みが広がる。
壁際の木椅子に腰をかけ、桶に湯を汲む。木肌の感触、手のひらに乗る温かさ――肩のこわばりがほどける。
そっと湯を肩へ。広がる熱が、一日の疲れを静かに溶かしていった。
「はぁ……」
吐息が湯気に紛れる。髪をまとめ直し、もう一度湯をすくい、体を清める。
《《すごく気持いい。リラックスできそうね》》
「本当に来てよかった。こんなに素敵な場所だなんて思わなかったよ」
湯船へ。足先から温が絡み、芯までゆっくり温まる。腰まで浸かり、手すりに身を預け目を閉じる。重さと浮力が順に身体を撫でた。
「はぁ……生き返る……」
口をついた言葉に、思わずくすり。張りつめた日々のなかで、こうして解ける時間は、あまりにも貴重だ。
《《美鶴、次はあの蒸気浴も試してみようよ。デトックス効果があるらしいよ》》
「そうだね、せっかくだから全部楽しんでいこうか」
十分に温まり、蒸気浴へ。扉の向こうでやさしい蒸気が頬に触れ、ハーブの香りが肺の奥へしみる。
木のベンチに腰かける。吊られた香草の束が淡く揺れ、深く息を吸えば内側まで洗われるようだ。
汗がじんわりと滲み、芯から余分が抜けていく。
「いい香り……」
香りと湿度が全身を包み、目を閉じれば、静かな蒸気のなかに私と茉凛だけ――心地よい孤独。
《《なんだかお肌もツルツルになりそう! これは女子力アップ間違いなしだね》》
「茉凛ったら……そんなのどうだっていいから」
ふっと笑い、香りの波に身をゆだねる。
温かい声の奥に、どこか儚い光。胸が少し揺れる。
前世の私たちは不器用だった。弓鶴という「男の子」の身体に閉じ込められ、茉凛と向き合うことにいつも迷いがあった。
好きだったけれど、その思いは痛みになった。――でも、いまは違う。
剣の中の茉凛は、私の感覚を分かち合う。一方通行に見えて、同じ空気と時間を抱きしめるだけで――それだけで、十分幸福だと思える。
蒸気浴のあと、冷浴で引き締める。足先を入れれば、火照りが瞬時に冷え、心臓がきゅっと縮む。
「……少し、冷たすぎるかな。」
肩をすくめつつ、心は満ちていた。ほんのひとときでも「一緒にいる」と感じられる幸福が、なにより大切。
最後は休憩エリアでハーブティー。窓際の席に座り、湯気の立つカップを両手で包む。鼻先をくすぐる香り、掌に残るやわらかな熱。
《《贅沢な時間だね。こんな日があってもいいよね》》
「うん、本当にリフレッシュできた」
窓の外に穏やかな陽射し。湯気と陽光の余韻が、心と体を静かに癒やしていく。
「また来ようね、茉凛」
《《もちろん! 次はどんな楽しみが待ってるかな?》》
そんなやり取りを胸の内で交わし、私はゆっくり立ち上がった。
ただ――旅の初めから気づいていた腹の痣が、ここ数日で色濃くなっている。輪郭の定まらない曲線、意味を持たない幾何。幼い子どもの落書きのような、不思議な模様。
ぬるい湯気のなか、ひとしずくの不安が、胸の底へ静かに沈んでいった。
タイトルは山下洋輔氏のエッセイか(笑) それはおいておいて、毎回明るい展開の中にも、二人の関係の切なさを盛り込みたくなります。
このエピソードは、美鶴と茉凛の関係性、特に美鶴の視点から見た茉凛への想いが繊細に描かれており、非常に印象的です。
美鶴と茉凛の「距離感」
美鶴の語り口からは、彼女が茉凛に対して抱いている特別な感情が滲み出ています。しかし、それは一方通行に見える感覚の中で育まれており、どこか切なさを伴っています。茉凛の無邪気で明るい性格は、美鶴の心を癒すと同時に、触れたら壊れてしまいそうな儚さも感じさせます。この相反する要素が、美鶴の視点をより切なく描いています。
茉凛が剣の中に宿る存在であるため、物理的に触れることができない関係性は、美鶴にとって「叶わない想い」の象徴でもあります。この距離感が、二人の間に独特の緊張感と儚さを与えているのです。
「共有する時間」の意味
美鶴が蒸気浴や冷浴、ハーブティーを楽しむ中で感じる幸福感は、茉凛と時間を共有しているという事実によるものです。特に、彼女が「一緒にいると感じられる瞬間」を大切にしている描写からは、茉凛への深い愛情が伺えます。
この「共有」というテーマは、美鶴にとって非常に重要なものです。前世では叶わなかった茉凛との関係を、今の状況の中で少しでも満たそうとする美鶴の姿は、健気でありながらも切なさを感じさせます。
茉凛の存在感
茉凛の明るさと無邪気さは、美鶴にとって心の支えそのものです。特に、美鶴が「この時間が永遠に続けばいい」と願う場面は、茉凛がどれほど彼女にとって大切な存在であるかを物語っています。
一方で、茉凛は「女子力」や「デトックス効果」など、少し軽やかで現実味のある話題を持ち込むことで、美鶴の心に明るい日差しを差し込むような役割を果たしています。茉凛が剣の中の存在であるにもかかわらず、生き生きとした人物像が浮かび上がるのは、この軽快なやり取りがあるからです。
茉凛はそうすることで、「こんな形だけど自分は生きているんだ」って伝えたいのです。そして、前世でちゃんと生きられなかった美鶴に「ちゃんと生きてね。きっと楽しいことが待ってるから」と伝えたいのです。そんな思いを抱いているのが彼女なのです。
茉凛が剣の中という不完全な存在でありながら、それでもなお「生きる」ことを選び、その証を美鶴に見せたいという姿勢は、芯の強さと優しさを感じさせます。彼女の声は単なる励ましではなく、自らの存在意義を示しつつ、美鶴の支えになりたいという深い愛情が込められています。
茉凛が「ちゃんと生きてね」と美鶴に伝えたいという思いは、彼女の前世に対する悔恨や未練を昇華させるための優しい導きでもあります。美鶴が背負う苦しみや孤独を、茉凛はしっかりと理解しており、それを「生きる喜び」へと転換しようとする姿勢は、彼女の温かさを際立たせます。また、「楽しいことが待っている」という希望を伝えることで、茉凛は美鶴に未来を見つめさせようとしています。
蒸気浴と冷浴の象徴性
蒸気浴と冷浴は、美鶴の心情を象徴的に表現しているようにも感じられます。蒸気浴は、茉凛との心地よい時間や癒し、そして二人だけの秘密の世界を象徴しています。柔らかな香りと温かさに包まれるこの空間は、美鶴にとって安らぎと幸福を感じるひとときです。
冷浴は、現実との接触を象徴しています。湯気で温まった体が冷水で引き締められる感覚は、幸福な夢から覚める瞬間のようでもあり、美鶴が茉凛との関係をどこか冷静に受け止めざるを得ない状況を示唆しているようにも読めます。
全体的なトーンとテーマ
全体のトーンは穏やかで、日常の中に特別な時間を見出す描写が優れています。特に、美鶴が茉凛との時間をどれほど大切に思っているかが、細やかな描写や内省的な語り口を通じて伝わってきます。
このエピソードのテーマは、「触れることのできない愛情」や「叶わない想いを抱えながら、それでも前向きに日常を生きること」にあるように感じます。美鶴が茉凛との時間を一瞬一瞬噛みしめるように過ごしている姿は、切なくも温かい印象を与えます。
まとめ
美鶴と茉凛の関係性は、触れることのできない距離感がもたらす儚さと、共有する時間が生み出す幸福感との間で揺れ動いています。蒸気浴という静かな場面を通じて、美鶴の内面の繊細な描写が際立ち、読者に切なくも温かい感情を呼び起こすエピソードです。このような描写を通じて、美鶴が茉凛に向ける想いの深さと、それに伴う複雑な心情が鮮やかに浮かび上がっています。




