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優しい嘘と泉の精霊

 私は剣に塗った塗料が乾くまでの間、カテリーナから渡された本をそっと手に取った。


 表紙には、淡いパステル色で描かれた泉と、少女が静かに佇んでいる。その絵柄は夢のように現実離れしていて、紙の手触りに微かなざらつきが残る。ほんのりとインクの香りが鼻をかすめ、ページの縁を指先でなぞると、ひんやりとした感触が肌の奥まで沁みていく。


 彼女がこの本を選んだ理由を考える。

 私がまだ「子ども」に見えるからだろうか――。そんな思いが喉奥に細い棘となって立った。侮られたような痛みも、ほんの少し胸を刺す。

 でも、不思議と心のどこかでは安堵もしていた。それに、もしもこの物語が優しいものであれば――。過去の痛みに触れずに読めるかもしれない。


 そんな期待を抱いた自分に、後で軽率だったと気づかされることになる。 

 表紙に指を滑らせた瞬間、冷たい紙の感触が指先を伝い、みぞおちに静かなざわめきが這い寄る。

 これはただの物語ではない――。そんな予感が、やけに確かだった。


 そして、その予感は静かに的中した。

 何より心を深く揺さぶったのは、そのタイトルだった。


 ――『光の向こうへ~精霊の泉の姫巫女メービスの伝説~』

 

 その文字を目にしたとたん、忘れていたはずの古い傷が、不意に疼き出す。

 メービス(メイヴィス)――その名は、私の記憶に深く沈んでいる。いや、沈めなければならなかった名前なのだろう。


 私はゆっくりとページを捲る。

 紙のすれる音が、静かな部屋に小さく響いた。指先がわずかに震えているのが分かる。

 深く息を吸い、思い切って物語の中へ踏み込む。過去の自分と向き合うような、どうしようもない切なさが、みぞおちにまとわりつく。


◇◇◇

 

 内容は、かつて私たちが演じた舞台の物語とほとんど同じだった。それが、胸の奥に奇妙な違和感を生む。

 かつて舞台上で命を吹き込んだ物語が、何の偶然か、今は柔らかな言葉と優しい筆致で彩られ、こうして児童向けの本になっている――。

 その現実に、何とも言えない苦い感情が、みぞおちを押し上げてきた。

 

 本の中のメービス王女は、私が知っている彼女ではなかった。いや、理想化されすぎていた。

 物語の中で描かれる彼女は、迷いのない聡明な存在。人々を導き、使命を全うし、最後には命さえ惜しみなく差し出す“英雄”の姿だった。

 

 けれど――。

 

 本当に、彼女はそんなに強かったのだろうか。

 

 隣に描かれているヴォルフもまた、どこか違って見える。忠実な「従者」としてあり続ける彼は、物語の中では彼女への想いを胸に秘めたまま、決して報われることのない存在として描かれている。

 

 最後の場面――。

 

 魔族の大将が二人を襲う場面は、息を呑むほど鮮やかだった。

 メービスは、魔族の囁きに怯まず、自らの命を泉の精霊に捧げる覚悟を決める。その決意は、あまりにも美しく、そして切なかった。


 救世の覚悟を知ったヴォルフもまた、命を共に投げ出す覚悟を示す。

 それを止めようとするメービス。そして、そのまま二人で泉に沈みかける――

 私はページを捲る手を、そこで止めていた。

 

「彼女は、本当にヴォルフの気持ちに気づいていなかったのだろうか」

 

 その問いが、胸の奥で静かに波紋をひろげる。

 

 物語は、最後に泉から聖剣が現れ、二人が戦う意志を固める場面で締めくくられる。

 精霊たちが二人の勇気を称え、世界を救うための力を授ける。それは、祈りと願いが結実した奇跡のような瞬間だった。

 

 けれど――その光の裏に、ひそかな切なさが残ることを、私は知っている。

 

 結末を迎える前に、私はそっと本を閉じた。

 紙のふちが、微かに指先に引っかかる。


  頭の中には、あの舞台で私が口にしたセリフが、鮮やかに蘇る。


 『だめ、来ないで。泉の精霊が動き出したら、あなたまで消えてしまう。消えるのは私だけでいいの、あなたまで死ぬことはないのよ!』


 あの言葉が、どれほどの虚勢だったか。どんなに切なかったか。そして、深淵の呪いを解くために一人消えていくしかなかったあの時の私は、どれほどの後悔を抱えていたのか。


 「本当に、私の選択は正しかったの……?」


 胸の中で反芻する問い。返答はない。ただ、その問いだけが静かに沈んでいく。

 まるで夜明け前の湖面に石を落としたように、波紋も立てず、音のない冷たい感覚だけが、静かに底へ沈んでいく。

 

 今はまだ、答えを言葉にするには早すぎる。それは分かっている。けれど、胸のどこかで、その答えをすぐにでも掴み取らなければならないような焦りが微かに疼く。

 過去の選択と今の自分。その間に横たわる溝は深く、そこを飛び越えるだけの勇気を持てないまま、私はただ立ち尽くしていた。

 

 深く息を吸い込む。けれど、みぞおちの痛みはどこへも行かず、ただそこに静かに居座る。

 

――その選択が正しかったのか、それとも間違いだったのか。


  その問いの重みが、今日もまた私を揺らし続けるのだろう。


◇◇◇


 時刻はとうに昼を回っていて、私はお腹が空いて仕方がなかった。朝から何も食べていないせいで、みぞおちが鈍く空を切るように感じる。


 カテリーナとヴィルは早々に家を出てしまい、広い家に残されたのは私ひとり。静まり返った空間のなかで、私は椅子に座ったまま、ぼんやりと考え込んでいた。

 

《《カテリーナって、本当に外食ばっかりなんだね。これじゃあ毎日、朝ご飯抜きになっちゃうよ。大人はそれでもいいだろうけど、あなたはまだ育ち盛りなんだから、ちゃんと食べないとだめだよね》》

 

 茉凛の声が、心の中に響く。その言葉には、どこか呆れたような優しさが滲んでいる。


「うん、それなんだけど、実は私なりに考えがあるの」


 思わず口元が緩みながら答えると、茉凛の声がすぐに返ってくる。

 

《《考えって……まさか何か悪だくみしてるんじゃないでしょうね?》》

 

「違うってば。ねえ、茉凛。あなたにも手伝ってほしいんだけど」

 

 少し含みを持たせた言い方に、茉凛は警戒するように問い返してくる。

 

《《いいけど、わたしに何ができるの?》》


 「それは行ってみれば分かるわ」


 わざと素っ気なく答えると、案の定、茉凛は少しムッとした声色で抗議してきた。


 《《そんな、もったいぶらないで教えてよ。けち》》


 その拗ねたような言葉に、私はくすっと笑う。椅子の背もたれに体を預け、少しだけ肩の力を抜いた。

 いつもの茉凛らしい調子に、心が緩む。


「簡単なことよ。私たちで、朝ご飯を作るの」

 

 その一言で、茉凛は一瞬沈黙したかと思うと、驚きと戸惑いが入り混じった声を響かせた。


《《えーっ!?》》


 「まあ、とりあえず街に行こう。お腹を満たしてから、食材を手に入れて……それからキッチンを掃除して使えるようにして、明日に備えるって感じかな。バレなければいいけどね」


《《うん、悪くないね。意外に面白いかも。二人がどんな顔するのか、ちょっと楽しみじゃない?》》


 その軽い調子に、思わず息がほどける。みぞおちの痛みも、ほんの少し和らいだ気がした。

 

「でも、余計なことをして叱られたりしないかなって、不安もあるの」


 《《大丈夫だと思う。カテリーナって変な人だけど、頑張る人が好きなタイプじゃない?》》


 確かにそうかもしれない――けれど、彼女の親切に甘えてしまうことへの気まずさは消えない。


「そうね。だって、寝る場所だけじゃなくて、情報まで提供してくれてるんだもの。本当なら謝礼を支払うべきなのに、『いらない』って言うんだから……せめて何かできることをしてお返ししたいの。そうしないと、私の気が収まらない」


《《ふふ、美鶴は、やっぱり優しいね……》》

 

 その言葉に、小さく眉を寄せる。 

 

「また、そういうこと言う。違うよ。これは優しさとかじゃなくて、一宿一飯の恩義っていうか、私なりの仁義みたいなものよ。そうしないと、なんだか気持ちが悪いだけなの」

 

《《はいはい、そういうことにしておこう。でも、そろそろお腹が鳴っちゃうよ? 早く行こうよ》》


 その軽やかな声に背中を押されるように、気持ちを切り替える。


「そうだね、行こう……あ、でも、その前に、せっかくだからドレスに着替えていくね」

 

《《それだ、それ! 肝心なことを忘れてたじゃない。きっと気分も上がるよ》》

 

「そうだね」

 

 こんなささやかなやり取りでも、どこか温かい気持ちに包まれるのは、彼女が一緒にいてくれるからだろう――。

 ふと、ドレスの袖口を指先でなぞりながら、私は急いで準備を始めた。


 このシーンは、主人公のミツルの繊細な感情と、茉凛とのやり取りが丁寧に描かれています。その背景には、過去と現在の複雑な心境があり、また、何気ない日常の中にある温かなつながりが浮かび上がっています。以下に、このシーンについて考察を述べます。


1. 本の存在と記憶の重み

 ミツルが「扉を開けて」を手に取る場面では、彼女が過去の美鶴と向き合うことを強いられる心理的な葛藤が鮮明に描かれています。この本はただの児童向け物語である以上に、彼女にとっては封じ込めていた記憶を揺さぶる存在です。表紙に触れただけで胸をよぎる冷たさや、「ただの物語ではない」という確信は、過去に深く刻まれた傷と罪悪感を暗示しています。


 本を通じて再現されるメービスの物語は、伝説として理想化され、誇張されているため、ミツルにとっては違和感を伴うものでした。そこには、使命と恋心の間で揺れる心理も、苦悩も葛藤も描かれていません。しかし、そこに描かれる「完璧なメービス」と「報われないヴォルフ」は、かつて舞台で演じた自身の役割を鏡のように映し出し、彼女の胸に抑えがたい切なさを引き起こしています。このことは、ミツルが自らの選択を振り返り、その正当性に疑問を抱く契機となっています。


2. 茉凛との対話に現れる温かさ

 茉凛とのやり取りは、ミツルが自分を見失わないための支えとなっています。この二人の関係性は、日常的でありながらも特別なものであり、ミツルが自らを律しながらも、柔らかくほぐれていく瞬間が垣間見えます。


 茉凛が「美鶴は優しい」と述べるのに対し、ミツルが「これは優しさじゃない」と否定する場面は、彼女の性格や信念を象徴しています。ミツルは、自分の行動を義務感や礼儀に基づくものとして捉え、感情的な評価を避けようとしています。それは、彼女が「優しさ」を軽視しているのではなく、それを認めることがどこか気恥ずかしく、また、自分の弱さに向き合うようで怖いからです。


 茉凛の「ふふ」という軽やかな返答は、ミツルの気持ちを受け止めつつも、重くならないように配慮しているように感じられます。この絶妙な距離感が、二人の関係を心地よく特別なものにしているのです。


3. 過去と現在の対比

 このシーンには、過去の舞台の記憶と現在のささやかな日常が、対比的に描かれています。過去の物語は、美鶴にとっての苦しい選択の記憶や後悔を象徴しています。一方で、現在の茉凛との会話や日常的な行動には、どこか救いが感じられます。


 白いドレスに着替えるという些細な行動は、日常を楽しむ心の余裕や、明日への準備といった前向きな要素を示唆しています。それはまた、ミツルが茉凛の存在によって少しずつ心をほぐされていることを象徴しているともいえるでしょう。


4. 「答えを出すには早すぎる」という余韻

 最後に、本を閉じた美鶴が「まだ答えを出すには早すぎる」と感じる描写が印象的です。過去の記憶や後悔に対する答えを急いで出すのではなく、それらを心の中で温めながら、少しずつ現在と向き合おうとしている姿勢が見えます。これは、彼女の成長の兆しとも言えるでしょう。


 その一方で、答えを掴みたいという焦りが描かれている点にも注目すべきです。これは、ミツルが自分の感情に対して素直になりきれていない部分を表しています。


総評

 このシーンは、ミツルの繊細な内面と、茉凛との温かな交流を対比させることで、過去と現在の狭間に立つ主人公の葛藤を描き出しています。「過去の物語」と「現在のささやかな日常」が交差する構造。また、美鶴がまだ未熟でありながらも前に進もうとする姿勢。


 このシーンの後、彼女がどう過去と向き合い、どのように未来へ進むのかが楽しみです。

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