ローズ・クレスト
《《ダメ、美鶴。それだけはダメ。そんなことしちゃいけないよ。ゼッタイ間違ってる》》
「お願い、茉凛。私たちに残された道は、もうこれしかないの。どうか受け入れてほしい……」
――と、真剣そのものの雰囲気の中で、手にしたのはまさかの刷毛。張り詰めた空気が、一瞬で消し飛ぶ。
《《それ……塗装用の刷毛でしょ? いったい何するつもりなの、美鶴!?》》
「……見ればわかるでしょ。これで、マウザーグレイルをカスタマイズするの。茉凛、ずっと言ってたじゃない? 『白ばっかりじゃ面白くない』って」
私はきっぱりと言い放つと、刷毛を器用に操りながら、マウザーグレイルの一部に慎重に色をのせ始めた。茉凛の抗議の声を無視するように、集中モードに入る。
《《待って、違う! わたし、そんな意味で言ったんじゃない! 美鶴、それ本当に大丈夫? 絶対後悔するって!》》
「後悔なんかしないわよ。これが私たちにできる最善の方法なんだから」
その言葉には、自分でも少し重みを感じた。でも、刷毛の先に付いた鮮やかなピンクの塗料を見つめると、不思議と胸がすっと軽くなる。これが私らしいやり方だ。
《《それじゃあ……なんだか落書きされたみたいになっちゃう……》》
「落書きじゃなくてアートよ、アート!」
私は茉凛の抗議をはぐらかしつつ、刀身にべったりと刷毛を押し当てた。
ピンクの塗料が刷毛からじわりと広がり、白い剣の刀身を染めていく。マウザーグレイルの神秘的な輝きに対して、この鮮やかな色はあまりにも唐突で、どこかチグハグだ。
《《本当にやっちゃうの……?》》
「真面目な話をするとね、これはカモフラージュのためよ」
《《それはわかるけどさ……見られたら恥ずかしい気がするよ?》》
「私だってこんなことはしたくない。でも派手な色に塗って、ワンポイントにかわいい絵でも入れておけば、こういう言い訳だってできる。『親に持たされたおもちゃの剣です。悪い虫がつかないようにするお守りです』、ってね」
《《うーん……》》
「そうでもしておかないと、帯剣を怪しまれて検査された時に、いろいろ面倒なことになりかねないでしょ? 幸いなことに、この剣はおもちゃみたいに軽いから、それで言い訳がつく。それとも、あなた、私と一緒に街を見て回りたくないの?」
《《行きたいに決まってるでしょ。置き去りなんてイヤだ。美鶴一人で観光したり、美味しいもの食べたりなんて、そんなの許せないもん》》
「でしょ? そういうわけだから我慢してね」
《《なんかフクザツだな……。それにしてもだよ。美鶴って、こういう時はほんとにノリノリだよね?》》
「あ、わかった?」
《《もう……》》
ピンクの塗料が刀身に広がる様子を見つめながら、私はふっと笑みを浮かべた。色の明るさに、どこか救われる気がしたのだ。戦うためだけの剣が、少しだけ違う存在になり始める――そんな気がして。
《《こんなことして、いいのかなぁ……》》
茉凛の声はどこか呆れつつも、わずかに楽しげだ。彼女の反応に、私の胸の中にある緊張が少し和らぐ。
「まだ言ってる。いいのよ。この剣は肌身離さず持ち歩かなければならないんだから、誰も真面目に見ようとしないぐらいがちょうどいいの」
私は筆を持つ手を止めず、次に剣の柄の部分に視線を移した。そこには、少しだけ遊び心を込めた絵を描いてみようと思う。花びらが舞うような模様にすれば、誰もこの剣を恐れるものとは思わないだろう。
《《でもさぁ、美鶴。もし本当に誰かに突っ込まれたらどうするの? 『なんでこんなに可愛くしちゃったんですか?』って》》
「そのときは、そのまま堂々と言うわ。『これは芸術よ』って」
《《芸術ね……まぁ、確かに誰もこんな風に塗った剣なんて想像しないだろうけど》》
「そうでしょ? それにね、茉凛、これにはちゃんとした意味があるの。剣だって、人の目に入った瞬間にどう見られるかが重要なのよ。ただの武器よりも、こんなふうに個性がある方が絶対に覚えられやすい。いい意味でね」
《《覚えられやすい、ねぇ。それが本当に有利になるといいけど……まぁ、美鶴が楽しそうだからいいや》》
その返事に、私は少しだけ笑みを深めた。楽しそう――そう言ってもらえたのが嬉しかったからだ。こんな状況でも、私たちの間に少しでも笑いがあれば、それは確かに意味のあること。
「じゃあ、最後に一つだけ頼みがあるんだけど、いい?」
《《何?》》
「名前、考えてくれる? この新しい剣のデザインにぴったりなやつ」
《《えぇっ、名前!? そんなの急に言われても……でも……わかった、考えるよ!》》
茉凛が一生懸命考えている気配が伝わってきて、私は思わずくすりと笑った。この剣はただの武器じゃない。私たちが共に歩む象徴なのだから。
茉凛はしばらく沈黙したまま考え込んでいるようだった。剣の中の彼女の存在が少しもじもじと動くような感覚が、私にまで伝わってくる。
《《うーん……名前かぁ……でも、こういうのって一度決めちゃうと変えられないよね? 責任重大だよ……》》
「そのとおり。だからしっかり考えてね。私たちの新しい旅の始まりを象徴する、素敵な名前を」
《《えー、プレッシャーかけないでよ……。えっと、じゃあ……『プリズム・ピュア』とか?》》
その響きに思わず眉をひそめる。
「……茉凛、それ、ちょっとかわいすぎない? なんというか、日曜の朝にやっているアニメみたいな……。いや、悪くはないんだけど……」
《《ええっ、そう? いいと思ったんだけどなぁ……》》
「もう少し中間くらいのやつにしてくれる? 柔らかいけど芯のある感じとか……」
私は言葉を探しながら剣の柄を撫でた。ピンクの花模様が柔らかく輝き、どこか茉凛らしさを感じさせる。彼女が提案する名前も、どことなくその雰囲気を反映しているのかもしれない。
《《じゃあ……えっと、『ローズ・クレスト』とかは? ちょっと高貴な響きもあるし、花っぽいのも入ってるし!》》
「ローズ・クレスト……うん、悪くないかも」
私は小さくうなずいてその名前を口にしてみる。刀身に新しい意味が宿るような感覚が広がり、胸が温かくなった。
「じゃあ決まりね。この剣の新しい名前は『ローズ・クレスト』。茉凛が考えてくれた最高の名前だよ」
《《やったぜ! 褒められちゃった! でも、本当にその名前でいいの? 変えたいなら今のうちだよ?》》
「いいの。これが私たちらしいって思えるから。ありがとう、茉凛」
剣を静かに握り直すと、ピンクの模様が光を反射してほのかに輝いている。
《《これで一緒にどこへでも行けるね、美鶴! 次はどこに行くの?》》
「……決まってるでしょ。まずは情報を集めて、それから――」
私は言葉を途中で切り、ふと空を見上げた。青い空はどこまでも透き通っていて、頬を撫でる風が私の髪をそっと揺らす。霞の向こうに浮かぶ街並みが、どこか絵の中の世界のように見えた。その一歩先に待つのは、見知らぬ世界か、それともまた試練か――。
胸の奥に小さく灯るざわめきが、少しずつ広がっていく。けれど、不思議と怖くはなかった。手の中の剣――新しく生まれ変わった『ローズ・クレスト』が、どこか温かな存在感をもたらしてくれるからだ。鮮やかな花模様が光を受けて柔らかく輝き、ただの武器以上の何かに感じられる。
茉凛の声が、優しく私の心を引き戻した。
《《美鶴、なんだかぼーっとしてる。大丈夫?》》
「……少し考え事をしていただけよ」
そう言いながら、私は茉凛にだけ聞こえる声で微笑むように呟いた。これから先の道がどうなるのか、それを考え始めたら、きっと不安の波に飲まれてしまう。だから、今はただ一歩ずつ進むだけ――それが私たちの歩むべき道だ。
《《うーん、それならいいけど。美鶴が黙ると、なんだかそわそわしちゃうからさ》》
「私が黙るだけでそわそわするの?」
《《だって、遠くに行っちゃいそうな感じがして、ちょっと不安になるんだもん》》
その無邪気な言葉に、思わず私は小さく笑みを浮かべた。
「遠くになんて行かないわよ。私たちはいつだって一緒なんだから」
《《約束だよ?》》
「あたりまえでしょ」
茉凛の声が力強く響き、私の胸の中に確かな灯火をともす。その存在は私にとって特別なもので、だからこそ、この剣――『ローズ・クレスト』もただの武器ではなく、私たちの新しい象徴だと思えるのだ。
風が再び背中を押すように流れた。私は剣を軽く握り直し、視線を遠くの街へと向ける。霞の向こうに広がる景色はまだぼんやりとしているけれど、きっとその先に私たちを待つ未来がある。試練も困難も、きっとその全てが私たちを強くしてくれる。
「茉凛、行きましょう」
《《うん、行こう!》》
その言葉に背中を押されるように、私は一歩を踏み出した。風がさらりと髪を揺らし、私たちの新しい旅が静かに幕を開けるのを感じた。
「ローズ・クレスト」という英語名には、美鶴と茉凛が剣に込めた象徴的な意味が色濃く反映されています。
1. 名前の意味と象徴性
「ローズ(Rose)」
バラは、美しさ、愛、情熱を象徴する花として世界中で親しまれています。一方で、バラには棘があり、優雅さと危険性を併せ持つ存在として描かれることも多いです。この剣は戦うための武器でありながら、ピンクの模様や「アート」としての個性を持つ――すなわち、美しさと実用性、攻撃性と優しさの二面性を持つものとして捉えることができます。
「クレスト(Crest)」
クレストは紋章や頂点を意味します。この言葉には、高貴さや威厳を想起させる響きがあり、剣を単なる武器としてではなく、誇り高い象徴として扱うニュアンスが込められています。また、「頂点」を意味する側面から、「ローズ・クレスト」は「美しさの頂点」という解釈も可能です。




