静かな会話の中で揺れる想い
食事が進み、心も体もほどよく温まった頃、カテリーナが店主に声をかけた。
「ここに来たなら、あれも頼まなきゃね。『香辛酒』をお願い」
店主は「もちろん」と頷き、奥の棚から丸みを帯びた陶器の壺を取り出す。とろりとした琥珀色が注ぎ口に満ち、注がれる瞬間、芳醇な香りがふわりと立ちのぼった。
小さな陶器の杯が三つ、私たちの前に並ぶ。壺から満たされた酒は液体の宝石のように光を含み、灯りの下で小さく瞬いた。
「これが『香辛酒』だよ。シェリアン地方ではお祝いごとや特別な場で飲まれる酒なんだ」
カテリーナが杯を軽く掲げ、ニッと笑う。
「乾杯、って言いたいところだけど、シェリアンでは『チエリ』って言うんだ。はい、チエリ!」
私とヴィルも少し照れながら杯を持ち上げ、「チエリ」と声を合わせた。
一口――舌先に触れた甘みがまろやかに広がり、喉へ落ちるときにほのかな辛味が追いかける。体の芯が、じんわりと灯る。
《《あ、おいしい……》》
「……おいしい」
茉凛と私、同時に声が漏れた。
「ただ甘いだけじゃない。次いで辛味がやってくる。これは香辛料から来てるんですか?」
私が尋ねると、店主は静かに頷く。
「ええ、『カラリ』という実のエキスを加えています。現地では香り付けにも使いますが、酒に合わせると甘さと辛さがより深く絡み合うんです」
「カラリ……?」
名を転がすと、カテリーナが補う。
「丸い赤い実でね、見た目は可愛いけど、口にするとけっこうスパイシーさ。だけど酒に使うと、角が取れてちょうどよくなる」
彼女は満足げに杯を口へ運ぶ。ヴィルも黙って酒を傾け、香りごとゆっくりと味わっていた。
「……悪くない。食後の一杯としては上等だ」
ぶっきらぼうな言い方に、彼なりの称賛が滲む。
私も二口、三口と重ねるたび、甘みと辛みの余韻に引き込まれていった。異国の風が胸の奥でやわらかく回り、懐かしさと新しさが同時に灯る。
「これが故郷の味……なんですね」
思わずこぼすと、店主は目を細め、やさしく笑った。
「ええ、私たちにはそうです。でも、それをこうして遠い土地で楽しんでいただけるのが、何より嬉しい」
香辛酒の温度が、もう一段階、心の奥を温めた。
◇◇◇
カテリーナが陶器の杯を指でそっと揺らす。琥珀色が灯りを映して小さな波紋を立てた。
「どうしたい? ヴィル。今夜はずいぶん静かじゃないか」
声は穏やかだが、瞳の奥に鋭い光が宿る。内側まで覗き込むような目。
ヴィルは杯の底を見つめていた。指先に迷いはなく、ただ琥珀が静かに瞳を映している。
「いや、なんだか昔を思い出してな……」
ぽつり。滲むのは、いつもの軽口では覆わない思索の影。
カテリーナは片肩をすくめ、口元に小さな笑みをのせる。
「昔ね……」
繰り返し、それからふと私を見る。探るような、少し愉快そうな視線。
「あの……何か?」
思わず問い返す。自分でも気づかない戸惑いが声に乗った。
カテリーナは目を細めて笑う。
「いや、なんでもないさ」
杯が唇に触れ、ほのかに酒が減る。胸の中で膨らんだ疑問が、こぼれるように言葉になった。
「こんなこと、聞いていいのかわからないんですけど……」
自然と声が落ちる。彼女の動作を乱さないように。
「お二人は、昔……何かあったんですか? その……付き合っていたとか……」
問うた途端、カテリーナがむせ込んだ。
「ちょ、ちょっと!」
慌てて声をかけると、彼女は手を振って制しながら咳を収める。
「いやあ、まったく……あんた、何を言い出すかと思えば!」
涙目で笑う声に、驚きと可笑しさ、そしてほんの少しの安堵が混じった。
「あ、す、すみません……その、つい余計なことを……」
「いいかい、誰がこんなヴァカ(馬鹿)と付き合うかってんだ! 今でこそ落ち着いて見えるけど、昔のこいつは底なしの馬鹿だったんだからね!」
間髪入れず、ヴィルが低く返す。
「相変わらず、ひどい言われようだ」
「否定できるのかい? あんた」
短い沈黙ののち、ヴィルは首をゆっくり横に振った。
「否定はしないさ。あの頃は俺も若かった。お前も、“あいつ”もな……」
遠くを見る目。声にかすかな温度が差す。
カテリーナは間を置いて、どこか懐かしそうに微笑んだ。
「そうだね、あの頃は楽しかったさ。毎晩のように三人で馬鹿騒ぎしたり、できもしない夢を夜通し語ったりして……。でも、こんな話、この場所には似合わないね」
「そうだな。俺が入国したことは、もう“上”にも伝わっているはずだ。用心に越したことはない」
自然に交わる警戒と親しみ。長い時間を分け合った者同士の呼吸だ。私は言葉を差し挟めず、ただ見守る。
カテリーナは視線をこちらへ戻し、柔らかく言った。
「ミツル、あんたの素性については、こいつからの手紙である程度わかってるつもりだ。でも、話は家に帰ってからにしよう。知りたいことも、話したいこともあるだろうからね」
「は、はい……」
妙に硬い返事になる。杯の琥珀が揺れる灯にきらりと光った。ここには、私の知らない記憶と想いが確かにある――その重みを、ほんの少しだけ垣間見た気がした。
挑発者としてのカトリーヌの役割
カトリーヌの冗談混じりの軽口や挑発的な言葉は、単なるユーモアではなく、物語の展開において重要な役割を果たしています。彼女の言動は、登場人物同士の関係性を浮き彫りにし、読者や主人公を物語の核心に導く効果を持っています。
カトリーヌの軽口の意味と狙い
カトリーヌが「底なしの馬鹿」と言い放つ場面は、一見すると辛辣な表現ですが、実際には彼女なりの信頼と親しみが込められています。この言葉には、以下のようなニュアンスが含まれていると考えられます。
本気で「馬鹿になれる男」への評価
「馬鹿」とは単なる侮蔑ではなく、過去のヴィルが持っていた若さゆえの無鉄砲さや情熱を指しているのです。つまり、彼は「損得を考えずに動ける」純粋さを持ち、それゆえにカトリーヌや仲間たちを魅了していた存在だと言えます。カトリーヌの言葉は、その一面を懐かしむ感情の表れです。
信頼の証としての軽口
厳しい言葉であっても、真の信頼関係があるからこそ口にできる表現です。カトリーヌにとってヴィルは、どんなに馬鹿げたことをしても自分に背を向けない存在であり、彼の「馬鹿さ」は仲間としての誠実さや愚直さを象徴しています。
「目を細めて笑う」仕草が示すもの
カトリーヌの「目を細めて笑う」仕草は、冗談を飛ばす一方で、周囲の反応や感情を鋭く観察していることを表しています。この仕草には、挑発的なユーモアのほかに、以下のような意図が隠されています。
主人公の感情を引き出す
主人公に視線を向けて「目を細めて笑う」ことで、彼女がどれだけカトリーヌやヴィルの関係に興味を抱いているかを測ろうとしているのです。カトリーヌの微笑みは、主人公が何か問いかけることを自然に誘発する効果があります。彼女の問いかけや仕草がきっかけとなり、主人公が「付き合っていたのか」と聞いてしまう展開は、カトリーヌの巧妙な挑発がもたらした結果と言えます。
読者にヒントを与える
この仕草は、読者に「彼女が単に冗談を言っているわけではない」という含みを感じさせます。カトリーヌの洞察力や意図を感じ取ることで、読者は彼女が単なる明るい性格ではなく、物語の重要なカギを握る存在であることに気づかされるのです。
挑発の背後にある信頼
ヴィルに対する挑発的な軽口には、二人の過去に共有した時間や経験が感じられます。「底なしの馬鹿」という言葉が口にできるのは、過去のヴィルの姿をよく知っており、それが現在の彼の人格を形成していると理解しているからです。
若さゆえの馬鹿さへの愛着
カトリーヌが「馬鹿だった」と言いながらも、懐かしげに笑うのは、若さゆえに無鉄砲で熱意に溢れていたヴィルの姿を愛おしく思っているからです。その「馬鹿さ」があったからこそ、彼らは共有できた思い出や絆を持っているのです。
現在のヴィルとの対比
今のヴィルは、かつての無鉄砲さが影を潜め、慎重で冷静な一面を見せています。カトリーヌの軽口は、そんな彼の変化を指摘しつつも、同時にその成長を認めているのかもしれません。
読者や主人公を物語の核心に導く挑発
カトリーヌの挑発的な言葉や行動は、主人公と読者を物語の核心に近づける重要な役割を果たしています。
主人公が二人の過去について興味を抱き、問いかける場面は、カトリーヌの言動がなければ生まれなかったものです。この問いかけが、物語の新たな扉を開くきっかけとなります。
読者もまた、カトリーヌの軽口や視線に隠された真意を読み解こうとすることで、彼女とヴィルの過去や背景に興味を抱きます。これにより、物語全体の緊張感と期待感が高まります。
結論
カトリーヌの挑発的な言葉や仕草は、単なる軽口ではなく、彼女の洞察力と人間関係への深い理解が表現されています。それは、ヴィルとの過去のつながりを暗示しながらも、主人公や読者を物語の核心に引き込むための巧妙な手段です。
 




