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路地裏の異国食堂

 日がとっぷりと落ち、街の灯りが夜の闇をぽつぽつと穿ち始める。石畳は昼の熱をすっかり手放し、靴底に夜露の冷たさを返してきた。魚を炙る匂いや香草の湯気が交じり合う雑踏の中、カテリーナが私とヴィルを誘い出した。


「せっかくだし、今日は特別なお店に案内してやるよ」


 悪戯っぽく細められた瞳。その弾む声につられ、こちらの足取りまで自然と軽くなる。


《《さてさて、どんな料理が待っているのやら》》


 茉凛の声が胸の奥で小さく跳ね、期待がふくらむ。屋台の焼き串が焦げるパチパチという音、彩り豊かな看板灯――それらを横目に、カテリーナは迷いなく先へ進む。石畳を叩く靴音はやがて人通りの途切れた裏通りへと吸い込まれ、ひんやりした空気が袖口へ滑り込んで腕に細かな鳥肌が立った。


「……こんな路地裏に、お店があるんですか?」


 街灯の届かない湿った闇に小声が滲む。ヴィルを見上げると、彼はただ黙って頷いた。


「心配しなくていい。もう少しだ」


 振り返らずに告げる背中には揺るぎない自信が宿る。暗がりの奥で真紅の看板がほの青く浮かび上がった。油膜を帯びた艶の上を仄黄の筆文字が滑り、下がる小さなランタンが呼吸するように微かに揺れる。


「ここだよ」


 カテリーナが古い木扉を押し開ける。甘苦い焦がしタレの蒸気がどっと流れ出し、頬にまとわりついた。


 中はカウンターが八席だけのこぢんまりした空間。短く刈り上げた黒髪の男性が鉄鍋をリズムよく打ち、隣でショートカットの女性が蒸籠のふたを上げる。白い霧が前髪に絡み、梁の下でかすかな水音が跳ねた。


「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」


 低く落ち着いた声。磨き込まれたカウンターが湯気を映し、木肌の艶と同じくらい柔らかな眼差しが向けられる。


「ここは東方大陸の南、シェリアン地方の料理を出す店だよ。蒸し物や炒め物が多くて、香りが魅力的なんだ」


 カテリーナが宝物を披露するように囁く。


 最初に届いたのは竹蒸籠に収まったシェリアン蒸餅。蓋を開ける瞬間、潮だまりのような微かな香りがふわりと立ち、せいろの板がぱきんと乾いた音を鳴らした。薄い皮は指でつまむとしん、と沈み、すぐにもっちりと戻る。半透明の向こうに海老と緑黄野菜が宝石のように透けて揺れた。


「これは皮の薄さが命なんだ。中の海の幸の甘さをそのまま閉じ込めてある。食べてみな」


 一口。もちもちの膜を破ると、海老の甘さと野菜のしゃくりとした歯触り、潮の隠し塩が一気に広がる。舌に残るのは、夜風のようにさっぱりとした後味。


《《うまいっ! 食感といい旨味といい最高だね》》


 茉凛の歓声が内側で弾け、味わいがさらに揺らいだ。


 続いて陶器の土鍋がごとんと置かれる。塩干鶏飯。蓋を外すと、米油の甘い炙り香が湯気となって立ちのぼった。鶏肉と塩漬け干し魚が層になり、青菜が蒸気を弾いて色を増す。


「これがシェリアンの定番。焦げ米の香ばしさと魚の風味がクセになる」


 店主が木匙で底から混ぜるたび、カリカリのお焦げが剝がれ落ち、鉄鍋とは違う乾いた“カツッ”が耳に心地よい。


 香ばしい米の粒が舌の上でほろりと崩れ、魚の凝縮した旨味に鶏の柔らかさが重なった。塩気の奥に広がるわずかな甘みが、乾いた海風と陽光の田圃を同時に想像させる。


《《これは初めて食べるかも。それと、やっぱり日本人は米だよね》》


 思わず頰が緩む。


 最後に運ばれたのはスパイス煮豚の紅芋添え。八角と黒酢を含んだ琥珀色の蜜が重く糸を曳き、分厚い肉を艶やかに包む。ほくりと割れた紅芋からは栗に似た香りが立ちのぼった。


「シェリアンの甘味料を使った特製タレだ。紅芋と一緒に食べるとさらに深い味わいになる」


 ヴィルが慣れない箸で煮豚を口に運ぶ。パーム糖の蜜に八角と黒酢が溶け合い、甘辛酸の層が舌に重なる。紅芋の素朴な甘さが後味をやわらかく抱き込んだ。


「……俺は東方の料理は詳しくないが、こいつはたしかに美味い……」


 飾り気のない一言が、満足を雄弁に物語る。


 カテリーナは身を乗り出し、挑むような笑みを浮かべる。私はつられて声を弾ませた。


「すごく美味しいです!」


 香辛料の複雑な余韻、海老の甘さ、お焦げの焼き香、紅芋のほくほく――それらが舌の上でゆっくり混ざり合い、みぞおちの底にほのかな熱が灯る。


 隣のヴィルは無言のまま、ぎこちない手つきで箸を進めていたが、その横顔は心なしか柔らかい。


 厨房の奥で鉄鍋が再び火を噛み、油の弾ける軽快な音が耳をくすぐる。そこへ店主が現れ、ふくよかな笑みを浮かべて声をかけた。


「この街に、こんな場所があるなんて知らなかったでしょう?」


「ええ、本当に驚きました。それにどの料理もとても美味しいです」


 私が素直に答えると、湯気と香辛料の甘い刺激がふわりと流れ、胸の奥をじんわり温めてくれる。


「ここは、私たちがやっと手に入れた特別な場所なんです。ここから故郷の味を少しずつ広めていけたらと思っています」


 静かな誇りを帯びた声。その芯の強さに、舌だけでなく心まで満ち足りていく。


 カテリーナが満足げに頷き、挑むような眼差しをこちらに向けた。


「どうだい? 異国の味は楽しめたかい?」


 私は笑みを返し、感慨を抱えたまま問い返す。


「はい、とても新鮮でした。カテリーナさん、こういうお店をどうやって見つけるんですか?」


 木壁のランプがゆらりと揺れ、影がカテリーナの唇を縁取る。


「まあ、これが仕事の一つみたいなものだからね」


「仕事?」


 思わず傾げた首に、カテリーナはいたずらっぽく肩を揺らす。


「あたしはね、王都で商売をする小さな店主たちを応援しているんだ。面白そうな店を見つけては紹介文を書いて、それをフリーペーパーにまとめて無料で配布している。こうやってたくさんの人に知ってもらうのが、あたしの役割ってわけさ」


 その言葉に宿る自負は、蒸し籠の湯気よりも熱い。胸の内に静かな尊敬が芽生える。


「それで、どうやって収益を出しているんですか?」


 問いを口にした途端、少し踏み込みすぎた気配が頬を刺す。だがカテリーナはすぐ、口角を上げた。


「そこを気にするなんて、あんた、意外と商売の素質があるのかもね」


「そ、そんなことは……ただ気になっただけです」


「簡単に言えば広告収入よ――」


 カウンター下の紙束を軽く叩きながら語る彼女の声は軽妙だが、その奥に走る算盤勘定は鋭い。果物商人たちとの収穫祭特集、イベント主催者の広告――ページをめくるたび、乾いた紙音がインクの匂いと重なり、現実的な鼓動を持って聞こえてくる。


「広告収入……なるほど。でも、すべての記事がそういうものなんですか?」


「そうでもないさ。ときどき気に入ったお店や目立たない催しを記事にすることもある――」


 無報酬の原稿を何度も書いた、と照れたように笑う。湯気の向こうで店主が感謝を込めて微笑み返し、その視線に私は静かな温度を感じた。


「つまり、それも一種の投資みたいなものなんですね」


「そんなところだね。でも、見返りがなかったとしても、頑張る人たちを応援するのが楽しみでもあるのさ」


 揺るがぬ信念が、八角よりも濃い香りで胸に満ちる。


「このお店も、そんなふうに応援してきたんですか?」


 窓に付いた湯気を指で拭うと、裏路地の闇がしっとりと映り込んだ。カテリーナは小さく頷き、まるで我が子を語るような声音で続ける。


「ああ。実はこの店主の料理の味は、まだ独立する前から知っていたんだ――」


 言葉の端に宿る、譲らない情熱。その熱は煮豚のタレよりも粘り、紅芋よりも静かに甘い。


 私は思わず背を伸ばし、胸奥の灯を確かめるように深呼吸した。


「素敵ですね。カテリーナさんも、このお店の店主さんも」


 信念と優しさの混ざる空気が、店内の木壁をゆっくりと満たしていく。


「頑張ってる人を見ると、つい応援したくなる。そういう人たちが、この街をもっと楽しくしてくれているんだからね」


 私は静かに頷いた。磨かれたカウンターの木目、油をまとった鉄鍋の響き、そして彼女のまっすぐな瞳――そのどれもが、この王都の夜を温かい色で染め上げていた。



 このシーンでは、カテリーナの人間性と彼女が手掛けるフリーペーパーという活動の深い意義が描かれています。彼女は単なる商売人ではなく、社会的な偏見や困難に立ち向かう人々を支える存在であり、その一環としてフリーペーパーという媒体を用いています。


カテリーナの人間性と価値観

 彼女は、商売の成功だけでなく、困難に直面しながらも努力する人々を応援することに喜びを見出している人物です。特に「ばかげた偏見に負けずに頑張ってる人を見ると、応援したくなる」という彼女の言葉は、彼女自身が単なる広告業者ではなく、強い信念と情熱を持った人間であることを象徴しています。


 また、異国の文化や人々に対する理解を深く持っている点も印象的です。黒髪というだけで偏見の対象となる店主を支えようとする彼女の行動は、彼女がただの仲介者ではなく、彼らの夢を自分の使命として共有していることを示しています。


フリーペーパーという媒体の意義

 物語において、フリーペーパーは単なる商業的な道具ではなく、「社会と繋がる架け橋」として描かれています。無料配布という形態をとることで、経済的な余裕がなくても人々が情報や文化に触れられる機会を提供している点が重要です。


 さらに、広告料を得ることで成り立っているというビジネスモデルは、彼女の活動の持続可能性を保証する仕組みとなっています。同時に、金銭的な価値に囚われず、自分が応援したいと思った店や人を無償で記事にするという柔軟さが、彼女の人間的な魅力を際立たせています。


異国文化と地域社会の融合

 このシーンは、異国文化が地域社会にどのように受け入れられ、広がっていくかを繊細に描いています。シェリアン地方の料理が、異国の風味とともに故郷を感じさせるような温かさを持つことが強調されており、これが店主たちの背景や想いと相まって、単なる「料理の味」以上の価値を生んでいます。


 また、カテリーナが店主たちの挑戦を支え、地域社会との接点を広げる役割を果たしている点も注目です。彼女の活動は、異文化と地域社会の橋渡しとして機能しており、異国文化が単に「珍しいもの」として消費されるのではなく、持続可能な形で根付くことを助けています。


主人公視点の感情の変化

 主人公は当初、カテリーナの行動に対して漠然とした好奇心を抱いていますが、彼女の活動や信念に触れるうちに、次第にその深さに感銘を受けていきます。特に「胸がじんわりと温かくなる」という描写は、彼女の内面的な変化を象徴しています。


 カテリーナの説明や店主たちの話を聞くことで、主人公はただの「食事」という体験を超え、そこに込められた人々の想いや努力を感じ取っています。これは、彼女自身の視野が広がる重要な瞬間として描かれています。


街の魅力の新たな一面

 この裏路地の小さな店という設定は、街の中に隠された「知られざる魅力」を象徴しています。彼女の案内によって、主人公たちは普段の生活圏では触れることのない異文化の温かさや、努力によって生まれた特別な場所を体験します。


 このような「発見」は、物語全体における世界観の深みを増し、読者にも「未知のものに出会う楽しさ」を感じさせます。


 カテリーナというキャラクターを通じて、このシーンは「人と人の繋がり」や「異文化を受け入れることの価値」を描いています。彼女の活動は単なる商売ではなく、地域と異国文化を繋ぐ重要な役割を果たしており、その信念は主人公に響くものとなっています。

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